2023年5月31日水曜日

石北本線途中まで各駅停車 (56) 「当麻」

牛朱別川を渡った先にも踏切があるのですが……
踏切の名前は「鈴木道路」とのこと。北海道では一家にひとつずつ「マイバス停」があることでも知られていますが、これは「マイ踏切」なんでしょうか……?

2023年5月30日火曜日

石北本線途中まで各駅停車 (55) 「桜岡」

上川行き 4529D は桜岡駅に向かって走行中です。左端にフレーム・インしたのは信号機関連の設備でしょうか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

桜岡駅の手前で踏切を通過します。

2023年5月29日月曜日

石北本線途中まで各駅停車 (54) 「北日ノ出」

上川行き 4529D は東旭川を出発して東に向かいます。旭川市内ですが、このあたりは畑が多いのですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

「北 6 丁目道路」踏切を横断します。線路の北側は畑が目立ちますが、実は南側は工業団地なんですよね。

2023年5月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1041) 「茶内・比理別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

茶内(ちゃない)

ichan
サケ・マスの産卵場
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中町には JR 根室本線(花咲線)の駅が三つありますが、「茶内」はその中で最も西に位置する駅です。のっけから余談ですが、浜中町役場のある霧多布から JR に乗車する場合、浜中駅ではなく茶内駅を利用するのがベストアンサーなんでしょうか……?

それはそうと、駅名ですよ駅名! ということでまずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  茶 内(ちゃない)
所在地 (釧路国)厚岸郡浜中町
開 駅 大正 8 年 11 月 25 日
起 源 アイヌ語の「イチャン・ナイ」(サケの産卵場のある川)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.156 より引用)
えっ。随分とシンプルな由来なんですね。また更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 茶内(ちゃない)
 根室本線駅名。厚岸郡浜中町字茶内。『駅名の起源』では「イチャン・ナイで、鮭の産卵場ある川によるもの」だとあるが、どの地図にもこの辺りにそれにあたる川がないのではっきりしない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.271 より引用)※ 原文ママ
そうなんですよね。ついでに言えば「初航蝦夷日誌」(1850) や「竹四郎廻浦日記」(1856) にもそれらしい記載を見つけられておらず、「永田地名解」(1891) もスルーしているように見えるのですが……。

ということで、山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) を見てみると……

茶内の名は旧記類で見たことがないが,明治 30 年 5 万分図では,今の茶内市街の辺は,ノコベリ川の上流で,イチャンと書いてある。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.255 より引用)
あ。確かにノコベリベツ川(風蓮川水系)とチライカリベツ川別寒辺牛川水系)の分水嶺のあたりに「イチャン」と描かれた地図がありますね(北海道地形図 (1896) )。

「魚の住処」は何処に

改めて松浦武四郎の著作に目を通してみると、「初航蝦夷日誌」には「ベカンベウシ」(=別寒辺牛川)と「ヲラウシベツ」(=オラウンベツ川)の間に「チヘハキ」という地名が記録されていました。

     チヘハキ
凡一りと思わる。小流有り。此間馬道よろし。両山平山にし而樹木多し。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.404 より引用)
また「竹四郎廻浦日記」にも次のように記されていました。

此辺より追々坂道に成、此辺より椴の木を見る。小き峠二三度こへて
     チペヘハケ
     ベカンベウシ
え着す。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.433 より引用)
この「チペヘハケ」は分水嶺を越えた先の地名?のようにも見えますが、chep-ewaki で「魚・住む所」と読めそうな気がします。ichan は「サケ・マスの産卵場」なので、似ているような、そうでも無いような……という感じですね。

ただ「初航蝦夷日誌」によると、「ベカンベウシ」から「ノコヘリベツ」までは馬で移動したらしく、JR 根室本線沿いではなく道道 813 号「上風連大別線」沿いを移動していたように見受けられます。距離の面では JR 沿いのほうが圧倒的に近くて楽に見えますが、チライカリベツ川沿いは湿原が広がっていて歩行が困難だったのかもしれません。

結局のところ、山田さんが「旧記類で見たことがない」としたのが正解っぽい感じですね。「茶内」は「イチャン」由来で、ichan は「サケ・マスの産卵場」と考えるしか無さそうです。

比理別(ひりべつ)

pir-pet???
傷・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2023年5月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1040) 「オラウンベツ川・秩父内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オラウンベツ川

o-ra-un-pet?
河口・低いところ・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ノコベリベツ川の西支流で、JR 根室本線(花咲線)茶内駅の 3.5 km ほど北でノコベリベツ川と合流しています。明治時代の地形図にも、現在と同じ位置に「オラウンペツ」と描かれていました。

この川については「初航蝦夷日誌」(1850) には「ヲラウシベツ」とあり、「竹四郎廻浦日記」(1856) には「ヲラウンヘツ」とあります。「辰手控」にも「ヲラウンヘツ」とあるのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) だけは何故か「ヲラウンナイ」と描かれています。

かつては厚岸からノコベリベツ川沿いに北に向かうのが根室に向かうメインルートだったようで、この川についても上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」(1824) に記載がありました。

ヲラウンベツとは深き川といふ事。此地深き渓間なる故、此名ある由。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.66 より引用)
「深い」を意味する rawne という語があるので、o-rawne-pet で「河口・深い・川」と読むことは一応可能なのですが、オラウンベツ川はかつて湿原だった野原の中を流れる川で、どう見ても「深く切り立った川」には見えません。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 オラウンベツ川 共栄方面から流れ出るノコベリベツ川の支流。川口に蔓のある川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.675 より引用)
「共栄」は道道 807 号「円朱別原野茶内線」の T 字路のあたりで、オラウンベツ川と道道 807 号の間に「共栄」という名前の四等三角点があります(標高 69.3 m)。1980 年代の土地利用図には「茶内原野」の中に「共栄」と描かれていますが、現在の地理院地図では見かけない地名?です。

「川口に蔓のある川」説ですが、確かに ra は「出始めの短い蔓」と解釈することが可能です。ただ ra は「低いところ」とも解釈できるので、o-ra-un-pet であれば「河口・低いところ・そこにある・川」とも読めそうに思えます。

あるいは o-rar-un-pet で「河口・潜る・そこにある・川」とも読めるか……と思ったのですが、「初航蝦夷日誌」には次のように記されていたので……

     ヲラウシベツ
小川有。橋有り。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.404 より引用)
小川に橋がかかっていたとなると、川が伏流していたとは考えづらいですよね。

