2023年4月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1033) 「初田牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

初田牛(はったうし)

apa-ta-us-i??
戸・そこに・ある・もの
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市西部の地名で、かつて JR 根室本線(花咲線)にも同名の駅がありました。ということでまずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  初田牛(はったうし)
所在地 根室市
開 駅 大正9年11月10日 (客)
起 源 アイヌ語の「ハッタラウシ」、すなわち「オ・ハッタラ・ウシ」(川口にふちのある所) から出たもので、現在も川口が深いふちとなっている。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.157 より引用)
ところが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Hat ta ushi   ハッ タ ウシ   葡萄ヲ採ル處 厚岸村アイヌ村田紋助云フ「ハッタウシ」ハ葡萄ヲ採ル處ノ義ナリト今此説ニ從フ根室郡穂香村アイヌ村田金平ハ「ハッタラウシ」ニテ淵ノ義ナリ古夷「フーラリチエプ」(方言キウリ魚)ヲ取リタル淵ナリト云フ然レ𪜈未タ「ハッタラ」ノ下ニ「ウシ」ノ詞ヲ加ヘタルヲ聞カズ紋助ノ説是ナルニ似タリ○初田牛村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.360 より引用)
またか……という感じですね。永田方正が既存の説を「違う、そうじゃない」として新説を唱えたものの、広く受け入れられることなく忘れ去られた……というパターンに見えます。実際、更科源蔵さんは「アイヌ語地名解」(1982) にて次のように記していました。

オ・ハッタラ・ウㇱ(川口が淵になっている所)からでたという。またこの川と並んでいる流れを、松浦地図にハッタウシとあり、永田氏も葡萄をとる処と訳し、これは厚岸のアイヌ太田紋助にきいたとある。現在はこの流域は伐り開かれ勿論一本の葡萄もない、付近の人の話では昔からなかったという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.274 より引用)
永田方正は「厚岸村アイヌ村田紋助云う」と記していましたが、これはどうやら「太田紋助」の間違いのようですね。「村田金平」とごっちゃになった可能性がありそうです。

更科さんは「一本の葡萄もない、付近の人の話では昔からなかったという」としていますが、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名 (1995) 解」にも次のように記されていました。

永田氏は前者を採ったが、根室市史によると「昔から葡萄なんてみたことがないと村人はいう」とある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.356 より引用)
ということで、やはり hattar-us-i で「淵・ついている・もの(川)」と読むべきかなぁ、と思ったのですが……。

「初田牛」=「アフタウシ」?

ところが、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」を眺めていて妙なことに気づきました。

下るや
     ヲワタラウシ
是も前に似たる如き小湾にて、両岸峨々たる出岬。ヲワタラは立岩磯と云儀。過て又九折を上り五六丁過て下り
     アフタウシ
此処両岸峨々たる岬、其間転太浜小川有。アフタは鈎を作る儀のよし。釣をするや魚多く得る義にて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.560-561 より引用)
「初田牛川」の西隣に「和田牛川」が流れていて、地理院地図では「和田牛川」の河口の近くに「ヲワツタラウシ」と記されています。どうやら戊午日誌の「ヲワタラウシ」は現在の「和田牛川」河口あたりと見て良さそうでしょうか。

根室には花咲港の東にも「オワッタラウシ川」があるのでややこしいですが……。

「ヲワタラウシ」が「和田牛川」ということは、「アフタウシ」が「初田牛川」ということになります。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲワタラウシ」という川と「ハツタウシ」という地名が描かれていますが、明治時代の地形図では「オワタラウシ」だけが描かれていて、現在の初田牛川は無名の川という扱いです。

初田牛に「淵」はあったか

更科さんは永田地名解の hat-ta-us-i で「山ぶどうの実・採る・いつもする・ところ」説を否定して o-hattar-us-i で「河口・淵・ある・もの(川)」だとしましたが、この解釈にも若干の疑問が残ります。疑問点を列挙すると……
  1. 地理院地図を見る限り、初田牛川の下流部は湿原状となっていて、淵があるようには見えない
  2. 地理院地図を見る限り、初田牛川の河口には砂浜が描かれていて、淵があるようには見えない(但し河口の東側には砂浜が描かれていないため、淵がある可能性はある)
ついでに言えば、o-hatta-us-i というネーミングは「和田牛川」のほうが当てはまりそうな気がするんですよね(かなり小さな淵に注いでいるように見えるので)。ただそうなると「初田牛」は「和田牛川」に由来し、「東西蝦夷山川地理取調図」の「ハツタウシ」とは一切関係ない……という意味不明なことになってしまうのですが。

「ハッタウシ」か「アフタラシ」か

また、戊午日誌「東部能都之也布誌」に「アフタウシ」とあったことも注意が必要です。ap-ta-us-i で「釣り針・作る・いつもする・ところ」では無いかと言うのですが……。

面白いことに、秦檍麻呂の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。

一 ヲワタラウシ
 ワタラは海邊の巌也。名義未考。
一 アプタラウシ
 アフはつり針。タラは垂。ウシは生也。鉤を垂るゝによき處と云語なり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.34 より引用)
ちょっと出遅れた感もありますが、表にまとめてみました。

現在名初田牛川和田牛川
東蝦夷地名考 (1808)アプタラウシヲワタラウシ
大日本沿海輿地図 (1821)(伊能大図ハフタウシ岬-
蛾夷地名考幷里程記 (1824)-ヲワタラウシ
初航蝦夷日誌 (1850)ハウタラシヲワタラウシ
戊午日誌 (1859-1863)アフタラシヲワタラウシ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ハツタウシヲワタラウシ
永田地名解 (1891)ハッ タ ウシオワタラ ウシ
明治時代の地形図-オワタラウシ
陸軍図初田牛-
地理院地図初田牛川和田牛川

かなり意外な感じがしますが、「ハッタウシ」の初出は永田地名解東西蝦夷山川地理取調図だったんですね。そしてノイズのように思われた「アフタラシ」という記録も、実は類例がいくつかあったことに気付かされます。

「戸・そこに・ある・もの」説

「アフタラシ」は apa-ta-us-i で「戸・そこに・ある・もの」と読めそうな気がします。初田牛川は河口の近くでクランク状に曲がっているのですが、このことにより河口から上流部が見通せなくなっています。

道北の中川町に「安平志内あべしない」という川があるのですが、この川も中流部に大きくせり出した山があり、下流側から上流部を見渡すことができなくなっています。このことから「安平志内川」は apa-us-nay で「戸・ついている・川」ではないかと思っているんですが、「初田牛川」も同じではないか……という考え方です。

また apa-tarara で「戸を・閉める」という意味になるとのこと。東蝦夷地名考の「アプタラウシ」は apa-tarara-us-i だった可能性もある……かもしれません。

この考え方の最大の難点は ap- ではなく apa- だというところですが、原義が忘れ去られたとともに転訛した(因果関係が逆かも)と考えるしか無い……かなぁ、と。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2023年4月29日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (145) 土崎港(秋田市) (1878/7/26)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十五信」(初版では「第三十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

休日の光景

久保田(秋田)に四日ほど滞在したイザベラは、ようやく北に向かって旅を再開した……と思ったのですが……

 三マイルにわたり、りっぱな道路は、歩いたり人力車に乗ったりした久保田の人たちで半分近くも混雑していた。馬にひかれる赤い荷車、二人連れで人力車に乗っている警官、背に負われてゆく何百人という子どもたち、さらに何百人も歩いている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.275 より引用)
イザベラ一行は羽州街道を北西に向かったと思われるのですが、この日はちょうど夏祭りだったようです。

