2023年7月31日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (74) 「乳牛の像」

開陽台の駐車場と展望台の間にある「乳牛の像」の前にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「乳牛の像」の説明文ですが、いきなり「開陽台」という地名の由来から始まっています。しかも「開陽台」の名付け親が尾崎豊だったとは知りませんでした。なるほど、バイク登り口が設けられているのも納得です(色々と違うと思う)。

2023年7月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1059) 「フッポウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

フッポウシ川

{hup-po}-us-i?
{小さな椴松}・多くある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸湖に注ぐ「別寒辺牛川」は、道道 813 号「上風連大別線」の 2 km ほど北北西で西から「チャンベツ川」が合流し、すぐ北で東から「トライベツ川」が合流しています。「フッポウシ川」は「トライベツ川」の支流ですが、どう見ても「フッポウシ川」のほうが川としての規模が大きそうなのが謎です。

「フッポウシ川」自体も途中で二手に分かれていて、西側の「フッポウシ左二俣川」の南には「沸保牛」という四等三角点(読み方不明)と、「北方牛ほっぽうし」という二等三角点が存在します。

ついでに言えば、「トライベツ川」の南には「戸雷別とらいべつ」という二等三角点も存在します。

「フホウシ」と「フッポウシ川」

トライベツ川」の項でも触れましたが、別寒辺牛川筋の「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) は現在の川筋と一致しない点が非常に多く、その最たるものが「チャンベツ川」と「トライベツ川」「フッポウシ川」に相当する規模の川が描かれていないというところでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「トライベツ川」ではなく「別寒辺牛川」の西支流として「フホウシ」という川が描かれています。現在の「フッポウシ川」とは位置も向きも流長も全く異なりますが、この川が現在の「フッポウシ川」の元ネタだった可能性がありそうです。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

トウライ(右川)、フフウシ(水源)、此邊椴山也。惣て平山にて、クスリ〔久摺〕のトウロ〔塘路湖〕の源に互合す。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.331 より引用)
川を遡ると「塘路湖」の水源にたどり着くという特徴からは、この川は「チャンベツ川」とその支流の「片無去川」のことであるようにも見えます。明治 20 年の「改正北海道全圖」では「トウライ」という川が矢臼別演習場のあたり(上図「トウライ?」)に描かれているのですが、面白いことに「フフウシ」という名前の川は描かれていません。

その後、明治 30 年頃の地図には現在の位置に「トライペツ」と「フフポウシ」が描かれていて、その *設定* が現在まで引き継がれている……と見られます。

「フホウシ」は「トウライ」の支流だったか

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

フㇷ゚ポウシ
フッポウシ川(地理院・営林署図)
 トラィベツ川の上流で、北側から合流している。この川の方が長流で水量も多く本流らしいが、なぜかフㇷ゚ポウシの名がつけられた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.299 より引用)
やはり疑問に思えますよね。実は「午手控」(1858) には、「ヘカンベウシ」(=別寒辺牛)川筋の情報が次のように記されていました。見やすくなることを期待して表形式にしてみます。

東西蝦夷山川地理取調図午手控午手控補足情報現在名(推定)
(ヘカンヘウシ)ヘカンベウシ-別寒辺牛
ヲタモシリ(東側)ヲタモシリ-
サン子ウシノホリ(西側)サン子ウシ少しの山ありサンヌシ
-ヲヘ左小川大別川
チライカルシヘ(東支流)チラカルベ右小川チライカリベツ川
-モシロヽ-
ヲイワクシ(西支流)ヲイワクシ此処小休所也 左のさき也サッテベツ川
ヒヲロ(東支流)---
コムニヲイ(西支流)コムニヲイ--
ウヒニシ?(東支流)ヲニカルマイ--
イラルマニウシ(西支流)ヰラルマニウシ左小川-
-(東支流)トウライ右小川-
フホウシ(西支流)フホウシ此辺椴多し。平山-
トウライ(東支流)---
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.233-234 の内容をもとに作成)
理由は不明ですが、何故か「フホウシ」が「トウライ」の後に記されています。実は「東西蝦夷──」では「イラルマニウシ」と「フホウシ」の間に川名の記入のない東支流があり(しかも支流の中では割と長い)、「午手控」や「東蝦夷日誌」の内容も考慮すると、この「無名の川」を「トウライ」と考えたほうが矛盾が少なくなりそうです。

「午手控」や「東蝦夷日誌」の内容は、「フホウシ」が「トウライ」の支流だったということではなく、「フホウシ」は「トウライ」よりも川上に存在した……と読めます。よって現在の「トライベツ川の支流」という *設定* は正確ではないのですが、少なくとも前後関係としては合ってそうなんですよね(前述した「東西蝦夷──」のうっかりミスが前提となりますが)。

例によって「あーでもない、こーでもない」という内容ですが、ここまで見た中で決定的な矛盾は「東蝦夷日誌」の「クスリ〔久摺〕のトウロ〔塘路湖〕の源に互合す」くらいで、この文だけ無視してしまえば、実はそこそこ内容としては合っていたのかもしれません。

閑話休題

あ、肝心の地名解ですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Hup-po ushi   フㇷ゚ポ ウシ   小椴松多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.359 より引用)
{hup-po}-us-i で「{小さな椴松}・多くある・ところ」と読めそうですね。別寒辺牛川筋にはこの手の川名(地名?)が多かったようで、他にも「コロコニ ウシ」(蕗の多いところ)や「ラルマニ ウシ」(イチイの多いところ)があったほか、支流の「チヤンペツ」(=チャンベツ川)にも「セタニウシ」(エゾノコリンゴの多いところ)や「シキナウシ」(ガマ(ござの材料)の多いところ)があったようです。

本来の「フッポウシ川」がどこを流れていたのかは、各種の記録に矛盾がありなんとも言えませんが、意味するところは概ね間違い無さそうかな……と思えます。

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2023年7月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1058) 「チライカリベツ川・糸魚沢・トライベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チライカリベツ川

chiray-kar(-us)-pet
イトウ・取る(・いつもする)・川?
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
別寒辺牛川の東支流で、北隣を JR 根室本線(花咲線)と国道 44 号が通っています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チライカルシヘ」という名前の川が描かれています(が、流路の向きなどはかなり適当な感じです)。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

川筋種々に屈曲し、チラカルベ(右川)、此川は山道にて水源を越るよし。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.330 より引用)
繰り返しになりますが、チライカリベツ川の北隣で JR 根室本線(花咲線)と国道 44 号が厚岸茶内の間を結んでいます。松浦武四郎が旅した当時は、厚岸と厚別風蓮湖畔)を結ぶメインルートはチライカリベツ川経由では無かったようですが、少なくとも当時から峠道の存在は認識されていたっぽいですね。

当時のメインルートはオラウンベツ川の水源のあたりを経由していたらしく、現在のメインルートよりも内陸側を通っていたみたいです。

イトウを捕る川?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chirai kari pet   チライ カリ ペッ   絲魚ヲ捕ル川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.358 より引用)
chiray-kar-pet で「イトウ・捕る・川」と読めそうでしょうか。ただ「東西蝦夷──」には「チライカルシヘ」とあるので、chiray-kar-us-pet で「イトウ・取る・いつもする・川」だったのが、-us が略されて chiray-kar-pet になった……と想像できそうです。

イトウがまわる川?