オラウンベツ川の河口あたりは緩やかな丘陵地帯で、丘と丘の間の低いところを川が流れているので(それは当たり前なのでは)、o-ra-un-pet で「河口・低いところ・そこにある・川」と呼んだ……と言ったところでしょうか。

秩父内(ちちぶない)

人名(秩父宮)由来
(典拠あり)
「オラウンベツ川」の北西の道道 807 号「円朱別原野茶内線」沿いに位置する四等三角点(標高 58.7 m)の名前です。同名の川が三角点の 0.7 km ほど北を流れていて、1980 年代の土地利用図には「秩父内」という地名が描かれていました。ただ、地理院地図には「秩父内」という地名は見当たりません。

川名で「──内」となるとアイヌ語由来の可能性が高い……と思われるのですが、「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 秩父内(ちちぶない) 茶内から茶内原野に至る途中の畑作酪農地区。昭和 3 年秩父宮(ちちぶのみや)が来られたので。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.678 より引用)
は……!? え、えっ……?(動揺を隠せない) 念のため「浜中町史」も確認しましたが、1928(昭和 3)年に「秩父宮茶内開拓地ご視察」とあります。

気になりませんか?

ただ、「秩父宮が視察したので『秩父内』」というのが都合が良すぎるように思えるのと、Wikipedia の「浜中町営軌道」の記事にちょっと気になる点があり……

  • 1927 年(昭和 2 年)11 月 茶内線茶内駅 - 奥茶内(後の若松)間、円朱別線秩父内 - 円朱別(後の下茶内)間開業
(Wikipedia 日本語版「浜中町営軌道」より引用)
ほら、気になりますよね? 秩父宮が視察に訪れたのは 1928(昭和 3)年ですが、殖民軌道(=後の浜中町営軌道)が開通したのは一年前の 1927(昭和 2)年で、この文章を見る限りでは 1927(昭和 2)年に「秩父内駅」が開業したように見えるのです。

更に深読みするならば、もともと「秩父内」と呼ばれた地区があり、そこに殖民軌道を通してますますの発展が期待されるので、名前の似た「秩父宮」に見てもらおう……という話だったりしないかな、と。

当初「秩父内駅」は無かった

ということで、国立国会図書館デジタルコレクションで「浜中町史」(1975) を調べると、「オランベを秩父内の地名に改めた」との記述が(p.675)。まぁ、これはそれほど驚くことではありません。旧地名が「オランベ」というのは初耳ですが、これは「オラウンベツ」由来ですよね。

更に検索してみたところ、1935(昭和 10)年の「殖民事業概要」という資料があり、その中に「殖民軌道運輸成績」というページがありました(p.108-109)。

1927(昭和 2 )年に開通した殖民軌道は「茶内~奥茶内」の「茶内線」と「秩父内~円朱別(後の下茶内)」の「円朱別線」の二路線なのですが、「殖民軌道運輸成績」には「昭和二年度」と「昭和三年度」の表に「圓朱別線 中茶内・圓朱別間」とあり、昭和四年度以降は「圓朱別線 秩父内・圓朱別間」とあります。

……完敗です。どうやら殖民軌道の「中茶内駅」が昭和三年から四年の間に「秩父内駅」に改名された、と考えるしか無さそうです。どうして「秩父内」という、いかにもアイヌ語由来っぽい地名を「創作」したのかは謎ですが、元々「中茶内」という駅名だった(と思われる)ので、頭の二文字を差し替えればちょうどいい……という判断だったりして……(汗)。

そもそも「宮様のお名前」を拝借するのは畏れ多かったんじゃないか……という想像もあったのですが、「秩父ちちぶ」であれば地名ですし、現に「秩父別ちっぷべつ」という地名もある位なので問題ない……という判断だったのかもしれません。

Wikipedia によると、殖民軌道の終点だった「奥茶内」駅は後に「若松」駅に改称されたとあります。「若松」は他ならぬ秩父宮(雍仁親王)の徽章で、なるほどこれも秩父宮由来か……? と思ったのですが、「北海道地名誌」によると「開拓者菊池若松の名をとったもの」とのこと。見事に全身の力が抜けました……。

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2023年5月26日金曜日

石北本線途中まで各駅停車 (53) 「東旭川」

上川行き 4529D は南永山を出発して、牛朱別川を渡ります。上流部からの水は永山新川を経由するようになったので水量は少なくなった筈ですが、倉沼川を始めとする支流の水は引き続き(旧来の)牛朱別川を流れています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

石北本線の北側は牛朱別川の手前あたりから農地が目立ってきました。そして今回も突然フレームインする謎の「2」……。

2023年5月25日木曜日

石北本線途中まで各駅停車 (52) 「南永山」

上川行き 4529D は緩やかな右カーブで宗谷本線から離れて東南東に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

緑と赤と青がペイントされている倉庫らしき建物が見えます。「火気厳禁」の文字も見えますが、どうやら塗料屋さんの倉庫みたいですね。三色のペイントがされているのは三棟ある倉庫のうち一棟だけですが、どういった理由が……?

2023年5月24日水曜日

石北本線途中まで各駅停車 (51) 「旭川四条・新旭川」

上川行き 4529D は定刻通りに旭川を出発しました。相変わらずいい天気ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

前年(2016 年)に引き続き、2017 年も雪捨て場(だと思う)に雪が残っていました。除雪した雪を大量に溜め込んで夏場まで保存できたら良さそうなものですが……

2023年5月23日火曜日

石北本線途中まで各駅停車 (50) 「上川行き 4529D」

旭川駅のホーム上屋を眺めます。巨大な屋根に覆われているにもかかわらず圧迫感があまり無いのは天井が高いからかと思ったのですが、上から日光が差し込んでいることも大きいのかもしれません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

そして上屋を支える柱の下には何故かカバンが。これ、運転士さんのカバンですよね……?

