2023年7月30日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1059) 「フッポウシ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

フッポウシ川

{hup-po}-us-i?
{小さな椴松}・多くある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸湖に注ぐ「別寒辺牛川」は、道道 813 号「上風連大別線」の 2 km ほど北北西で西から「チャンベツ川」が合流し、すぐ北で東から「トライベツ川」が合流しています。「フッポウシ川」は「トライベツ川」の支流ですが、どう見ても「フッポウシ川」のほうが川としての規模が大きそうなのが謎です。

「フッポウシ川」自体も途中で二手に分かれていて、西側の「フッポウシ左二俣川」の南には「沸保牛」という四等三角点(読み方不明)と、「北方牛ほっぽうし」という二等三角点が存在します。

ついでに言えば、「トライベツ川」の南には「戸雷別とらいべつ」という二等三角点も存在します。

「フホウシ」と「フッポウシ川」

トライベツ川」の項でも触れましたが、別寒辺牛川筋の「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) は現在の川筋と一致しない点が非常に多く、その最たるものが「チャンベツ川」と「トライベツ川」「フッポウシ川」に相当する規模の川が描かれていないというところでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「トライベツ川」ではなく「別寒辺牛川」の西支流として「フホウシ」という川が描かれています。現在の「フッポウシ川」とは位置も向きも流長も全く異なりますが、この川が現在の「フッポウシ川」の元ネタだった可能性がありそうです。

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

トウライ(右川)、フフウシ(水源)、此邊椴山也。惣て平山にて、クスリ〔久摺〕のトウロ〔塘路湖〕の源に互合す。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.331 より引用)
川を遡ると「塘路湖」の水源にたどり着くという特徴からは、この川は「チャンベツ川」とその支流の「片無去川」のことであるようにも見えます。明治 20 年の「改正北海道全圖」では「トウライ」という川が矢臼別演習場のあたり(上図「トウライ?」)に描かれているのですが、面白いことに「フフウシ」という名前の川は描かれていません。

その後、明治 30 年頃の地図には現在の位置に「トライペツ」と「フフポウシ」が描かれていて、その *設定* が現在まで引き継がれている……と見られます。

「フホウシ」は「トウライ」の支流だったか

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

フㇷ゚ポウシ
フッポウシ川(地理院・営林署図)
 トラィベツ川の上流で、北側から合流している。この川の方が長流で水量も多く本流らしいが、なぜかフㇷ゚ポウシの名がつけられた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.299 より引用)
やはり疑問に思えますよね。実は「午手控」(1858) には、「ヘカンベウシ」(=別寒辺牛)川筋の情報が次のように記されていました。見やすくなることを期待して表形式にしてみます。

東西蝦夷山川地理取調図午手控午手控補足情報現在名(推定)
(ヘカンヘウシ)ヘカンベウシ-別寒辺牛
ヲタモシリ(東側)ヲタモシリ-
サン子ウシノホリ(西側)サン子ウシ少しの山ありサンヌシ
-ヲヘ左小川大別川
チライカルシヘ(東支流)チラカルベ右小川チライカリベツ川
-モシロヽ-
ヲイワクシ(西支流)ヲイワクシ此処小休所也 左のさき也サッテベツ川
ヒヲロ(東支流)---
コムニヲイ(西支流)コムニヲイ--
ウヒニシ?(東支流)ヲニカルマイ--
イラルマニウシ(西支流)ヰラルマニウシ左小川-
-(東支流)トウライ右小川-
フホウシ(西支流)フホウシ此辺椴多し。平山-
トウライ(東支流)---
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.233-234 の内容をもとに作成)
理由は不明ですが、何故か「フホウシ」が「トウライ」の後に記されています。実は「東西蝦夷──」では「イラルマニウシ」と「フホウシ」の間に川名の記入のない東支流があり(しかも支流の中では割と長い)、「午手控」や「東蝦夷日誌」の内容も考慮すると、この「無名の川」を「トウライ」と考えたほうが矛盾が少なくなりそうです。

「午手控」や「東蝦夷日誌」の内容は、「フホウシ」が「トウライ」の支流だったということではなく、「フホウシ」は「トウライ」よりも川上に存在した……と読めます。よって現在の「トライベツ川の支流」という *設定* は正確ではないのですが、少なくとも前後関係としては合ってそうなんですよね(前述した「東西蝦夷──」のうっかりミスが前提となりますが)。

例によって「あーでもない、こーでもない」という内容ですが、ここまで見た中で決定的な矛盾は「東蝦夷日誌」の「クスリ〔久摺〕のトウロ〔塘路湖〕の源に互合す」くらいで、この文だけ無視してしまえば、実はそこそこ内容としては合っていたのかもしれません。

閑話休題

あ、肝心の地名解ですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Hup-po ushi   フㇷ゚ポ ウシ   小椴松多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.359 より引用)
{hup-po}-us-i で「{小さな椴松}・多くある・ところ」と読めそうですね。別寒辺牛川筋にはこの手の川名(地名?)が多かったようで、他にも「コロコニ ウシ」(蕗の多いところ)や「ラルマニ ウシ」(イチイの多いところ)があったほか、支流の「チヤンペツ」(=チャンベツ川)にも「セタニウシ」(エゾノコリンゴの多いところ)や「シキナウシ」(ガマ(ござの材料)の多いところ)があったようです。

本来の「フッポウシ川」がどこを流れていたのかは、各種の記録に矛盾がありなんとも言えませんが、意味するところは概ね間違い無さそうかな……と思えます。

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