(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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養老散布(ようろうちりっぷ)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
渡散布の南西に位置する「ロウソク岩」と「火散布」の間の地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「エヲロチロフ」と描かれています。「樹皮をうるかす」説
「初航蝦夷日誌」(1850) には「イヲロチロフ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。砂浜まゝ行に
イヲロチロツフ
此処にもまた小沼の川口有。此上なる沼には榀皮また楡皮等をうるかし置が故に、イヲロの名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.551 より引用)
「小沼の川口あり」という記述に「???」となったのですが、地理院地図をよーく見ると確かに沼っぽいものが描かれていますね……(川は描かれていない)。「イヲロ」は e-woro で「それ・うるかす」でしょうか。「アサリ」をうるかす訳にはいかない
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。Ioro churup イオロ チュルプ 海中ノ蜊またしても……ですが、ちょっと謎な解ですね。ああ、churup は「アサリ」だ……としたので、元々海辺にいるアサリを「うるかす」わけには行かなかった、ということでしょうか。
「山が崖になって水にささっている」説
昨日の「渡散布」の項でも紹介しましたが、更科源蔵さんは永田地名解の churup 説に懐疑的で、次のように記していました。永田氏はチュルプはあ さ り のことであると述べている。この地方ではたしかにあさりはチルップ(われらの掘りだすもの)というが、渡散布のワクラ(海中の岩)や養老散布のイオロ(それをひたすということであるが、エオルであれば山が崖になって水にささっているところをいう)とあさりとの結びつきがきわめて不自然である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.272 より引用)
この「エオルであれば山が崖になって水にささっているところをいう」という指摘は全く同感で、東川町の「江卸」あたりと似た地名なんじゃないかと考えたくなるんですよね。「チュルプ」か「チロフ」か
そして永田地名解以前は「チュルプ」ではなく「チロフ」だったと言うのも昨日の記事で記した通りで、「エヲロチロフ」は e-woro-chir-o-p で「頭・水につける・鳥・多くいる・ところ」と読めそうな気がするのです(この「頭」は崖状の地形を指します)。この考え方は松浦武四郎の記録を真っ向から否定することになっちゃうのですが、仮に「樹皮をうるかす」場所なのであれば e-woro-us-i だったり e-woro-us-to と言った地名にしちゃえば良いわけで、あえて「チロフ」ファミリーにする必要性はあったのかな? と思えるのですね。
まぁ、「チロフ」あるいは「チュルプ」が一帯の総称となった……という可能性も十分あると思われるのですが……(チロフ大地名説)。
火散布(ひちりっぷ)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
霧多布湿原と厚岸湖の間に「火散布沼」という大きな沼があり、沼が海に流出するあたりに「火散布」の集落があります。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には沼から流出する河口のあたりに「シチロフ」と描かれています。この「火散布」は、不思議なことに「初航蝦夷日誌」(1850) には言及がありません。ただ戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
つゞきて
シチロツフ
川口モチロツフより大きく上に沼有。雪の頃は氷をわたりて此沼まゝ会所のうしろえ越るに宜しとかや。シチロツフは則チロツフの大なると云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.551 より引用)
「シチロツフは則チロツフの大なると云儀なり」とありますが、そもそも「チロツフ」とは何……という話ですね。これは直前の「モチロツフ」(=藻散布)の項にちゃんと書いてありまして……其地名、昔し此処に鷲また鮫等を取て商売にせし老人が居たるによつて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.551 より引用)※ 原文ママ
あ、昨日の記事では「午手控」(1858) から引用しましたが、ちゃんと「戊午日誌」にも明記されていましたね。「鷲または鮫」というのがかなり謎ですが、松浦武四郎は現地のインフォーマントからそういった説明を受けた……ということですよね。現地のインフォーマントがどこまで本当のことを伝えていたか……というのは注意すべき点で、たとえば好漁場だったりオヒョウ(ニレ)の自生地などは「金のなる木」なので、和人にはその存在を秘匿した……という可能性も十分に考えられます(実際にそれらしき例もあったと思います)。
「新解釈」の背景
これまで記してきたように、伊能忠敬や松浦武四郎が「チロフ」あるいは「チロツフ」と記録してきたところに、永田方正は「チュルプ」で「アサリ」の意味だ……という「新解釈」を持ち出してきたと考えられます。この「新解釈」に至った背景ですが、- 実は「チロフ」「チロツフ」は「アサリの好漁場」であることを秘匿するためのデタラメだった(→「鳥のいるところ」説が偽)
- この辺は貝に関する地名が多いので、「チロフ」は「チュルプ」の間違いだと類推した(→「アサリ」説が偽)
さてどっちが真相に近いか……という話ですが、「渡散布」「養老散布」という地名の存在からは 2. の可能性が高いんじゃないか……と踏んでいます。もちろん「チロフ大地名説」を取れば「渡散布」という地名の説明もついてしまうのですが、伊能忠敬と松浦武四郎がどちらも「チロフ」あるいは「チロツフ」としているのはポイントが高そうな気も……。
松浦武四郎が「
藻散布(もちりっぷ)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「火散布沼」の南には、より小ぶりな「藻散布沼」があり、沼から海に流出する河川のあたりに「藻散布」の集落があります。「火散布」と「藻散布」の間は山で隔てられていますが、道道 123 号「別海厚岸線」の「散布トンネル」で相互に行き来が可能です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「モチロフ」と描かれています。「初航蝦夷日誌」(1850) にも「モチロフ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
また並びて
モチロツフ
此処また少しの湾に成て、其内に砂浜有て川口に成たり。上は谷地の如き沼に赤楊原にて、川口ふかくして通り難しと。其地名、昔し此処に鷲また鮫等を取て商売にせし老人が居たるによつて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.551 より引用)
「チロフ」あるいは「チロツフ」をどう解釈するかについては、既に語り尽くした感があるのでバッサリと省略します。mo-{chir-o-p} で「小さな・{鳥・多くいる・ところ(沼)」と考えたいところです。www.bojan.net
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