2023年5月22日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (49) 「旭川・その2」

旭川駅の 6 番のりばから、エスカレーターを降りて 2F の通路にやってきました。改札とホームの間は三層構造になっていて、ホーム間の行き来は 2F 経由で行えるようになっています(1F まで戻る必要はありません)。
そう言えば「6 番線 発車時刻」には 4530D 改め「回送」が見当たりませんが、もう出発してしまったのか、それとも元々表示されない仕様なのか……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

うっかり「西改札口」へ

旭川駅には「東改札口」と「西改札口」がありますが、2F の通路は中央部にあるのみなので、どちらの改札口に向かうにも少し歩くことになります。

2023年5月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1039) 「ノコベリベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ノコベリベツ川

nok-o-poro-pet??
卵・多くある・大きな・川
not-ka-{pe-ru}-un-pet??
岬・のかみて・{泉}・ある・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年5月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1038) 「熊牛・円朱別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

熊牛(くまうし)

kuma-us-i?
魚乾棚・ある・もの(川)
kuma-us-i?
横山・ついている・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
姉別川の上流部、浜中駅の北あたりに位置する地名です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には現在の「左支姉別川」(姉別川の北支流で、アイヌの流儀で言えば *右* 支流)の南支流として「クマウシ」という川が描かれていますが、明治時代の地形図には姉別川の南支流として「クマウシ」が描かれています。位置に異同こそあれ、川の名前として認識されていたと見て良さそうです。

「熊牛」という地名は十勝の清水町南弟子屈にもあるのですが、どちらも kuma-us-i だと考えられます。

ほかに「熊碓」や「熊臼」なども含めると、道内のあちこちにあると言えそうですね。あ、「熊石」もそうだったかも。

「魚乾棚」か「横山」か

ただ地名における kuma は二通りの解釈が成り立ちそうな感じです。知里さんの「──小辞典」によると……。

kuma  クま ①両方に柱を立ててその上に横棒を渡し,それに肉をかけて乾す施設;肉乾棚。②横山。この語はクワ(杖)と同じく本来は棒の意味であった。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.53 より引用)
要は「肉乾棚(魚乾棚)」を指す場合と、「肉乾棚(魚乾棚)のような山」を指す(比喩表現)場合があるとのこと。個人的には(地名においては)比喩表現だったケースもそれなりに多そうな印象があるのですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

       アネペツ右支
Kuma ushi   クマ ウシ   魚棚アル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.372 より引用)
また「北海道地名誌」(1975) にも次のように記されていました。

 熊牛原野(くまうしげんや)浜中市街北方の広い畑作酪農地区。アイヌ語「クマ・ウㇱ」は,魚を乾す竿の多いことで豊漁の意味。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.678 より引用)
うー。ここまでズバっと言い切られてしまっては逃げ道が無いですね。明治時代に「クマウシ」と呼ばれた川は、国道 44 号が「熊牛橋」で渡っている川で、現在の名前は「横山川」とのこと。え゛っ!

よりによって「横山川」

「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも kuma には「魚乾棚」という意味と、そこから転じて「横山」という意味がある……とありました。「魚乾棚」でほぼ決まりか……と思われたのですが、よりによって川の名前が意訳の可能性があるということに……。

kuma-us-i は「魚乾棚・ある・もの(川)」と考えられますが、kuma-us-i で「横山・ついている・もの(川)」の可能性も捨てられなくなってしまいました。

国道 44 号沿いは目立った山らしい山も無く、ずっと台地が続くような印象がありますが、熊牛川の上流部は台地を深く刻み込んでいるようにも見えます。これを「横山」と呼んだ……という可能性もありそうですが、単に「横山さん」が入植・開拓した可能性もあるので……。

円朱別(えんしゅべつ)

{kom-ni}-us-pet
{柏の木}・多くある・川
(記録あり、類型あり)

2023年5月19日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (48) 「旭川」

旭川四条と旭川の間の長い右カーブを進みます。左手にコメリパワーが見えてきましたが、このあたりはかつて「旭川運転所」(車輌基地)だったみたいですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

優美な形のアーチ橋は「新神楽橋」でしょうか。端に向かって伸びているように見える(実は直接つながっていないのですが)通りは「新成橋通」とのこと。

2023年5月18日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (47) 「旭川四条」

牛朱別うしゅべつ川を渡ります。支流が合流していますが、この支流は「基北川」だそうです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

牛朱別川を渡ってからは高架区間に入ります。このあたりは 1973 年に高架化されたとのこと。なかなか先進的ですよね。

2023年5月17日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (46) 「南永山・新旭川」

東旭川を出発した 4530D が牛朱別川を渡ると、農地がほとんど見えなくなりました。完全に旭川の市街地に取り込まれた感じでしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

南永山駅(A31)

南永山駅に到着しました。「1」と「2」の停止位置標識(だと思う)が見えますが、上空から見た感じでは、ホームの有効長は 4 両分でしょうか……?

2023年5月16日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (45) 「東旭川」

旭川行き 4530D が北日ノ出駅を通過してから 3 分ほどで、信号機と速度標識らしきものが見えてきました。これは 45 km/h 制限でしょうか……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

踏切(第 2 鷹栖神楽線踏切)を渡ると……

2023年5月15日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (44) 「桜岡・北日ノ出」

牛朱別うしゅべつ川を渡ります。明らかに新しそうな、無骨なデザインの鉄橋です。牛朱別川は永山新川の開削によって流路を大きく変えていますが、永山新川の「供用開始」はなんと 2002 年とのこと(!)。工事そのものは 1987 年(昭和 62 年)に始まっているとは言え、平成生まれの川だったんですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

石北本線が通るあたりは新川では無く旧来の牛朱別川を整備した区間ですが、旧来の流路と比べると……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在の流路は 100 m 近く北寄りに移動している……ようにも見えます。


厳密には「移動」と言うよりは「拡幅」かもしれませんが、これまで川ではなかった場所が川になってしまったので、石北本線も鉄橋を新調する必要があった……ということになりますね。ただ航空写真で見る限りでは、石北本線は鉄橋の架替で迂回を強いられたりはしていないっぽいので、仮橋を架設した上で新しい橋を架け直した……ということでしょうか。

地図・空中写真閲覧サービスで確認した感じでは、2002 年に永山新川が開削された時点では石北本線の鉄橋は旧来のままで、その後 2008 年の写真では現在の位置に鉄橋があるように見えます。残念ながら仮設橋(存在したのであれば)らしき写真は見つけられませんでした。

桜岡駅(A34)

牛朱別川を渡ると、すぐに桜岡駅に到着です。

2023年5月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1037) 「姉別・恩根別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

姉別(あねべつ)

ane-pet
細い・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中町東部の地名で、同名の駅もあります。もともとは駅から 4 km ほど北を流れる川の名前ですが……まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  姉 別(あねべつ)
所在地 (釧路国)厚岸郡浜中町
開 駅 大正8年11月25日 (客)
起 源 アイヌ語の「アネ・ペッ」(細い川) から出たもので、駅の北方 4 km ほどのところを、湿地の水を集めて東に流れ、風蓮川に合する小川の名である。昭和48年2月5日旅客駅となる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.156 より引用)
あ……。「北方 4 km ほど」と書いてありましたね……(かぶった)。この川については、永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

