2023年8月31日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (96) 「傾く電柱」

旧国鉄標津線・奥行臼駅跡の話題を続けます。保存されているのは当時の駅舎だけではなく……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ホームや線路も保存されています。手前に見えているのは廃止後に復元された貨物引き込み線で、奥に見えているのが本線です。

2023年8月30日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (95) 「奥行臼駅跡」

ということで、かつての国鉄標津線・厚床支線の「奥行臼駅(跡)」にやってきました。駅の真ん前に車を停めましたが、他に人もいないようですし良いですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駅舎と小屋らしき建物が見えます。どちらも木造でかなり年季の入ったものですが、朽ちたり壊れたりと言った風には見えません。しっかりと手入れされている、ということでしょうか……?

2023年8月29日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (94) 「旧奥行臼駅逓所」

国道 243 号に国道 244 号が合流する交叉点のちょい手前を右折して、道道 930 号「上風連奥行線」に入りました。「全線」「開通」「安全運転」と「夜間の除雪はしていません。」の文字が光っていますね。いやまぁ補正もかけてますけど(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の右側に車を置けそうなスペースがあったので、ちょいと車を停めて……

2023年8月28日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (93) 「『旧別海温泉前』バス停」

国道 243 号で別海町南東部にある奥行臼に向かいます。まずは「克巳橋」でポンヤウシュベツ川を渡って……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

おや、何やら物騒なものが。

2023年8月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1067) 「ルークシュポール」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルークシュポール

ru-kus-{oo-poro}?
道・通る・{尾幌川}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
言わずとしれた(?)厚岸町西部の地名です。国道沿いを流れる「ルークシュポール川」と、その南支流で「オタクパウシ川」の西を流れる「ポンルークシュポール川」があり、地理院地図では「ポンルークシュポール川」沿いに「ルークシュポール」と表示されています(字ルークシュポール)。

このあたりは厚岸町と釧路町の境界が未確定なのですが、これはかつての仙鳳趾村が釧路町に含まれていることが影響しているものと思われます。仙鳳趾村の村域は尾幌川水系なので、分水嶺で町境を引けないんですよね。

また不思議なことに「国土数値情報」では「ルークシュポール川」ではなく「ポン尾幌川」となっていて、「ポンルークシュポール川」も「ポンノ沢川」となっています。そのため国土数値情報のデータに準拠している(と思われる)OpenStreetMap では「ルークシュポール川」の存在を確認することができません。

道の通る洞窟? 道の通る入口?

北海道地名誌」(1975) には、「ポンルークシュポール」の項に次のように記されていました。

 ポンルクシュポール 厚岸町尾幌に出るボンノ沢上流の畑作酪農地区。小路の通る洞窟と解されるが不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.670 より引用)
これは pon-ru-kus-poru で「小さな・道・通る・洞窟」ではないか、と言うことですね。鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも似たような解が記されていました。

 ル・クㇱ・パㇽ(ru-kus-par 道が・通ってい・入り口)の意で、かつてはこの沢筋を通って跡永賀昆布森方面へ出たのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.296 より引用)※ 原文ママ
こちらは poru ではなく par となっていますが、これは地元で「ルークシュポールには洞窟は無い」と言われている(少なくとも地元の人はそう認識している)ことと関係があるかもしれません。

謎の「ルウクシウホロ」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には、「ヤマコヘツ」(=尾幌川)の源流部に「ヲタコハウシ」(=オタクパウシ川)と「ヲニヲフ」(=オッポロ川の可能性あり)という川が描かれています。

明治時代の地形図で尾幌川の上流部を見ると、「オタクッパウシ」(=オタクパウシ川)の上流に「ルークシュポル」(南支流)「イキタラウシ」(北側の地名)「ウコペツ」などの支流があるほか、上尾幌の周辺には「オサルンペ」「オン子オサルンペ」「ワクカペケレペツ」「ワクカク子ペツ」(いずれも北支流)が描かれています。これらの記録から「東西蝦夷──」は「ヤマコヘツ」(=尾幌川)の源流部の記述が壊滅的に乏しいということがわかります。

一方で下流部は随分と記述が充実している印象があります。こんな時は表にまとめるのがいいんでしたよね。

午手控 (1858)東西蝦夷山川地理取調図 (1859)明治時代の地形図 (1897 頃?)
ヤマコベツヤマコヘツブトオポロペツ(一名ヤマコペツ)
-ウカウフ(北支流)-
-ルウクシウホロ(北支流)-
シラルヲマイ(南支流)シラルヲマナイ(南支流)-
-クツカウシ(北支流)-
トンナイウシ(南支流)トンナイウシ(南支流)-
クトイカウシ(北支流)-クト゚イカルウシ(北岸)
--ロクシ(北岸)
-アタ子モト(北支流)アッタ子モト(北支流)
-シユンクホリ(北支流)-
チヱルイ(南支流)チエルイ(南支流)ツキサニウシ?(南岸)
アタ子モト(北支流)--
ロークシ(北支流)ルウリシ(南支流)-
シユンクホク(南支流)--
シユマヽイ(北支流)シユマヽイ(北支流)シユママイ(北岸)
チリシユニ(北支流)チサシユマ(北支流)-
ニシクルン子(北支流)ニンリルン子(北支流)ユンクルンナイ(北支流)
--チユリンニー?(北岸)
ヲント(南支流)ヲント(南支流)-
カムイルイ(南支流)カムイルイ(南支流)カムイルイ(北岸)
--ルクシエヌシ(北岸)
-アキチヤシ(南支流)-
ホマカ(北支流)ホマカ(北支流)ホマカイ(北支流)
アキチヤシ(南支流)--
サツテクトウ(南)サツテクト(南支流)サッテキトー(南沼)
ヲニヲフヲニヲフ(北支流)オポロマプ?
--ライペツ(北支流)
--フーレペツ(南支流)
ヲタコハウシヲタコハウシオタクッパウシ(南支流)
--ルークシュポル(南支流)
--イキタラウシ(北岸)
--(ヌ)コペツ(南支流)
--オサルンペ(北支流)
--オン子オサルンペ(北支流)
--ワクカペケレペツ(北支流)
--ワクカク子ペツ(北支流)

めちゃくちゃでかい表になってしまってすいません。「午手控」「東西蝦夷山川地理取調図」「明治時代の地形図」の地名・川名をリストアップしたものですが、多少順序に異同は見られるものの、全体的に地名・川名は一致しているように見えます。

ところが、「東西蝦夷山川地理取調図」に描かれた川の中で、「ヤマコベツ」(=尾幌川)河口にほど近いところに描かれている「ウカウフ」と「ルウクシウホロ」だけは該当する川が見当たりません(不思議なことに「午手控」にもそれらしい川の記録がありません)。

そして、この幻の「ルウクシウホロ」は ru-kus-{uhoro} で「道・通る・{尾幌川}」と読めそうな気がします。「尾幌」は oo-poro-pet かもしれないので、「ルウクシウホロ」であれば ru-kus-{oo-poro} となりますね。

道の通る尾幌川(支流)?

