(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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納沙布(のさっぷ)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
言わずと知れた北海道最東端の岬の名前です(色々と配慮してみました)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ノツシヤム」と描かれています。「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。
ノツシヤフ岬戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
此処暗礁多し。ノツシヤフ訳し而岩石暗礁の処と云也。是第一の東岬也
また崖の上まゝ五六丁も行て
ノツシヤフ
岬。是東の通岬にして、東海に突出、岩石峨々として長く尾の如く、凡三四丁も沖に飛石の如く連り、其より暗礁また十余丁も沖へ出るを、其筋に波浪を起す。ノツシヤフは惣て岩岬の事を云り。其訳此方より行も、彼方より来る者も、必ず此処え行四方を眺望するが故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.587 より引用)
あれ……。「初航蝦夷日誌」も「東部能都之也布誌」も「ノツシヤム」ではなく「ノツシヤ秦檍麻呂(村上島之丞)の「東蝦夷地名考」(1808) には次のように記されていました。
一 ノツシヤブ崎
ノツは頤なり、シヤブは頭といへる語。此崎東夷地の極なり。
(秦檍麻呂「東蝦夷地名考」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.35 より引用)
むむ、やはり「ノツシヤ上原熊次郎の「蝦夷地名考幷里程記」(1824) には次のように記されていました。
ノツシヤブ 番家休子モロ江海陸とも三里程
夷語ノツシヤムなり。則、崎の際と譯す。扨、ノツとは山崎の事。シヤムは際、又は側等と申事にて、此崎の際に昔時より夷村有る故、此名あるよし。
(上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.67 より引用)
おっ、久しぶりに「ノツシヤム」が出てきましたね。not-sam で「岬・傍」ではないか、そして元々はコタンの名前ではないか……という解釈は現在も定説と目されていますが、上原熊次郎の説を追認したものだったんですね。「納沙布」は not-sam とされる割には、あまりに「ノツシヤム」という記録が少なく、また岬の名前なのに「岬の傍」という解釈に矛盾を感じたので改めて調べてみたのですが、懸念点はほぼ払拭された感じでしょうか。伊能忠敬の「大日本沿海輿地図 (1821) 蝦夷地名表」にも「ノツシヤム」とあったので……探せば出てくるものですね。
珸瑶瑁(ごようまい)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
納沙布岬の南に位置する集落の名前です。日本最東端の郵便局があるほか、かつては日本最東端の小学校もあったところです(色々と配慮するのをやめて実情に即してみました)。1915(大正 4)年に歯舞村(現在の根室市)と合併するまでは「珸瑤瑁村」が存在したところです。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「コヨマヘツ」と描かれています。「──ヘツ」なので本来は川の名前と考えられますが、川らしきものは描かれていません。
明治時代の地形図には「珸瑤瑁」という村名のほか、「コヨマイ崎」と「コヨマイ島」が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
行ことまたしばしにて
コヨマエ
此辺海岸峨々たる巌壁。下転太石、海面より打付る浪甚しきによつて号。其儀コヨはコイの訛りにて、浪波の音、マエは有ると云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.586 より引用)
どうやら koy-oma-i で「波・そこにある・ところ」と見て良さそうですね。永田地名解 (1891) はちょっとひねった解釈を書いていたのですが……Koi-oma-i-pet コヨマイ ペッ 波浪ノ内ニ在ル川 小川ナリ○珸瑤瑁村なんとも珍妙な解に見えますが、これは oma を「(そこに)入る」と捉えたが故……かもしれません。地名としての koy-oma-i があり、そこを流れる川なので koy-oma-pet と呼んだ……と考えたほうが自然なのでは無いでしょうか。
カブ島
(? = 記録あり、類型未確認)
前述の「珸瑤瑁」について、山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていたのですが……明治の『大日本地名辞典』の書いた原名はコイ・オマ・イで,訳せば「波・ある・もの(あるいは処)」である。海中のコヨマイ島の姿から呼ばれたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.242 より引用)
この「コヨマイ島」ですが、現在の地理院地図では「カブ島」と描かれています。また、「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。凡一り余行而「コヨマベツより海上弐丁」に「ヱシヨ子モシリ」という島がある……とありますが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「ハ
コヨマヘベツ
此処岡の方少し高ミ于樹木有。又小流有る也。前ニヱシヨ子モシリと云岩島有。周廻凡七丁。コヨマベツより海上弐丁と思わる。又此処地より凡弐丁冲所々ニ岩磯有。コヨマヘ瀬戸と云也。
一方、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。
行ことまたしばしにて
コヨマエ
此辺海岸峨々たる巌壁。下 転太石、海面より打付る浪甚しきによつて号。其儀コヨはコイの訛りにて、浪波の音、マエは有ると云儀也。また此前に
カバブケモシリ
と云島有。カハフケは低きが故に浪が冠ると云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.586 より引用)
どうやらこの「カバブケモシリ」が現在の「カブ島」の元ネタっぽい感じですね。「カバブケ」の語義は少々謎ですが、kapke で「禿げている」か、kapar-ke で「水中の平岩のところ」あるいは「平たくする」あたりの可能性が考えられるでしょうか。どれも似たようなニュアンスに思えますが、後ろに mosir を付加することを考慮すると、{kapar-ke}-mosir で「{平岩のところ}・島」と考えられそうでしょうか。
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