2023年6月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1045) 「暮帰別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

暮帰別(ぼきべつ)

poki-sar-pet??
しもて・湿原・川
to-kisar-pet?
沼・耳・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
霧多布湿原の東、霧多布大橋の西側一帯の地名です。明治時代の地形図には、現在の霧多布大橋の位置に「ポ?ッキベツ」と描かれていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見ると「アシリコタン」と「シリシユツ」の間の川に「ホキシヤリヘツ」と描かれています。

興味深いことに、現在の榊町のあたりで海に注ぐ川は現存しません。榊町の西に「カムラ沼」という沼があり、その更に西を「新川」が流れているのですが、この「新川」は南に向かって流れて霧多布大橋の西で海に注いでいます。明治時代の地形図では、この「新川」の上流部は「大津屋沢」と描かれていました。

ここまで見た感じでは、かつての「ホキシヤリヘツ」が「大津屋沢」と名を変えた上で、流路も大幅に変わって霧多布の西で海に注ぐようになった……と言うことでしょうか……?

「ホキシヤリベツ」は何処に

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

越而
     ホキシヤリベツ
川有。深し。船澗也。夷人小屋弐軒。此処秋味よく取る也。出稼多し。此上ニ沼有る也。此処より向の海中ニ小島二ツ有り
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
ん、「向の海中に小島二つ」とありますが、霧多布の東の沖合にあるのは「黒岩」と「帆掛岩」で、これらの岩については「アキラフ」(=アザロップ)の項で次のように記されています。

岩岬を廻りて陸の方ニ大岩二ツ有。又前ニ小岩島二ツ有。一ツをグヤ、一ツをヱタシベヱシヨと云り。汐満る時は皆隠るゝなり。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
となると「ホキシヤリベツ」の項に「向の海中に小島二つ」とあるのは「小島」と「嶮暮帰島」のことでしょうか。また「キヱタツフ」が「ホキシラリベツより凡七丁斗」とあり、これも「新川」の河口からの距離とほぼ一致します。……どうやら「東西蝦夷山川地理取調図」の「ホキシヤリヘツ」の位置(と描かれ方)が頓珍漢だった可能性が高そうですね。

改めて明治時代の地形図を眺めてみると、現在の「新川」の位置には既に「新川」と描かれていて、現在「霧多布大橋」のあるあたりに「ポ?ッキペ?ツ」とあります。そして「ポ?ッキペ?ツ」の横に河跡湖のようなものが描かれているので、海のすぐ横を南に向かって流れていた川を改修して、現在の「新川」に水を回した……ということかもしれません。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ホッキ貝の殻が積もっていたので」説

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

是より瀬戸を横切り乗切て、向岸に
     ホキシラリヘツ
是陸の岬とキイタツフの陸の砂さきと対して有る処なり。其処に一細流れ有。上に谷地有て椴の木立也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.554 より引用)
あー、やはり暮帰別は「霧多布の西」と見て間違い無さそうですね。「東西蝦夷──」があらぬ場所(榊町のあたり)に「ホキシヤリヘツ」と描いていたのに随分と騙されてしまいました。

まだ続きがありまして……

此辺ホツキと云貝多く、其殼簇々として一面の浜となり居るによつて、ホツキの殼が、シラリとは小石原也、其如く成りて有る川と云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.554 より引用)※ 原文ママ
うーむ、「ホッキ貝の殻が小石原のようになっている川」ですか……。確かに pok は「ホッキ貝」を意味しますが、「シラリとは小石原なり」というところに少々疑問が残ります(sirar は「岩」や「平磯」「岩盤」を指すとされるので)。

「刺螺」はどんな貝?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Poki shirari pet   ポキ シラリ ペッ   刺螺アル潮川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
「刺螺」をググると中国語版の Wikipedia のページが引っかかるのですが、学名 Guildfordia triumphans は「輪宝貝リンボウガイ」とのこと。どうやら「サザエ」の一種のようで、「ホッキ貝」(=ウバガイ)のことでは無さそうです。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 暮帰別(ぼきべつ)
 霧多布に入るところにある小川の名。永田氏は「ポキシラリペッ。剌螺アル潮川」と訳されている。剌螺とはポクでウバ貝のことかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)
あらら。見事に逆方向の結論が出てきましたね。確かに pok は「ホッキ貝」なのでそう考えるのが自然ですが、「剌螺」=「ホッキ貝」という結論はちょいと強引なのでは……。

ただ、更科さんは永田地名解の解釈を「肯きがたい点が多い」していて、次のように続けていました。

ポㇰシラルペッにしても「しもの岩川」ならまだうなずけるが、古い五万分図では、ポッキペッと記入されている。北寄貝の川などともいいたいが、北寄貝が川にいるはずがないし、単に下川と訳すべきか明らかでない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)
あー。「ホッキ貝」説は眉唾な予感がしていたのですが、更科さんも「おかしい」と考えていたみたいですね。

「しもての湿原川」?

永田地名解は「ポキシラリペッ」としていましたが、松浦武四郎は「ホキシヤリベツ」と記録していました。この「ホキシヤリベツ」は poki-sar-pet で「しもて・湿原・川」と解釈できそうに思えます。

現在の「新川」は霧多布湿原の真ん中やや海側を流れていますが、古い地図では「霧多布橋」の近くに河口らしきものが描かれていることから、かつてはもっと海に近いところを海外線に沿って流れていた可能性があります。このことから、霧多布湿原の最も海側(しもて)を流れる「湿原の川」と呼んだのでは……という想像です。

「沼の耳の川」?

大体こんなところかなぁ……と思ったのですが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(いわゆる「伊能大図」(1821) )には「トキサラベツ」と描かれていました(!)。これだったら意味するところは明瞭で、to-kisar-pet で「沼・耳・川」となります。

この to-kisar は「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも次のように立項されています。

tó-kisar, -a  とキサル 原義‘沼耳’;沼の奥が耳のように陸地に入りこんでいる部分。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.130 より引用)
この項目にはイラストが添えられているのですが、十勝は中川郡豊頃町の「湧洞沼」の to-kisar はここだよ、というものです。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この考え方をベースに「トキサラベツ」の「沼」と「耳」はどこにあるかと言われると、「沼」は巨大な霧多布湿原そのもので、「耳」は榊町の北西の「大津屋沢」あたりの湿地帯かなぁ、と。これはもちろん、現在の「新川」の流路からの再帰的な解釈ではあるのですが……。

to-kisar-pet という解は poki-sar-pet と比べて違和感が少ないという点で推せるのですが、「伊能図」以外はどれも「ホ──」もしくは「ポ──」と記録しているという点が厳しいでしょうか。ただ棄却するにはあまりに惜しい解でもあるので、今回は両論併記で……。

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