増毛郡増毛町(留萌振興局)の東部に「信砂のぶしゃ川」という川が流れているのですが、明治時代の地形図では、この川は「ルークシュヌプシャペッ」と描かれていました。これは ru-kus-{nup-sam}-pet で「道・通る・{信砂}・川」と解釈できるもので、実際にこの川に沿って「信砂越え」のルートが切り開かれたこともありました(ほとんど利用されずにいったん廃道になってしまいますが)。

現在の「ルークシュポール川」沿いには国道 44 号が通っていて、町境にほど近い鞍部を越えると釧路町のチョロベツ川(の支流)に抜けることができます。つまり、「ルークシュポール」は ru-kus-{oo-poro} で、「交通路の通る尾幌川(支流)」という意味だったのではないかと考えています。

幻の「ルウクシウホロ」はどこから来たのか

難点としては「東西蝦夷山川地理取調図」の「ルウクシウホロ」と現在の「ルークシュポール川」の場所が全く異なるというところですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では尾幌駅よりも上流側の情報が著しく乏しいことは既に確認した通りです。また「東西蝦夷──」の「ルウクシウホロ」も、尾幌川筋では珍しく他の文献や地図での裏付けの無いものです。

では何故「東西蝦夷──」に「ルウクシウホロ」が *混入* したのだ、という話にもなるのですが、今回表には入れなかった「竹四郎廻浦日記」(1856) に次のような記載がありました。

此処並て又ヤ(マ)コヘツと云川有。(中略)扨此川口より川源迄の小名を聞んと土人を呼出しけるが、此川さして漁業も無れば奥深く入る事なしと。然し土人共の行し丈の処は云ていと懇に教呉ける。字モロシリ、同ヲヽヘツ、サヌシヲホロ、ホロコツ、シユマウシ、シコフミ、ヲシツルクシ、チヱハケ、ウベハケ等に字有て其処小沢、小流有と。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.433-434 より引用)
面白いことに、この記録は「午手控」等々とは異同の多いものです。これは「午手控」以外にも「竹四郎廻浦日記」を認める際の手控(取材メモ)が存在していたことを想起させるもので、その中に「ルウクシウホロ」に近い川のメモがあったのかもしれません。

まぁ何もないところから「ルウクシウホロ」という川名を捏造したと考えるよりは、「ルウクシウホロ」(=ルークシュポール)という川名を聞き書きしたものの、正確な位置を認識していなかった……と考えるしか無いんじゃないかな……と。

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2023年8月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1066) 「尾幌・来別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

尾幌(おぼろ)

oo-poro-pet??
深い・大きな・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸町西部から東に向かって流れて厚岸湖(別寒辺牛川)に注ぐ川の名前で、現在は上流部が「尾幌分水」により厚岸湾に直接注いでいます。また尾幌分水の近くには JR 根室本線(花咲線)の「尾幌駅」もあります。ということでまずは「北海道駅名の起源」から。

  尾 幌(おぼろ)
所在地 (釧路国)厚岸郡厚岸町
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 尾幌川は根室本線に沿って流れ、厚岸の北で別寒辺牛川と一緒になり、厚岸湖にそそぐこの川の名のアイヌ語からとったものである。「上尾幌」の項参照。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
今ひとつ要領を得ない感がありますが、詳細は直前の「上尾幌」駅の項に記されていました。

  上尾幌(かみおぼろ)
所在地 (釧路国)厚岸郡厚岸町
開 駅 大正6年12月1日
起 源 アイヌ語の「オ・ポロ・ペッ」(川口の大きい川) から出たもので、尾幌川の上流にあるため「上」をつけたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
上尾幌駅は尾幌駅から尾幌川を遡った先にあり、上尾幌のほうが「山の中」にあるのですが、駅舎は上尾幌のほうが立派で、利用者も尾幌よりも僅かに多いとのこと。上尾幌から釧路に向かう場合、国道経由だと若干の遠回りを強いられる感があることも関係するのかもしれません。

尾幌駅のあたりが「厚岸町尾幌」で、上尾幌駅のあたりが「厚岸町上尾幌」なのですが、これらの地名は鉄道が開通する前の地図では存在を確認できません。また両駅周辺の川名も「オタツクパウシ川」などの例外を除き、殆どが失われてしまっています。

特に上尾幌駅周辺には「ウヌコペツ」「オサルンペ」「ポンオサルンペ」「オン子オサルンペ」「ワクカペケレペツ」「ワクカクン子ペツ」などの川名が存在していたようなのですが、今はどれも「尾幌◯◯号川」という名前になってしまったようです。

河口の大きな川?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

O-poro pet   オ ポロ ペッ   川尻ノ大ナル川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.357 より引用)
どうやらこれが「駅名の起源」の元ネタっぽい感じでしょうか。

またの名前をヤマコペツ

明治時代の地形図には、尾幌川の本来の河口(別寒辺牛川に河口近く)に「オポロペツ」とあり、下に「一名ヤマコペツ」と描かれています。この「別名」とされる「ヤマコペツ」ですが、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

ヤマゴベツは山越別にて、和夷混ぜしもの也。本名ウポロ〔尾幌〕と云し也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.328 より引用)
古くはアイヌ語が和語(日本語)の方言だと信じられていた時代があり、江戸時代の記録には少なくない地名が「アイヌ語と和語の混合地名」として記録されています。この「ヤマゴベツ」もその一つかとも思われるのですが、「ウポロ」というアイヌ語地名が別に存在する……と言われると、俄に現実味を帯びてきます。

まだ続きがありまして……

ウポロ〔尾幌〕(川幅十四間)是ヤマゴベツの入口也。名義は川の上に處々堀の深き處有と云儀也。此邊蘆荻原也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.328 より引用)
この書き方だと「ヤマゴベツ」という川の河口部分(入口)が「ウポロ」という地名だったようにも見えますが、「午手控」(1858) にも「ヤマコベツ」は「本名ウホロのよし」とあるので、やはり「ヤマコベツ」は「ウホロ」(尾幌)の別名と考えて良さそうな感じでしょうか。

深く掘れた場所がある?