      フーレペツ東支
Ane pet   アネ ペッ   細川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.371 より引用)
明治時代の地形図にも「ア子ペツ」と描かれているのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には河口部(フウレンヘツに合流するところ)に「アン子ヘツフト」と描かれていました。「フト」は putu で「河口」を意味するので、「アン子ヘツフト」は「アン子ヘツの河口」ということになります。

ただ、不思議なことに「初航蝦夷日誌」(1850) や「竹四郎廻浦日記」(1856) などの松浦武四郎の記録には「アヌンヘツ」とあり、「午手控」(1858) には次のように記されていました。

アヌンヘツ
 むかし土人が行て鷲を取りしと云よし
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.369 より引用)
どうやら an-un-pet で「鷲取小屋・ある・川」と解釈したようです。ところが永田方正が ane-pet で「細い・川」だ!と新解釈を打ち出して、それが広く受け容れられて現在に至る……んじゃないかと思ってました、実は。

ところが、これは山田秀三さんも指摘していたのですが、上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」に次のように記されていました。

扨、ア子ベツとは、則、細き川といふ事にて、此川幅至狭きゆへ此名ある由。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.66 より引用)
更に、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 蝦夷地名表」にも「アン子ベツ」と記されていました。どうやら松浦武四郎の an-un-pet という記録は少数派だったらしく、ane-pet も永田方正のオリジナルでは無かったっぽいので、これは……やはり素直に ane-pet で「細い・川」と見るべきなのでしょうね。

恩根別(おんねべつ)

onne-kitchi??
大きな・舟型の食器
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年5月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1036) 「貰人・仙鳳趾」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

貰人(もうらいと)

moyre-atuy
静かである・海
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浜中恵茶人の西隣の地名で、同名の川(貰人川)も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「モエレマートコ」と描かれていて、明治時代の地形図には「ポンモイレモイ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

過てしばし行
     モエーレアトイ
本名モイレアトイ、此処え下る。惣てレツハモイより此処迄は海岸通り難きより、如此皆小道を来ることなりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.559-560 より引用)
「レツハモイ」はおそらく赤泊のあたりで、現在の道道 142 号「根室浜中釧路線」も海沿いを離れて内陸部を通っています。

地名モイレは遅き、アトイは汐路を来ることなりと。汐の通るが遅きと云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)
うーん。atuy は単純に「」と解するのが一般的だと思うので、moyre-atuy だと「流れの遅い・海」か、あるいは「静かである・海」と考えて良さそうに思えます。

「東西蝦夷──」の「モエレマートコ」は(誤字では無いとすれば)moyre-ma-etoko で「静かな・澗・その奥」とかでしょうか。「ポンモイレモイ」は pon-moyre-moy で「小さな・静かな・入江」と読めそうな感じです。

仙鳳趾(せんぽうじ)

chep-pop-us-i?
魚・沸き立つ・そうである・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年5月12日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (43) 「将軍山・当麻」

旭川行き 4530D は伊香牛を出発しました。ずっと進行方向右側に陣取っていたのですが、日差しがマトモに差し込むようになってきたので、左側に移動することにしました。そう言えば次の駅は「将軍山」ですが、大変残念なことに 4530D は将軍山を通過してしまいます。

将軍山駅(A36・2021/3/13 廃止)

ここに来て突然座席位置を変えたのは、なんとなーく将軍山しょうぐんざん駅は進行方向左側にあるんじゃないかなーという予感がしたというのもあったのですが、
誰ですか「左側にありそう」なんて思ったのは。結局、進行方向 *右側* にあった将軍山駅の撮影に見事に失敗してしまったのでした(ちーん)。Bojan 先生の次回作にご期待ください!

【ご期待ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

将軍山駅から 3.5 km ほどで、次の当麻駅に到着です。駅の手前には「当麻町森林組合製材工場」があります。

2023年5月11日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (42) 「伊香牛」

石北本線は旭川紋別自動車道の下を通過します。旭川紋別道の「愛別大橋」は完成 4 車線で整備済みということもあり、なかなかの威容ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

おやっ、この「24」は……と思ったのですが、良く考えると新旭川から愛別までが 25.9 km らしいので、これは「24 キロポスト」ということでしょうか。

2023年5月10日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (41) 「愛別」

中愛別を出発すると、再び石狩川を渡って南岸に移ります。石北本線が石狩川を渡るのは三度目で、これが最後ということになりますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

愛別の市街地に入りました。愛別の市街地は石狩川で南北に二分されているのですが、国道が通る北側には町役場などがあり、駅のある南側は……やや小ぶりでしょうか。

2023年5月9日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (40) 「中愛別」

石狩川を渡ります。石北本線は上川と東雲(廃止済み)の間で石狩川の南岸に移動した後、ここで再び石狩川の北岸に戻ることになるのですが、石狩川南岸には「石垣山」が聳えていて線路を通す余地が無かった……ということのようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 5 月時点のものです。

かつての主要道路

石狩川を渡ると、道道 640 号「中愛別上川線」が近づいてきました。

2023年5月8日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (39) 「愛山」

旭川行き 4530D は安足間あんたろまを出発しました。右側に旭川紋別自動車道が近づいてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

旭川紋別道の下をくぐり抜けて、愛山上川 IC の近くを通り過ぎると、今度は町道らしき道が見えてきました。

2023年5月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1035) 「恵茶人」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

恵茶人(えさしと)

e-sa-us-to?
頭・浜・つけている・沼
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市との境界であるヲワツタラウシのあたりから道道 142 号「根室浜中釧路線」を 7 km ほど西に向かったところに「恵茶人沼」という沼があります。この沼(おそらく海跡湖)の流出部には「オキト橋」という橋が架かっているのですが、これもアイヌ語由来っぽい雰囲気がありますね。

o-kito-us-nay であれば「河口・行者にんにく・多くある・川」ですし、あるいは置戸町と同様に o-keto-un-nay で「河口・獣皮の張り枠・ある・川」あたりの可能性もありそうな。「オキト橋」の東には「カネサント橋」もあるのですが、これは「上方にある・棚・沼」あたりの可能性もあるでしょうか。別海の「茨散沼」との共通点もあるかもしれません。