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 チライカリベツ川 糸魚沢附近の水を集めて別寒辺牛川左に合する遅流。アイヌ語で糸魚(いとう)のまわる川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.671 より引用)
あれっ……? 確かに kar には「まわる」という意味もありますし、kar-i であれば「まわす」ですが……。

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

 永田地名解は「チライ・カリ・ペッ。糸魚を捕る川」と書いた。カリ(kari)ではそう読めない。カル(kar 取る)とでも読んだのであろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.256 より引用)
ああ、そういうことですか……。何故「まわる」などと言う珍妙な解が降って湧いたのか疑問だったのですが、「カル」ではなく「カリ」だから、ということですね。少なくとも松浦武四郎は「カリ」ではなく「カル」と記録しているので、素直に chiray-kar-pet で「イトウ・捕る・川」と考えて良いのではないでしょうか。

糸魚沢(いといざわ)

chiray-kar(-us)-pet?
イトウ・捕る(・いつもする)・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年7月28日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (73) 「開陽台幸せの鐘」

絶景ビュースポットとして知られる「開陽台」の駐車場に到着しました。相変わらず車庫入れが下手くそですね……(汗)。
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「開陽台道路」方面(だいたい南南東)を眺めます。地平線がバッチリ見えていますね。

2023年7月27日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (72) 「開陽台道路」

前方に十字路が見えてきました。ここは中標津町俣落で、道道 150 号「摩周湖中標津線」はこの先を左折のようです。
看板と標識の色が妙に明るく鮮やかになっていますが、例によってウソくさい補正全開でお送りしています(遊んでます)。これ、実は矢羽根をちゃんと補正対象から外していたりします。

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直進する車と左折する車に分かれましたね。左側の道道 150 号には路側に「通行止め」のバリケードが置かれたままです。

2023年7月26日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (71) 「関係者とは」

「ソフトクリーム CAFE milcream」は「養老牛 山本牧場」の敷地内にあります。
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お店の建物?はトラックの荷室部分を改造したもの……ですよね。

2023年7月25日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (70) 「ソフトクリーム CAFE milcream」

養老牛の十字路を直進して道道 505 号「養老牛計根別停車場線」に入りました。相変わらず見渡す限りの直線道路ですね……!
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ケネカ川を渡ります。色味はマシマシですが逆光補正は行っていないので、右のほうがちょっと眩しい感じですね。

2023年7月24日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (69) 「裏摩周シェルター」

「裏摩周展望台」の駐車場に戻ってきました。いい感じの光芒とゴーストが……!
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駐車場には乗用車用の区画が 13 枠しか無いのですが、やはりと言うべきか、溢れてますね……。大型車がいなかったのが幸いでしょうか。

2023年7月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1057) 「ホロニタイ・神岩・別寒辺牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ホロニタイ

poro-nitay?
大きな・林
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸湖の東端に注ぐトキタイ川の河口から 1.7 km ほど北西に「金田崎」という岬があり、そこから更に北西に 1 km ほど北西に「ホロニタイ」という地名があります。

ここは厚岸町ホロニタイという現役の地名で、郵便番号の設定もあるのですが、現在は常住人口ゼロとのこと。まぁ地形図を見れば容易に想像がつくという話もありますが……(家屋らしき建物が見当たらない)。

陸軍図には湖岸部に「ホロニイタイ」と描かれています。ところが不思議なことに明治時代の地形図には「オン子マウニ」と描かれていて(しかもちょっと位置がズレているように見える)、「ホロニタイ」の存在を確認することができません。

とりあえずちゃちゃっと表にしてしまいましょうか。

東西蝦夷
山川地理取調図
竹四郎廻浦日記 (1856) 午手控 (1858) 明治時代の地形図陸軍図
ヘカンヘウシヘトベカンベウシヘカンベウシフトペカムペウシ別寒邊牛川
リシヤリフシリヤクフシ---
ホツチヒラ-ホツケヒラオピケピラ?-
---エホロン-
リイマタン-リイコタンリコタン-
ヲ???クシテシトロクシヲシトレクシオントルクシ-
---カムイ岩-
ヲホナイ-ヲホナイ--
ホンマウニ---カモイ
ヲンマウニホロンタイ?マウニナイオン子マウニ-
ソサカナイ-ソサカナイ-ホロニイタイ?
--ホロンタイ--
トウキタイトキタイトキタイトーチタイトキタイ川

うーん、見事に訳が分からないですね……(汗)。更に訳のわからないことに、午手控の「アツケシ海岸地名の訳覚書」には次のように記されていました。

ホロンタイ
 川口大きしを云り
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
んー……。永田地名解 (1891) には次のように記されているのですが……

Poro nitai   ポロ ニタイ   大林
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.352 より引用)
素直に解釈すると poro-nitay は「大きな・林」と考えるしか無いような気がします。ところが「川口大きし」とは一体……?

