2023年7月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1050) 「リルラン・チンベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

リルラン

ri-ru-e-ran-i?
高い・道・そこで・降りてくる・ところ
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚岸町南東部、浜中町との町境(鯨浜)から 1 km ほど西に「リルラン駅逓所跡」がある……そうです(Google マップによると)。駅逓所跡の西は大きくえぐれた谷になっていて、地理院地図では谷の南の崖下に「リルラン」と描かれています。

明治時代の地形図には「璃瑠瀾村」と描かれていました。なるほど、確かに「りるらん──」と読めますね。この地形図には興味深いことに、地理院地図では「リルラン」と描かれているところに「ルエラニ」と描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「タン子クツ」の左横に「リルワニ」と描かれていました。明治時代の地形図によると、「タン子クツ」は現在の「涙岬」(浜中町)の西隣とのこと。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「リルラン」と記されていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

並びて又崖
     リルワニ
此辺海岸は高山岩平。其地名の訳高き処より道下ると云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.550 より引用)
あ、「リルワニ」は「東西蝦夷──」と同じですね(今頃気づいた)。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ruerani   ルエラニ   阪 直譯路ヲ下ル處、○瑠璃瀾村ト稱スル訛ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.355 より引用)
むむむ。ru-e-ran-i は「道・そこから・降りている・ところ」という頻出地名で、明治時代の地形図にも海浜の名前として「ルエラニ」と描かれています。「道がそこから降りているところ」と言われると下り坂の手前のような印象がありますが、実際は(上り)坂の麓のあたりを指しているケースが大半でしょうか。

藻散布(浜中町)から末広まびろ(厚岸町)のあたりは高崖が続いているのですが、リルランのあたりは川が流れていて、浜から川を遡って崖の上に出ることができそうです。そのため ru-e-ran-i と呼ばれた……と言ったところでしょうか。

村の名前にもなった「璃瑠瀾」は「リルラン」ですが、永田方正はこれをしれっと「瀾」にしてしまっています(ルリラン?)。ただ「ルエラン」が「ルラン」に化けたとするのも、ちょっと無理がありそうな気がします。

そもそも松浦武四郎も「リルワニ」あるいは「リルラン」と記録しているわけで、やはり頭の「リ」を含めて考えるべきでしょう。となると ri-ru-e-ran-i で「高い・道・そこで・降りてくる・ところ」となるでしょうか。ru-e-ran-i でも十分意味は通じそうな気がするのですが、何故 ri- を冠したのかは……何故なんでしょうね(ぉぃ)。

なお、「リルラン駅逓所跡」から 4 km ほど西の厚岸町末広まびろには「瑠瑙瀾」という名前の三等三角点がありますが、これは「るえらん」と読むとのこと。どこからともなく現れた「瑙」の字ですが、「瑪瑙めのう」の「のう」の字で、これを「え」と読ませるのはちょっとキラキラした感じが……。

チンベ

pisoy-chise-un-pet
磯辺・家・ある・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
謎の「瑠瑙瀾」三角点から 2.3 km ほど西に「あやめヶ原第2駐車場」という駐車場があり、そこから林道?を約 850 m ほど南に向かうと「あやめヶ原サービスセンター」という観光案内所があります(駐車場あり)。駐車場の南には岬があり、地理院地図では「チンベノ鼻」と表示されています(おそらく「チンベ鼻」でしょう)。

また Google マップによれば、「あやめヶ原サービスセンター」の東の崖の下に「あやめケ原トーチカ」があるとのこと。トーチカの東は浜になっていて、地理院地図では「チンベ」と表示されています。浜の北西には谷があり、雨が降ったあとは期間限定で「川」と呼べそうなところです。

明治時代の地形図には、岬の位置に「ピシヨイチセウンペツ崎」とあり、トーチカの東の浜には「ピシヨイチセウンペツ」と描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) ではどう描かれているかと言うと……あれ?

こんな時はタウンページ……じゃなくて表にまとめると便利だと石原ご先祖様が言っていたので、表にまとめてみましょうか。

東西蝦夷山川地理取調図戊午日誌
「東部能都之也布誌」
永田地名解明治時代の
地形図
地理院
地図
リルワニリルワニルエラニルエラニリルラン
イシスウチヤロ-イエス チャロ-砂利浜?
カウシモイカウシモイ
(幅狭く深い湾)
カ ウㇱュ モイカウシュモイ丸一浜
シタヲチモイ-シェタ オチ モイシェタオチモナイ?潮吹間?
チフランケウシ-チㇷ゚ ランケ ウシ-油子間?
エヌチウベシヨチセンベピショイ チセ ウン ペッピシヨイチセウンペツチンベ
ホロクン子モイヲロクン子モイ
(大岬)
オロ クンネ モイ?チンベ
ノ鼻
ホンマヒロホンマヒロ-?-
マヒロマヒロマウ ピロロマウピロロ末広まびろ

ほほう。「東西蝦夷──」の「エヌチウベ」が今「チンベ」に化けたということですか。「エヌチウベ」は意味不明ですが、「初航蝦夷日誌」(1850) では「ヱシヨチウヘ」とあるので、「ヌ」は誤字かもしれません。

「ピシヨイチセウンペツ」は pisoy-chise-un-pet で「磯辺・家・ある・川」と読めそうですね。前述の通り「あやめケ原トーチカ」の東は浜になっていて、雨が降ったあとは川になりそうな谷があります。「磯辺に家のある川」があったとしても矛盾は無さそうな感じですね。

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