本題に戻って「恵茶人」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「エシヤシレエト」という岬が描かれていました。明治時代の地形図には岬の近くに「エサシト」とあり、「恵茶人沼」の位置には「イチヤシュトー」と描かれていました。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。前後関係を把握しておきたいので、ちょいと長い目に引用します。

     チフヲンヘ
当時誤りてチホムイと云り。小流有。越而
     ウシヽベツ
小川有。鮭上るよしなり。越而
     ヱチヤンシト
此間凡壱りもあるよし也。しばし行
     チツチセホウシナイ
又此処訛りてモイレアトヱとも云り。漁小屋有。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
明治時代の地形図に拠ると、「チフヲンヘ」改め?「チプモイ」は現在の「二ッ岩」の北西に位置していたようです。また「チツチセホウシナイ」は現在の「貰人もうらいと」だと見られるのですが、「チフヲンヘ」と「チツチセホウシナイ」の間に存在する筈の「ウシヽベツ」の位置が不明です(地理院地図に描かれているだけでも 6 つの河川があるので、その中のどれかだと思われるのですが)。

続いて戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」を……と思ったのですが、今回も表を作ってみましょうか。

東西蝦夷
山川地理取調図
初航蝦夷日誌戊午日誌
「東部能都之也布誌」
明治時代の
地形図
現在の地名
モエレマートコチツチセホウシナイモエーレアトイポンモイレモイ貰人
---カ子パコ-
エチヤシレエトエチヤンシト?-エサシト恵茶人
-エチヤンシト?エチヤシトウイチヤシュトー恵茶人沼
--小川二ツ--
-ウシヽベツウシヽベツ--
チフラムイチフヲンヘチフラムイチプモイ-

問題点がシャキっと見えてきましたね(表ってすげぇ)。「初航蝦夷日誌」に「ヱチヤンシト」とあるものが「東西蝦夷──」の「エシヤシレエト」と同じ「岬」のことなのか、それとも戊午日誌「東部能都之也布誌」にある「エチヤシトウ」(おそらく「沼」)のことなのか、ちょっと不明瞭になってきました。

念のため戊午日誌「東部能都之也布誌」の当該部分を引用しておきますと……

しばしにて下り
     エチヤシトウ
砂浜の間に小川有。是よりチフラムイの岬まで凡一里計も砂浜にて平地、至極よろしき足場也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)
「砂浜の間に小川有」「チフラムイまで凡そ一里ばかり砂浜にて平地」とあるので、これは高台の岬のことではなく「恵茶人沼」のことと考えるべきですよね。

ちなみに「東部能都之也布誌」には続きがありまして……

往昔土人村有りしと。其時熊を祭り送るに、此浜を走らせし由、よつて号ると。チヤシは走らする事を云なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)※ 原文ママ
「チヤシは走らせることを言う」とありますが、確かに chas あるいは pas で「走る」を意味するようです。この珍妙な解は永田地名解 (1891) にも受け継がれていました。

Ichash tō   イチャシュ トー   走リ沼 往時アイヌ熊ヲ走ラシタルニヨリ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.357 より引用)
一方で、この解について更科源蔵さんは次のように批判していました。

熊走る沼とはどう考えてもうなずけない。エサシまたはエサウシで山が海岸にせり出しているところ(頭を浜につけている)と思うが、トはやはり海と解すぺきかとも思うが、近くに小沼がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.273 より引用)
e-sa-us-to で「頭・浜・つけている・沼」ではないかとのこと。この解の都合の良いところは岬(エシヤシレエト)にも沼(エチヤシトウ)にも応用可能なところで、e-sa-us-{sir-etu} だと「頭・浜・つけている・{岬}」となります。

また、これまた都合の良いことに、恵茶人沼の真ん中には鼻のような地形がせり出しているので、この地形を「頭を浜につけている」と呼んだ……とも考えられます。

「恵茶人」は「沼」か「岬」か

「恵茶人」が「岬」に由来するのか、それとも「沼(の中の地形)」に由来するのかについては決め手がないという印象ですが、たまたま似た地名が続いた……という都合の良い解釈も不可能でないかな……と思ったりもします。

また、「恵茶人沼」については i-cha-us-to で「アレ・摘む・いつもする・沼」という可能性もゼロではないかな……と思ったりもします。ここで言う「アレ」は「菱の実」のことで、豊頃町にある「育素多いくそだ」と同類の地名なんじゃないか……という想像です。

「菱の実を採る」ことを i-uk ではなく i-cha と言うかという大きな難点があるのですが、明治時代の地形図で「エサシト」と「イチャシュトー」のように表記が割れていたことの説明がついてしまうんですよね(まぁ、それにしては似すぎているという問題もあるのですが)。

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2023年5月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1034) 「和田牛川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

和田牛川(わだうし──)

o-watara-us-i
河口・海中の岩・ある・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
初田牛川」の西隣を流れる川で、根室市と浜中町の境界を流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲワタラウシ」という名前の川が描かれています。「和田牛川」と「初田牛川」の規模は大差ない筈ですが、古い記録では「和田牛川」のほうに重点を置かれているケースが多いのはちょっと不思議ですね。

地理院地図には河口から 150 m ほど遡ったところ(根室市側)に複数の家屋が描かれていて「ヲワツタラウシ」と記されています。1980 年代の土地利用図には根室市に「オワッタラウシ」とありますが、浜中町にも 2005 年まで「大字後静村字ヲワッタラウシ」が存在したとのこと(現在は「浜中町恵茶人えさしと」)。

「立岩のあるところ」説

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ヲワタラウシ
番屋有。夷人小屋有。二軒。此処雑魚多きよし。又海参、海草多しと。一宿しける。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
前述の通り、地理院地図には現在の和田牛川の河口付近にも二軒の家屋が描かれているのですが、これはまぁ……偶然ですよね。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

下るや
     ヲワタラウシ
是も前に似たる如き小湾にて、両岸峨々たる出岬。ヲワタラは立岩磯と云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)
「ヲワタラは立岩磯」とありますが、o-watara-us-i で「河口・海中の岩・ある・もの(川)」と読めそうでしょうか。

ワタラ? ハッタラ? それともワッタラ?