川口の大きい「ホロニタイ」と言われたら、トキタイ川流域の林のことかな、と考えたくなります。「ホロニタイ」は「陸軍図」以前の地図では正確な場所を遡れないという困った点もありますが、厚岸湖の東側のどこかに実在した、とは言えそうな気がします。

「ホロニタイ」は poro-nitay で「大きな・林」と思われますが、現在の「厚岸町ホロニタイ」のあたりを指していたかは少々疑わしい……ということで。

神岩(かむいわ)

kamuy-iwa
神・岩山
(記録あり、類型あり)

2023年7月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1056) 「瑠美・トキタイ川・御供」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

瑠美(るみ)

mokoriri-o-i???
タニシ・多くいる・ところ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
東梅川中流部に西から飛び出た形をしている高台にある四等三角点(標高 22.6 m)の名前です。三角点にたどり着く道が現存しないらしく、秘境度が半端無さそうなところですが……。

手元の地図を見た限りでは「瑠美」という地名らしきものは確認できません。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には厚岸湖岸の地名として「モマリル」と描かれているのですが、これは「トウハイ」(=東梅川)と「トウキタイ」(=トキタイ川)の間に描かれているので、「瑠美」三角点とは少し位置が異なります。

午手控 (1858) の「アツケシ海岸地名の訳覚書」には次のように記されていました。

bコリルイ
 つぶが有るよしなり。モコリはになの名也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
また頭注には次のように記されていました。

b モコリ 螺・蜷。
巻貝の総称
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
ふむふむ。ということで裏付けを得るべく知里さんの「動物編」(1976) を確認したところ……

§ 228.エゾバイの類 (Buccinum spp.)
(1) mokoriri《美〔巻貝・ホラ貝〕,幌〔ツブ〕》エゾバイの類(Buccinum spp.)
(2) mokoriri《美》タニシ。皮のつるつるしたツブ(タニシ? ビ IX, 75)
A snail. Periwinkles. Whelks. The name of any kind of whelk-shaped shell(B)
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.127 より引用)
あ。(B)とあるということは……

Mokoriri, n. A snail. Periwinkles. Whelks. Jap. Maimaitsuburi. Tsubu. Nemuri-tsubu. 蝸牛。田螺。眠螺。
(ジョン・バチェラー「蝦和英三對辭書」国書刊行会 p.144 より引用)
言い回しがびみょうに異なりますが、これが元ネタっぽい感じでしょうか。「タニシ」の類を意味する mokoriri という語があるんですね。

となると「モコリルイ」は mokoriri-o-i で「タニシ・多くいる・ところ」である可能性が出てくるでしょうか。この mokoriri-o-i が略しに略された上に「イ」が「ミ」に転訛して「瑠美」になった……という仮説はどうでしょう。いつも以上に強引な推論ですが、まぁ一つの可能性の提示ということで。

トキタイ川

to-kitay
沼・奥
(記録あり、類型あり)

2023年7月21日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (68) 「裏摩周展望台」

まだ残雪が目立ちますが、「裏摩周展望台」はなかなかの賑わいを見せているようです。ここまで来たんですから、展望台に行かない手は無いですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

展望台に向かうスロープには雪が大量に残っています。全く除雪していないように見えるのですが、これは意図的なものなんでしょうかね(時期的に、雪に馴染みのない都会の子が来ることも少なくないでしょうし)。

2023年7月20日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (67) 「歩いて行ける三振興局境」

清里町と中標津町の間にある「清里峠」の「裏摩周シェルター」が近づいてきましたが、手前の交叉点を右折すると 3 km ほどで「裏摩周展望台」に行けるとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ここはもちろん……

2023年7月19日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (66) 「ハトイ札弦川林道・復路」

「神の子池」の周りの木道・遊歩道をグルっと回って、駐車場の近くまで戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

木橋の入口には案内板があるのですが、その横には太陽電池パネルが置かれていました。何らかのセンサーを動かしているのか、それともカメラで撮影しているとかでしょうか……?

2023年7月18日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (65) 「グルっと神の子池」

「神の子池」の木道を時計回りに歩きます。木橋のテラス状の場所には立派な案内板が設置されています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

木橋の欄干部分には写真つきで二か国語対応の案内板が取り付けられていました。

2023年7月17日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (149) 虻川(潟上市)~豊岡(三種町) (1878/7/27~28)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

酒税

体調不良のため、久保田(秋田)から 20 km ほど北の虻川(潟上市)で一泊することを余儀なくされたイザベラ姐さんですが、久しぶりに産業スパイリサーチャーモードに入ったようです。当然ながらと言うべきか、「日本奥地紀行」の「普及版」ではバッサリとカットされています。

日本で穫れるすべての米の 7 パーセントが酒になります。1874 年の酒の年間生産量は 6,745,798 ヘクトリットル、人口一人当たりの消費量は 20.5 リットルで、生産量は年々増加しています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
「ヘクトリットル」という単位には馴染みが無いのですが、1 ヘクトリットル=100 リットルとのこと。一人 20.5 リットルというのは、算術平均だとこんなものでしょうか。

発酵酒の税による歳入は 1875-76 年度は 322,616 ポンドをもたらし、昨年度(1877年)は 474,773 ポンドでした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
良く見るとめちゃくちゃ税収が上がっているのですが、これは一体……? 税率が上がったのか、それとも取りそこねていた税をしっかりと確保できるようになったのか……? もちろん酒の消費量が 1.5 倍になったと考えることも可能ではあるのですが……(汗)。

 税収入源としては 5 種類の酒に区別されていて、酒造業者はそれぞれの種類の酒を造る免許に、年に 2 ポンド、および、全売り上げ高の 10 パーセントを支払います。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
ふーむ。実は意外と安いかな、と思って財務省の「Q. お酒にはどれくらいの税金がかかっているのですか?」という Web ページを見てみたところ、一本 219 円の缶ビールの 41.1 % が税金とのこと(汗)。

633 ml のビールの酒税等負担率は 47.5 % にも登るとのことで、税金……高いなぁ……と思ったりもするのですが、お酒は「贅沢品」とも言えるので、税率が多少高くても良いのかな、という気もしてきました。

イザベラは「造り酒屋」を「高コストで実入りの良い商い」とした上で、「最も立派な家を建てていることは怪しむべきでは無い」と記しています。穿った見方をすると「『酒』は日本人から金を巻き上げるための良い手段の一つである」と考えることも可能で、イギリスは「アヘン戦争」をやらかした国だけに、杞憂とは言い切れないような気も……。

低温殺菌法

産業スパイモードのイザベラ姐さんは、日本の酒造産業の構造的な優位性を明らかにしただけではなく、酒を醸すメカニズムについても「これでもか!」とばかりに掘り下げていました。

 酒造の全工程は 40 日間かかりますが、西洋人の化学者が言うには改善の余地がないとのことです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
酒造の全工程が「40 日」と言われると「意外と短いんだな」と思ってしまいますが……こんなもの、なんでしょうか。

