2023年4月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1025) 「沖根辺川・沖根婦川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

沖根辺川(おきねべ──)

o-pinne-pet??
河口・大きな・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ヒキウス川」と「ヒキウス沼」の西を流れる川で、下流部に「オキネベ沼」という名前の海跡湖(だと思う)があるほか、「オキネベ沼」の東には(何故か)「沖根別」という名前の四等三角点があります。流域一帯はかつての「沖根邊村」ですが、現在は西隣の旧「沖根婦村」のエリアと合わせて「根室双沖ふたおき」となっています。

「ヲケ子」と「ヲヒ子」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シキウシ」(=ヒキウス川)の西に「ヲヒ子ヘツ」とあり、その西に「ヲケ子ヘツ」という川が描かれています。「ヲヒ子ヘツ」と「ヲケ子ヘツ」の間には「ヒ子ヘツイシヨ」という岩礁も描かれています。

一方、「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

并而
     シキウシ
小川有。越而弐、三丁に而
     ヲケ子ベツ
小川有。砂浜にし而道よし。越而五、六丁ニ而
     ヲヒ子ツ
小川有。并而三丁斗
     ホフケチセンヘ
小川有。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.444 より引用)
ん……? よーく見ると「ヲケ子ベツ」と「ヲヒ子ヘツ」の順番が逆になっていますね。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」ではどうなっているかと言うと……

     ホフケ(チ)センベ
大岩平の傍え下り小川有。其儀地形南を向て有、南風吹哉否暖気に成るが故に号るなり。並びて〔三十二間〕
     ヲヒ子ベツ
詰てヲヒ子フと云り。其訳不レ知。小川有、上は茅野赤楊原也。並びて転太原をしばし行哉前に一ツの岩島有。行て
     ヲケ子ベツ
小川有。此上野原にして赤楊原。また小石原のより昆布の多き処をしばし行て
     シキウシ
本名シ(ニ)ウシのよし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.583-584 より引用)
これまたややこしい話ですが、「初航蝦夷日誌」は東から西に向かって、そして「東部能都之也布誌」は西から東に向かって記されています。結論から言えば「東西蝦夷山川地理取調図」だけ「ヲヒ子ヘツ」と「ヲケ子ヘツ」の順番が入れ違いになっている、ということのようです。

更に混迷の度合いが深まる

……と思ったのですが、明治時代の地形図を見てみると、現在の「沖根辺川」の位置に「オピ子ペツ」とあり、現在の「沖根婦川」の位置には川名の記入が無く(!)、両河川の間を流れる「第 1 オキネップ川」の位置に「ケ子ペツ」と描かれていました。これは……カオスですね……。

更に「午手控」(1858) を見てみると、より訳の分からないことになっていました。これは……表の出番でしたね(汗)。

東西蝦夷
山川地理取調図
初航蝦夷日誌東部能都之也布誌午手控明治時代の地形図OpenStreetMap
シキウシシキウシシキウシシキウシシキウシヒキウス川
ヲヒ子ヘツヲケ子ベツヲケ子ベツヲヒ子ベツオピ子ペツ沖根辺川
ヲケ子ヘツヲヒ子ツヲヒ子ベツヲヒ子フケ子ペツ第 1
オキネップ川
沖根婦川
ホフケチセンベホフケチ
センヘ
ホフケシセンベホフケシ
センベ
ン?チセイ
ウンペツ

こうやって表にまとめることで……更に訳の分からないことに(汗)。中でも混乱に拍車をかけているのが、明治時代の「ケ子ペツ」と現在の「沖根婦川」の位置が異なることです。また、少なくとも「ヲ子──」と「ヲ子──」の使い分けが存在した……と思っていたのですが、「午手控」ではどちらも「ヲヒ子──」になっています。

「川尻の大きな川」?

このまま突き進んでも怪我しそうな気がするので、ちょいと向きを変えて永田地名解 (1891) を見てみると……

Pok chisei un-be  ポク チセィ ウンベ  蔭ニ家アル處 「ポツケチセンベ」ト云フ
O kene pet     オ ケネ ペッ     赤楊川 沖根婦村
O pine pet     オ ピネ ペッ     川尻大ナル川 「ピネ」ハ大ナリ
Shiki ushi     シキ ウシ       鬼茅多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.362 より引用)
永田方正は「初航蝦夷日誌」や戊午日誌「東部能都之也布誌」とは逆の順序で「オケネペッ」と「オピネペッ」を記録していました。別の言い方をすれば「東西蝦夷──」や明治時代の地形図と同じ順序ですが、明治時代の地形図は永田地名解の影響を受けている可能性も考えられるので、手放しで肯定できるものでは無いかもしれません。

ここで改めて「午手控」を引用してみたいのですが……(結局引用するのか

     ホフケシセンベ
此処大岩平也。此少し東へ下る
     ヲヒ子フ
小川有、少しの浜、又三四丁のさきの上をこへて、草原也
     ヲヒ子ベツ
小川、上に沼一ツ有、此沼は鮭入るよし也。又七八丁の山こへ草原也。下りて
     シキウシ
小川有。此処小屋跡有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.243-244 より引用)
ここに来て気になる記述が……。「ヲヒ子ベツ」のところに「上に沼一ツ有」とあるのですが、これは現在の「オキネベ沼」のこと……でしょうか? ただ、「オキネベ沼」より大きい筈の「ヒキウス沼」についての記録が見当たらないのが少々解せないですね。

結局は消去法で

改めて永田地名解を振り返ってみると、「沖根辺」は o-pinne-pet で「河口・大きな・川」と読めそうです。この特徴に最も合致するのがお隣の「ヒキウス川」というのが皮肉なところですが、少なくとも「沖根婦川」では無いと見て良さそうでしょうか……?

pinne を「大きな」としましたが、本来は「男性の」あるいは「オスである」と言った意味で、川名として使われているケースがあったかどうか、ちょっと思い出せないんですよね。

沖根婦川(おきねっぷ──)

o-kene(-us)-pet?
河口・ハンノキ(・ある)・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沖根辺川の西、根室市双沖に「沖根婦漁港」があるのですが、現在の「沖根婦川」は漁港周辺の集落の西側で海に注いでいます(他に漁港に直接注ぐ「第 1 オキネップ川」もあり)。漁港の東に「沖根婦」という名前の四等三角点もあります。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 沖根婦(おきねっぶ)
 根室半島の部落名。ここを流れる小川をオケネペッまたは、オケネプと呼んだのからでたもので、オ・ケネ・プは川口に(ある)川の意、があったからである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.275 より引用)
うーん、そう考えたくなるのも理解できなくは無いのですが(言い回しがくどいな)、現在の川名が「沖根婦」であるという点がどうにも引っかかるのです。o-kene(-us)-pet で「河口・ハンノキ(・ある)・川」であればなんの疑問もないのですが、これが o-kene-p だとすると「河口・ハンノキ・もの(所)」となってしまい、かなり意味不明な感じになってしまうのですね。

仮に o-kere-p で「河口・削らせる・もの(川)」だとすると、現在の「沖根婦川」の西側がちょっとした崖のようになっているので、個人的には納得感があるのですが、残念ながらそう示唆する記録が全く見当たらず……。

特に「午手控」の「ヲヒ子フ」という記録と矛盾しますが、「フ」については o-kene-p という記録に疑問を持つきっかけになっているのが皮肉なところです。

とりあえず、今日のところは o-kene(-us)-pet で「河口・ハンノキ(・ある)・川」とするしか無さそうな感じですね……(不完全燃焼)。

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