(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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落石(おちいし)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市昆布盛の南に「根室市浜松」というところがあり、更にその南が「根室市根室市浜松と落石の中間あたりに、JR 根室本線(花咲線)の「落石駅」があります。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。
落 石(おちいし)
所在地 根室市
開 駅 大正9年11月10日
起 源 アイヌ語の「オㇰチン」(山の尾根のくぼみ)から転かしたもので、落石岬が本土につながるくぼみをいったものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.157 より引用)※ 原文ママ
えっ……? 「オㇰチ落石駅(おちいし)
所在地 根室国根室郡和田村
開 駅 大正九年十一月十日
起 源 アイヌ語「オㇰチシ」(山の鞍部) からの転訛で、落石岬と本土との間の凹部をいったものであろう。
(「北海道駅名の起源(昭和 29 年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.374 より引用)
ですよねー。やはり「オㇰチ「落石」は ok-chis に由来すると思われますが、紋別にも同名の「落石町」があるほか、北樺太にも「落石」と呼ばれた場所があったとのこと。また枝幸町の「乙忠部」も ok-chis-un-pe の可能性がありそうな感じでしょうか。ここまで見ると道東・道北方面ばかりのような気もしますが、道内全域でポツポツと存在するっぽい感じです。
ok-chis 自体が知里さんの「──小辞典」に立項されていましたので、引用しておきます。
ok-chis, -i おㇰチㇱ【H 南】人体について云えば‘ぼんのくぼ’。地形について云えば‘峠’。[ok(うなじ)chis(中くぼみ)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.74 より引用)
ok-chis は「うなじ・中くぼみ」で、落石岬のあたりを後頭部と見立てた場合、落石の集落のあたりが首の部分に相当する……ということなんでしょうね。ホロニタイ川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JR 根室本線(花咲線)の「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ホロタヘ」と描かれていました。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていたのですが……
過て
ホロンタイ
小川、上に谷地有、其より落来る。此川魚類多きが故に、川まゝ括槍にて魚を取るによろしと云儀のよし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.562 より引用)
「ホロンタイ」が「括槍にて魚を取るによろし」となる理屈が良くわからないんですよね。「槍」は op と呼ぶことが一般的だと思われますが、ni で「棒」と考えたのか、あるいは nit で「串」と考えたのか……。ta も「切る」だったり「掘る」だったりするので、やはり意味不明な感じが……。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。
Poro nitai ポロ ニタイ 大林 楢樹多シ普通はこう考えたくなりますよね。ただ、永田地名解はここ暫く、古くからの言い回しを改変してまで平易な解を出しているように見受けられるので、ちょっと疑ってかかったほうが良さそうな気もします。ということで秦檍麿の「東蝦夷地名考」(1808) を見てみると……
一 ホロタイ
大平と譯す。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.34 より引用)
むむ。「ホロタイ」というのは「東西蝦夷山川地理取調図」の「ホロタヘ」に近いですね。nitay も tay も「林」あるいは「森」といった意味ですが、ホロニタイ川の流域は「フレシマ湿原」と呼ばれる湿原なのが引っかかっています。湿原の北の高台には森が広がっているので、そのことを指して poro-tay で「大きな・林」と呼んだ……と考えれば(一応は)整合性が取れそうな気がします。ただ別の可能性として、poro-etaye で「大きな・引っ張る」とかだったり……しないでしょうか?
現在の「ホロニタイ川」は、近辺の川と比べると流域が広く、水源が比較的奥のほうにあります。このことを指して「大きな・引っ張る(・川?)」と呼んだ……とかだったら面白いのになぁ、というお話です(ぉぃ)。
フレシマ川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
別当賀駅の南を流れるホロニタイ川の下流部に「フレシマ湿原」がありますが、「フレシマ川」は「フレシマ湿原」の 1.6 km ほど西を流れています。どうしてこうなった系の話ですが、割と良くある話でもありますよね(汗)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) や「初航蝦夷日誌」(1850) には「フウレシユマ」とあります。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。
並びて
フウレシユマ
砂浜畳を敷し如き平地、此辺上平地也。大なる赤岩有。よつて号よし。フウレは赤し、シユマは岩と云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.561 より引用)※ 原文ママ
やはりと言うべきか、hure-suma で「赤い・岩」と見て良さそうな感じですね。河口のすぐ近くの海にも、ちゃんと岩が見えます。ここから更に 1.6 km ほど西にも岩礁のある岬があり、もしかして「フウレシユマ」はこっちじゃないか……と気になって調べてみたのですが、どうやらそれは杞憂っぽい感じでした。わざわざ書くまでもない内容でしたが、まぁ書いてしまったんで消さずに残しておきます(ぉぃ)。
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