夏季においてこそ酒はパストゥールのプロセス[パスツリゼーション;低温殺菌法]として知られる状態に置かれます。日本ではパストゥールが生まれる 3 世紀も前に実行されていたのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
へぇ~と思ってググってみると、Wikipedia に「パスチャライゼーション」という記事がありました。当該記事からちょいと引用すると……

パスチャライゼーション(英: pasteurization)とは、食品等の加熱殺菌法のうちで、摂氏100度以下の温度で行う方法をいう。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
ふむふむ。

この方法を用いると、素材の風味を損なわず、ワインやビールなどの醸造酒に含まれるアルコール分を飛ばさずに行うことが可能であり、高温殺菌法と比較して、熱変性などによる品質・風味の変化が抑えられる利点がある。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
なるほどなるほど。

日本では、パスツールに先立つこと300年も前の1560年頃に日本酒において同じ方法が経験的に生み出され、以来、「火入れ」として行われてきた。
(Wikipedia 日本語版「パスチャライゼーション」より引用)
お、これはイザベラが「パストゥールが生まれる 3 世紀も前」と記した内容と完全に一致していますね。

日本酒の醸造過程

イザベラは日本酒の醸造過程について、詳細を「ドイツ・アジア協会紀要の1878年の報告書にコーシェルト氏が載せた論文」からの引用の形で記していました。

 「サケの醸造においては、われわれは完全に新しく、かつ独特な形の発酵産業を知ったのだが、これは西洋の醸造工程とはすべての点で異なっており、完全さという点に関しては、後者の下に位置づけるべきではない。日本人の製造過程は次のようである──酵母菌は暗い部屋の中で蒸された米の上に成長させられる。この酵母菌のみで、われわれのビールの発酵工場でモルトとイーストによりなされるのと同じことをする。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.109 より引用)
……とまぁこんな感じで、日本酒がどのように醸されるか、そのメカニズムが延々と記されていました。この論文が世に出たのはまさに「日本奥地紀行」の最中の 1878 年で、イザベラが毎晩、蚊やノミとの終わることのない戦いを続けていた頃に、西洋では既に日本酒の醸造過程が知られ始めていた、ということになりますね。

イザベラは、おそらく帰国後にわざわざこの論文を探して引用した……ということになるのですが、これは「日本酒の醸造過程」が「日本についての」に含まれるべきであると考えていた、ということでしょうか。

酒の起源

イザベラが「日本酒」を殊の外重要視したように見えるのは、古くから祭祀に欠かせない重要なアイテムであったことも関係しているのかもしれません。

原注2 : 酒は日本の最も初期の歴史的書物で言及されている。太陽の女神[アマテラスオミカミ;天照大神]の弟であるスサノオノミコト[素器嗚尊;須佐之男命]は天上から出雲の国へ降りてきたとき、八つの甕に酒を調合させたといわれている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.110 より引用)
いつものことですが、イザベラはどこで「天孫降臨神話」について学んだんでしょう……(汗)。

時代が降りてくると多分より伝説的ではなくなっているが、名高い神功皇后について語られていて、彼女は(3世紀初頭に)朝鮮征伐からもどると祝ったことと関係付けられる。彼女は、遠くにある神威に敬意を払うために、息子(今は八幡という名のもとに戦いの神として崇められている)を派遣し、その帰還に際して、彼を酒でもてなした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.110 より引用)
八幡神」については Wikipedia にも記事があるので、ある程度は参考になるかもしれません(まぁ日本語版の Wikipedia は色々とアレだという話もあるので、話半分に捉えるべきですが)。ここで重要なのは史実の有無よりも、イザベラはリサーチの結果、このような情報を見聞したというところでしょう。

イザベラはこの神功皇后のエピソードから、「酒」も朝鮮半島にその起源を持つのではないか……との推論を立てていました。確かにありそうな話ですね。

大きな見もの

隆盛を誇る酒造産業のあり方に始まり、いつの間にか天皇家と古代日本の起源の話になってしまいましたが、これはあくまで「初版(完全版)」のお話です。ようやく「普及版」の話題に戻って……

 その日の午後の風と雨は、恐ろしいほどであった。私は馬に乗ることができなかったので、数マイルほどとぼとぼ歩いて行った。松並木の下を、一フィートも深い水の中を歩いて通った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
7 月下旬ですから、夕立に降られやすい時期ではありますね。「1 フィート」と言われても今ひとつ実感がわきませんが、約 30.48 cm の水たまりの中を歩いた、ということですね。

油紙の雨外套もずぶ濡れとなり、豊岡トヨオカに着いたときは、身体中がほとんど水に浸り、とても寒かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
この「トヨオカ」はかつての森岳村豊岡(現在の山本郡三種町豊岡)のようですね。イザベラ一行は能代を経由せずに鶴形に向かったようなのですが、鹿渡かどの北の「新屋敷」のあたりで羽州街道から外れて森岳に向かった……ということでしょうか。

清潔な二階に上がり、火鉢にあたりながら震えていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
散々な目にあったイザベラですが、「清潔な二階」の部屋をゲットできたのは不幸中の幸いでしょうか。イザベラは部屋で衣服を干したものの、流石に一晩で乾かすのは難しかったとのこと。

前日の朝も群衆の好奇の目に晒されたイザベラでしたが、豊岡でもそれは同様で、イザベラは朝食中も約四十人の群衆にじろじろ見られた……と記しています。

宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」。そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
これはひどい……(汗)。

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2023年7月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1055) 「奔渡・イクラウシ川・東梅(厚岸町)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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奔渡(ぽんと)

pon-to
小さな・沼
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸大橋の南、厚岸湖に面した道道 123 号「別海厚岸線」沿いの地名です。明治時代の地形図にも「奔渡」とあります。1872(明治 5)年から 1900(明治 33)年までは「奔渡村」で、1900(明治 33)年に厚岸町と合併してから 1916(大正 5)年までは「大字奔渡村」だったようです。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 奔渡町(ぽんとちょう)厚岸湖南岸の町区。ポントはアイヌ語の小沼の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.672 より引用)
まぁそんなところでしょうね。ちなみに続きがありまして……

明治13年にはこの地に官営かき缶詰所がおかれ,同21年ころまで続いたので俗にこの地はカンヅメと呼ばれたという。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.672 より引用)
ほう。カンヅメ、なんか別の意味も見いだせそうな気も……(汗)。

