2023年8月12日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1062) 「ホマカイ川・門静」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ホマカイ川

homaka-i??
後ずさりする・もの(川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かの「ルークシュポール川」や「オタクパウシ川」などの名だたる支流を持つ「尾幌川」は、現在は JR 根室本線(花咲線)の尾幌駅の南東に開削された「尾幌分水」で厚岸湾に注いでいますが、元々は国道 44 号沿いを北に流れて別寒辺牛川の河口付近に注いでいました。ホマカイ川は門静駅の北あたりで尾幌川に合流する西支流です。

門静駅の西北西 2.5 km あたりに尾幌川の旧河道だった可能性のある谷があり、ここを尾幌川が流れていたとすると、ホマカイ川の最下流部がかつては尾幌川だった可能性が出てきます。少なくとも明治の時点では尾幌川の流路は現在の位置にあったため、尾幌川が西北を迂回していた時代は不明です。

「後背の所」?

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ホマカ」と描かれています。また「午手控」(1858) には次のように記されていました。

ホマカ
 川口小石多し、川上ひろきよし也。依て号
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.352 より引用)
永田地名解 (1891) には全く異なる解が記されていました。

Homaka-i   ホマカイ   後背ノ處 アイヌ云「ホマカイ」ハ分レルコト?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.358 より引用)
homaka ですが、「藻汐草」(1804) には「ホマカノ」という語があり、「去る」あるいは「後、アト」を意味するとのこと。また「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) には「ホマカシ」という語が採録されていました。

ホマカシ homakasi【副】【動1】奥の方から(来る)。山の方から(来る);〈反〉ヘマカシ hemakasi。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.362 より引用)
homakashi久保寺逸彦アイヌ語・日本語辞典稿」(2020) にも「奥から」「山手から」「後から」という意味だと記されていて、ho-mak-ashi と分解できるとのこと。

二つの「ホマカイ川」

永田地名解の「後背の所」という解釈と「『ホマカイ』は分かれること?」とあるのは一見意味不明ですが、ホマカイ川を遡って「保馬貝橋ほまかいばし」四等三角点(標高 83.0 m)から北西の標茶町北片無去に向かうと、国道 272 号を横断したあたりでいつの間にか分水嶺を越えてしまって、もう一つの「ホマカイ川」の流域に入ってしまいます。

標茶町の「ホマカイ川」は「アレキナイ川」の支流で、塘路湖を経由して新釧路川から太平洋に注いでいます。このことを考慮すると永田地名解の「後背の所」と「『ホマカイ』は分かれること?」という謎の注釈も「そういうことか!」と思えてきます。homaka-i で「後退りする・もの(川)」と見ていいんじゃないかと。

この「ホマカイ川同一視説」は標茶側の「ホマカイ川」の歴史を遡ることができないという難点もあるのですが(明治時代の地形図では「トマペッ」とあり、陸軍図は誤って「チョクベツ川」と描かれている)、永田地名解の謎記述を素直に読むとこうなるんじゃないかな……と。

標茶町の「ホマカイ川」については北海道のアイヌ語地名 (266) 「タンネヌンベ川・オモシロンベツ川・ホマカイ川」でも取り上げているので、ご一緒にポテトもご覧ください。

門静(もんしず)

mo-{sir-etu}?
小さな・{岬}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)の「門静駅」のあるあたりの地名です(色々と手を抜いてみました)。ということでまずは「駅名の起源」を見てみましょう。

  門 静(もんしず)
所在地 (釧路国)厚岸郡厚岸町
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「モイ・シュツ」(湾のかたわら)で、海岸についた名から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
伊能大図 (1821) には「モイシユツ」とあり、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「モエシユツ」と描かれていました。「初航蝦夷日誌」(1850) には「モヱシユツ」とあり、「午手控」(1858) には「モンシユツ 不知」とあります。

ちょっと謎なのが「東蝦夷日誌」(1863-1867) で、次のように記されていました。

是ヲモンエツ(小岬、十三丁三十間)、サツテキ沼(小沼)、ヲチシネ、(九丁四十間)フフウシ(平磯)、上はとど山也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.324 より引用)
どうやら「ヲモンエツ」が「門静」ではないかとのこと。面白いことに、明治時代の地形図には「サッテキトー」(=サツテキ沼)が描かれているものの、何故か「門静」に相当する地名が描かれていません(海沿いには「ポントマリ」とあります)。

「門静」は岬の名前?

また「ヲチシネ」という地名も気になります。「こんな時は──」という謎の声が聞こえてきたので、表にしてみましょうか。

初航蝦夷日誌トマタロモヱシユツ-ヲチシ子フブシ
午手控トマタロモンシユツサツテキトウ--
東西蝦夷
山川地理取調図
トマタロモエシユツ-ヲチシラフブシ
東蝦夷日誌トマタロヲモンエツ(小岬)サツテキ沼ヲチシネフフウシ
永田地名解 (1891) トマタロモイシツ--フプウシ
明治時代の地形図苫多村)ポントマリ?サッテキトー--
現在の地名苫多とまた門静---

わざわざこんな表を作るというのは、moy-sut で「湾・傍」という解釈に違和感があるからに他ならないわけでして……。表の中で位置が確定しているのは「サッテキトー」くらいで、門静駅の西北西、国道 44 号が根室本線をオーバークロスするあたりの北に位置していたと考えられます。sattek-to で「夏やせする・沼」と考えられそうです。

また「ヲチシ子」あるいは「ヲチシネ」は ok-chis で「うなじ・中くぼみ」との関連が考えられます。門静駅のあたりも谷中分水とも言えるごくごく平坦な分水嶺となっていて、この地形を「ぼんのくぼ」を意味する ok-chis と呼んだとしても違和感はありません。

そのまま「小さな岬」だったのでは

……となると、「門静駅」のあるあたりは ok-chis-ne ということになるので、「モンシユツ」あるいは「ヲモンエツ」は「苫多」と「門静駅」の間の「小岬」を指している可能性が出てきます。ちょうど都合の良いことに、それらしい地形があるんですよね(「苫多岬」四等三角点のあるあたり)。

この「小岬」が mo-{sir-etu} で「小さな・{岬}」だったのではないかな、と。「モシレツ」が転訛して「モンシュツ」になったんじゃないかな、と思うのですが……。

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