「東蝦夷日誌」とほぼ同じ文面が「午手控」にもあったのですが……

ウホロ
 川の上に処々深き堀が有と云事なり
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.351 より引用)
かなり謎な文面ですが、これは「川の上流部にところどころ深く掘れたところがある」という意味でしょうか。そう言われてみれば門静の北あたりで河岸段丘に囲まれたような場所もあります。

松浦武四郎の記録した地名解が正しいと仮定するならば、ooho-oro で「深い・ところ」か……と思ったのですが、-oro の前に完動詞が来るケースは無さそうにも思えます。となると ooho と同義とされる oo を冠して、 oo-poro-pet で「深い・大きな・川」あたりでしょうか。

「尾幌」が ooho だと仮定した場合、北を流れる「大別川」と名前が被るのが気になったのですが、だからこそ oo-poro-pet なのかもしれませんね(ついでに言えば「大別川」も ooho-pet ではなく oo-pet と見るべきかもしれません)。

もっとも、それだったら oo-poro-pet じゃなくて poro-oo-pet じゃないの? とツッコまれそうな気もするのですが、他にも poro-pet という別名のある川があった、とかでしょうか……?

永田方正が記録した「河口の広い川」も違和感の無い解ではあるのですが、松浦武四郎の解も捨てがたいなー、というのが正直なところです。

来別(らいべつ)

ray-pet?
死んだように流れの遅い・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

2023年8月25日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (92) 「24 時間洗車」

国道 243 号で別海の中心部に向かいます。あ、書き出しが昨日の記事と全く同じですね(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

相変わらず別海らしい(「別海らしい」とは)直線区間が続きます。

2023年8月24日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (91) 「偽バンクシー風ふたたび」

国道 243 号で別海の中心部に向かいます。おや、またしても偽バンクシー風の「牛横断注意」が。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

格子状の防風林があるのは中標津と同じですが、航空写真で見た限りでは、ここが格子の南端のようにも見えます。手前に一本だけ木があるのは、交叉点の目印として残されたのでしょうか。

2023年8月23日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (90) 「偽バンクシー風の牛」

知らない間に道道 423 号「西春別停車場線」を完全走破してしまい、ガソリンも満タンになったので、次は国道 243 号で別海町の中心部に向かいます。予めお断りしておきますと、中心部までは 32 km 近くあります……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

西春別から西春別へ?

4 km ほど走ったところで「西春別」にやってきました。あれ? 「別海町鉄道記念公園」があったのも「西春別」だったような……?

2023年8月22日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (89) 「道道 423 号完全走破」

「別海町鉄道記念公園」の保存車輌と保存物(という言い方でいいのかな)を一通り見終えたので、そろそろ車に戻ることにしましょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

かつての駅裏……もしかしたら貨物ホームとかがあった場所かも……はスケートリンクになっていますが、スケートリンクの手前にも木が植えられていて……

2023年8月21日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (88) 「キハ 22 239」

「別海町鉄道記念公園」の話題をもう少しだけ続けます。「西春別駅」のホーム(現役時代のものではなく、おそらく作り直したもの)には「たらこ色」の「キハ 22 239」が保存されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このキハ 22 239 は「別海町鉄道記念館」の中から見えていたものですが……、どう見ても、やはり傾いてますよね。

2023年8月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1065) 「沖万別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

沖万別(おきまんべつ)

o-kim-un-pet?
尻・山・についている・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸苫多の南西、尾幌分水の河口の北北東あたりの地名です。地理院地図では尾幌分水と苫多の間に川がひとつだけ描かれていて、明治時代の地形図ではその川のあたりに「オキマンペツ」と描かれています。

幸いなことにそれなりの数の記録が見つかったので、表にしてみます。

初航蝦夷日誌 (1850)ヤアアンベッ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヤワンヘツ
午手控 (1858)ヤワンベツ  ヤワンは岡と言う事。
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヤーマシヘツ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヤワアンベツ  岡川。アーは陸の事。
永田地名解 (1891)-
明治時代の地形図 (1897 頃?)オキマンペツ
陸軍図 (1925 頃)沖万別
地理院地図沖万別

なんということでしょう~松浦武四郎の記録では、ほぼ「ヤワンヘツ」で統一されていたのが、明治に入ってからコロっと「オキマンペツ」に置き換わったように見えます。

「陸のほうにある川」?

「ヤワンヘツ」は ya-wa-an-pet で「陸のほう・に・ある・川」となるでしょうか。「川が海やのうて陸のほうにあるのは当たり前やないかい、責任者出てこい!」と言いたくなりますが……。

オホーツク海に面した小清水町を流れる「止別川」という川がありますが、知里さんによるとこの川が ya-wa-an-pet だったのではとのこと。また知床半島に「テッパンベツ川」という川がありますが、「テッパンベツ川」の南西隣を流れる「ルシャ川」の別名が ya-wa-an-pet だったみたいです。

また、別寒辺牛川の西支流の「チャンベツ川」も ya-wa-an-pet ではないかという説がありました。これも(別寒辺牛川よりも)「手前のほうにある川」という解釈だった可能性がありそうでしょうか。

そう言われてみると……という話ですが、地理院地図に描かれている名称未詳の川の 0.3 km ほど南西にも、降雨時に水が流れそうな谷があります。あるいはこの谷が rep-an-pet(沖のほうに・ある・川)で、ya-wa-an-pet はそれと対比する形のネーミングだったのかもしれません。

ある日突然「オキマンペツ」に

ところが、明治時代の地形図では責任者[誰?]に断りなく「オキマンペツ」という名前に変わっていました。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されています。

 沖万別(おきまんべつ)
 厚岸湾沿いの漁村。川口に萱のある川の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)
むむ、これは……。ki で「」を意味するので、o-ki-un-pet であれば「河口・茅・ある・川」となりそうですが、これだと「オキウンペッ」になってしまって「沖万別」とはならないような気もします。-un ではなく -oma だとしたら、o-ki-oma-pet で「河口・川・そこにある・川」となるかもしれませんが……。

「尻が山にある川」?