「ポントはアイヌ語の小沼の意」の裏付けを取るべく「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を眺めてみたのですが、厚岸町奔渡のあたりにはそれらしい地名が見当たりません(崖しか描かれていない)。あれ……と思って午手控 (1858) の「アツケシ海岸地名の訳覚書」を見てみたところ……

○ノテト
 本名ノツイト 岬の鼻也
ヲントニ
 小沼有るによって
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.352 より引用)
どうやらこの「ヲントニ」が「奔渡」なのかもしれません。ちなみに「ノテト」は厚岸大橋の南側あたりらしく、「ヲントニ」の先は「ヘトヱ」「ホ子コヱ」「ノサウシ」「トマリ」「バラサン」(=バラサン岬)と続いています。厚岸湖側(東側)ではなく海側(西側)の地名という扱いのようですね。

「東西蝦夷山川地理取調図」でも「ヲントニ」は海側(西側)の地名として描かれていますが、ご丁寧にも沼(入江かも)が描かれています。明治時代の地形図では既に沼(入江?)らしきものは確認できませんが、このあたりにかつて沼、あるいは入江があったということでしょうか。

やはり奔渡は pon-to で「小さな・沼」で、理由は不明ですが海側(西側)から厚岸湖側(東側)に移転したと見るべきかもしれません。「ヲント」ではなく「ヲントニ」なので、もしかしたら pon-to-ne で「小さな・沼・のような」と言った意味だったのかも……?

pon-tunni で「小さな・柏の木」という可能性もありそうですが、「東西蝦夷──」にわざわざ沼らしきものが描かれているので、やはり沼と考えるべきかな……と。

イクラウシ川

yuk-iraye-us-i??
それ(鹿)・殺す・いつもする・ところ
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年7月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1054) 「厚岸」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

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厚岸(あっけし)

ar-kes?
もう一方の・末端
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

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牡蠣で有名な「厚岸町」の町名で、同名の駅もあります。まずは基本情報として「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  厚 岸(あっけし)
所在地 (釧路国)厚岸郡厚岸町
開 駅 大正6年12月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「アッケシ・イ」(カキのある所)の転かといわれているが、「アツ・ケ・ウシ」(オヒョウニレの皮をはぐ所)が正しいと思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.154 より引用)
「カキのある所」という傑作な解はジョン・バチェラーのものですね。とりあえずバチェラーさんの解はささっとスルーして、上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) を見てみましょう。

夷語アツケウシなり。則、あつし草を剝ぐ所と訳す。扨、アツとはあつし草の事。ケーとは剝くと申事。ウシとは生す又は成すと申意なり。扨亦、アツケシと申沼は會所許より西北の方二里程隔ちある也。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.65 より引用)
どうやら「駅名の起源」はこの上原説を元ネタにしているようですね。at-ke-us-i で「オヒョウニレの樹皮・削る・いつもする・ところ」と読めそうでしょうか。地名では at に続くのは -ke よりも -kar(作る;取る;刈る)のほうが多い印象があるのですが、何故 -ke なんでしょう……?

「厚岸」はどこにあった

まだ続きがありまして……

常時會所の在る所をヌシヤアシコタンといふ。則、削り掛けを建る所と譯す。ヌシヤとは削り懸けの事夷人是をイナウといふ。アシとは建る。コタンとは村又は所とも云ふ事にて、土地の夷人此所に夥敷削り懸を建て、神々を祭るゆへ地名になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.65 より引用)
「厚岸」の会所のあるところは「ヌシヤアシコタン」だとのこと。nusa-as-kotan で「ぬさ・立つ・村落」だと言うのですが、「幣」は inaw というアイヌ語があるだけに、中途半端に和語が混ざっているのも奇妙な感じを受けます。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見ると、「ハラサン」(=バラサン岬)の隣(北側)に「ノサウシ」と描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

岸を離るゝことしばしにて右の方に
     ノサウシ
ヌサウシなるなり。是会所前の木幣を多く立し処なる也。ヌサはエナヲの事、ウシは多しの儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.543 より引用)
どうやら松浦武四郎は nusa-us-i で「幣・多くある・ところ」と解釈したようですね。現在の「厚岸」は町名・駅名で、役場も駅も「厚岸大橋」の北側にあるのですが、本来の「厚岸」は「厚岸大橋」の南側の地形だった……ということを認識する必要がありそうです。

消えたオヒョウニレ

ちょいと時代を遡って、秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) を見てみると……

一アツケシ
 アツは集の義、ケシは足なり。又、下の義なり。此處、東夷地村里の極なる故に此名あり。夏月中は、ビバセイ、ヲツチシ共に此慮より出て漁事す。俗に云、アツケシはアツシの木、此邊絶て産せさる故に名付たりといへとも、語意ニ適せされハ妄といふへし。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.33 より引用)
「アツは集の義、ケシは足なり」というのは……日本語のニュアンスを多分に含んでいるような気が。ちょっと面白いのが「アツシの木」、すなわちオヒョウニレが「無い」ことを「アツケシ」と呼んだという俗説があるけど *間違いだよ* と注釈が入っている点でしょうか。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

At kesh tō   アッ ケシュ トー   楡下ノ沼 厚岸ノ元名ナレドモ今ノ厚岸ノ地ニアラズ眞龍村ニアリシ小沼ノ名ナリ國郡ノ部ニ詳ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.353 より引用)
「国郡の部に詳しく書いてあるよ」とのことなので、「厚岸郡」の項も見ておきましょうか。

厚岸アツケウシ 原名「アッケㇱュトー」(At kesh to)楡下ノ沼ノ義昔楡樹多クアリタルヲ以テ楡皮ヲ此沼ニ漬シタリ故ニ名ク
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.23 より引用)
ここまでは良い……かと思ったのですが、at-kes-to は「オヒョウニレの樹皮・末端・沼」と読めても、果たして「楡の木の下の沼」と読めたか……と考えると、疑わしく思えるのですね。

kes はあくまで「末端」だったり「しものはずれ」であって、田村すず子さんの辞書にも the lower edge, side of……; the western side; the end. とあるように、決して belowbeneath では無いのですね。なので「楡下の沼」は「楡の木の下の沼」ではなく「楡の木のしもてにある沼」と理解すべきなのでしょう。

