2023年4月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1030) 「昆布盛・ユルリ島」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

昆布盛(こんぶもり)

kompu(-us)-moy
昆布(・多くある)・湾
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
温根沼おんねとうの南東、長節ちょうぼし湖の南に位置する地名で、JR 根室本線(花咲線)に同名の駅があります。

同音異字の「昆布森」が釧路町にあります。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「チヨフシ」の南に「コンフムイ」と描かれていて、更にその南に「コンフムイノツ」と描かれています。これらは現在の昆布盛の集落と、漁港の南の岬を指していたと考えられます。

明治時代の地形図には「昆布盛村」の「コムプモイ」とあります。ということは永田地名解 (1891) にも……

Komp moi   コㇺプ モイ   昆布灣 昆布森村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.361 より引用)
地図には「昆布村」とあるのですが、永田地名解は「昆布村」ですね。この辺はやはりと言うべきか、多少の表記揺れもあったようで、明治時代の地形図では漁港の南の岬に「昆布崎?」と描かれている……ようにも見えます。

「初航蝦夷日誌」(1850) には「コンブモヱ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

過るや廿丁計にて下り
     コンフムイ
此処南に一ツの岩岬有、少しの湾に成る。コンフムイ実はコンフウシムイのよし。全(く)昆布多く有るより号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.565 より引用)
あー。「コンフムイ」は kompu-moy で「昆布・湾」を意味し、より正確には kompu-us-moy で「昆布・多くある・湾」だよ、とあります。これ以上疑問を差し挟む余地はなさそうな感じですね。

そうだ。せっかくなので「北海道駅名の起源」も見ておかないと……。

  昆布盛(こんぶもり)
所在地 根室市
開 駅 昭和36年2月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「コンプ・モイ」(コンブのとれる湾) から転かしたもので、今も良質のコンブを産出している。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.157 より引用)
「開駅」が「昭和 36 年」というのがちょっと意外な感じがしますが、「東根室駅」の開駅も昭和 36 年とのこと。厚床から西和田まで鉄道が延伸したのが 1920(大正 9)年とのことなので、昆布盛に駅ができたのは鉄道が開通してから 41 年後だったことになります。

ちょいと余談を

疑問を差し挟む余地が無くなったので余談ですが(ぉぃ)、知里さんの「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のように記されていました。

kompu  こㇺプ 【H 南】コンブ。=sas.
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)
「温泉」を意味する語として sesek-i があり、また和語からの移入語彙と見られる yu もあるのですが、「昆布」もどうやら似たような感じのようで、saskompu の両方が確認できます。

kompu は【H 南】、即ち「北海道南部方言地帯」で使われるとありますが、古くから和人との接触があったエリアで使用される語と見て良さそうでしょうか。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハナサキ」という地名(=根室市花咲)も描かれていますが、これは和語由来だとされているので、「コンプ」や「ハナサキ」という地名の存在は、和人の *進出* が比較的早かったことを示している……と言えそうです。

ユルリ島

ir-huri??
ひと続きである・丘
urir?
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
昆布盛の東に浮かぶ無人島です。馬が生息する島として知られますが、もともとはユルリ島の住民が持ち込んだもので、1971(昭和 46)年に無人島となった際に馬は島に残されたため、「何故か馬だけが生息する島」になってしまったとのこと。

「ユルリ島」=「由留利島」?

野生化した馬の数奇な運命についての興味も尽きませんが、本題に戻りましょうか。現在の「ユルリ島」には灯台と二等三角点「由留利島」があり、「ユルリ」に「由留利」という字を当てようとしたことを伺わせます。

「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ユルリ」と「モユルリ」という島が描かれています。また「モユルリ」の北東には「エタシヘモシリ」「ホンシヨ」「キナシユトマフ」と言った島(あるいは岩礁)が描かれています。

陸軍図にも「ユルリ島」「モユルリ島」と描かれています。余談ですが「モユルリ島」の北東に「トド島」という島が描かれていて、これは「東西蝦夷──」の「エタシヘモシリ」を和訳したもののように見えます。不思議なことに、現在は「カニ岩」という名前になってしまっていますが……。

「ユルリ」じゃなく「ウリリ」?

もっと不思議なことがありまして、明治時代の地形図には「ユルリ島」「モユルリ島」ではなく「ウリリ島」「モウリリ島」(そして北東に「蟹岩」)とあります。

なんかややこしい話になりそうなので、表の出番でしょうか。

ユルリ島モユルリ島カニ岩カモ島
東蝦夷地名考ユルリ嶼---
大日本沿海輿地図ヲン子イルリシマモイルリ北大岩--
蝦夷地名考幷里程記ユルリ嶋---
初航蝦夷日誌ユルリモヱルリヱタンベヱシリキナシユツチマフ
東部能都之也布誌ユルリモユルリヱタシヘ(モ)シリキナシユワヲマフ
東西蝦夷
山川地理取調図
ユルリモユルリエタシヘモシリキナシユトマフ
永田地名解ウリリモ ウリリイタㇱュベ モシリキナㇱュト゚マㇷ゚
明治時代の地形図ウリリ島モウリリ島蟹岩鴨島
陸軍図ユルリ島モユルリ島トド島-
地理院地図ユルリ島モユルリ島カニ岩カモ島

これを見る限り、松浦武四郎が「ユルリ」と記録した島を永田方正が「『ユルリ』じゃない『ウリリ』だ!」としたものの、結局「ユルリ島」に戻った……ように思われます。

「鵜の島」?

今更感がありますが、永田地名解には次のように記されていました。

Uriri      ウリリ     鵜(鳥)「ユルリ」ニアラズ
Mo uriri   モ ウリリ   鵜ノ居ル小島「モユルリ」ニアラズ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.364 より引用)
どうやら urir で「」ではないか……とのこと。現在はこの解が定説になりつつあるような感じでしょうか。ただ、先程の表からもわかるように、永田地名解の「ウリリ」という解は異色のもので、殆どの記録が「ユルリ」としている点に注意が必要ではないかと思われます。

また「ユルリ島」を「緩島」と表記したケースもあったそうです。「ユルリ」が「ウリリ」なのであれば「瓜」や「売」の字を使うこともできたのでは……と思いたくなりますが、少なくとも「ユルリ」と認識するほうが優勢だった……と言えるのではないかと。

「ユルリ」は「イルリ」?

上原熊次郎の「蛾夷地名考幷里程記」には次のように記されていました。

扨、此海岸(変体仮名)凡一里程沖の方にユルリ「嶼」といふあり。諸廻船風待をなして、下り船は瀬戸の難所を通るなり。且又、ユルリとは、夷語にイルリといふ。則、細長いといふ事にて、此嶋平嶋にして細長き嶼なる故、此名あるよし。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.67 より引用)
また、伊能忠敬の「大日本沿海輿地図蝦夷地名表」にも「ヲン子イルリシマ」「モイルリ北大岩」とあります。ここ最近「オッカイベツ川」や「長節」などで永田地名解の「新説」が尽く消え去っているのですが、なんか今回も……?

伊能忠敬や上原熊次郎が記した「イルリ」をどう解釈したものかという話ですが、ir-huri で「ひと続きである・丘」と読めたり……しないでしょうか。いや、海の中に hur(丘)というのは他に例がない……というのは重々承知ですが……(汗)。

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