「おきまんべつ」という音を素直に捉えたならば、o-kim-un-pet で「尻・山・にある・川」となるでしょうか。知里さんが唱えた「地名人体化」の考え方では、川の「尻」は「河口」のことなので、尻が山の方にあるというのはちょっと意味不明な感じもしますが……。

また {o-kim-un-pe} で「山津波」という表現もあります。{o-rep-un-pe} で「津波」を意味する語があり、これは o-rep-un-pe で「尻・沖・についている・もの」と分解できるのでは……とのこと。となると o-kim-un-pe は「尻・山・についている・もの」となるでしょうか……?

「山津波」と「鉄砲水」

ここで言う「山津波」は「鉄砲水」のことかな……と思ったのですが、Wikipedia の「土石流」の項には次のようにありました。

土石流(どせきりゅう、英語: debris flow)とは、土石が河川の水と混合して、河川・渓流などを流下する現象のこと。渓流沿いで発生する土砂災害の代表的なものである。山津波鉄砲水泥流ともいう。
(Wikipedia 日本語版「土石流」より引用)。

また「鉄砲水」の項には次のようにありました。

日本の災害報道では1960年頃から山津波と同義語として使用されていたが、1975年頃からは土石流が使用されるようになり山津波や鉄砲水も同義語として使用されるようになった。その後、1991年の雲仙普賢岳の土石流災害で土石流が広く認知されるようになったことから土石流に対して用いられることは少なくなった。
(Wikipedia 日本語版「鉄砲水」より引用)。

改めて地形図を見てみると、尾幌分水から苫多にかけての海岸線で、海に注ぐ川らしい川は一つしかありません(前述の通り、南西隣にも谷はありますが、川としては描かれていないため、降雨時以外は水が無いものと思われます)。

「山から流れ来る川」?

このあたりでは山から海に流れる川は随分とレアなもので、また降雨時は一気に水量が増加すると思われます(鉄砲水?)。このことを指して o-kim-un-pet で「尻・山・についている・川」、平易な表現をすれば「山から流れ来る川」と呼んだ……という可能性もありそうかな、と思います。

十勝の本別町に「オキラウンベ川」という川があり、それと似た名前の川かもしれません。

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2023年8月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1064) 「苫多・乙幌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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苫多(とまた)

toma-ta-oro?
エゾエンゴサクの塊茎・掘る・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
門静駅の南西、「苫多岬」三角点の南西に位置する集落の名前……ですが、1872(明治 5)年から 1900(明治 33)年までは「苫多村」という村の名前でした。

「初航蝦夷日誌」(1850) を始め、「トマタロ」という記録が多いのですが、伊能大図 (1821) には「トマタルー」と描かれていました。

「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

トマタロ
 トマ多し。多く有と云、本名トマタルなるか
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
toma は「エゾエンゴサクの塊茎」で ta は「打つ、断つ、切る」や「掘る」あるいは「汲む」と言った意味なのですが、問題は「ロ」あるいは「ル」ですね。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

トマタロ〔苫多〕(鯡漁)本名トマターヲロにて、トマ取に多しとの儀。此邊今日見るに、如何にも紫氊を敷たる如也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.324 より引用)
あー。なんとなくそんな気もしていたのですが、toma-ta-oro で「エゾエンゴサクの塊茎・掘る・ところ」ではないか、ということですね。「紫氊を敷たるごとし」と言うくらい、エゾエンゴサクが群生する場所だったということなのでしょう。

もしかしたら……というレベルの話

とりあえずこの解で行くしか無いのですが、午手控の「本名トマタルなるか」がちょっと気になるところです。というのも to-mata-ru であれば「沼・冬・路」となり、苫多から門静駅方面に向かうルート脇に湿地があるので、冬場しか使えない交通路だった……との想像が成り立ちます。まぁ、もしかしたら……というレベルの話ということで。

乙幌(おっぽろ)

{o-ni-o-p}-oro-oma-p?
{河口・流木・多くある・もの(川)}・その中・入る・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年8月18日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (87) 「別海町の 8 つの駅」

「別海町鉄道記念公園」の話題を続けます。公園内には植樹も行われているようで……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この木は「アカダモ」という別名でも知られる「ハルニレ」のようです。アイヌ語では chi-kisa-ni で、火を起こすのに使用する木として知られていますね。

2023年8月17日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (86) 「車掌車『ヨ4642』と除雪車『キ276』」

「別海町鉄道記念公園」の話題を続けます。昨日の記事で紹介した「D51-27」の後位には……
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車掌車「ヨ4642」が連結されていました。国鉄時代は貨物列車の最後尾に必ず車掌車(あるいは緩急車)が連結されていましたが、国鉄末期の「合理化」で車掌車(緩急車)が省略されるようになり、代わりに最後尾の貨車に大きな反射板が取り付けられるようになりました。

2023年8月16日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (85) 「サハリン向け D51-27」

「別海町鉄道記念館」の話題を続けます。館内の展示はおおよそ見終えたので……
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次は、屋外で静態保存されている車輌を見に行くことにしましょう。エントランスには「奥行臼駅」のイラストが飾られていました。後ろの電柱にちゃんと電線まで描き込まれているのが良いですよね。

2023年8月15日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (84) 「通票式閉そく装置コーナー」

「別海町鉄道記念館」の話題を続けます。建物の右側に「想い出の駅コーナー」と「事務室」「収納庫」あり、左側に様々な展示コーナーが並んでいます。
左側の壁のど真ん中には「さよなら列車」のヘッドマークが飾られていますが、「ブルートレインでさよなら標津線の旅」なんて企画もあったんですね。JR 北海道もなかなか粋な計らいを……!