広々とした水田が緑の海のように右手に続いている。左手には青緑色の水を湛えた海がある。久保田の灰色の屋根の波が、緑に囲まれて浮かんで見える。深い藍色をした太平山が、南の視界を遮っている。すばらしく上天気で、夏の太陽はすべてに光を注いでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.275 より引用)
詩的な光景ですが、太平山は久保田(秋田)の市街地から見て東北東に位置している筈なので、「南の視界を遮っている」というのはちょっと謎な感じもします。また、羽州街道の左に見えるのは雄物川の河口で、厳密には海では無いのですが、さすがにこの指摘は無粋だったでしょうか。

祭り

夏祭りは土崎の港(現在の秋田港)で行われていたようです。

男も女も子どもも、荷車も人力車も、警官も乗馬者も、今祭りをやっている港へみな急いでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.275 より引用)
現在の土崎は秋田市の北西部という扱いですが、1941 年に秋田市に編入されるまでは「土崎港町」という独立した町でした。秋田駅の近くには「久保田城」がありましたが、土崎港の近くには奈良時代に「秋田城」が築かれていて、土崎港は「秋田城」への物資の補給に活用されたとのこと。

秋田城は「久保田城」と「土崎港」の中間あたりに位置するということもあり、一体化した町を「秋田」と呼んだというのは、ある種の先祖回帰のようなものだったのかもしれません。

港は久保田の荷揚げ港で、このみすぼらしい町では神明シンマイ(天照大神)という神の誕生日を祝って祭りをしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.275-276 より引用)
ところでイザベラ姐さん、いきなり「みすぼらしい町」ですか……(汗)。それはそうと、土崎港について Wikipedia の記事を見ていたのですが、「土崎港」の概要には次のように記されていました。

毎年7月に、土崎神明社の例祭であり国の重要無形民俗文化財に指定されている勇壮な祭り「土崎神明社例祭」(土崎港曳山まつり)が行われる。
(Wikipedia 日本語版「土崎港」より引用)
ふわー、「土崎神明社例祭」とありますね。イザベラはこの「神明」を「天照大神」だとしていますが、確かに土崎神明社の祭神は「天照大神」とのこと。イザベラ姐さんのリサーチ能力は相変わらず冴えていますね。

お祭り騒ぎの魅力

もっとも、何故これだけの祭が行われる日に出発することにしたのかは、謎というかリサーチ不足のような気もするのですが、祭があるならついでに見物しておこうか……というレベルで考えていたのでしょうか。

ただ、混雑した街道を人力車でスイスイ~と移動しよう、という考えはやはり無謀だったようで、イザベラは徒歩での移動を余儀なくされます。

 人力車がそれ以上進めなかったので、私たちは車から降りて群集の中にわけ入った。群集は狭い通りの中をぎゅうぎゅう押しあっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
この日の羽州街道は空前の賑わいを見せていたと思われるのですが、イザベラの手にかかれば……

貧弱な茶屋や店先の並ぶあわれな街路ではあったが、人があふれて街路そのものは見えないほどだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
「貧弱な茶屋や店先の並ぶあわれな街路」ですか(汗)。いやまぁその通りなのかもしれませんけど、なんか個人的に恨みでもあるんじゃないですか……? あ、人力車での移動を断念させられたのを恨んでいたとか……?

猿芝居や犬芝居の小屋があり、二匹の汚い羊と一匹のやせ豚を、群集が珍しそうに見ていた。日本のこの地方では、これらの動物は珍しいのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
「猿芝居」と「犬芝居」で「羊」と「豚」……? と思ったのですが、どうやらこれは私の読み違いのようで、「猿芝居」(時岡敬子さんの訳では「猿回し」)や「犬芝居」と「羊や豚の見世物」が並行して行われていた、ということみたいですね。

三十分ごとに女が観客に首を切らせる小屋もあった。料金は二銭。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
は……? と思ったのですが、原文を見てみると……

a booth in which a woman was having her head cut off every half-hour for 2 sen a spectator;
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
流石に 30 分ごとに殺人が繰り返される……ということではなさそうですが、まぁ品のない「出し物」ですね……。

神社のような屋根をつけた車の行列があって、四十人の男たちが綱で引いていた。その上で上流階級の子どもたちが踊りをしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
ん、これは祇園祭みたいなヤツですかね……?

正面の開いている劇場があり、その舞台には昔の服装をした二人の男が長い袖を下まで垂れて、退屈になるほどゆっくり古典舞踊を演じていた。これは退屈なしぐさで、主として長い袖をたくみに動かし、ときどき強く足を踏み、ノーという言葉をしわがれ声で叫ぶ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276 より引用)
これは歌舞伎か、それとも能か……? 「退屈になるほどゆっくり」という表現からは、どことなく能のような雰囲気もあるのですが……?

イザベラは祭の露店について、次のように記していました。

子ども崇拝は猛烈なもので、あらゆる種類のお面や人形、いろいろな姿に固めた砂糖、玩具、菓子類が、地面に敷いた畳の上に売り物として並べられている。日本では、どんな親でも、祭りに行けば子どもに捧げるための供物を買うであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.276-277 より引用)
あー、露店の雰囲気は今もそんなに変わらないような……。そしてお祭りの日は親の財布の紐が緩くなるというのも昔からのお約束だと思うのですが、イザベラは「日本では」特にこの傾向が強い……と感じたようです。そう言われてみれば、平時は抑圧的な生活で、ハレの日に羽目を外す傾向があるのかもしれませんが、これは一長一短のような気も……。

 警察の話では、港に二万二千人も他所から来ているという。しかも祭りに浮かれている三万二千の人々に対し、二十五人の警官で充分であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.277 より引用)
このあたりのリサーチ能力は流石ですね。おそらく通訳兼アシスタントの伊藤があること無いことを吹聴して情報を仕入れていたのだと思われますが……。それにしても「土崎神明社例祭」のクライマックスとイザベラの旅程がぶつかったのは意図的なものだったのか、それとも本当に偶然だったのか……?

イザベラは土崎港の街並みを「みすぼらしい」として、また「貧弱な茶屋や店先の並ぶあわれな街路」などと悪罵の限りを尽くしていたようにも見えますが……

私はそこを午後三時に去ったが、そのときまでに一人も酒に酔っているものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残してくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.277 より引用)
ん、イザベラは警察官に護衛されていたということでしょうか。イザベラはどんな手を使ったのか、久保田(秋田)の市街地を訪問する際に警察の護衛を受けていましたが、土崎神明社例祭でも護衛が続いていた……ようにも見えますね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2023年4月28日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (36) 「旭川行き 4530D」

上川駅の 3 番線には 14:16 発の旭川行き 4530D が停車していました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところで、この「絶」って何なんでしょう。「3#」は 3 番線なのかなぁ、と思われるのですが……。

2023年4月27日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (35) 「上川・その4」

上川駅に戻ってきました。駅舎は改修されてから 10 年近く経過している筈ですがピッカピカですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

