2023年5月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1040) 「オラウンベツ川・秩父内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オラウンベツ川

o-ra-un-pet?
河口・低いところ・そこにある・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ノコベリベツ川の西支流で、JR 根室本線(花咲線)茶内駅の 3.5 km ほど北でノコベリベツ川と合流しています。明治時代の地形図にも、現在と同じ位置に「オラウンペツ」と描かれていました。

この川については「初航蝦夷日誌」(1850) には「ヲラウシベツ」とあり、「竹四郎廻浦日記」(1856) には「ヲラウンヘツ」とあります。「辰手控」にも「ヲラウンヘツ」とあるのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) だけは何故か「ヲラウンナイ」と描かれています。

かつては厚岸からノコベリベツ川沿いに北に向かうのが根室に向かうメインルートだったようで、この川についても上原熊次郎の「蝦夷地名考并里程記」(1824) に記載がありました。

ヲラウンベツとは深き川といふ事。此地深き渓間なる故、此名ある由。
(上原熊次郎「蝦夷地名考并里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.66 より引用)
「深い」を意味する rawne という語があるので、o-rawne-pet で「河口・深い・川」と読むことは一応可能なのですが、オラウンベツ川はかつて湿原だった野原の中を流れる川で、どう見ても「深く切り立った川」には見えません。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 オラウンベツ川 共栄方面から流れ出るノコベリベツ川の支流。川口に蔓のある川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.675 より引用)
「共栄」は道道 807 号「円朱別原野茶内線」の T 字路のあたりで、オラウンベツ川と道道 807 号の間に「共栄」という名前の四等三角点があります(標高 69.3 m)。1980 年代の土地利用図には「茶内原野」の中に「共栄」と描かれていますが、現在の地理院地図では見かけない地名?です。

「川口に蔓のある川」説ですが、確かに ra は「出始めの短い蔓」と解釈することが可能です。ただ ra は「低いところ」とも解釈できるので、o-ra-un-pet であれば「河口・低いところ・そこにある・川」とも読めそうに思えます。

あるいは o-rar-un-pet で「河口・潜る・そこにある・川」とも読めるか……と思ったのですが、「初航蝦夷日誌」には次のように記されていたので……

     ヲラウシベツ
小川有。橋有り。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.404 より引用)
小川に橋がかかっていたとなると、川が伏流していたとは考えづらいですよね。

オラウンベツ川の河口あたりは緩やかな丘陵地帯で、丘と丘の間の低いところを川が流れているので(それは当たり前なのでは)、o-ra-un-pet で「河口・低いところ・そこにある・川」と呼んだ……と言ったところでしょうか。

秩父内(ちちぶない)

人名(秩父宮)由来
(典拠あり)
「オラウンベツ川」の北西の道道 807 号「円朱別原野茶内線」沿いに位置する四等三角点(標高 58.7 m)の名前です。同名の川が三角点の 0.7 km ほど北を流れていて、1980 年代の土地利用図には「秩父内」という地名が描かれていました。ただ、地理院地図には「秩父内」という地名は見当たりません。

川名で「──内」となるとアイヌ語由来の可能性が高い……と思われるのですが、「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 秩父内(ちちぶない) 茶内から茶内原野に至る途中の畑作酪農地区。昭和 3 年秩父宮(ちちぶのみや)が来られたので。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.678 より引用)
は……!? え、えっ……?(動揺を隠せない) 念のため「浜中町史」も確認しましたが、1928(昭和 3)年に「秩父宮茶内開拓地ご視察」とあります。

気になりませんか?

ただ、「秩父宮が視察したので『秩父内』」というのが都合が良すぎるように思えるのと、Wikipedia の「浜中町営軌道」の記事にちょっと気になる点があり……

  • 1927 年(昭和 2 年)11 月 茶内線茶内駅 - 奥茶内(後の若松)間、円朱別線秩父内 - 円朱別(後の下茶内)間開業
(Wikipedia 日本語版「浜中町営軌道」より引用)
ほら、気になりますよね? 秩父宮が視察に訪れたのは 1928(昭和 3)年ですが、殖民軌道(=後の浜中町営軌道)が開通したのは一年前の 1927(昭和 2)年で、この文章を見る限りでは 1927(昭和 2)年に「秩父内駅」が開業したように見えるのです。

更に深読みするならば、もともと「秩父内」と呼ばれた地区があり、そこに殖民軌道を通してますますの発展が期待されるので、名前の似た「秩父宮」に見てもらおう……という話だったりしないかな、と。

当初「秩父内駅」は無かった

ということで、国立国会図書館デジタルコレクションで「浜中町史」(1975) を調べると、「オランベを秩父内の地名に改めた」との記述が(p.675)。まぁ、これはそれほど驚くことではありません。旧地名が「オランベ」というのは初耳ですが、これは「オラウンベツ」由来ですよね。

更に検索してみたところ、1935(昭和 10)年の「殖民事業概要」という資料があり、その中に「殖民軌道運輸成績」というページがありました(p.108-109)。

1927(昭和 2 )年に開通した殖民軌道は「茶内~奥茶内」の「茶内線」と「秩父内~円朱別(後の下茶内)」の「円朱別線」の二路線なのですが、「殖民軌道運輸成績」には「昭和二年度」と「昭和三年度」の表に「圓朱別線 中茶内・圓朱別間」とあり、昭和四年度以降は「圓朱別線 秩父内・圓朱別間」とあります。

……完敗です。どうやら殖民軌道の「中茶内駅」が昭和三年から四年の間に「秩父内駅」に改名された、と考えるしか無さそうです。どうして「秩父内」という、いかにもアイヌ語由来っぽい地名を「創作」したのかは謎ですが、元々「中茶内」という駅名だった(と思われる)ので、頭の二文字を差し替えればちょうどいい……という判断だったりして……(汗)。

そもそも「宮様のお名前」を拝借するのは畏れ多かったんじゃないか……という想像もあったのですが、「秩父ちちぶ」であれば地名ですし、現に「秩父別ちっぷべつ」という地名もある位なので問題ない……という判断だったのかもしれません。

Wikipedia によると、殖民軌道の終点だった「奥茶内」駅は後に「若松」駅に改称されたとあります。「若松」は他ならぬ秩父宮(雍仁親王)の徽章で、なるほどこれも秩父宮由来か……? と思ったのですが、「北海道地名誌」によると「開拓者菊池若松の名をとったもの」とのこと。見事に全身の力が抜けました……。

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