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「さよなら列車」のヘッドマークの左は「パネル展示コーナー」と銘打たれたもので、「開拓と災害」「変遷」「華やかなりし頃」「廃止への道程」「平成元年(1989)4 月 29 日」といったパネルが並びます。

2023年8月14日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (83) 「別海町鉄道記念館」

現役のバス待合室である「西春別駅前待合所」の隣にある「別海町鉄道記念館」にやってきました。お隣はサハリン帰りの蒸機(←何故か Google 日本語変換では変換されない)D51-27 です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

建物の前には「鉄道記念館」のプレートが埋め込まれたセメント製のオブジェ……? があります。「鉄道記念館」の文字の下には英語表記がありますが、最後の単語は見なかったことに……(汗)。あと、屋外で雨ざらしの割には随分とピッカピカなのですが、これはいつ頃設置されたものなのでしょう?

2023年8月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1063) 「真竜」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

真竜(しんりゅう)

sin-ri-un-enkor??
大地・高い・そこにある・岬
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在「厚岸駅」のあるあたり(厚岸大橋の北側)は、元々は「真龍」という地名で、1872(明治 5)年から 1900(明治 33)年までは「真龍村」という村の名前でした。その後は「厚岸町真龍村」となり、「角川日本地名大辞典」(1987) によると「厚岸町真竜町」として現存する……とありますが、地理院地図には見当たらず、厚岸町の郵便番号の一覧にも見当たりません(「真栄」という住所はあるのですが)。

歴史ある「真龍」という地名も消されてしまったか……と思ったのですが、厚岸駅の 2.2 km ほど西にある四等三角点の名前として健在でした(標高 8.7 m)。この三角点が選点されたのは 1957(昭和 32)年とのことで、当時は「真龍」という地名が生き残っていた……ということになりますね。

「シユンレウコル」と「シユシウニコロ」

伊能大図 (1821) には「シユシユンベ」と「シユンレウコル」と描かれていました(「シユンシユンベ」の三文字目は何故か逆さまに描かれています)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「シユヽベ」と「シユシウニコロ」が並んで描かれていました。

「シンリウ子ンコ」

明治時代の地形図にも「シンリウ子ンコ」と「シシヨペ」という地名が並んで描かれていました。前者は「厚岸消防署」のあたりで後者は「厚岸真龍神社」のあたりですが、面白いことに伊能大図や「東西蝦夷──」と明治時代の地形図では両者の順番は逆になっています。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

(三丁廿間)シンシウニコロ(平磯)名義、シユウの釣の如く曲りし處と云儀。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.325 より引用)

「シンリウネンコロ」

また永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shushu-o pe   シュシュオペ    柳泉 柳林ノ中清泉湧出ス
Shin riunenkoro, =
 Shin ri un enkoro シン リウネンコロ 高崎 直譯高キ地額、○眞龍村ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.351 より引用)

「シリサネンコㇽ」!?

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

永田氏は「シンリウネンコロ。高崎。直訳高キ地額。真竜村ノ原名」と地名解で解いている。松浦地図ではシュンニコロ、また他にシンレウニコロともあって、どれとも決しがたい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.269 より引用)
まだ続きがありまして……

永田氏のいう高い崎であるとすれば、シリ・サネン・コㇽで大地の出鼻が正しいように思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.269 より引用)
え゛。また新しい解釈が……(汗)。

とりあえず「エンコロ」は確定か?

ほぼ失われた地名ではありますが、幸いなことに多くの言及が見られます。山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

永田地名解は「シンリウネンコロ shinri-un-enkoro(高崎)。直訳高き地額。真竜村の原名」と書いた。逐語訳をして見ると,「ほんとうに・高く・ある・鼻」とでも読んだものか? 何だかぎごちない形であるが,一応そのまま書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.258 より引用)
うーん、確かにぎこちないですよねぇ……。「シンリ」を sinrit で「根」あるいは「先祖」と考えることも可能かもしれませんが、「根のある岬」というのも意味不明ですし……。

厚岸駅の西の辺に山崎が湾岸に迫っている処がある。それをエンコロ(enkor 鼻,山崎)と呼んだのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.258 より引用)
これは同感です。-enkor じゃないか、というのはほぼ全ての記録で共通していますからね。

こんなときは®

今更ですが表にまとめてみましょうか。

伊能大図 (1821)シユンシユンベシユンレウコル
初航蝦夷日誌 (1850)シユヽヤシンシウニコロ
竹四郎廻浦日記 (1856)シンウ?シンシラニコロ・シンシウニコロ
午手控 (1858)シユシユウベシンレウニコロ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)シユヽベシユシウニコロ
東蝦夷日誌 (1863-1867)シユンベツ?シンシウニコロ
永田地名解 (1891)シュシュオペシンリウネンコロ
明治時代の地形図 (1897 頃?)シンリウ子ンコシシヨペ
陸軍図 (1925 頃)真龍
Google Map厚岸消防署厚岸真龍神社

さて……どうしましょうね(汗)。「真龍」という地名の本命は「シンリウネンコロ」だと思うのですが、「シンシウ──」派と「シンリウ──」派に大別されるでしょうか。よく見ると「シンシウ──」派は松浦武四郎だけかもしれませんが……。

「大きな湾にある岬」??

ヒントを得ようと「地名アイヌ語小辞典」(1956) を眺めていたのですが、siyus で「大きな湾」を意味するとのこと。

síyus, -i しユㇱ 【H】《雅》大湾。(→虎杖丸,387)。[<si-us]
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.125 より引用)
そう言えば、us には「湾」という意味もあったんでしたね。となると si-us-un-enkor で「大きな・湾・そこにある・岬」と読めそうでしょうか(「厚岸湖」に面した岬ではなく「厚岸」に面した岬、というニュアンス)。ただ真宗大谷……じゃなくて「シンシウ──」派は松浦武四郎オンリーっぽい雰囲気で、手控の「レ」を「シ」と読み間違えた可能性もありそうな感じが……。

「高台にある岬」?