改札の開始待ち

「次の改札は」「旭川行」の文字が入った札が吊るされています。シンプルな構造ですが、行き先と乗り場が一目瞭然なのは良いですよね。

2023年4月26日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (34) 「上川・その3」

上川駅の外に出てみました。特別快速「きたみ」は 13:00 上川着で、次の旭川行き 4530D は 14:16 発なので、1 時間ほどの自由時間ができたことになります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駅前から南東方向を眺めます。エレベーター完備の跨線橋が見えますが、そのずーっと先には雪化粧した山の姿が。大雪山はこの方角に見えるんですね。

2023年4月25日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (33) 「上川・その2」

上川駅で特別快速「きたみ」から降車して、途中下車します。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

次の改札は

途中下車したい旨を申し出て改札の外に出ました。北海道新幹線開業 1 周年……だったんですねぇ。2023 年 4 月の時点で 7 年ちょいが経過したことになるんですが、もう 7 年ですか……。

2023年4月24日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (32) 「上川・その1」

上川の市街地に入りました。住宅街だと思うのですが、まるで別荘地のような佇まいですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

踏切には特別快速「きたみ」の通過を待っている車がいました。一日 6 往復しか無い区間なのに、お待たせしてすいません……。

2023年4月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1032) 「チッチャラベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チッチャラベツ川

kina-tuye-us-i?
草・切る・いつもする・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ホロニタイ川フレシマ川の西を流れる川で、第 1 チッチャラベツ川(第 1 チャラベツ川)、第 1 チッチャラベツ沢川(第 1 チャラベツ沢川)、第 2 チッチャラベツ川(第 2 チャラベツ川)、第 3 チッチャラベツ川(第 3 チャラベツ川)などの支流があります。「チッチャラベツ川」と「チャラベツ川」という二通りのネーミングが存在してしまっているぽいですね。

明治時代の地形図には「キナㇱュッペウシ」あるいは「キナトㇱュペウシ」と描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「キナトウヘウシ」とあります。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「キナトウベウシ」と記されていて、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

下りて砂浜また少し有。小川有、是よりヲツチシまで浜まゝ行くによろし。
     キナトウベウシ
と云。此処上大谷地有て、ヤレンキナと云て、敷ものにする草有るが故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.561 より引用)

根室に「キナストゥンペ」は存在したか

ところが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kinashutpe ushi  キナㇱュッペ ウシ  蛇多キ處 高橋圖「キナトウシ」ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.360 より引用)
永田さんのドヤ顔が目に浮かぶようですね……(そもそも永田さんの顔を知らないのでは)。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、永田説を紹介した上で次のように記されていました。

永田氏のいう蛇とは、アオダイショウのことで、「キナストゥンペ kinasutunpe」語源は「キナ・スッ・ウン・ペ kina-sut-un-pe 草・根のもと・にいる・者」(知里分類動物辞典)とある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.357 より引用)
ふむふむ。確かに知里さんの「動物編」(1976) には次のようにありました。

(6) kinásutumpe(キなスト゚ンペ)[<kina-sut-un-pe(草・の根もと・にいる・者)]《ホロベツ》
(7) kinásutkorkur(キなスッコルクル)[<kina-sut-korkur(草・の根もとを・所有する・神)]《ビホロ》
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.224 より引用)
ん、「キナストゥンペ」は幌別登別市)じゃないか……と思ってしまいますが、kinásutkorkur美幌なので、少なくとも道東の一部では似たような言い方をしていた……と言えるでしょうか。ただ「動物編」を良く見ると……

§422. アオダイショオ Elaphe climacophoraBoie
(1)tánne-kamuy(たンネカムイ)[<長い・神]《ホロベッ;クッシャロ》
  注.──蛇類の総称としても,また青大将の特称としても用いる。ホロベツやクッシャロだけでなく,各地で用いられるようである。
(2)yayán-kamuy(ヤやンカムイ)[<ただの(普通の)・神]《ビホロ》
  注.──マムシを「シアンカムイ」(真の神)と云うのに対して,青大将を「ヤヤンカムイ」(普通の神)と呼ぶのであるらしい。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.224 より引用)
どうやら tánne-kamuy という表現のほうが優勢だったようにも見えますね。それはそうと、マムシと比べるとヤバさに欠けるからか、随分とぞんざいな扱いですね……(汗)。まぁ、そうは言っても「カムイ」扱いなので、それなりに敬意を払われているようにも見えるのですが、ところが……

(3)yayámpe(ヤやンペ)[yayan-pe(普通の・もの)]《ビホロ》
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.224 より引用)
あっさりとモノ扱いに……(汗)。

「動物編」には「アオダイショウ」を意味する語が 13 種類も掲載されていて、既に引用した通り kinásutumpe は 6 番目の語として登場しています。

「アイヌ語方言辞典」(1964) では kinasútunpe は八雲方言として記載されているのみですが、kinásut'unkur旭川方言として記載されています。帯広方言は tánnekamuy のみの記載で、美幌方言も tannekamuy のみのようです。

また「釧路地方のアイヌ語方言語彙集」では tannekamuy が「ヘビ」として記載されていて、kinasutunpekinasutunkur に相当する語は記載がありません。

「キナトウヘウシ」は「キナトゥエウシ」?

鎌田さんはこの地名を次のように考えていたようですが……

松浦説は地元から聞きとったのであろうが、敷物にする草がある場は、キナウシ「草(着物にする)多くある所」、あるいは、キナチャウシ(草刈りつけている所)などと呼ばれている。ここでは永田説を採りたい。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.357 より引用)
「『キナウシ』あるいは『キナチャウシ』などと呼ばれている」というのはその通りなのですが、「キナトウヘウシ」でも kina-tuye-us-i で「草・切る・いつもする・ところ」と読めるような気がします。「キナトウヘウシ」を「キナトゥエウシ」と発音すれば、ほぼそっくりですよね。

「チッチャラベツ」の謎

最大の謎は「キナトウヘウシ」あるいは「キナシュッペウシ」が何故「チッチャラベツ川」になったのか……という話ですが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 蝦夷地名表」には「チチヤセラウツフ川」という川が記録されていたので、おそらくこのネーミングが元になったのでは……と思われます。

もっとも、「キナトウヘウシ」が「チチヤセラウツフ川」になったメカニズムが皆目不明なままなんですが、注目すべきは「黄梨牛別」(きなしうしべつ)という名前の二等三角点が存在することでしょうか。

この三角点は何故か「チッチャラベツ川」の西隣にある「ガッカラ川」を遡ったところ(JR 根室本線沿い)にあるのですが、この三角点が選点された 1917(大正 6)年の時点では「キナシウシベツ」に近い地名(あるいは川名)が存在していたことを示しているんですよね。

「キナシウシ」と「キナトウヘウシ」の違いが気になるところですが、1917(大正 6)年の時点では永田地名解の影響で「キナシュッペウシ」という解釈が広まっていた……ということでしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2023年4月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1031) 「落石・ホロニタイ川・フレシマ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

落石(おちいし)

ok-chis
うなじ・中くぼみ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室昆布盛の南に「根室市浜松」というところがあり、更にその南が「根室市落石おちいし」です。「浜松」はかつて「瀬ふし牛」と呼ばれたところで、sum-sum-us-i で「油・油・多くある・ところ」(鯨の油が良く採れたところ)とも言われていますが、果たして……?