ちょっとややこしいのが花咲港の東にも「オワッタラウシ」が存在し、こちらは o-hattar-us-i で「河口・淵・ついている・もの(川)」ではないかとされる点です。

「地名アイヌ語小辞典」(1956) を見てみると……

watara ワたラ 【ビホロ; シャリ】 海中の岩。
wattar, -i わッタㇽ 【クシロ;キタミ】淵。(=hattar)
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.143 より引用)
hattar(淵)と watara だけでもややこしいのに、hattarwattar と発音されることもあったのですね。

更にややこしいことに、山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

 初田牛川 はったうしがわ
 和田牛川 わったらうしがわ
 根室市と釧路国浜中町の境を和田牛川が流れていて,そのすぐ東(根室市)側を初田牛川が並流してる。明治のころはその川口に近い処に初田牛駅(駅逓所)があった。現在の根室本線初田牛駅はこの二つの小川の水原の丘陵上である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.245 より引用)
「和田牛川」の「わだうし──」という読みは地理院地図で確かめたのですが、「わったらうし──」という読み方もあったのですね。「北海道の地名」も元を辿れば結構昔の本なので、現在では廃れてしまった読み方が堂々と書いてあることがあるので要注意です。

「わったらうし」という読みからは、watara-us-i よりも wattar-us-i のほうが近いのでは……と思われますが、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

前者は川口に立岩があり、後者は川口が渕となっており、両者とも現地と合っている解をしているが、古くからいわれている「海中の岩説」を採りたい。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.356 より引用)
そうですね。同感です。「和田牛川」が o-watara-us-io-hattar-us-i という二通りの解釈ができてしまう件は、お隣の「初田牛(川)」が hattar-us-i と読めてしまうこともあり、余計に話がややこしくなっている感があります。

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2023年5月5日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (148) 虻川(潟上市) (1878/7/27)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

酒醸造業の繁栄

数日ぶりに移動を再開したイザベラでしたが、体調不良のため 20 km ほど北の虻川(潟上市)で一泊することになってしまいました。例によって群衆の好奇の目に晒されながら夜を過ごすことになり……

 朝早く、同じ憂鬱な顔をした群集が現われた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)
いやぁ、群衆の皆さんもマメですねぇ……(汗)。

暗い小雨はものすごい大雨となり、十六時間も続いた。この日の旅行で見たものは、低い山と広々とした水田の谷間、ひどい道路と美しい村々、多くの藍草で、通行人はほとんどいなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)
天候不順のために久保田(秋田)の出発を数日遅らせたイザベラでしたが、夏の大気は不安定ということなのか、結局大雨に降られてしまったようです。ただ、面白いことに「美しい村々」を見た、とありますね。

人々は水田で二番目の草とりをしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)
「二番目の草とり」とは何だろう……という疑問が湧くのですが、とりあえず原文は次のようになっていました。

people are puddling the rice a second time to kill the weeds,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに「二度目の草とり」ですね……(ぉ)。

盛岡や他のいくつかのこの地方の村々で気がついたことは、大きくて高くしっかり造られた家が、士手で囲まれ、金持ちの家らしく見えるときには、その家はかならず酒を醸造するところであるということである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280-281 より引用)
あれ? イザベラは今回の旅では盛岡に立ち寄っていない筈ですが……。原文では次のようになっているので……

At Morioka and several other villages in this region
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
当然ながら、この "Morioka" は「盛岡」とは限らないわけです。この "Morioka" は横手市西部(旧・平鹿ひらか大雄たいゆう村)の森岡地区(通称?)のことではないか……という説もあるようですが、イザベラは横手の北にある仙北郡美郷町でお葬式に出ていた筈なので、旧・大雄村のあたりを通ったとは考えづらいんですよね。

JR 奥羽本線の鹿渡駅(山本郡三種町)の北隣に「森岳駅」という駅があるのですが、かつてこのあたりに「森岡村」が存在していたそうです(「森岡村」の成立は 1889 年ですが、「森岡」という地名はそれ以前から存在していたとのこと)。

何故か駅名は「森岳もりたけ」になってしまったのですが、これは日本鉄道(当時)の「盛岡駅」との混同を避けるためだそうで、つまり「森岳」も「もりおか」と読んでいた……ということになりますね。そして後の訳者は案の定 Morioka を「盛岡」と誤訳してしまった……というオチだったようです。

ということで、本題に戻りましょうか。

看板を見ると、酒を売るばかりでなく、酒を造っていることが分かる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
ふむ。いわゆる「造り酒屋」のことですね。

酒屋の看板には多くの種類があって、長年使い古した樅のうす汚い小枝から、常に新しく取りかえられる元気のよい松の枝までいろいろある。英国で、昔、酒屋の看板であったのは同じように蔦の枝であったのもおもしろい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.281 より引用)
この指摘については「ほほう」という感想しか持ち合わせないのですが、この相似には何らかのロジックがあるのか、それとも単なる偶然なのか。何らかのロジックが働いていたと考えるほうが面白そうですが、果たして……?

日本への酒の伝来

ここからは、「日本奥地紀行」の「普及版」ではバッサリとカットされた内容です。

 私は、当地では、とにかくサケの話をさけて通るわけにはいきません。日本において、サケは英国人がビールなしでいられないという以上のことで、特別な場合に定められた量の酒を飲むことはこの帝国の伝統的礼儀の一部なのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
そう言えば、結婚式でも花嫁が飲みまくるシーンがありましたよね……(参考)。「帝国の伝統的礼儀」という表現はちょっと笑えますが、確かにそうなのかもしれません。

酒造業は低温が要求されるため、11月の初めから、2月の末までのみがそれを造る時期にあたり、今は閑散期です。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
ほほう、そうなのですね。日本酒のイロハをイザベラに教えてもらうというのは、ちょっとシュールな話ですが……(汗)。

 酒は 2600 年間にわたって造られ続けてきたと言われており、紀元 400 年に、二人の酒造り(杜氏)が中国から渡来し、改善された中国の製造法が導入されましたが、それはほんのわずかの量が家庭内で造られるだけでしたが、わずか 300 年後には、最高の酒の生産地である大阪に大規模に供給する酒造業が設立されるまでになっていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.108 より引用)
2,600 年前と言えば弥生時代ですが、神武天皇が即位したとされる時期に近いのは偶然なのか、それとも……? 

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2023年5月4日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (147) 土崎港(秋田市)~虻川(潟上市) (1878/7/26)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

港の可能性

北に向かって出発した筈が、何故か「土崎神明社例祭」で女性の首が切られるのをエンジョイしていたイザベラですが、ようやく……今度こそ本当に出発したようです。

 私たちはおとなしい性質の馬に乗って出発した。山形県のあの獰猛どうもうな奴とは全くちがった馬だった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278-279 より引用)
「山形県のあの獰猛な奴」とは……。これまでイザベラは何度も馬では苦労していたので、馬に関するエピソードには事欠かないのですが、もしかすると東置賜郡川西町での出来事でしょうか。気になった人は「「日本奥地紀行」を読む (101) 小松(川西町)~洲島(川西町) (1878/7/14)」をチェックです!