似たような感じで多数派かもしれない「シンリウネンコロ」を読み解け無いか考えてみたのですが、sin-ri-un-enkor で「大地・高い・そこにある・岬」と読むしかないかな……と。sin-ri ではなく ri-sir だろうとか、あるいは ri-un ではなく rik-un だろうとか、ツッコミどころは山程あるのですが……。

そもそも山田秀三さんが「何だかぎこちない」とした解釈と大差ないですし、自分でも「それってどうなの」と思ってるんですが……(汗)。

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2023年8月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1062) 「ホマカイ川・門静」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ホマカイ川

homaka-i??
後ずさりする・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かの「ルークシュポール川」や「オタクパウシ川」などの名だたる支流を持つ「尾幌川」は、現在は JR 根室本線(花咲線)の尾幌駅の南東に開削された「尾幌分水」で厚岸湾に注いでいますが、元々は国道 44 号沿いを北に流れて別寒辺牛川の河口付近に注いでいました。ホマカイ川は門静駅の北あたりで尾幌川に合流する西支流です。

門静駅の西北西 2.5 km あたりに尾幌川の旧河道だった可能性のある谷があり、ここを尾幌川が流れていたとすると、ホマカイ川の最下流部がかつては尾幌川だった可能性が出てきます。少なくとも明治の時点では尾幌川の流路は現在の位置にあったため、尾幌川が西北を迂回していた時代は不明です。

「後背の所」?

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ホマカ」と描かれています。また「午手控」(1858) には次のように記されていました。

ホマカ
 川口小石多し、川上ひろきよし也。依て号
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.352 より引用)
永田地名解 (1891) には全く異なる解が記されていました。

Homaka-i   ホマカイ   後背ノ處 アイヌ云「ホマカイ」ハ分レルコト?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.358 より引用)
homaka ですが、「藻汐草」(1804) には「ホマカノ」という語があり、「去る」あるいは「後、アト」を意味するとのこと。また「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) には「ホマカシ」という語が採録されていました。

ホマカシ homakasi【副】【動1】奥の方から(来る)。山の方から(来る);〈反〉ヘマカシ hemakasi。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.362 より引用)
homakashi久保寺逸彦アイヌ語・日本語辞典稿」(2020) にも「奥から」「山手から」「後から」という意味だと記されていて、ho-mak-ashi と分解できるとのこと。

二つの「ホマカイ川」

永田地名解の「後背の所」という解釈と「『ホマカイ』は分かれること?」とあるのは一見意味不明ですが、ホマカイ川を遡って「保馬貝橋ほまかいばし」四等三角点(標高 83.0 m)から北西の標茶町北片無去に向かうと、国道 272 号を横断したあたりでいつの間にか分水嶺を越えてしまって、もう一つの「ホマカイ川」の流域に入ってしまいます。

標茶町の「ホマカイ川」は「アレキナイ川」の支流で、塘路湖を経由して新釧路川から太平洋に注いでいます。このことを考慮すると永田地名解の「後背の所」と「『ホマカイ』は分かれること?」という謎の注釈も「そういうことか!」と思えてきます。homaka-i で「後退りする・もの(川)」と見ていいんじゃないかと。

この「ホマカイ川同一視説」は標茶側の「ホマカイ川」の歴史を遡ることができないという難点もあるのですが(明治時代の地形図では「トマペッ」とあり、陸軍図は誤って「チョクベツ川」と描かれている)、永田地名解の謎記述を素直に読むとこうなるんじゃないかな……と。

標茶町の「ホマカイ川」については北海道のアイヌ語地名 (266) 「タンネヌンベ川・オモシロンベツ川・ホマカイ川」でも取り上げているので、ご一緒にポテトもご覧ください。

門静(もんしず)

mo-{sir-etu}?
小さな・{岬}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年8月11日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (150) 大館(大館市) (1878/7/29(月))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第二十六信」(初版では「第三十一信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

旅の疲れ

豊岡(山本郡三種町)を出発したイザベラでしたが、蓄積した疲労が背骨に来たのか、「毎日七マイルか八マイル以上旅行することができなかった」と記しています。8 マイルは約 12.9 km なので……これは厳しいですね。

しかし私は、進まなければならないから先へ進むだけである。夜の宿泊地に到着すると、すぐに横になって休まなければならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.282 より引用)
まぁ「進むかリタイアか」という状況だったら、ペースが落ちたとしても進むしか無い……ということですよね。

北日本を旅する人は身体の丈夫な人に限る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.282 より引用)
まるで「目黒のさんま」のような……。

奔流と泥

イザベラは蓄積した疲労について「やむをえない」としつつ、悪天候によって「疲労が倍加される」と記しています。悪天候はイザベラの体力を奪うだけではなく……

もちろん、この地方に対する私の印象も、それに影響を受けないわけにはゆかない。灰色の霧雨やずぶ濡れの雨で泥まみれになっている村落は、明るい日光に照らされているときよりもはるかに楽しいものではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.282 より引用)
あー、わかります。やはり天気が良いほうが、その土地の印象も明らかに良くなりますからね。

このような気候は今まで三十年間になかったという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.282 より引用)
最近は「観測史上初」とか「観測史上最大」と言った表現を良く耳にするようになってしまいましたが、「あれ、昔から?」と思ってしまいますね。そう言えば地球規模の気候変動って、いつ頃から観測されていたんでしょう……?

それでも天候は一向に回復の兆しが見えない。北国の道路をよこぎる河川は水量が増して通行できなくなり、痛みのためもあるが、嵐のために当地に閉じこめられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.282-283 より引用)
第二十六信(第三十一信)は「大館にて」とあるので、「当地」というのは「大館」のことです。悪天候と河川の増水は既に始まっていて、大館に向かう途中の能代川で、イザベラと伊藤は遭難直前の事態に遭遇していました(後に詳述)。

伊藤の不機嫌

大館で無聊を託っていたのはイザベラだけではなく伊藤も同様で、イザベラに「按摩さん」を呼ぶことを薦めていました。

「たいそうお気の毒ですが、何度同じことを言っても仕方がありません。私は何もしてあげられないのですから、盲目の按摩さんでも呼んだらどうですか」
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.283 より引用)

按摩

そう言えば、ということでイザベラは「盲人」についての話題を始めます。

 日本の町や村では、晩になると毎日のように、男の人〈あるいは人たち〉が歩きながら特殊な笛を低く吹く音を聞く。大きな町では、この音がまったくうるさいほどである。それは盲目の人が吹いている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.283 より引用)
この「特殊な笛」というのは「尺八」のこと……で良いのでしょうか。