根室市浜松と落石の中間あたりに、JR 根室本線(花咲線)の「落石駅」があります。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  落 石(おちいし)
所在地 根室市
開 駅 大正9年11月10日
起 源 アイヌ語の「オㇰチン」(山の尾根のくぼみ)から転かしたもので、落石岬が本土につながるくぼみをいったものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.157 より引用)※ 原文ママ
えっ……? 「オㇰチ」って……? ちょっと当てが外れた感があるので、念のため昭和 29 年版の「駅名の起源」も見ておきましょうか。

 落石駅(おちいし)
所在地 根室国根室郡和田村
開 駅 大正九年十一月十日
起 源 アイヌ語「オㇰチシ」(山の鞍部) からの転訛で、落石岬と本土との間の凹部をいったものであろう。
(「北海道駅名の起源(昭和 29 年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.374 より引用)
ですよねー。やはり「オㇰチ」は誤字だったと見て良さそうな感じです。

「落石」は ok-chis に由来すると思われますが、紋別にも同名の「落石町」があるほか、北樺太にも「落石」と呼ばれた場所があったとのこと。また枝幸町の「乙忠部」も ok-chis-un-pe の可能性がありそうな感じでしょうか。ここまで見ると道東・道北方面ばかりのような気もしますが、道内全域でポツポツと存在するっぽい感じです。

ok-chis 自体が知里さんの「──小辞典」に立項されていましたので、引用しておきます。

ok-chis, -i おㇰチㇱ【H 南】人体について云えば‘ぼんのくぼ’。地形について云えば‘峠’。[ok(うなじ)chis(中くぼみ)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.74 より引用)
ok-chis は「うなじ・中くぼみ」で、落石岬のあたりを後頭部と見立てた場合、落石の集落のあたりが首の部分に相当する……ということなんでしょうね。

ホロニタイ川

poro-etaye??
大きな・引っ張る
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年4月21日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (31) 「中越信号場~上川」

特別快速「きたみ」は中越信号場を通過して、次の停車駅である上川に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

あれっ、これはもしかして留辺志部川……? 川の流れのこんなすぐ近くを線路が通っていた……と言うのは驚きです。

2023年4月20日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (30) 「中越信号場」

特別快速「きたみ」は上越信号場を通過して西に向かいます。このあたりでは国道 333 号と並走していますが、旭川紋別自動車道を通る人が多い(というか、ほぼ大半?)ので、国道 333 号もガラガラ……ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

おや、こんなところに建物が……。

2023年4月19日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (29) 「上越信号場」

特別快速「きたみ」は「石北トンネル」を通過しました。デッキ部のロングシートエリアがサロン席のようになっていますが、次のカットでは全員が立ち上がってガッツポーズ……していたら面白かったのですが。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この川は「留辺志部川」でしょうか。何故か川を横切るかのように防雪柵?が設けられていて、案の定と言うか柵は崩れているようにも見えるのですが、そもそも川に柵を設けるというのが大胆過ぎる気が……

2023年4月18日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (28) 「奥白滝信号場」

特別快速「きたみ」が白滝を出発して、数分ほどボケーっとしていたのですが、なんとその間に(2016 年に廃止された)「上白滝駅」跡を通過してしまいました……。

上白滝駅(A44・廃止)

旧白滝駅と同じく、在りし日の上白滝駅の写真もパブリックドメインとして公開されていました(本当に助かります。ありがとうございます!)。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の作者である 221.20 氏は、この作品をパブリックドメインとして提供しています)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

上白滝駅も 1 面 1 線の棒線駅だったようで、これは同日に廃止された旧白滝駅と同じ……ように思えますが、旧白滝駅が 1947 年に「旧白滝仮乗降場」として設定されたのに対し、上白滝駅は 1932 年に石北線が開通した際に「上白滝駅」として開業していました。かつては貨物や荷物の取り扱いもあり、当時は棒線駅ではなく 2 面 2 線の相対式ホームだったとのこと。

1992 年からは 1 日 1 往復しか列車が停車しなくなり、「日本一停車する列車の少ない駅」の座を 24 年間守り続けていましたが、ついに「利用者僅少のため」2016 年に廃止されてしまいました。

2010 年時点の時刻表の写真が Wikipedia にリンクされているのですが、1 日 1 本の列車は朝の網走行きと夕方の旭川行きで、どちらも石北本線の終点まで行く上に、生野・将軍山・北日ノ出が通過だったというのが面白いですね(これらの通過駅も現在は全て廃止済みです)。

特別快速「きたみ」は「石北トンネル」に向かって快調に走り続けます。線路脇の北斜面には残雪が目立つようになってきました。

2023年4月17日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (27) 「白滝」

下白滝駅(現在は信号場)と白滝駅の間には「旧白滝駅」がありました。「白滝駅」の旧駅ではなく、仮乗降場として開業したときから「旧」を冠した珍しいネーミングの駅でした。

旧白滝駅(A46・廃止)

在りし日の旧白滝駅の写真が、パブリックドメインとして公開されていました(ありがとうございます!)。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の作者である 221.20 氏は、この作品をパブリックドメインとして提供しています)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。

場所はこの辺だと思うのですが、駅の周りには建物がちょこちょこと散在していた感じでしょうか。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
旧白滝駅は 2016 年時点での 1 日平均乗車人員が「10 名以下」で、お隣の下白滝駅(当時)は「1 名以下」だったのですが、下白滝駅と旧白滝駅はともに 2016 年 3 月に廃止されてしまいました。「いずれ廃止を余儀なくされるのであれば」という目論見があったのでしょうか……?

右見て左見て

特別快速「きたみ」は旧白滝駅があったところを通過して白滝駅に向かいます。第 4 種踏切(遮断機と警報機の無い踏切)が見えますが……

2023年4月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1030) 「昆布盛・ユルリ島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

昆布盛(こんぶもり)

kompu(-us)-moy
昆布(・多くある)・湾
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
温根沼おんねとうの南東、長節ちょうぼし湖の南に位置する地名で、JR 根室本線(花咲線)に同名の駅があります。

同音異字の「昆布森」が釧路町にあります。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「チヨフシ」の南に「コンフムイ」と描かれていて、更にその南に「コンフムイノツ」と描かれています。これらは現在の昆布盛の集落と、漁港の南の岬を指していたと考えられます。

明治時代の地形図には「昆布盛村」の「コムプモイ」とあります。ということは永田地名解 (1891) にも……

Komp moi   コㇺプ モイ   昆布灣 昆布森村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.361 より引用)
地図には「昆布村」とあるのですが、永田地名解は「昆布村」ですね。この辺はやはりと言うべきか、多少の表記揺れもあったようで、明治時代の地形図では漁港の南の岬に「昆布崎?」と描かれている……ようにも見えます。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「コンブモヱ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

過るや廿丁計にて下り
     コンフムイ
此処南に一ツの岩岬有、少しの湾に成る。コンフムイ実はコンフウシムイのよし。全(く)昆布多く有るより号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.565 より引用)
あー。「コンフムイ」は kompu-moy で「昆布・湾」を意味し、より正確には kompu-us-moy で「昆布・多くある・湾」だよ、とあります。これ以上疑問を差し挟む余地はなさそうな感じですね。

そうだ。せっかくなので「北海道駅名の起源」も見ておかないと……。

  昆布盛(こんぶもり)
所在地 根室市
開 駅 昭和36年2月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「コンプ・モイ」(コンブのとれる湾) から転かしたもので、今も良質のコンブを産出している。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.157 より引用)
「開駅」が「昭和 36 年」というのがちょっと意外な感じがしますが、「東根室駅」の開駅も昭和 36 年とのこと。厚床から西和田まで鉄道が延伸したのが 1920(大正 9)年とのことなので、昆布盛に駅ができたのは鉄道が開通してから 41 年後だったことになります。

