2023年6月18日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1047) 「嶮暮帰島」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

嶮暮帰島(けんぼっき──)

kene-pok?
ハンノキ・の下
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
浜中霧多布の南西、浜中町琵琶瀬の東の沖合に位置する島の名前です(地理院地図では「けんぼっ」とルビが振られています)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ケ子ホ」という名前の半島(陸繋島)が描かれています(あるいは沖合の島の名前かも)。これは霧多布島(陸繋島)と混同した可能性を思わせますが、実は伊能大図 (1821) でも「ビハセイ」(=琵琶瀬)と「ケ子ホク島」(=嶮暮帰島)が陸続きに描かれています。

明治時代の地形図でもほぼ陸続きに描かれているケースがあり、現在の地理院地図でも嶮暮帰島と琵琶瀬の間に長く伸びた干潟が描かれています。かつては本当に陸続きだった可能性が高そうです。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ケ子ボク」と「イモコモイ」

秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

 一 ケ子モシリ
ケ子はハンの木なり、モシリは嶼なり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.33 より引用)
また、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」では……あれ、なんだか良くわからないことになっていますね。これはささっと表にまとめたほうが早そうでしょうか。

東西蝦夷山川地理取調図初航蝦夷日誌戊午日誌
「東部能都之也布誌」
現在名
(想定)
ワタラチロフワタリチロフワタラチロツフ(川)渡散布
ヒン子エシヨ(岩礁)---
ヲタノシケ--渡散布?
ワタラチロフモシリ(島)ワタリチロフ(島)ワタラチロツフ(岩島二つ)窓岩?
ヒハセイヒハセビワセ琵琶瀬
エモコモイ(島)ヱモコモヱ(島)イモコモイ(島)嶮暮帰島
-メヲクル(小島)メヲクル(岬)-
ヲモエ(島)テモエ(岩岬)キモエ(岬)-
ケ子ホリ(出岬)-ケ子ボク(島)嶮暮帰島
フシワタラ(海中に二小島)ブシワタラ(島)小島?

ざっとこんな感じで、「東西蝦夷──」では渡散布と霧多布の間に「ヒン子エシヨ」「ワタラチロフモシリ」「ヲモエ」「エモコモイ」という島があった……ということになっていました。「ヒン子エシヨ」の正体が不明ですが、「ワタラチロフモシリ」は現在の「窓岩」ではないかと思われます。

問題の戊午日誌「東部能都之也布誌」には「イモコモイ」と「ケ子ボク」という島が存在すると記載されています。中でも注目したいのが「イモコモイ」で、次のように記されていました。

また行まゝ
     イモコモイ
是むかしは一ツの島にして、周り凡一里も有、陸より二十間も汐満の時は隔て居たるよしなるが、今は其地陸えつゞき出岬も同様に成りたり。其岬平山にして上に赤楊少し有。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.552 より引用)
この説明文に限りなく一致する島を、皆さんもご存知なのでは無いでしょうか。これ、どう見ても現在の「嶮暮帰島」のこと……ですよね。

「ケ子ボク」は何処に

ところが、「東部能都之也布誌」には別に「ケ子ボク」という項目もあって……

廻ること五六丁
     キ モ エ
是イモコモイの東の岬なり。奇怪の岩石簇々となしてフシワタラと対岐す。其奥一ツの湾に成たり。並び其沖の方に
      ケ子ボク
 是フシワタラの並び、周り凡七八丁も有るなり。赤楊多きよりして此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.552-553 より引用)
この記録を素直に読むと、ビワセ(=琵琶瀬)の沖合に「イモコモイ」という陸続きの島(=嶮暮帰島)があり、島の東端の「キモエ」という岬の沖合に「ケ子ボク」という島が存在した……ということになります。

そして、この「ケ子ボク」という島は「周り凡七八丁」とあり、「イモコモイ」(周り凡一里)と比べると明らかに小さな島と認識されています。この「ケ子ボク」は果たしてどの島のことなのか……という点が気になりますが、位置からは霧多布の南に浮かぶ「小島」だった可能性がありそうです(となると「フシワタラ」は何処? という問題が新たに出てきますが)。

ただ「小島」は「周り凡七八丁」と言うには小さすぎますし、「東西蝦夷──」や「東部能都之也布誌」に記録されている「シワタラ」が「小島」だと考えるほうが妥当に思えます。となると「嶮暮帰島」はかつての「イモコモイ」であり、また「ケ子ボク」でもあった……と言う、なんともモヤモヤした考え方になってしまうのでしょうか?

「イモコモイ」とは

モヤモヤした感じが残りますが、そういえば「イモコモイ」って何だろう……という話です。e-muk-moy であれば「そこで・塞がっている・湾」と読めそうで、かつて琵琶瀬と嶮暮帰島の間が事実上陸続きとなっていたことを形容した地名と考えられそうです。

つまり、島の名前が「イモコモイ」だった……というのが大きな勘違いだった可能性が出てきます。「ビワセ」の沖合に広がる「イモコモイ」(湾)の向こうにある島(事実上陸続き)が「ケ子ボク」だった……と考えると筋が通りそうな気がします。ん、結局「嶮暮帰島」は「ケ子ボク」だったということ? ここまで散々色々と書いておきながら結論がそれ?(汗)

「ケ子」はハンノキ、では「ボク」は?

「ケ子ボク」の「ケ子」が keneで「ハンノキ」なのは間違い無さそうな感じですが、問題は「ボク」ですね。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kene pok   ケネ ポㇰ   赤楊ノ下 赤楊ノ蔭トモ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
まぁ、普通はそう考えますよね……。ただ、なんか違和感が残ります。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) にも次のように記されていました。

 嶮暮帰(けんぽっけ)
 琵琶瀬の中にある島の名。アイヌ語ケネ・ポㇰ(の下)からでたというが、何故この島にそうした名がついたか不明。或は島の一部の地名であったかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.272 より引用)
おや、なんか気が合いますね。島の名前が kene-pok というのはどうにも妙な感じがしたのですが、島の一部の地名だったと考えるしか無さそうな感じでしょうか。kene-poki で「ハンノキ・の下」となろうかと思われます。

嶮暮帰島は周囲の大半が崖なので、kere-tok で「削らせる・突起物」とかだったらお似合いなのになぁ、と思ったりもしましたが……。

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