ミナトから鹿渡カドまでの間の左手に、非常に大きな潟がある。約一七マイルの長さで、幅は一六マイルである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278-279 より引用)
「鹿渡」は現在の山本郡三種ちょう、かつては山本郡琴丘まちだったところで、JR 奥羽本線に「鹿渡駅」があります。「左手の非常に大きな潟」は、かつては日本で二番目に大きな湖だった八郎潟のことです。「約 17 マイル」が南北の長さだとすれば概ね正しいですが、幅が「16 マイル」というのはちょっと認識違いがありそうです(珍しい……?)。

八郎潟は、狭い水路で海と連絡し、真山シンザン本山ホンザンと呼ばれる二つの高い丘に守られている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
この「真山」と「本山」がどの山を指しているのか、しばらく理解できなかったのですが、どちらも男鹿半島(海の近く)に現存するんですね。真山・本山と八郎潟の間は 17 km ほど離れていて、間にある「寒風山」のほうが有名な気もするんですが……。

現在、二人のオランダ人技師が一雇われていて、潟の能力について報告する仕事に従事している。もし莫大な費用をかけずに水の出口を深くすることができるならば、北西日本できわめて必要としている港をつくることができるであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
おっ、そんな話があったのですね。八郎潟は「食糧増産」に目が眩んで派手に干拓してしまいましたが、逆に掘り下げて港湾にしようという話があったのは知りませんでした。まぁ、簡単に掘り下げることができるなら苦労はしないという話もありますが……。

道路に沿って、広々とした水田や多くの村々がある。この街道は、深い砂と、大分ねじり曲がった古い松の並木道である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
そう言えば、江戸時代の街道には松の並木が付きもの……というステレオタイプな認識があるんですが、何故松なのか、そして最近はあまり見かけないのはどうしてなんでしょう?

この松並木の下を、何百人という人々が、馬に乗り、あるいは歩いて、すべての村々からミナトにぞろぞろ向かっていた。誰もが、四日も続いた雨の後のすばらしい日光を浴びながら嬉しそうであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
ん……? この「ミナト」は土崎港(秋田港)のことでしょうか? あ、これはイザベラの進行方向とは逆に、という意味なんですかね。であれば「土崎神明社例祭」に向かっていたということになります。

両側に荷籠がさげてあり、どちらにも二人のまじめで品のいい顔をした子どもが乗っている。ときには荷鞍の上に父親か、あるいは五番目の子が乗っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
鞍の両側に荷籠を下げて、荷籠の中にはちょこんと子供が収まっている……ということですね。4 人の子供、あるいはその親と荷籠に入り切らない子供を乗せて歩くとは、馬って随分とタフなんだなぁ……と感心してしまいますが、そういや馬ってタフでしたよね(何を今更)。

 私はとても気分がよくなかったので、虻川というみすぼらしい村で一泊せざるをえなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
この「虻川」ですが、どうやら現在の潟上市飯田川下虻川(以前の南秋田郡飯田川まち)みたいですね。久保田(秋田市)からは 20 km ちょいの距離なので、のんびり歩いたとして 5~6 時間ほどでしょうか。あまり距離を稼げなかった印象がありますが、気分がすぐれなかったのであれば仕方がないでしょうか。あ、もしかして:雅楽のせい?

屋根裏の部屋で、蚤が多かった。米飯はとても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんは、私と同じ畳の上に一時間も坐っていたが、ひどい皮膚病にかかっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)
やはり都会(久保田)から少し離れただけで、衛生レベルがガタっと落ちるんですね……。

このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、虻川村は古ぼけた倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜めになったはりは道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279-280 より引用)
「梁」は本来水平に架してあるものなので、それが斜めになっているとするとかなりヤバい状態ですね……。このあたりは生活が相当厳しかったことを伺わせます。

村の鍛冶屋

体調不良により虻川(潟上市)での一泊を余儀なくされたイザベラでしたが、宿の向かいに鍛冶屋があり、その仕事ぶりを眺めていました。

 向かい側には村の鍛冶屋があったが、その主人は堂々たる体謳の持ち主でもなく、私たちが子どものころタッテンホール(著者の育った英国チェシヤ州の村)の鍛冶屋で楽しく見ていたあのすばらしい火花の散るところは見られなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの警句がありますが、この日のイザベラは「鍛冶屋をのぞく時、村人はこちらをのぞいているのだ」状態だったようです。

私の家の前には裸同様の姿をした村中の人々が口を開けたまま黙ってじっと見つめながら一晩中立っていたけれども、私は縁側から鍛冶屋の光景に見とれていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.280 より引用)

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2023年5月3日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (146) 土崎港(秋田市) (1878/7/26)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

祭りの山車

数日ほど久保田(秋田)に滞在したイザベラは、ようやく北に向かって進み始めた……筈だったのですが、この日は「土崎神明社例祭」の日(おそらくクライマックスの日か、その直前)で、街道に群衆が押し寄せてイザベラ一行は身動きが取れなくなり……

 私たちはもっとも混雑しているところへ出かけた。そこは大きな山車が二つあって、私たちは先ほどその巨大な建造物を遠くから眺めたのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.277 より引用)
結局お祭りを見物することに。イザベラが例祭に遭遇したのは偶然のような書きっぷりですが、もしかして宿の主人あたりが、イザベラの出立と例祭をぶつけるために「今日は天気が良くないから出立は明日にすればいいですよ」みたいなことを吹き込んでいたりしたら……面白いんですけどね。

三〇フィートも長さのある重い梁を組み立てたもので、中身のしっかりした巨大な車輪が八個ついていた。その上にいくつかの櫓が建てられ、突出物があった。それは杉の枝の平らな表面に似ていた。上端には不揃いの高さの特殊な山が二つあった。全体は地面から五〇フィート近くあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.277 より引用)
当時は動画はおろか、写真を撮影することすら容易ではない時代でしたから、スケッチするか、あるいはこうやって詳らかに記すしか方法が無かったのだなぁ、と改めて思わせます。