ちょいと余談を

疑問を差し挟む余地が無くなったので余談ですが(ぉぃ)、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されていました。

kompu  こㇺプ 【H 南】コンブ。=sas.
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)
「温泉」を意味する語として sesek-i があり、また和語からの移入語彙と見られる yu もあるのですが、「昆布」もどうやら似たような感じのようで、saskompu の両方が確認できます。

kompu は【H 南】、即ち「北海道南部方言地帯」で使われるとありますが、古くから和人との接触があったエリアで使用される語と見て良さそうでしょうか。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハナサキ」という地名(=根室市花咲)も描かれていますが、これは和語由来だとされているので、「コンプ」や「ハナサキ」という地名の存在は、和人の *進出* が比較的早かったことを示している……と言えそうです。

ユルリ島

ir-huri??
ひと続きである・丘
urir?
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年4月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1029) 「長節」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

長節(ちょうぼし)

chi-o-pus-i?
自ら・湖口・破裂する・もの
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
温根沼」の東に「長節ちょうぼし湖」という湖があります。湖の北には「長節小沼」があり、長節湖と長節小沼の間に「長節」の集落があります。

中川郡豊頃町にも字が同じ「長節湖」がありますが、こちらは「ちょうぶし──」です。

フシ? ボシ?

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チヨフシノツ」という岬と「チヨフシ」という地名?が描かれていました。明治時代の地形図では、花咲湾の西に「チェプウシ崎」が描かれていて、現在の長節集落のあたりには「チェプウシ」と描かれていました。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「チヨウフシサキ」と「チヨウフシ」とあり、特に不審な点は無い……と思ったのですが、よく見たら「チョウフシ」で、現在はわざわざ「長節」を「ちょうぼし」と読ませていることを考えると、ちょっと注意が必要でしょうか。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には「チヨフシサキ」と「チヨブシ」で、あ、よく考えると「東西蝦夷──」も「初航蝦夷日誌」も、そして「東部能都之也布誌」も「──フシ」あるいは「──ブシ」ですね。「ちょうぼし」の「ぼ」は果たしてどこから出てきたのか……?

チヨフシ? チェプウシ?

ここまで見てみると、明治時代の地形図にある「チェプウシ」という解釈が異彩を放っているのですが、この解の元ネタと思しき永田地名解 (1891) には次のようにありました。

Chep ushi   チェㇷ゚ ウシ   魚處 二沼アリ沼中ニ「ボラ魚」多シ今人「チヨープシ」ト云フハ非ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.361 より引用)
「二沼アリ」というのは「長節湖」と「長節小沼」のことと考えて良さそうですね。「沼にはボラが多い」として chep-us-i で「魚・多くいる・ところ(沼)」としたようですが、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にちょっと気になる記述を見つけました。

この解について根室市史は「チェプウシなら魚の沢山いることであるが、この沼には魚をとるらしい船が一艘もなく、また水鳥も集まっていない」と記してある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.360 より引用)
めちゃくちゃ孫引ですいません。あまりに重大な指摘だったもので。

石はどこから飛んできたか

気になる記述と言えば、こちらも気になるんですが……

松浦能都之也布誌は「チヨブシ。ここから山の方には沼があるが、むかしその沼の中に一本の石が飛んで来て、立石になったという伝説がある。それにちなんだ名である」と記してあるが、松浦氏の伝説と地名チヨプシとのつながりがはっきりしない。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.360 より引用)
「松浦能都之也布誌」は戊午日誌「東部能都之也布誌」のことだと思うのですが、それらしい記述が見当たらないんですよね。午手控 (1858) には十勝の「チヨフシ」(=長節ちょうぶし湖)の欄に「ノチレ」とあり、次のような頭注が付されていました。

a 長節湖。ノチレは「星・ノチウ」の方言らしいが長節との関わり不詳
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.101 より引用)
もしかして鎌田さんは「長節ちょうぼし湖」と「長節ちょうぶし湖」を取り違えたか……と思い、十勝の長節湖に関する記録もちらっと見てみましたが、それらしい記述は見当たらず……。

上原説のおさらい

上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) には次のように記されていて……

チヲブシ          アツケシ・子モロ場所境
  夷語チヲブシとは、おのつから破れると譯す。此沼折節自然と破れる故、字になすといふ。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.67 より引用)
要は十勝の「長節湖」と意味するところも同じではないか、ということですね。chi-o-pus-i で「自ら・湖口・破裂する・もの」ではないか、という考え方です。

鳥? 槍?

ところが、午手控にはこんな記述がありました。

   子モロ領地名の訳聞書き
チカツフシ むかしりはヲヽフシと云り。括槍もて河魚など捕る事を云よし。ヲヽフは括槍也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.363 より引用)※ 原文ママ
「チカツフシ」は chikap-us-i で「鳥・多くいる・ところ」のように見えます。また「河魚などを捕る」ともあり、これらの記述は永田地名解の chep-us-i で「魚・多くいる・ところ」説を裏付けるようにも見えます。

ただ一方で「ヲヽフは括槍也」とあるのですが、「槍」を意味する op という語があります。昔は「ヲヽフシ」と言った……とありますが、o-pus-iop-us-i と勘違いした……という可能性もありそうな気がします。o-pus-i は「湖口・破裂する・もの」なので、これは上原熊次郎の説とほぼ同じなんですよね。

ということで

結局のところ、どっちを取るか……という話になってしまうのですが、「オッカイベツ川」の項でも記したとおり、このあたりでの永田地名解の内容はちょっと不思議な感じのするものが多い印象があります。

「午手控」は「長節」を op-us-i ではないかとしましたが、永田地名解では北隣の(と言ってもそこそこ離れている)「オッカイベツ川」を op-kar-pet ではないかとしたのは、ちょいと気になるところですが……。

今のところ、chep-us-i 説を唱えていたのは永田地名解だけのように見えますし、十勝の「長節ちょうぶし湖」と同じく「自ら湖口を破るもの」ではないかとする考え方は、現地の地形でも「不可能では無い」ように見えます。

十勝の長節湖とは異なり、目ぼしい流入河川が見当たらないというところが若干弱いのですが、湖水が伏流しない限り、いつか溢れてしまうので……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2023年4月14日金曜日

きのうの出来事(2023/4/13)

何故か一日遅れで「きのうの出来事」をお届けします。「東京九州フェリー」の横須賀フェリーターミナルには、どこかで見たことのあるようなカラーリングのフェリーがまさに接岸しようとしていました。
3 甲板「お客様入口」から船内に入って……

2023年4月13日木曜日

きのうの出来事(2023/4/12)

昨日の出来事ですが(題名を見ればわかる)、鳥羽港フェリーターミナルにやってきました。ビルの 1F が乗船車の待機車列で、2F が切符売り場・待合所・売店・レストランという凄く理に適った設計です。
指定された車列に駐車して……

2023年4月12日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (26) 「下白滝信号場」

特別快速「きたみ」は丸瀬布を出発し、とある踏切を通過しました。
この踏切はおそらくここだと思うのですが、事実上、この農家さん専用の踏切なんでしょうか……?


