2023年5月7日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1035) 「恵茶人」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

恵茶人(えさしと)

e-sa-us-to?
頭・浜・つけている・沼
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市との境界であるヲワツタラウシのあたりから道道 142 号「根室浜中釧路線」を 7 km ほど西に向かったところに「恵茶人沼」という沼があります。この沼(おそらく海跡湖)の流出部には「オキト橋」という橋が架かっているのですが、これもアイヌ語由来っぽい雰囲気がありますね。

o-kito-us-nay であれば「河口・行者にんにく・多くある・川」ですし、あるいは置戸町と同様に o-keto-un-nay で「河口・獣皮の張り枠・ある・川」あたりの可能性もありそうな。「オキト橋」の東には「カネサント橋」もあるのですが、これは「上方にある・棚・沼」あたりの可能性もあるでしょうか。別海の「茨散沼」との共通点もあるかもしれません。

本題に戻って「恵茶人」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「エシヤシレエト」という岬が描かれていました。明治時代の地形図には岬の近くに「エサシト」とあり、「恵茶人沼」の位置には「イチヤシュトー」と描かれていました。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。前後関係を把握しておきたいので、ちょいと長い目に引用します。

     チフヲンヘ
当時誤りてチホムイと云り。小流有。越而
     ウシヽベツ
小川有。鮭上るよしなり。越而
     ヱチヤンシト
此間凡壱りもあるよし也。しばし行
     チツチセホウシナイ
又此処訛りてモイレアトヱとも云り。漁小屋有。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.447 より引用)
明治時代の地形図に拠ると、「チフヲンヘ」改め?「チプモイ」は現在の「二ッ岩」の北西に位置していたようです。また「チツチセホウシナイ」は現在の「貰人もうらいと」だと見られるのですが、「チフヲンヘ」と「チツチセホウシナイ」の間に存在する筈の「ウシヽベツ」の位置が不明です(地理院地図に描かれているだけでも 6 つの河川があるので、その中のどれかだと思われるのですが)。

続いて戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」を……と思ったのですが、今回も表を作ってみましょうか。

東西蝦夷
山川地理取調図
初航蝦夷日誌戊午日誌
「東部能都之也布誌」
明治時代の
地形図
現在の地名
モエレマートコチツチセホウシナイモエーレアトイポンモイレモイ貰人
---カ子パコ-
エチヤシレエトエチヤンシト?-エサシト恵茶人
-エチヤンシト?エチヤシトウイチヤシュトー恵茶人沼
--小川二ツ--
-ウシヽベツウシヽベツ--
チフラムイチフヲンヘチフラムイチプモイ-

問題点がシャキっと見えてきましたね(表ってすげぇ)。「初航蝦夷日誌」に「ヱチヤンシト」とあるものが「東西蝦夷──」の「エシヤシレエト」と同じ「岬」のことなのか、それとも戊午日誌「東部能都之也布誌」にある「エチヤシトウ」(おそらく「沼」)のことなのか、ちょっと不明瞭になってきました。

念のため戊午日誌「東部能都之也布誌」の当該部分を引用しておきますと……

しばしにて下り
     エチヤシトウ
砂浜の間に小川有。是よりチフラムイの岬まで凡一里計も砂浜にて平地、至極よろしき足場也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)
「砂浜の間に小川有」「チフラムイまで凡そ一里ばかり砂浜にて平地」とあるので、これは高台の岬のことではなく「恵茶人沼」のことと考えるべきですよね。

ちなみに「東部能都之也布誌」には続きがありまして……

往昔土人村有りしと。其時熊を祭り送るに、此浜を走らせし由、よつて号ると。チヤシは走らする事を云なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560 より引用)※ 原文ママ
「チヤシは走らせることを言う」とありますが、確かに chas あるいは pas で「走る」を意味するようです。この珍妙な解は永田地名解 (1891) にも受け継がれていました。

Ichash tō   イチャシュ トー   走リ沼 往時アイヌ熊ヲ走ラシタルニヨリ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.357 より引用)
一方で、この解について更科源蔵さんは次のように批判していました。

熊走る沼とはどう考えてもうなずけない。エサシまたはエサウシで山が海岸にせり出しているところ(頭を浜につけている)と思うが、トはやはり海と解すぺきかとも思うが、近くに小沼がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.273 より引用)
e-sa-us-to で「頭・浜・つけている・沼」ではないかとのこと。この解の都合の良いところは岬(エシヤシレエト)にも沼(エチヤシトウ)にも応用可能なところで、e-sa-us-{sir-etu} だと「頭・浜・つけている・{岬}」となります。

また、これまた都合の良いことに、恵茶人沼の真ん中には鼻のような地形がせり出しているので、この地形を「頭を浜につけている」と呼んだ……とも考えられます。

「恵茶人」は「沼」か「岬」か

「恵茶人」が「岬」に由来するのか、それとも「沼(の中の地形)」に由来するのかについては決め手がないという印象ですが、たまたま似た地名が続いた……という都合の良い解釈も不可能でないかな……と思ったりもします。

また、「恵茶人沼」については i-cha-us-to で「アレ・摘む・いつもする・沼」という可能性もゼロではないかな……と思ったりもします。ここで言う「アレ」は「菱の実」のことで、豊頃町にある「育素多いくそだ」と同類の地名なんじゃないか……という想像です。

「菱の実を採る」ことを i-uk ではなく i-cha と言うかという大きな難点があるのですが、明治時代の地形図で「エサシト」と「イチャシュトー」のように表記が割れていたことの説明がついてしまうんですよね(まぁ、それにしては似すぎているという問題もあるのですが)。

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