其後「アッケウシ」(At ke ush-i)ト呼ブ直譯スレバ楡皮ヲ掬ヒス處ノ意小沼ニ漬シ置キタル楡皮ヲ失ヒシヨリ名クト後説ハ松前記欄外ニモ記シテ云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.23-24 より引用)
やがて「アッケシュトー」が「アッケウシ」に変化した……と読めるのですが、at-ke-us-i は「オヒョウニレの樹皮・消す・いつもする・ところ」なのだ……と。ke は「消す」の「ケ」だという画期的な解釈ですが、この珍説、秦檍麿の「東蝦夷地名考」のオマージュっぽいような感じが……。

「アッケウシトー」ハ楡衣アツトシヲ嫌フ水神此沼ニ在スノ義ヲ取ルト」
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.24 より引用)
「オヒョウニレの樹皮」は「アットゥシ(織物)」の原料となる貴重なものなのですが、何故その貴重な原料が消えるのかは、「アットゥシが嫌いな水神様がいたから」なのだとか。話がどんどん盛られて来た感が……。

「アツケシ沼」はどこに

そしてしれっと最重要ポイントが記されているのですが、この沼は厚岸(厚岸大橋の南側)には存在しないとのこと。

然ルニ此地名ハ即チ今ノ厚岸ニ在ラズシテ眞龍村ナル小沼ノ名ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.24 より引用)
本来の「厚岸」は「厚岸大橋」の南側だったのですが、現在役場や駅のあるあたりは「眞龍」と呼ばれていました(厚岸の市街地の北半分は「眞龍村」だった、と言うことになりますね)。

この沼についてですが、山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) によると……

 この沼は今の白浜町の辺だったらしい。松浦氏東蝦夷日誌は「エウルトウ(沼。周三,四丁),またアツケシ沼共云」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.25 より引用)
むむ。確かに東蝦夷日誌 (1863-1867) にも次のように記されていました。

(八丁十間)エウルトウ(沼、周三四丁)、又アツケシ沼共云。共に赤楡あかだも皮を浸し置義也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.325 より引用)

「ヱヲロト」と「アツケシトウ」

この沼は「初航蝦夷日誌」(1850) にも「ヱヲロト」と記されていました。

     モヱシユツ
此上岩有。沙浜道よろし
     ヲチシ子
此上に沼あるなり。越而
     フブシ
沙浜少し過て
     ヱヲロト
方三丁ニ五丁も有。蘆荻多し。
     シユ丶ヤ
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.382 より引用)
「方三丁」に「五丁」ということは、大きさは 327.27 m × 545.45 m 程度ということでしょうか。一方で「午手控」(1858) には次のように記されていました。

トマタロ     モンシユツ
サツテキトウ    ルチシ
モイワ      アツケシトウ
シユシユウベ    シンレウニコロ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.233 より引用)
「エウルトウ」あるいは「ヱヲロト」ではなく「アツケシトウ」と記されています。これは一見、東蝦夷日誌 (1863-1867) の「エウルトウ」=「アツケシ沼」という記録を裏付けているように見えます。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

これらから厚岸の起源はアッケシトー(沼) で、それは北市街地の白浜町と宮園町の境界付近に周囲300~400㍍の小沼があったものと考えられている(厚岸町史)。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.286 より引用)
鎌田さんの文は概ねこれまでの情報と相違ないのですが、「あったものと考えられている(厚岸町史)」というところに注目でしょうか。明治時代の地形図にはそれらしい小沼が描かれていないこともあり、松浦武四郎が記録した「エウルトウ」あるいは「ヱヲロト」は、実体が今ひとつ見えてこない感もあります。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ヱヲロト」は本当に「アツケシトウ」だったか

更に気になる点として、「初航蝦夷日誌」(1850) に次の記述があるのですが……

扨此処蠣しまを越而
     アツケシトウ
此トウは蛎しまより内也。則前ニ図するごとし。東西凡弐里。南北凡壱り斗と思わるゝ也。先其字をしるさば沼の西北の方
     ヤマコベツ川口
此川口タンタカの東うし(ろ脱)に当る。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.403 より引用)
これは「アツケシトウ」についての記述ですが、「蛎しま」(=牡蠣島)とあることからもわかるように、明らかに現在の「厚岸」を指しています。更に「午手控」(1858) の「アツケシ海岸地名の訳覚書」にも次のように記されています。

モンシユツ 不知
ルチシ
 此上道有るよし。小沼也
モイワ
 小山有て此山の沖に当りて鯨の鼻音する如き事有。是を聞時は大時化等へん(変)事有。
アツケシトウ
 岬の浜辺にて鹿や熊を取し由。本名ウトルウシベと云り。ウトルは岬と岬の間、ウシヘと云は其処ニも有ると云事也
トウバイ
 沼の源と云り。大川有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.350 より引用)
「トウバイ」は厚岸湖の南東に注ぐ東梅」のことと見られるため、この「アツケシトウ」もやはり「厚岸湖」のことだと考えられます。ところが「モンシユツ」→「ルチシ」→「モイワ」→「アツケシトウ」という順番は前述の手控メモとも一致しています。

何を言いたいのかという話ですが、東蝦夷日誌 (1863-1867) の「エウルトウ、別名アツケシトウ」という記述が松浦武四郎のうっかりミスの可能性があるのでは、ということです。もちろん「ヱヲロト」の大きさ(「方三丁」に「五丁」)は「アツケシトウ」よりも明らかに小さいので、「ヱヲロト」あるいは「エウルトウ」に相当する沼が存在したのかもしれませんが、それは「アツケシトウ」では無い可能性が高いのではないかと。

そして「アツケシトウ」が「厚岸湖」なのであれば、オヒョウニレの樹皮をうるかすには大きすぎる(そもそも塩湖で樹皮をうるかして良いのかという話も)という問題が出てくるので、「アツケシトウ」は「アツケシ」に由来するネーミングだ(→「アツケシ」は「アツケシトウ」由来では無い)ということになります。

「もう一つの末端」?

別の言い方をすると、これまでの説では奇しくも「厚岸湖」と同名の「アッケシトウ」と呼ばれる小沼(明治時代の地形図では存在を確認できない)がかつて「アッケシ会所」のの西の外れに存在していて、その沼の名前が「会所」の名前として大出世を遂げた……ということになるのですが、これ、流石に色々と無理がありすぎませんか……?