【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

線路と国道の間には広い畑が広がっています。このあたりは「遠軽町丸瀬布南丸」とのこと。

2023年4月11日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (25) 「丸瀬布」

特別快速「きたみ」は瀬戸瀬をして西に向かいます。(2017 年)3 月 19 日に延伸したばかりの「旭川紋別自動車道」が見えています。供用開始から 1 ヶ月ちょいなので、まだまだピッカピカですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

旭川紋別自動車道が随分と近くに寄ってきました。石北本線の右隣には国道 333 号が通っていて、ここは湧別川沿いの交通の要路が一堂に会する場所……と言えそうでしょうか。

2023年4月10日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (24) 「瀬戸瀬」

特別快速「きたみ」は遠軽を出発しました。石北本線は湧別川の北側にある僅かな平地を縫うように走ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

新栄野駅(廃止)

かつて遠軽の瀬戸瀬の間に「新栄野駅」という駅があった、らしいのですが……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
1977 年頃の航空写真を見てみると……あっ、確かにそれらしきものが見えますね! 「野上仮乗降場」が設置されたのが 1946 年で、1967 年に「新栄野仮乗降場」に改称後、1987 年に駅に昇格し、2006 年に利用者僅少のため廃止されたとのこと。

かつての新栄野駅の写真を、Wikimedia Commons からお借りしました。

2023年4月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1028) 「桂木・オワッタラウシ川・オッカイベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

桂木(かつらぎ)

kan-char-moy?
上方にある・口(河口)・湾
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室駅の南東に「航空自衛隊根室分屯基地」がありますが、自衛隊の南東側一帯の地名……ということで良いでしょうか(誰に聞いている)。同名の四等三角点が自衛隊の南南西、JR 根室本線(花咲線)の近くにあります。

戦前の「陸軍図」には「カツラムイ」と描かれています。明治時代の地形図には「イヌヌシ」という名前の川と「カンサラモイ」という名前の湾が描かれていました。どうやら、本来は南側の湾の名前である「カンサラモイ」が「カツラムイ」に化けたようにも思われますが、「角川日本地名大辞典」(1987) を見てみると……

もとは根室町大字友知村の一部,友知・トモシリ・カツラモイ・友知街道・三番沢・坂ノ下・花知街道東側・花知街道・カツラムイ・友知村・カンザラムヰ。江戸期はカンサラムイと呼ばれた地域で,アイヌ語で「大口の湾」を意味する(戊午日誌)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.365 より引用)
あー、やはり。本題に入る前にちょいと気になったのですが、引用文にある「花知街道」というキーワードが、ググっても存在を確認できないのですね。「花咲街道」の誤字なのか、それともかつて「花咲」と「友知」を結ぶ街道が存在したのか……。

「カンサラムイ」は「大口の湾」だそうですが、ネタ元とされる戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」を見てみると……

下りて
     カンサラムイ
此処また両岸峨々たる壁立の小湾也。其岩壁に岩窟多し。カンサラとはカンチヤロの訛り、ムイは湾也。大口の湾と云義也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.581 より引用)
確かに「大口の湾」と明記されていますね。ただ「カンサラ」や「カンチヤロ」に「大口」という意味があるかと言われると、うーん……。内心「そんな筈は無い」と思いながら調べてみると、「午手控」(1858) に次のような記録が見つかりました。

カンサムライ
 口が大きい湾と云事、カンチャロと云り
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.363 より引用)
「カンサラムイ」が「カンサイ」になってますが、それはさておき。ここでもやはり「カンチャロ」で「口が大きい」としているようです。

こうなると世界の永田方正さんの見解が気になりますよね(都合の良い時だけとことん持ち上げるスタイル)。ということで永田地名解 (1891) を見てみると……

Kansara moi   カンサラ モイ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
……。世界の永田方正さん、そりゃ無いぜ……。

「カンチャロ」が「口が大きい」と言うのは良くわからないのですが、kan-char-moy で「上方にある・口(河口)・湾」と解釈できそうな気がします。多分この地形を指したものじゃないかと……。


西側の高台から川が湾に向かっていて、高台を一気に滑り降りているように見えます。もしかしたら kan-charse-moy で「上方にある・滑り落ちる・湾」だった可能性もあるかも知れませんね。

オワッタラウシ川

o-hattar-us-i
河口・淵・ついている・もの(川)
(記録あり、類型あり)

2023年4月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1027) 「オンネ沼・タンネ沼」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンネ沼(──とう)

onne-to
大きな・沼
(記録あり、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室友知の西にある沼(海跡湖かな?)です。沼の名前は「オンネ沼」ですが、流出河川は「温根沼第 1 川」と表記されています。onne-to で「大きな・沼」じゃないの? と思われるかもしれませんが……多分その通りでしょう(ぉぃ)。

トヘトマイに沼は存在したか

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トヘトマイ」という地名?と「ヲン子トウヘツ」という沼?が描かれていました。……あれ? ちょっと良くわからなくなってきたので、今回はいきなり表を作ってみました。

東西蝦夷
山川地理取調図
初航蝦夷日誌 (1850) 戊午日誌 (1859-1863)
「東部能都之也布誌」
明治時代の
地形図
陸軍図
カンサラムイカンチヤリモイカンサラムイカンサラモイカツラムイ
イヌウシエヌエウシ [奥に沼有]エヌエウシ [上に沼有]イヌヌシ
ナンフウトナンブトウ [上に谷地有]ナムプトー南部沼
タン子トウヘツアン子トウ [上に沼有]?ン子トー
ヲン子トウヘツヲン子トウベツ
[奥に沼有]
ヲン子トーベツ
[上に谷地有]
オン子トー温根沼
トヘトマイトベトマイ [奥に沼有]トヘトマイ [沼川]
トモシリウシノツトモシリウシトモシリウシノツ友知崎

何を気にしているかと言うと、「初航蝦夷日誌」には次のように記されているのですね。

     トベトマイ
此辺奥第一番の暖地也。小川有。此川のまた奥ニ沼有。周廻凡十五丁斗とも有るよし。又并而砂道壱丁斗行而
     ヲン子トウベツ
川有。此奥にも沼有。周廻十五丁と聞り。海岸よりは見えず。また壱丁斗行而
     ヱヌヱウシ
小川有。奥に沼有。凡周廻十五丁も有るよし聞り。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.444 より引用)
「トベトマイ」「ヲン子トウベツ」「ヱヌヱウシ」のいずれも「奥に沼有」と記されていて、沼はいずれも「周廻十五丁」とあります。ただ、現在の「オンネ沼」の周回は 4 km 弱のようで、15 町だと 1.6 km ほどということになり、大きな隔たりがあります。

もっともこのあたりの「初航蝦夷日誌」に記録された距離は実際の距離とかけ離れている場合が多いので、私のほうで何か計算を間違えている可能性もありそうです。

ただ、それ以上に重大な問題は、三つある沼のうち「ヲン子トウベツ」が二つ目に記録されているという点です。現在の地形図では、東から「オンネ沼」「タンネ沼」「南部沼」が並んでいるので、東から記載した場合は「オンネ沼」は最初に来る筈なのですが、「初航蝦夷日誌」の記述を信用すると「ヲン子トウベツ」(=オンネ沼?)の東にも沼が存在することになってしまいます。

