2023年6月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1042) 「赤泊・羨古丹」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

赤泊(あかどまり)

aka-tomari???
崖(岬)・泊地
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中仙鳳趾せんぽうじの西、羨古丹の南に位置する地名です。地理院地図で見た感じでは家屋が無さそうなのですが、幸いなことに地名としては健在のようです。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「トマリ」という地名が記録されていて、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「レツハモイ」という地名が描かれていました。明治時代の地形図には「アカトマリ」と描かれていますが、永田地名解 (1891) は「東西蝦夷──」に準拠した「レㇷ゚ パ モイ」という地名が記録されていました。

Rep pa moi   レㇷ゚ パ モイ   沖方ノ灣
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.356 より引用)
rep-pa-moy であれば「沖・かみて・湾」かな……と思いかけたのですが、rep-pa-moy は「三つ・頭(崎)・湾」なのでしょうね。地形を見ると、岬状の地形が三つ(四つかも?)あるように見えるので……。

明治時代の地形図には、松浦武四郎が記録し永田方正がちょいとズレた解を記録したんじゃないかと思しき「レッパモイ」という地名の代わりに「アカトマリ」と描かれているのですが、問題はこれをどう解釈するか……です。

答かもしれないものが「地名アイヌ語小辞典」(1956) にありました。

aka アか【K】魚体の腹線を pisoy, -e/-he 〔ピそィ〕,側腹線を chep-ikiri 〔チェぴキリ〕 [魚・の線] と云うに対し,背線を aka と云う。地形では尾根(山稜)をさす。北千島にもある語で崖又は岬をさすと(千島アイヌ49, 165)
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.5 より引用)※ 原文ママ
なんと、こんなに都合の良い語があったのですね(汗)。aka-tomari は「崖(岬)・泊地」と解釈できてしまいそうです。

かつての「レッパモイ」が「アカトマリ」になったのでは……との仮定も加味すると、「アカトマリ」を「崖(岬)・泊地」と解釈できるんじゃないか……と考えているのですが、明治以前には「アカトマリ」という地名の存在が確認でいていないため、和名の可能性も捨てきれないというのが正直なところです。

羨古丹(うらやこたん)

uray-ne-kotan?
梁・のような・集落
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中町貰人もうらいとの西に位置する地名で、同名の川も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ウラヤコタン」と描かれていますが、明治時代の地形図では「ウラコタン」と描かれています。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

下り而
     ウラヤコタン
番屋壱軒有。海岸暗礁多し。又ヲライ子とも云り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

其処巾百五六十間転太石浜、こゝを
     ウラヤコタン
と云。本名はヲライ子コタンなるなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.559 より引用)
どうやら「ヲライ子」あるいは「ヲライ子コタン」という別名?があったようですが、「午手控」(1858) には次のように記されていました。

ヲライ子コタン ウライを昔し立しと云
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.354 より引用)
uray は「やな」と見て良いと思われますが、現在は「羨古丹うらやこたん」で「ウライ」ではなく「ウラヤ」となっています。これは「羨ましい」という字に読みが引きずられたようにも見えますが、陸軍図を見てみるとカタカナで「ウラヤコタン」と記されているので、必ずしも「羨」の字のせいでも無さそうに見えます(そもそも松浦武四郎も「ウラヤコタン」と記録していますし)。

「ウライ」が「ウラヤ」に化けた?

「ウライ」が「ウラヤ」に化けた(かもしれない)問題について、更科源蔵さんは「アイヌ語地名解」(1982) にて次のように記していました。

 羨戸丹(うらやこたん)
 浜中海岸の部落。アイヌ語のウライ・ヤ・コタン(簗網の部落) で、もっばらここの小川に簗をかけるために、小屋がけをしたところであろう。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.273 より引用)※ 原文ママ
なるほど、uray-ya-kotan で「やな・網・集落」と考えたのですね。現在の地名は「羨丹」なので字がびみょうに異なりますが、これは誤植か、それとも「羨戸丹」と書く流儀もあったのか……?(数は多くないとは言え、ググるとそれなりの数がヒットします)

消えた「

ただ、他にも気になる点が……。松浦武四郎は「ウラヤコタン」と記録しつつ「ヲライ子」という別名があるとし、また「ヲライ子コタン」が「本名」だとしているのですね。「ウラヤコタン」と「ヲライ子コタン」は別名と考えるにはちょっと似すぎているようにも思えますし、「ヲライ子コタン」が転訛して「ウラヤコタン」と呼ばれるようになった可能性も考えたくなります。

となると「ヲライ子コタン」は uray-ne-kotan である可能性が出てきます。問題は -ne をどう解釈するか……なのですが、ここは素直に「やな・のような・集落」と考えたいところです。

やなのような集落」とは何じゃそりゃ……という話ですが、あるいは「梁のような川」かもしれません。羨古丹は東西を山に挟まれた集落で、海から見た場合、入り口はそれなりに広いものの遡るにつれてどんどん左右から山が迫ってくるように見えます。このことを「梁のような」と形容したのではないでしょうか。

もしかしたら

あと、「ウラヤコタン」の本名が「ヲライ子コタン」という話からは、もしかしたら元は o-rawne-nay? で「河口・深い・川」だったのが、いつの間にか uray-ne-nay? で「やな・のような・川」になった……という可能性も考えられるかもしれません。

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