じゃあ「アッケシ」はどういう意味なんだ……? と言う話になるのですが(ようやく?)、単純に ar-kes で「もう一方の・末端」だったりしないかな、と。厚岸駅のあるあたりから見える対岸(=厚岸大橋の南側)をそう呼んだのではないか、という案です。

kes の対義語は pa なので、もしかしたら「尻羽岬」から見て「もう一つの末端」だった可能性もあるかもしれません。とりあえず根室の「アッケシエト」と似た地名だったんじゃないかな、と。

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2023年7月14日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (64) 「神の子池」

「神の子池」にやってきました。「神さまからの贈り物『神の子池』」という看板がありますが、この池が全国的に知られるようになったのはいつ頃でしょう……? 清里町もかなり気合を入れて整備しているっぽいですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ありがたいことに「神の子池」でもストリートビューを撮影してくれた人がいるようで、看板を見てみると……あれっ?


看板の右側には木道がある筈なのですが、ストリートビューではそれらしきものが見当たりません。ストリートビューの撮影は 2012 年 8 月らしいので、2012 年から 2017 年の間に木道が整備されたみたいですね。

ちなみに緑色の「お願い」の看板も健在でした。ただ位置が異なるので、移設されたっぽい感じですね。例によってレンズ補正をしていたら周囲の余白が足りなくなったので、ちょいと Firefly に周囲を描き足してもらいました(汗)。

2023年7月13日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (63) 「ハトイ札弦川林道」

ゲートが見えてきました。「特殊通行規制区間」「これより 20 km 区間 吹雪による視界不良時は通行止になります」とあります。
(左側余白部で Adobe Firefly の生成 AI による生成塗りつぶしを使用)
今回も左側の余白がちと厳しかったので、生成塗りつぶしに頼ってしまったのですが、ストリートビューで確認してみると……


……え。なんかこれでは看板自体を捏造したみたいな……(汗)。ストリートビューの撮影は 2014 年 6 月とのことなので、その後 3 年の間に「特殊通行規制区間」の看板が追加された、ということでしょうか。

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「ハトイ札弦川林道」へ

相変わらず逆光と反射光の差し込みがきついですが……おやっ、なにやら左側に案内板が(わざとらしい)。

2023年7月12日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (62) 「清里町立緑町小学校」

道道 1115 号「摩周湖斜里線」を南に向かいます。実は右側に釧網本線の線路がほんのちょっとだけ見えているんですよね……。
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これは「オサウシ川」を渡るところだったでしょうか。例によって彩度マシマシでお送りしています(汗)。

2023年7月11日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (61) 「釧路信用組合 網走支店」

清里の市街地のど真ん中にある五叉路にやってきました。
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この五叉路、実は道道 857 号「江南清里停車場線」と道道 946 号「向陽清里停車場線」が道道 1115 号「摩周湖斜里線」と接続しているんですよね。ついでに言えば(旧)ENEOS と五叉路の間は道道 857 号・道道 946 号・道道 1115 号の重複区間とのこと。

2023年7月10日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (60) 「懐かしのゼネラル」

道道 1115 号「摩周湖斜里線」で清里町に戻ってきました。国道 334 号と道道 1115 号で斜里町を走ったのは 2.3 km ……あれ、思ったよりも長かったですね(汗)。もっと短距離かと思ってました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この道道 1115 号「摩周湖斜里線」は割と昔からある道で、殖民区画の碁盤の目とは無関係な道です。この先で、同じく殖民区画とは無関係に敷設されている釧網本線を踏切で横断することになるのですが……

2023年7月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1053) 「筑紫恋・愛冠岬・バラサン岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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筑紫恋(ちくしこい)

chi-kus-koy??
我ら・通る・波
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アイニンカップ岬と愛冠岬の間の地名です。明治時代の地形図にも「チクシコイ」と描かれていて、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「チクシコイ」とあります。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「ツクシコヱ」と記されていて、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

又一ツ岬をかはす哉否、是
     ツクシコエ
峨々たる岩壁の上に陸路有るよし。其地名窪き処を通ると云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.548 より引用)
うーん、「チクシ」が chi-kus なのは想像がつくのですが、その先が良くわかりませんね。永田地名解 (1891) には次のように記されていたのですが……

Chikushi koi   チクシ コイ   路浪 波浪ノ路ヲ起ス處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
確かに koy は「波」なんですが、chi-kus-koy で「我ら・通る・波」というのは良くわからないなぁ……という印象です。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 筑紫恋(ちくしこい)
 太平洋に面した厚岸町の漁村。チクシは吾々の通るところ、コイは波、波間を見て走りぬけるような、低いところで、大波が路を越すところであるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.270 より引用)
うーん、やはりこう考えるしか無いんですかね。koy は「波」であって「波間」を意味することは無いような気もしますが、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) には {koy-sam} で「{波打際}」とあるので、筑紫恋も chi-kus-koy-sam-sam が略された……あたりの可能性もありそうですね。

今更ですが、筑紫恋の海岸は高さ 3~40 m の崖になっていて、崖の下に砂浜に家屋が立ち並んでいます(崖の上に家屋があったほうが色々と安全なのですが、毎日坂を上り下りするのが大きなデメリットだという判断なのでしょう)。この立地は「崖の下の波間を往来する」ことになるので、そのことを指して chi-kus-koy(-sam?) と呼んだのかもしれませんね。

愛冠岬(あいかっぷ──)

aykap
できない(矢が届かない)
(記録あり、類型あり)

2023年7月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1052) 「床潭・アイニンカップ岬」

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床潭(とこたん)

to-kotan
沼・集落
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸末広まびろの西北西に位置する地名で、同名の沼もあります。沼の南は砂浜が広がっていますが、砂浜の南東部には漁港も整備されています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トコタン」と描かれています。のっけから余談ですが「トコタン」と「ヒリカヲタ」(=ピリカオタ)の間に「エンカルウシ」という地名が描かれていて、これは inkar-us-i で「見張る・いつもする・ところ」と読めそうですね。

本題に戻りますが、「初航蝦夷日誌」(1850) にも「トコタン」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

又山の平まゝしばし平磯
     トコタン
と云り。此上に小さき沼有るが故に号るとかや。本名トウコタンと云よし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.548 より引用)
どうやら to-kotan で「沼・集落」では無いかとのこと。「トコタン」も道内のあちこちで見られる地名で、tu-kotan で「廃・集落」と解釈できる場合もあるのですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

To kotan   ト コタン   沼村 此ハ「ト゚コタン」即廢村ノ意ニアラズトアイヌ云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
あー、ちゃんとフォローが入っていましたね。やはり to-kotan で「沼・集落」と見て良さそうです。

