2023年4月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1028) 「桂木・オワッタラウシ川・オッカイベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

桂木(かつらぎ)

kan-char-moy?
上方にある・口(河口)・湾
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室駅の南東に「航空自衛隊根室分屯基地」がありますが、自衛隊の南東側一帯の地名……ということで良いでしょうか(誰に聞いている)。同名の四等三角点が自衛隊の南南西、JR 根室本線(花咲線)の近くにあります。

戦前の「陸軍図」には「カツラムイ」と描かれています。明治時代の地形図には「イヌヌシ」という名前の川と「カンサラモイ」という名前の湾が描かれていました。どうやら、本来は南側の湾の名前である「カンサラモイ」が「カツラムイ」に化けたようにも思われますが、「角川日本地名大辞典」(1987) を見てみると……

もとは根室町大字友知村の一部,友知・トモシリ・カツラモイ・友知街道・三番沢・坂ノ下・花知街道東側・花知街道・カツラムイ・友知村・カンザラムヰ。江戸期はカンサラムイと呼ばれた地域で,アイヌ語で「大口の湾」を意味する(戊午日誌)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.365 より引用)
あー、やはり。本題に入る前にちょいと気になったのですが、引用文にある「花知街道」というキーワードが、ググっても存在を確認できないのですね。「花咲街道」の誤字なのか、それともかつて「花咲」と「友知」を結ぶ街道が存在したのか……。

「カンサラムイ」は「大口の湾」だそうですが、ネタ元とされる戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」を見てみると……

下りて
     カンサラムイ
此処また両岸峨々たる壁立の小湾也。其岩壁に岩窟多し。カンサラとはカンチヤロの訛り、ムイは湾也。大口の湾と云義也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.581 より引用)
確かに「大口の湾」と明記されていますね。ただ「カンサラ」や「カンチヤロ」に「大口」という意味があるかと言われると、うーん……。内心「そんな筈は無い」と思いながら調べてみると、「午手控」(1858) に次のような記録が見つかりました。

カンサムライ
 口が大きい湾と云事、カンチャロと云り
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.363 より引用)
「カンサラムイ」が「カンサイ」になってますが、それはさておき。ここでもやはり「カンチャロ」で「口が大きい」としているようです。

こうなると世界の永田方正さんの見解が気になりますよね(都合の良い時だけとことん持ち上げるスタイル)。ということで永田地名解 (1891) を見てみると……

Kansara moi   カンサラ モイ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
……。世界の永田方正さん、そりゃ無いぜ……。

「カンチャロ」が「口が大きい」と言うのは良くわからないのですが、kan-char-moy で「上方にある・口(河口)・湾」と解釈できそうな気がします。多分この地形を指したものじゃないかと……。


西側の高台から川が湾に向かっていて、高台を一気に滑り降りているように見えます。もしかしたら kan-charse-moy で「上方にある・滑り落ちる・湾」だった可能性もあるかも知れませんね。

オワッタラウシ川

o-hattar-us-i
河口・淵・ついている・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市花咲港の北東にある湾に注ぐ川です。地理院地図にも川として描かれていますが、残念ながら川名の記載はありません。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲワタラウシ」と描かれていました。明治時代の地形図には「オワタラウシ」とあり、陸軍図では「オワッタラウシ」となっていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

下りて
     ヲワタラウシ
小川有。其両岸谷地、奥は皆椴山也。浜転太石。左右の岬大岩峨々として高し。是海中に突出するが故に号也。大穴有。また越て山の平を千鳥に上ること三丁にて野道
     ヲワタラウシモイ
といへる岬の上を平野行事凡二十丁にて、下りて
     カンサラムイ
此処また両岸峨々たる壁立の小湾也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.580-581 より引用)
ふむふむ。どうやら「ヲワタラウシ」は川の名前で、川が注ぐ湾を「ヲワタラウシモイ」と呼んだっぽい感じでしょうか。

ということで「ヲワタラウシ」について、世界の永田方正さんの見解を伺ってみると……

O watara ushi   オ ワタラ ウシ   岩石
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.361 より引用)
……? 岩石?

ちょっと「は?」となってしまったので別ルートから。「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 オワッタラウス 桂木と花咲岬の間の海岸。川口が淵になっているの意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.707 より引用)
普通はそう考えますよね。o-hattar-us-i で「河口・淵・ついている・もの(川)」と見て良いかと思います。「地名アイヌ語小辞典」(1956) によると hattar は「水が深くよどんでいる所;ふち(淵)」とあり、ここでは河口の先にある湾が hattar に相当する……ということなんでしょうね。

オッカイベツ川

o-ukaw-pet?
そこで・重なり合う・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
花咲港の西、道道 780 号「花咲港温根沼線」沿いを流れる川です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ウシヤツナイ」と「ヲツカエヘツ」という川名が描かれていますが、どうやら「ヲツカエヘツ」が現在の「オッカイベツ川」のようですね。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

其より落る小川
     ヲツカヘベツ
と云り。本名ウカエヘツと云り。ウカエは背負川と云なり。また一説にホツカイヘツとも云。此辺ホツキ貝多きによつて号。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.577 より引用)
「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヲツカエヘツ」、「初航蝦夷日誌」(1850) では「ヲツカヱベツ」でしたが、「東部能都之也布誌」では「ヲツカヘベツ(ウカエヘツ)」あるいは「ホツカイヘツ」とのこと。

更に面倒くさいなことに、永田地名解 (1891) には異なる解が……

Op karu pet   オㇷ゚ カル ペッ   槍材ヲ取ル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.361 より引用)
永田地名解は「オワタラウシ」を「岩石」と言ってのけた実績があるものの、op-kar-pet で「槍・作る・川」というのはそれなりに納得できるものです(op-kar-us-pet で「槍・作る・いつもする・川」の -us が省略された、と考えれば良いかと)。

ただ、現在の川名は「オッカイベツ川」で、これは「オㇷ゚カルペッ」よりも「ヲツカエヘツ」のほうが近そうに思えます。別の言い方をすると、これは永田地名解の「新解釈」が定着しなかった、と見ることもできます。

「オッカイベツ川」の南は根室市長節ちょうぼしですが(「長節ちょうぼし湖」のあるところです)、永田地名解は長節を「チェプウシ」と解釈していました(ご丁寧にも「『チヨープシ』じゃ無い『チェㇷ゚ ウシ』だ!」という注釈つきで)。この「新解釈」も定着しなかったのですが、永田方正のこのあたりの調査はやや独り善がりなところがあったのではないか、とも思えるのですね。

ということで、「オッカイベツ川」は ukaw-pet で「重なり合う・川」と見て良いかな、と考えています。あるいは o-ukaw-pet で「そこで・重なり合う・川」とかかも……?

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