「トヘトマエの岬」

戊午日誌「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

     カンサラムイ
此処また両岸峨々たる壁立の小湾也。其岩壁に岩窟多し。カンサラとはカンチヤロの訛り、ムイは湾也。大口の湾と云義也。是より砂浜まゝ行に、向の方にトヘトマエの岬を見て、眺望至極妙也。左り平地にて広漠。是より凡一里半も砂地也。しばし行、
     エヌエウシ
小川有。上に周五丁計の沼有。其より落来る。此辺砂地也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.581 より引用)
この「カンサラムイ」ですが、Google マップには「(株)キタウロコ荒木商店 事務所・第二工場」とあるポイントから見て東、「渡辺運輸(株)」の南に位置する湾のことだと考えられます。

また「トヘトマエの岬」とあるのも要チェックで、これは現在の「トモシリ岬」のことだと考えられます。なるほど、どうやら現在の「根室市友知」は、かつては「トヘトマイ」と呼ばれていたっぽいですね。

トヘトマイに沼は存在したか、再び

戊午日誌「東部能都之也布誌」には「カンサラムイ」「エヌエウシ」「ナンブトウ」「アン子トウ」「ヲン子トーヘツ」「トヘトマイ」「トモシリウシノツ」と言った地名等が記録されていて、うち「エヌエウシ」「ナンブトウ」「アン子トウ」「ヲン子トーヘツ」に沼があるとしています。

そして、こんなところにトラップが仕掛けられていました。

また沙浜しばし過
     トヘトマイ
小川、本名トヘツヲマイの由。沼川有ると云義なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.582 より引用)
これは「初航蝦夷日誌」にて「此川のまた奥ニ沼有」と記されていた「トベトマイ」のことですが、どうやら「根室市友知」のことらしい……というところまで見えてきました。地理院地図を見た限りでは「根室市友知」には沼は見当たらないのですが、戊午日誌を良く見ると「沼川有ると云義なり」とあるものの「沼があるよ」とは書いてないんですよね……(!)。

「根室市友知」には「友知川」と「端谷川」という川が流れていて、このことを tu-pet-oma-i で「二つ・川・そこにある・ところ」と呼んだのではないか……と考えてみました。ただすぐ西に「ヲン子トウヘツ」や「タン子トウヘツ」「ナンフトウ」などの沼や川が目白押しだったため、tu-petto-pet と勘違いして「沼川有る」という話になったのではないかと……。

「初航蝦夷日誌」は「タン子トウ」を書き漏らしてしまったものの、うっかり「トベトマイ」でも(実際には有りもしない)「沼がある」としてしまったため、結果的に沼の数が合ってしまった……というオチのように思われます。

一瞬で終わる本題

ということでようやく本題ですが(おい)、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Onne tō   オンネ トー   大沼
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
やっぱり onne-to は「大きな・沼」と見て良さそうですね。

タンネ沼(──とう)

tanne-to
長い・沼・川
(記録あり、類型あり)

2023年4月7日金曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (23) 「遠軽」

遠軽の市街地に入りました。留辺蘂や生田原と比べると格段に大きな町ですが、よく考えたら留辺蘂は今や北見市ですし、生田原も今は遠軽町なので、遠軽の市街地が大きいのは当たり前だったかも……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

湧別川を渡ります。まるで湖の流出河川のような水量ですが、雪解け水でここまで増水するものなんですね……。

2023年4月6日木曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (22) 「安国」

特別快速「きたみ」が速度を落としました。間もなく安国駅に到着のようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

安国駅(A51)

線路と ATS 地上子が見えてきました。ところでこの「ATS 地上子」っていつからこの形なんでしょう……? もしかして今はもっと小さなタイプもあったり、目立たなくなっていたりするんでしょうか。

2023年4月5日水曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (21) 「生野」

特別快速「きたみ」が生田原を出発して……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

生野駅(A52・2021/3/13 廃止)

4~5 分後、眼前には広々とした野原が広がっていました。ここは牧草地でしょうか……?

2023年4月4日火曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (20) 「生田原」

常紋トンネルを抜けて遠軽町に入りました。窓の外にはチシマザサが生い茂っていますが、そう言えば「生田原」も iktara で「笹」に由来するんじゃないか……なんて話もありましたっけ。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おや、こんなところに池と廃バスが……。手前の「3」もちょっと気になるところです。

2023年4月3日月曜日

石北本線ほぼ各駅停車 (19) 「常紋信号場(跡)」

特別快速「きたみ」は金華信号場から常紋トンネルに向かって北上します。そろそろトンネルかな、というところで……おや?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

こんなところにお地蔵様が。このお地蔵様は「歓和地蔵尊」と言うそうで、常紋信号場(跡)のすぐ近くにあります(こうやって車窓から写真に収められる程度に近いです)。

2023年4月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1026) 「友知・チトモシリ島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

友知(ともしり)

tomo-sir-us-i??
中間・地面・ついている・ところ
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室双沖ふたおきの西、トモシリ岬に連なる台地の西側一帯の地名です。同名の川が流れているほか、南には「トモシリ岬」があり、その沖合には「チトモシリ島」と「友知島」があります。根室市友知の沖合は「友知湾」のようで、となるとあとは「山」と「沼」が欲しいところですね……。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トモシルシ」という島(どちらの島を指すのか不明、総称かも)と「トモシリウシノツ」という岬が描かれています。

「間の地」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Tum-o-shiri ushi  ト゚モシリ ウシ  間ノ地 二岬ノ間ニアル灣ヲ云ナリ「トモシルシ」ト呼ブ○友知村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
ちょいと珍しい解が出てきた……かと思ったのですが、これは「その中、中間」を意味する tomo の概念形 tom のことでしょうか。「釧路地方のアイヌ語語彙集」によると、tom は次のように記されていて……

tom【位名】[概](所は tomo)途中、間(あいだ)。ru tom ta 道の途中で(に)。〔138-4〕イルカ トムタ(iruka tom ta)少し時がたって〈伊賀〉
(釧路アイヌ語の会・編「釧路地方のアイヌ語語彙集」藤田印刷エクセレントブックス p.162 より引用)
一方、tum については次のように記されていました。

tum 【位名】[概](所は tumu) 中。uwatte sisamtum ta たくさんの和人の中で。〔68-8〕aynu tum ta okay wa アイヌのなかで暮らして。〔274-4〕
(釧路アイヌ語の会・編「釧路地方のアイヌ語語彙集」藤田印刷エクセレントブックス p.167 より引用)
これは……ほぼ同じようにも見えますが、びみょうにニュアンスの違いがあるようにも感じられます。そもそも tum-o- という用例が実在するのか……というところから疑ってかかりたいところです。

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

友知 ともしり
 根室市街の東南,太平洋岸の地名,島名,岬名,湾名。永田地名解は「トゥモシルシ tum-shir-ushi。湾島。直訳間の地面と云ふ義なり。二岬の間にある地面を云ふ」と書いた。どうもはっきりしない解であるが,友知湾内の土地を指したものか?
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.243 より引用)
あれ? 永田地名解を引用した筈なのに、なんか全然内容が異なるような……。改めて永田地名解を読み直してみると、山田さんが引用した内容は「島嶼」の項にありました。

Tumo shir'ushi   ト゚モ シルシ   灣島 直譯、間ノ地面ト云フ義ナリ「トモ、シリ、ウシ」ノ急言ニシテ二岬ノ間ニアル地面ヲ云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.364 より引用)
ちなみにこの内容、良く見ると Tum-oTumo になったくらいで、他は殆ど違いが無かったりするんですよね。ただ、一番疑問に思った部分(-o)だけ微修正された感じで、なんか「ぐぬぬ……」という感じです(山田さんが Tumo をしれっと tum に直しているのは謎ですが……?)。

Tumo というのも tumu なのか tomo なのか謎ですが、まぁ決定的な違いは無さそうな気もします。tomo-sir-us-i で「中間・地面・ついている・ところ」と考えられそうです。もしかしたら tomo-mosir で「中間・島」だったものが、mo の重複を嫌って tomo-sir に化けたという可能性も……あるかも?

