2023年7月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1053) 「筑紫恋・愛冠岬・バラサン岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

筑紫恋(ちくしこい)

chi-kus-koy??
我ら・通る・波
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アイニンカップ岬と愛冠岬の間の地名です。明治時代の地形図にも「チクシコイ」と描かれていて、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「チクシコイ」とあります。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「ツクシコヱ」と記されていて、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

又一ツ岬をかはす哉否、是
     ツクシコエ
峨々たる岩壁の上に陸路有るよし。其地名窪き処を通ると云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.548 より引用)
うーん、「チクシ」が chi-kus なのは想像がつくのですが、その先が良くわかりませんね。永田地名解 (1891) には次のように記されていたのですが……

Chikushi koi   チクシ コイ   路浪 波浪ノ路ヲ起ス處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
確かに koy は「波」なんですが、chi-kus-koy で「我ら・通る・波」というのは良くわからないなぁ……という印象です。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 筑紫恋(ちくしこい)
 太平洋に面した厚岸町の漁村。チクシは吾々の通るところ、コイは波、波間を見て走りぬけるような、低いところで、大波が路を越すところであるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.270 より引用)
うーん、やはりこう考えるしか無いんですかね。koy は「波」であって「波間」を意味することは無いような気もしますが、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) には {koy-sam} で「{波打際}」とあるので、筑紫恋も chi-kus-koy-sam-sam が略された……あたりの可能性もありそうですね。

今更ですが、筑紫恋の海岸は高さ 3~40 m の崖になっていて、崖の下に砂浜に家屋が立ち並んでいます(崖の上に家屋があったほうが色々と安全なのですが、毎日坂を上り下りするのが大きなデメリットだという判断なのでしょう)。この立地は「崖の下の波間を往来する」ことになるので、そのことを指して chi-kus-koy(-sam?) と呼んだのかもしれませんね。

愛冠岬(あいかっぷ──)

aykap
できない(矢が届かない)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アイニンカップ岬の北西、バラサン岬の南にある岬の名前です(岬の近くには「厚岸町愛冠」という地名もあります)。

「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「アエカツフ」とあり、明治時代の地形図には「アイガプ岬」と描かれています。一番古い筈の伊能大図 (1821) には「アイカツフ岬」とあり、現在の形にかなり近いのが面白いですね。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

また並びて少しの岬
     アヱカツフ
此処峨々たる大岩岬也。下より弓を射るに上まで矢が行ざるによつて号るとかや。アヱカツフは不出来と云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.545 より引用)
また永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Aigap   アイカㇷ゚   能ハズ 此地名處々ニアリ嶮阻ニシテ行クアタハズノ意ナレモ「アイヌ」ハ小説ヲ作リ戰爭ノ時矢達スル能ハズノ意ナリト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
アイヌの「弓占い」にまつわる地名は道内各所に見受けられますが、永田方正は「弓占い」を説話(創作)だと考えていた……ということでしょうか? aykap は「できない」という意味ですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のような説明がついていました。

──この地名は方々にあり,けわしくて通りぬけられぬような岬をさして云っている。そういう岬の上には,古く神を祭る幣場があり,漁や狩或は戦争に出かけるさい,そこの神に祈って,そこの崖とか岩とかに矢を射て運勢を試す土俗があったらしい。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.12 より引用)
知里さんが「土俗があったらしい」と伝聞調で書くくらいですから、既に「昔の風習」だったということでしょうか。

その際,矢のとどかなかった所に「あィカㇷ゚」という名がつき,多く戦争の際に矢がとどかなかったというような伝説がついている。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.12-13 より引用)
厚岸の「愛冠岬」も、まさにそんな「伝説の地」の一つだった、ということになりそうですね。

バラサン岬

para-san?
広い・棚のような平山
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
愛冠岬の北、厚岸の市街地の南西にある岬で、古くは「盤螺山──」と表記されていたとのこと。岬の頂上は標高 76.9 m で、「磐羅山ばらさん」という名前の四等三角点となっています(字がびみょうに異なる)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハラサン」という名前の岬が描かれていて、明治時代の地形図には「パラサン山」「パラサン岬」と描かれています。「初航蝦夷日誌」(1850) には「ハラサン」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

此上に、其形ち椀を臥せし如く、巓丸くして赤楊・樺屈曲として生たる山有。是を
     バラサン
と云。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.545 より引用)
幸いなことに続きがありまして……

其訳
バラサンは、むかし此山の上に魚を干四本柱の棚の如くなりしが故に号るとかや。実に其山の風奇と云べきもの也。此処少し岬に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.545 より引用)
「昔、この山の上に魚を干して棚のようになったから」とのこと。干魚を作る場合、横棒に釣り糸で魚を吊るしていたと考えられますが、それが面的に広がると棚のように見える……ということでしょうか。

どことなく謎解きのような趣もありますが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Para san   パラ サン   高平ノ地 直譯平棚、先輩盤螺山バンラサント記スレドモ「バンラサン」ニアラズ「パラサン」ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.354 より引用)
久々にドヤ顔の永田さんを見たような気がしますが、概ね同感です。para-san は「広い・棚のような平山」と見て良いかと思われます。

「棚」で「本棚」を連想すると「???」となりますが、「藤棚」を連想すると良さそうでしょうか。バラサン岬も海に面した側は鋭く切り立っているのに対して、頂上部分は比較的平たい形をしています。このことを「棚のような平山」と呼んだ……ということなんでしょうね。

別海町に「茨散沼ばらさんとう」という沼があり、沼名のもとになった「バラサン」という地名があったらしいのですが、こちらは「広い・棚のような平山」の存在を特定できず「???」となったのですが……。

「平おとし」という罠に似ている?

なお、厚岸の「バラサン岬」については、更科源蔵さんが次の点を指摘されていました。

 パラサン岬
 厚岸湾に突き出た岬。パラサンとは広い棚という意味だが、野獣をとる平おとしという罠のこともいい、この岬の岩層がそのおとしに似ているので名付けたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.270 より引用)
「平おとし」という罠については知識を持ち合わせていないためなんとも言えませんが、こういう説もありますよ、ということで……。

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