祭の山車だしは、海外からの客の目には特にエキゾチックなものとして映ることが多い……と思うのですが、イザベラが例祭の山車に投げかけた視線は何故か険しいものでした。

全体が山をかたどり、神々が悪魔を打ち殺すさまをあらわしていた。しかし私は、これほど粗末で野蛮なものを見たことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.279 より引用)

神と悪魔

イザベラの眉を曇らせたものは一体何だったのか……という話ですが、イザベラは山車に神ではなく悪魔の姿を見たようです。

どの山車の前部にも、幕の下で三十人の演技者が悪魔のもつような楽器を手にし、実に地獄的な騒音で、あたりの空気をふるわせていた。それは、征服者である神々よりもむしろ悪魔を暗示した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278 より引用)
あ、これはもしかして……。イザベラは日光の「金谷家」に逗留した際にも、次のように記していました。

金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.98 より引用)
どうやらイザベラは「雅楽」が徹底的に苦手というか、生理的に受け付けなかった可能性すら感じさせます。「悪魔のもつような楽器」は、もしかしたら「篳篥ひちりき」あたりだった可能性もありそうです。

高く上に押し出してある台には、奇怪な姿の集団がいくつかあった。一つの台には、寺院の仁王ニオーによく似た巨人が真鍮の鎧をつけて、うす気味悪い鬼を殺していた。ある台には大名ダイミヨーの姫が、豊かな花模様の繻子の袖をつけた金紗の着物を着て、三味線サミセンをひいていた。またある台上には、実物より三倍も大きな猟人かりゆうどが同じく二倍も大きな野生の馬を殺していた。その馬の皮は棕櫚しゅろの幹をおおう堅い毛であらわされていた。またある台上には、極彩色の神々と、同じくぞっとするような鬼がいろいろ並べられていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278 より引用)
これを読むだけでは何が何やら……という感じですが、なんとなく日本の「祭り」にありそうな話だな……と感じた方も少なくないのではないでしょうか。

イザベラは、山車のサイズを「全体で地面から 50 ft(約 15.24 m)」と記していました。岸和田の「だんじり」の高さが約 3.8 m らしいので、比較すると今回の山車の巨大さが際立ちますが、驚くべきことにこの巨大な山車は移動するとのこと。いや、「山車」なので移動して当然なのかもしれませんが……。

これら二つの山車は、街路上を引かれて行ったり来たりしていた。引く男たちはそれぞれの車に二百人で、三時間で一マイルしか進まなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278 より引用)
3 時間で 1 マイルということは、時速 0.536 km ほどということになりますね。歩くよりも遅いのは当然でしょうけど、実はなかなかの速度なのでは……。

たくさんの男たちは、てこを使って重い車輪が泥にはまりこんでいるのを引き上げていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278 より引用)
あっ、そうか。舗装路じゃ無いんですよね。巨大な山車を未舗装の道に繰り出すのは凄まじい労力が必要になると思うのですが、一体何が人々を「祭り」に駆り立てるのか……?

活人画

「悪魔のもつような楽器」の「地獄的な騒音」に打ちのめされたかと思われたイザベラですが、やはり好奇心(根性かも)が勝ったのか、イベントの詳細を記していました。ただ「奥地紀行」としてはオフトピックだという判断からか、「普及版」ではバッサリとカットされたようです。

 百合の花模様のついた金箔貼りの身分の高い人の乗る美しい2台の駕籠カゴがそれぞれ4人の男に担がれて運ばれて行きます。その中には顔を真っ白に塗り、つけ毛で凝ったふうに髪を結い上げ、目も綾なサテンの花柄の着物で装った子どもが一人ずつ、金色の布の座布団に威厳のある雰囲気でよりかかって乗っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.107 より引用)
この手の祭りで稚児の舞が見られるのも、古くからの伝統と言えそうでしょうか。

この子どもたちは、この祭りマツリに古い踊りを演ずるように多大な出費で教えられた、土地の金持ちの家の子どもたちです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.107 より引用)
多大な出費でトレーニングを受けた「土地の金持ちの家の子ども」というのは、いかにも封建的ですね。どうやらイザベラは「金をかけた稚児舞」に批判的で、嫌悪感すら抱いていた可能性があったようで……

 これらの子どもたちは痛々しいほど上手に演じました。このような完全な威厳と冷静沈着さを持った8、9歳の子どもを見ることは気を塞がせるものです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.107 より引用)
難しいところですよね。歌舞伎役者の家に生まれた子が幼くして舞台に立つことも似たようなものだと思われますが、それが「悪いこと」なのかと言われると、果たして本当に悪いことなのだろうかという疑問が出てきます。ただ逆もまた然りで、それが果たして「良いこと」かと言われると……。

 私は女性の首が切られるのを見に行き、1時間半も泥の中に足を突っ込んで立っていましたが、その仕掛けは見え透いたもので、たいしたことのない手品でした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.107 より引用)
泥の中に足を突っ込んで 1 時間半も……。イザベラ姐さん、実はめちゃくちゃ祭りをエンジョイしていたのでは……?

私はまた、ポーズをとり踊る犬を観ましたが、それは恐怖の影響による演技であることは明らかでしたので、私はその犬を買い取ることを申し出ましたが、飼い主の暴君は50円以下では売ろうとしませんでした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.107 より引用)
あー……。動物の芸は、別の見方をすれば「虐待」そのものですからね。稚児の舞も一歩間違えれば「虐待」に近づく危険性がありますし、日本人はまだまだこの辺の感覚が(欧米諸国と比べると)周回遅れのところがありますよね。

この祭りは、英国の縁日や祭日、お祭り騒ぎと同じように、本来の宗教的意味を失って、三日三晩も続く。今日がその三日目で、最高潮の日であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.278 より引用)
あー、やはり例祭のクライマックスの日だったんですね。泥の中に足を突っ込んで 1 時間半我慢するだけの価値はあった……のでしょうか?

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2023年5月2日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (38) 「安足間」

旭川行き 4530D は道道 223 号「愛山渓上川線」の踏切を通過しました。安足間あんたろま駅のすぐ近くまでやってきたようです。
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安足間駅(A41)

転轍機と、レンガ積みの農業倉庫と思しき建物が見えてきました。安足間駅の構内に入ったようです。

2023年5月1日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (37) 「東雲」

旭川行き 4530D は定刻通りに上川を出発しました。石狩川を渡ると、右手にかなり印象的な形をした山が見えてきましたが、これ、まるで人が寝ているように見えませんか?
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東雲駅(A42・2021/3/13 廃止)

……などと思っているうちに「東雲とううん駅」に到着です。