「二つの島」説

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

海上十余丁を隔てゝ
      トモシリ
 と云て、周十五六丁位の島二ツ有、其儀トツフモシリの転じたるなり。トツフは二ツ、モシリは島也。平山にして岸は皆岩なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.583 より引用)
これは島のことを tu-mosir で「二つの・島」と呼んだということですね。tup は「二つ」という意味ですが、tup-mosir という組み合わせが地名として適切かどうかは……これまた個人的にはちょっと疑問が残ります。まぁ tu-mosir だとすれば特に問題無さそうな気がするのですが……。

この考え方は更科源蔵さんも追認していたようで、山田秀三さんも「北海道の地名」で次のように締めていました。

ただ音だけでいうならばトゥ・モシリ・ウㇱ・イ(tu-moshir-ush-i 二つの・島が・ある・処)とその辺を呼んだのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.243 より引用)
この考え方は納得の行くもの……だと思っていたのですが、「チトモシリ島」の存在にちょいと疑問を持ってしまい……。続きます!(ぉ)

チトモシリ島

si-tomo-mosir??
主たる・中間・島
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年4月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1025) 「沖根辺川・沖根婦川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

沖根辺川(おきねべ──)

o-pinne-pet??
河口・大きな・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ヒキウス川」と「ヒキウス沼」の西を流れる川で、下流部に「オキネベ沼」という名前の海跡湖(だと思う)があるほか、「オキネベ沼」の東には(何故か)「沖根別」という名前の四等三角点があります。流域一帯はかつての「沖根邊村」ですが、現在は西隣の旧「沖根婦村」のエリアと合わせて「根室双沖ふたおき」となっています。

「ヲケ子」と「ヲヒ子」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シキウシ」(=ヒキウス川)の西に「ヲヒ子ヘツ」とあり、その西に「ヲケ子ヘツ」という川が描かれています。「ヲヒ子ヘツ」と「ヲケ子ヘツ」の間には「ヒ子ヘツイシヨ」という岩礁も描かれています。

一方、「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

并而
     シキウシ
小川有。越而弐、三丁に而
     ヲケ子ベツ
小川有。砂浜にし而道よし。越而五、六丁ニ而
     ヲヒ子ツ
小川有。并而三丁斗
     ホフケチセンヘ
小川有。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.444 より引用)
ん……? よーく見ると「ヲケ子ベツ」と「ヲヒ子ヘツ」の順番が逆になっていますね。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」ではどうなっているかと言うと……

     ホフケ(チ)センベ
大岩平の傍え下り小川有。其儀地形南を向て有、南風吹哉否暖気に成るが故に号るなり。並びて〔三十二間〕
     ヲヒ子ベツ
詰てヲヒ子フと云り。其訳不レ知。小川有、上は茅野赤楊原也。並びて転太原をしばし行哉前に一ツの岩島有。行て
     ヲケ子ベツ
小川有。此上野原にして赤楊原。また小石原のより昆布の多き処をしばし行て
     シキウシ
本名シ(ニ)ウシのよし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.583-584 より引用)
これまたややこしい話ですが、「初航蝦夷日誌」は東から西に向かって、そして「東部能都之也布誌」は西から東に向かって記されています。結論から言えば「東西蝦夷山川地理取調図」だけ「ヲヒ子ヘツ」と「ヲケ子ヘツ」の順番が入れ違いになっている、ということのようです。

更に混迷の度合いが深まる

……と思ったのですが、明治時代の地形図を見てみると、現在の「沖根辺川」の位置に「オピ子ペツ」とあり、現在の「沖根婦川」の位置には川名の記入が無く(!)、両河川の間を流れる「第 1 オキネップ川」の位置に「ケ子ペツ」と描かれていました。これは……カオスですね……。

更に「午手控」(1858) を見てみると、より訳の分からないことになっていました。これは……表の出番でしたね(汗)。

東西蝦夷
山川地理取調図
初航蝦夷日誌東部能都之也布誌午手控明治時代の地形図OpenStreetMap
シキウシシキウシシキウシシキウシシキウシヒキウス川
ヲヒ子ヘツヲケ子ベツヲケ子ベツヲヒ子ベツオピ子ペツ沖根辺川
ヲケ子ヘツヲヒ子ツヲヒ子ベツヲヒ子フケ子ペツ第 1
オキネップ川
沖根婦川
ホフケチセンベホフケチ
センヘ
ホフケシセンベホフケシ
センベ
ン?チセイ
ウンペツ

こうやって表にまとめることで……更に訳の分からないことに(汗)。中でも混乱に拍車をかけているのが、明治時代の「ケ子ペツ」と現在の「沖根婦川」の位置が異なることです。また、少なくとも「ヲ子──」と「ヲ子──」の使い分けが存在した……と思っていたのですが、「午手控」ではどちらも「ヲヒ子──」になっています。

「川尻の大きな川」?

このまま突き進んでも怪我しそうな気がするので、ちょいと向きを変えて永田地名解 (1891) を見てみると……

Pok chisei un-be  ポク チセィ ウンベ  蔭ニ家アル處 「ポツケチセンベ」ト云フ
O kene pet     オ ケネ ペッ     赤楊川 沖根婦村
O pine pet     オ ピネ ペッ     川尻大ナル川 「ピネ」ハ大ナリ
Shiki ushi     シキ ウシ       鬼茅多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
永田方正は「初航蝦夷日誌」や戊午日誌「東部能都之也布誌」とは逆の順序で「オケネペッ」と「オピネペッ」を記録していました。別の言い方をすれば「東西蝦夷──」や明治時代の地形図と同じ順序ですが、明治時代の地形図は永田地名解の影響を受けている可能性も考えられるので、手放しで肯定できるものでは無いかもしれません。

ここで改めて「午手控」を引用してみたいのですが……(結局引用するのか

     ホフケシセンベ
此処大岩平也。此少し東へ下る
     ヲヒ子フ
小川有、少しの浜、又三四丁のさきの上をこへて、草原也
     ヲヒ子ベツ
小川、上に沼一ツ有、此沼は鮭入るよし也。又七八丁の山こへ草原也。下りて
     シキウシ
小川有。此処小屋跡有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.243-244 より引用)
ここに来て気になる記述が……。「ヲヒ子ベツ」のところに「上に沼一ツ有」とあるのですが、これは現在の「オキネベ沼」のこと……でしょうか? ただ、「オキネベ沼」より大きい筈の「ヒキウス沼」についての記録が見当たらないのが少々解せないですね。

結局は消去法で

改めて永田地名解を振り返ってみると、「沖根辺」は o-pinne-pet で「河口・大きな・川」と読めそうです。この特徴に最も合致するのがお隣の「ヒキウス川」というのが皮肉なところですが、少なくとも「沖根婦川」では無いと見て良さそうでしょうか……?

pinne を「大きな」としましたが、本来は「男性の」あるいは「オスである」と言った意味で、川名として使われているケースがあったかどうか、ちょっと思い出せないんですよね。

沖根婦川(おきねっぷ──)

o-kene(-us)-pet?
河口・ハンノキ(・ある)・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)