アイニンカップ岬

aynu-inkar-pe??
人(男)・見張る・もの(ところ)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年7月7日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (59) 「曲がったことは好きじゃないけど」

清里町に入ってから 4.7 km ほど真っ直ぐ進んで、今度は斜里町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方に海別岳、そして左奥に羅臼岳(だと思う)が見えています。ここまで見てきた景色と大きな違いがあるとすれば、アップダウンがほぼ見られないというところでしょうか。

2023年7月6日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (58) 「降車専用」

引き続き国道 334 号を東に向かい、清里町に入りました。「小水と斜の間にある町」なんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

清里町に入ったからと言って、何かが劇的に変わるというわけではありません。アップダウンを繰り返しながら、ひたすらまっすぐ東に向かいます。

2023年7月5日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (57) 「おにぎりと矢羽根と海別岳」

国道 391 号との交叉点にやってきました。右折すると野上峠を越えて川湯温泉や弟子屈に行くことができます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

この日は右折せずにそのまま直進して東へ。「ポン止別川」に続いて今度は「止別川」を渡ります。

2023年7月4日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (56) 「海別岳に続く道」

下り坂の先の右カーブを抜けると浦士別川で、ここからは小清水町です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

この先の直線区間は久しぶりに殖民区画に準拠した道ですが、それも 0.6 km ほどでお終いのようです。

2023年7月3日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (55) 「勝ったな(何が)」

国道 334 号を東に向かっていた筈ですが、何故か網走市に戻ってきてしまいました。ここから網走市の東端を流れる浦士別川までの約 3.4 km が網走市域ということになります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

国道 334 号はオンネナイ川の谷を築堤で越えて、再び段丘の上に駆け上がります。前方左側に見えているのがどうやら旧道らしく、現道が段丘を大胆にカットしていることが良くわかりますね。

2023年7月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1051) 「末広・幌万別・ピリカオタ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

末広(まびろ)

maw-pir-oro
風・陰・のところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
チンベノ鼻」の 2 km ほど西北西に位置する海沿いの集落の名前です。「末広」を「まびろ」と読ませるのも相当な力技のような……。

明治時代の地形図には「末廣村」とあり、海岸部の地名として「マウピロロ」と描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「マヒロ」とあり、随分とシンプルな印象ですが、「マウピロロ」を「マピロ」と略すのが常だったのでしょうか……?

伊能大図 (1821) には「マビロヽ」とあり、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Mau piroro   マウ ピロロ   風蔭ノ處 「マウピリオロ」ノ急言、「マウ」ハ風、「ピリ」ハ蔭、「オロ」ハ處、○末廣村ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
おやっ……? なんか永田地名解にしてはツッコミどころが見当たらないような気が……(汗)。maw-pir-oro で「風・陰・のところ」と読めそうな感じですね。

pir と言えば「傷」というイメージがあるのですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) を見てみると……

pir, -i ぴㇽ ①傷。②うずまき; 渦流。③蔭。~-o 渦流のある。~-o-p「渦流・ある・所」「灘」。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.94 より引用)
なるほど、確かに「蔭」とありますね。ただ「渦」という解釈もあるので、あるいは maw-pir-oro で「風・渦・のところ」とも考えられそうな気もします。まぁ、これは「もしかしたら」レベルなんですけどね。

幌万別(ほろまんべつ)

poru-oman-pet?
洞穴・行く・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年7月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1050) 「リルラン・チンベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

リルラン

ri-ru-e-ran-i?
高い・道・そこで・降りてくる・ところ
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸町南東部、浜中町との町境(鯨浜)から 1 km ほど西に「リルラン駅逓所跡」がある……そうです(Google マップによると)。駅逓所跡の西は大きくえぐれた谷になっていて、地理院地図では谷の南の崖下に「リルラン」と描かれています。

明治時代の地形図には「璃瑠瀾村」と描かれていました。なるほど、確かに「りるらん──」と読めますね。この地形図には興味深いことに、地理院地図では「リルラン」と描かれているところに「ルエラニ」と描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「タン子クツ」の左横に「リルワニ」と描かれていました。明治時代の地形図によると、「タン子クツ」は現在の「涙岬」(浜中町)の西隣とのこと。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「リルラン」と記されていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

並びて又崖
     リルワニ
此辺海岸は高山岩平。其地名の訳高き処より道下ると云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.550 より引用)
あ、「リルワニ」は「東西蝦夷──」と同じですね(今頃気づいた)。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ruerani   ルエラニ   阪 直譯路ヲ下ル處、○瑠璃瀾村ト稱スル訛ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.355 より引用)
むむむ。ru-e-ran-i は「道・そこから・降りている・ところ」という頻出地名で、明治時代の地形図にも海浜の名前として「ルエラニ」と描かれています。「道がそこから降りているところ」と言われると下り坂の手前のような印象がありますが、実際は(上り)坂の麓のあたりを指しているケースが大半でしょうか。

藻散布(浜中町)から末広まびろ(厚岸町)のあたりは高崖が続いているのですが、リルランのあたりは川が流れていて、浜から川を遡って崖の上に出ることができそうです。そのため ru-e-ran-i と呼ばれた……と言ったところでしょうか。

村の名前にもなった「璃瑠瀾」は「リルラン」ですが、永田方正はこれをしれっと「瀾」にしてしまっています(ルリラン?)。ただ「ルエラン」が「ルラン」に化けたとするのも、ちょっと無理がありそうな気がします。

そもそも松浦武四郎も「リルワニ」あるいは「リルラン」と記録しているわけで、やはり頭の「リ」を含めて考えるべきでしょう。となると ri-ru-e-ran-i で「高い・道・そこで・降りてくる・ところ」となるでしょうか。ru-e-ran-i でも十分意味は通じそうな気がするのですが、何故 ri- を冠したのかは……何故なんでしょうね(ぉぃ)。

なお、「リルラン駅逓所跡」から 4 km ほど西の厚岸町末広まびろには「瑠瑙瀾」という名前の三等三角点がありますが、これは「るえらん」と読むとのこと。どこからともなく現れた「瑙」の字ですが、「瑪瑙めのう」の「のう」の字で、これを「え」と読ませるのはちょっとキラキラした感じが……。

チンベ

pisoy-chise-un-pet
磯辺・家・ある・川
(記録あり、類型あり)