しかし盲目の乞食は日本中どこにも見られない。盲人は自立して裕福に暮らしている尊敬される階級であり、按摩や金貸しや音楽などの職業に従事している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.283 より引用)
そうだったのか……と思わせる話ですね。按摩(マッサージ師)というキャリアパスは今も存在しているかと思いますが、「金貸し」や「音楽」というのは認識がありませんでした。

目の不自由な人たちの職業組合

さらに盲人の話題が続きますが、「奥地紀行」としてはオフトピックだからか、普及版ではバッサリとカットされた内容です。「目の不自由な人たちの職業組合」の原題は Guilds of the Blind でした。

 盲人たちは古代には二つの職業組合に形成され、一つは妻が亡くなった悲しみで彼自身泣き暮れて盲目になった天皇の皇子訳注1によって作られ、もう一つは寛大な王子──彼を捕まえたのちも特別の親切さで彼を取扱った──の殺害の誘惑から救われるように自分の目をくり抜いた将軍訳注2によって作られた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.110 より引用)
うわ、なんだこれ……という話ですが、「訳注1」によると「天皇の皇子」は「光孝天皇の皇子元光太子(雨夜之尊)」とのこと。ただ Wikipedia によると「雨夜あめや尊」は光孝天皇の *同母弟* の「人康さねやす親王」だとあります(皇太子に立てられたことは無さそう)。

人康親王は出家後に法性と号し、四ノ宮(京都市山科区)に隠棲したとのこと。この「四宮しのみや」という地名は人康親王が仁明にんみょう天皇の第四皇子だったことに由来するという説もあるのだとか。

「訳注2」のほうも気になるところですが、「悪七兵衛景清」こと「平景清」(藤原景清)だとのこと。だとすると「寛大な皇子」は「大日房能忍」のことかもしれないのですが、どう見ても「皇子」では無いので……謎ですね。

彼らの多くはマッサージ師の仕事に加えて、月に15から20パーセントで金貸し業もしている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.111 より引用)
ふわああ、トイチとまでは行かないものの、相当な高利ですよね……。本業?のマッサージについても、イザベラは「タバコと風呂上がりの後のマッサージは国民的贅沢となっていて、いかに貧しくてもそれなしでは済まされない」として、その施術は「ハワイのロミロミに匹敵する」と記しています。

伊藤はイザベラに「按摩さん」を薦めていましたが、本人もちょくちょく「按摩さん」のマッサージを受けていたとのこと。伊藤は日々の給料以外にも「コミッション」でがっつり稼いでいた(要するに上前をはねていた)ので、「按摩さん」を頻繁に呼べるだけの財力があったのでしょうね。

盲目の人の数は大変多く、救貧所や慈善に頼らず、自立して生活しているのを発見するのは大変興味深いものです。日本人におけるこの珍しい種類の金銭上の自立性は極めて大きなものがあり、盲人の経済的自立性は、外国人のあり方からかけ離れている分目立つことです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.111 より引用)
「目の不自由な人」に対しては真っ先に「福祉」の必要性を想像してしまうのですが、盲人がある種の特権階級的存在だった……というのは驚きですよね。

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2023年8月10日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (82) 「28 年目の JR 標津線代替バス」

国鉄標津線・西春別駅跡に設けられた「西春別」バス停の「西春別駅前待合所」の中をチラッと覗いてみましょう。
(右下で Adobe Firefly の生成 AI による生成塗りつぶしを使用)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

入口には何故か「出会いの家」との文字が。「上西春 3 年」とあるのはバス停のすぐ近くにある「別海町立上西春別中学校」のことでしょうか。ただ中学校のすぐ隣には「別海町立上西春別小学校」もあるので、あえて「上西春」としたのは何故なんでしょう(もしかして:小中学校合作?)。

2023年8月9日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (81) 「短足の牛」

株式会社明治の西春別工場(粉乳・バター・クリーム・濃縮乳を生産しているそうです)の前を通過すると、またしても T 字路に差し掛かりました。
この T 字路を右折すると陸上自衛隊の別海駐屯地で、この駐屯地は計根別飛行場に隣接しています。1977 年頃の航空写真ではあちこちに掩体壕の跡が見えるのですが、ここまで通ってきた道路が殖民区画ガン無視なのは、飛行場関連の道路だったからかもしれません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

短足の牛

久しぶりに殖民区画に合致した直線道路に入りました。前方に警告標識が見えますが……

2023年8月8日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (80) 「謎の鳥居」

別海町に入りました。表記が揺れていると評判のカントリーサインですが、ここでは Bekkai Town とありますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

昨日の記事でも少し触れましたが、この町境のところを当幌川が流れています。当幌川は相当な大河ですが、このあたりはほぼ水源に近いこともあり、橋ではなく土管を通すだけで済んでしまうような流れしかありません。

2023年8月7日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (79) 「レトロな感じの青看板」

道道 775 号「上武佐計根別停車場線」を南西に向かいます。広大な平野をまっすぐ貫く道……いかにも北海道らしい眺めですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

直線区間が多い道道 775 号にしては珍しいカーブに差し掛かりました。R=160 m くらいはありそうなので、アクセルオフだけでクリアできそうな感じですが……

2023年8月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1061) 「大別・鬼仙鳳趾川・サンヌシ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

大別(おおべつ)

ooho-pet?
深い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
別寒辺牛川の河口から 1 km と少しを遡ったあたり(チライカリベツ川の河口よりも下流側)で「大別川」が西から合流しています。厚岸町大別は「大別川」沿いの地名ですが、現在の地形図では下流側は「厚岸町サンヌシ」となっていて、上流側が「厚岸町大別」のようです。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい川が描かれているものの、残念ながら川名の記入がありません(「サン子ウシノホリ」とありますが、これは山名と考えるべきでしょう)。

明治時代の地形図には「オーペツ」とありました。「東蝦夷日誌」(1863-1867) や「午手控」(1858) には「ヲベ」とあり、「巳手控」には「ヲホヘツ」とあります。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 大別川 (おおべつがわ) 大字太田村の北方から流れ出し,鬼仙鳳趾川などを合わせ別寒辺牛川の右から入る小川。アイヌ語で水の深い川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.671 より引用)
ふむふむ。ooho-pet で「(水かさが)深い・川」ではないか……ということですね。

