2023年3月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1022) 「トリトエウス・迷舞・マッカヨウ岬」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トリトエウス

turi-tuye-us-i
(舟の)竿・切る・いつもする・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市珸瑤瑁の北東側(漁港のあるあたり)は、1980 年代の土地利用図には「トリトエウス」と描かれていました。正式な地名は「根室市珸瑤瑁三丁目」のようですが、通称的に使われた地名……でしょうか?

東西蝦夷山川地理取調図」には「トントウヘウシ」と描かれています。「初航蝦夷日誌」(1850) には「トレトウヱウシ」とあり、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

同じく野道を行ことしばし、其海面岸也。此処を
     トリトエウシ
と云。此処の奥に赤楊多し。其より起るなり。トリトヱとは、土人小屋の樽木様成ものに遣ふ木也。是多きによつて号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.587 より引用)
早速ほぼ答えが出た感もありますが、永田地名解 (1891) も見ておきましょうか。

Turi tuye ushi   ト゚リ ト゚リエ ウシ   竿ヲ伐ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.363 より引用)
turi-tuye-us-i で「(舟の)竿・切る・いつもする・ところ」と見て良さそうです。釧路町の「鳥通」と全く同じ……ということになりそうですね。

迷舞(まようまい)

koy-oma-i?
波・そこにある・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室歯舞(かつての歯舞村)の北東、道道 35 号「根室半島線」沿いにある四等三角点の名前です。「歯舞」ならぬ「迷舞まようまい」とは一体……?

東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい地名が描かれておらず、「初航蝦夷日誌」(1850) や戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にもそれらしい記述が見当たりません。

明治時代の地形図にもそれらしい地名は見当たりませんが、大正から昭和にかけて測図されたと思しき「陸軍図」には「マヨマイ」と描かれていました。この「マヨマイ」は 1980 年代の土地利用図にも描かれていました。

ということで、この「マヨマイ」とは……という話ですが、改めて明治時代の地形図を見てみると、「コヨ?マイ」(=珸瑤瑁)と「アボマイ」(=歯舞)の間に「コヨマイペツ」という川が描かれていました。この川は不思議なことに珸瑤瑁郵便局のあるあたりではなく、珸瑤瑁と歯舞の間(どちらかと言えば歯舞寄り)のごく短い川として描かれていました。

この「コヨマイペツ」ですが、図に描かれた「コ」の字がどことなく「ユ」のようにも見えます。「ユ」に見えるということは「マ」に見える可能性もある……でしょうか?

「初航蝦夷日誌」には「コヨマヘベツ」と「ハボマエ」の間に、次のように記されていました。

しばし凡七丁ニ而
     ワカヨセキ
マカヨシレトとも云り。コヨマヘより此処迄の間海岸惣而暗礁多きよし也。又前ニ少しの岩岬。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.444 より引用)
「少しの岩岬」とありますが、確かに三角点の南南東に岬状の地形があります。どうやらこの岬が「マカヨシレト」だった可能性がありそうです。

「マヨマイ」は「コヨマイ」を誤読した可能性がありそうな感じですが、あるいは「マカヨシレト」から makayo-oma-i で「フキノトウ・そこにある・ところ」だった可能性も出てきたでしょうか。ただ「カ」がそう簡単に落ちるようにも思えないという点と、別の理由(この後すぐ)もあるので、今日のところはとりあえず誤読由来だったんじゃないかな、ということで。

マッカヨウ岬

makayo-{sir-etu}?
フキノトウ・{岬}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
地理院地図を見ると、根室歯舞の南(歯舞漁港の南西・・)に「マッカヨウ岬」という岬が描かれています。松浦武四郎が記録した「マカヨシレト」は珸瑤瑁と歯舞の間(歯舞の東)に存在する筈ですが、現在の「マッカヨウ岬」はなぜか歯舞の南(どちらかと言えば西寄り)に存在しています。

明治時代の地形図を見ると、現在の「マッカヨウ岬」の位置に「フラリモイ崎」と描かれています。この岬は「岬」と言いながら根室半島からほぼ切り離されているのですが(事実上の「島」)、明治時代の地形図には「島」の北西に「ナヤコツ」とも描かれています。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

又砂浜凡九丁斗も行而
     ヲヤコチ
岩石岬有。小川。越而八、九丁
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.444 より引用)
また戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

其小川をこへて五六丁も過て、少し坂を上り野道を行。此岬を
     ヲヤコツ
と云、岬の形(象)島に成り、其上城櫓の台の如くにして突出す。ヲヤコツとは別の地面屋敷と云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.585-586 より引用)
この「ヲヤコツ」には、次のような頭註が付されていました。

ヲ   尻が
ヤ   陸に
コツ(凹んで)ついている
付根が低く島のように見える半島
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.585 より引用)
「島のように見える半島」とありますが、これは間違いなく現在「マッカヨウ岬」と呼ばれる岬のことですね……。どうやら本来は o-ya-kot(-i) で「尻・陸・くっついている」と呼ばれる場所だったものが、西隣の「フラリモイ」に由来する岬名に変わってしまい、何故か後に東にあった筈の「マカヨシレト」に由来する「マッカヨウ岬」になってしまった、と考えるしか無さそうな感じです。

「マカヨシレト」は makayo-{sir-etu} で「フキノトウ・{岬}」なんでしょうけど、「どうしてこうなった」感が……。

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