「水かさが深い」か「深く掘れた」か

地名で頻出する「深い」を意味する語としては oohorawne があり、ooho は「水かさが深い」を意味し rawne は「深く掘れた」を意味するとされます。ただ道東エリアには ooho で「深く掘れた」を意味すると思しき川名がちょくちょく存在するように思われます。

今回の「大別川」がどちらの「深い」なのかも少々謎ですが、別寒辺牛湿原の中を流れる川を「水かさが深い」とするよりも、中流部あたりの地形を形容して「深く掘れた」と捉えたほうが実情に即しているのではないかな……と思えたりします。

あ、「午手控」に次のように記されていましたね。

ヲホナイ
 両岸壁に成し由
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350-351 より引用)
やはり「大別川」の ooho は「水かさが深い」ではなく「深く掘れた」が正解っぽい感じですね。

鬼仙鳳趾川(おにせんぽうし──?)

onne-cheppo-us-i
大きな・小魚・多くいる・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2023年8月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1060) 「チャンベツ川・セタニウシ・サッテベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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チャンベツ川

ya-wa-an-pet??
陸のほう・に・ある・川
(?? = 記録未確認、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広大な「別寒辺牛湿原」を有する「別寒辺牛川」は、中流部で東から「トライベツ川」が合流し、そのすぐ下流側で西から「チャンベツ川」が合流しています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい名前の川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「チヤンペツ」と描かれています。

地名としての「──チャンベツ」は上流部の標茶町側にあり、「中チャンベツ」では国道 272 号と道道 14 号「厚岸標茶線」が交叉しています。

「陸のほうにある川」

「角川日本地名大辞典」(1987) の「中チャンベツ」の項には次のように記されていました。

チャンベツはアイヌ語のヤワアンペツ(内陸にある川の意)から転化したものという(北海道の地名)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1036 より引用)
ほほう……。ya-wa-an-pet で「陸のほう・に・ある・川」では無いかと言うのですね。この解だと斜里郡小清水町の「止別」と同型……ということになりそうでしょうか。

この「北海道の地名」とあるのは山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) を指している筈ですが、不思議なことに手元にある草風館版にはそれらしき言及が見当たりません。

「角川日本地名大辞典(下巻)」の「北海道参考図書目録」には「北海道の地名 山田秀三   北海道新聞社 昭和59」とあり、草風館版の「復刻版刊行にあたって」には「本書は『北海道の地名』(北海道新聞社、第5刷、1994年刊)を底本とした」とあります。1984 年(昭和 59)版にあった記載が 1994 年版でカットされた……ということなんでしょうか?

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

チャンペツ
チャンベツ川(地理院・営林署図)
 別寒辺牛川は中流部に入る付近で三股になっており、真ん中の川が本流で、左股がチャンペツ川である。 
 ヤ・アン・ペッ(ya-an-pet 内陸・にある・川)の意でなかろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.298 より引用)
ya-an-pet で「陸のほう・ある・川」では無いかとのこと。うーん、これも同じとは言えないものの、かなり大筋で似た解釈ですね。「道東地方のアイヌ語地名」の「参考及び引用文献」を見ると……

〔山田北海道の地名〕昭和59年(1984) 山田秀三「北海道の地名」
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.6 より引用)
あー、やはり 1984(昭和 59)年版ですね……(もっとも、鎌田さんが「チャンペツ」の解で「北海道の地名」を参考にしたとは明記していない点は注意が必要ですが)。

もうひとつの「ヤワアンベツ」

ちょっと気になるのが「東蝦夷日誌」(1863-1867) に次のように記されていることで……

(四丁)サリヤ(平)、平下しばし(十八丁十五間)ヤワアンベツ(小川)名義、岡川と云、アーは陸の事。此邊小貝多しと。(十一丁)トマタロ〔苫多〕(鯡漁)本名トマターヲロにて、トマ取に多しとの儀。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.324 より引用)
「苫多」は門静の南西の地名で、「サリヤ」は尾幌分水の北あたりの海沿いの崖だと考えられます。となるとこの「ヤワアンベツ」は現在の「沖万別」あたりを指していた可能性がありそうでしょうか。

捨てがたい「陸のほうにある川」説

「チャンベツ」という音からは cha-an-pet で「柴・ある・川」あたりの可能性もありそうだな……と思っていました。別寒辺牛川の支流の中では焚き火に使える細枝が拾いやすい川だったのかな……と考えてみたのですが、これだけの規模の川のネーミングとして適切か? と言われると、そう言われてみれば……

「出典が未確認」という致命的な弱点があるものの、ya-an-pet で「陸のほう・にある・川」説はなかなか魅力的な仮説です。実は小清水町の「止別」も ya-wa-an-pet ではないかと言われているのですが、これを「網走から見て手前のほうにある川」とする考え方があります。

「チャンベツ川」も本流の「別寒辺牛川」に引けを取らない規模の川で、厚岸、あるいは釧路側から見ると(別寒辺牛川よりも)「手前のほうにある川」と言えなくも無いな……と。「チャンベツ」というネーミングが相対的なロケーションを指すものだった可能性もあるんじゃないかな、と。

セタニウシ

setanni-us-i
エゾノコリンゴ・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)

2023年8月4日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (78) 「ジェットコースター途中下車」

「開陽台道路」下りルートを抜けて下界まで戻ってきました。右折すると「返せ!北方領土」らしいので、これは右折するしか無いですよね。
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「開陽台入口」まで戻ってきました(約 190 m)。例によって酷い逆光だったので、ウソくさい補正をかけています(看板部分など)。

2023年8月3日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (77) 「消えた蝶ネクタイ」

開陽台の駐車場に戻ってきました。右から「自販機」「階段」「看板」「トイレ」が並んでいますが、そのずーっと左を見ると……
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消えた蝶ネクタイ

おや。「遊歩道入口」とありますね。

2023年8月2日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (76) 「羅臼町部門」

「地球が丸くみえる」開陽台の展望台からの眺めを一通り堪能したので……
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下の階(2 階)に移動することにしましょう。

2023年8月1日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (75) 「開陽台の展望スポット」

それでは、開陽台の展望台……あ、「開陽台展望館」という建物なんですね……の中に入ってみましょう。
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まずは階段で 2 階にやってきました。左手に見える階段を登ると展望スポットがある……ということですよね。