2023年3月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1017) 「シエナハウシ・コタンケシ川・ノッカマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シエナハウシ

sunapa-us-i
ギシギシ・多くある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
根室市北浜町二丁目と根室市牧の内の間を「二番川」という川が流れていますが、二番川の河口近くに「シエナハウシチャシ跡」という遺跡があるとのこと。「シエナハウシチャシ」は「スナバウスチャシ」と呼ばれることもあるみたいです。

明治時代の地形図を見てみると、現在の「二番川」と思しき位置に「シナパウシ」と描かれています。どうやら「シエナハウシ」と「スナバウス」は単なる表記ゆれの可能性がありそうですね。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「シエナハウシ」と描かれています……が、西隣は「ホロシナハウシ」と描かれています。「シエナハウシ」の「エ」は「ユ」である可能性があり、逆もまた然りでしょうか。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

     ホンシユ子バウシ
砂浜ニ而上の方は岩崖有るなり。并而小川有
     ホロシユ子
小川有。転太石はま也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.431 より引用)
「午手控」(1858) には次のように記されていました。

シユナハウシ
 シナハなるよし。砂が有るによってのよし。人間言(シサム語)
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.366 より引用)
これは……。「砂がある(=砂場)から『シュナバウシ』」という解釈のようですね(汗)。

一方で、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」には次のように記されていました。

またサキを廻り行や
     シユナハウシモイ
此処少しの湾にして小川有。其辺酸模多し、よつて号るとかや。シユナハは酸模の事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.599 より引用)
「酸模」については頭註があり、次のように記されています。

すいば 酸 葉
すかんこ
すかんぽ
羊蹄草
野大黄
シュナパ
スナパ
たで科
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.599 より引用)
そして永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Onne shunapa ushi  オンネ シュナパ ウシ  羊蹄草ギシギシ多キ處 ギシギシ又野大黄ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.366 より引用)
……繋がりましたね(推理小説か)。「酸模」は「すかんぽ」で、和名が「ギシギシ」で漢名では「羊蹄草」と呼ばれるタデ科の多年草のことのようです。別名が「野大黄のだいおう」で、知里さんの「植物編」(1976) を見てみると……

§ 288. ノダイオォ Rumex domesticus Hartm.
(1) sunapa(su-ná-pa)「スなパ」莖葉(或いわ根)《幌別穂別名寄》《A 沙流・鵡川・千歳・有珠等》
   注 1.──幌別・名寄でわ莖葉をさすと云ったが,穏別でわ根をゆうと主張した老人があった。
   注 2.──ギシギシの類(species of Rumex)わ,たいてい同じ名で呼ばれる。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.159-160 より引用)
……繋がりましたね(もういい)。「シエナハウシ」は「シュナパウシ」で、sunapa-us-i で「ギシギシ・多くある・ところ」と見て良さそうです。

コタンケシ川

kotan-kes
集落・末端
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「シエハナウシ」の 1.3 km ほど東を流れる川で、上流部に「牧の内ダム」があります。根室は比較的平坦な半島の上に形成された町なので、そういえば水道はどこから引いているのだろう……と思ったのですが、「根室市水道事業の概要とあゆみ」によると「温根沼オンネ沼)」と「丹根沼(タンネ沼)」、「ノツカマップ川」と「牧の内ダム」を水源にしているとのこと。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「コタンケシ」とあり、東隣に「ホンコタンケシ」と描かれていました。川も描かれていますが、「コタンケシ」が川名だったかどうかは不明です。

「初航蝦夷日誌」(1850) には次のように記されていました。

しばし越而
     ヲン子コタンケシ
幷而
     ホンコタンケシ
共に小川有り。岩磯。小石浜なり。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.431 より引用)
また、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも次のように記されていました。

またしばし小笹原を過るや
     ホンコタンケシ
少しの浜有て、小川の傍に人家の跡有。また三丁計も行や
     ヲン子コタンケシ
少しの湾に成りて、此処にも昔し人家有りし跡有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.598 より引用)
「ヲン子コタンケシ」と「ホンコタンケシ」の順番が逆になっていますが、これは「初航蝦夷日誌」が西から東に向かって記述しているのに対し、「東部能都之也布誌」は東から西に向かって記述しているためです。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Pon kotan keshi   ポン コタン ケシ   小村ノ端
Poro kotan keshi  ポロ コタン ケシ   大村ノ端
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.365 より引用)
onne(老いた、親である、大きな)が poro(親である、大きな)に変わった以外はほぼ違いは無さそうですね。

明治時代の地形図では、現在「4 番川」とされる川と、その支流の「飛行場川」が「ポンコタンケシ」として描かれていました。kotan-kes で「集落・末端」と考えて良さそうな感じです(もしかしたら kotan-kes-oma-p あたりが省略されたのかも)。「コタンケシ」が川名だったかどうかは不明……と書きましたが、やはり川名だったと見て良さそうですね。

ノッカマップ川

not-ka-oma-p
岬・かみて・そこにある・もの(川)
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
紅煙岬」と「トーサムポロ沼」の中間あたりを北に向かって流れる川で、2 km ほど西北西には同名の岬(ノッカマップ埼)もあります。また、河口から 0.6 km ほど北西には「根室半島チャシ跡群」の「ノッカマフチャシ」があります。

「ノッカマップ」は not-ka-oma-p で「岬・かみて・そこにある・もの(川)」と見て良いかと思われます。ただちょいと気になる点が出てきたので、「初航蝦夷日誌」(1850) を引用してみます(長めの引用ご容赦ください)。

     ホンコタンケシ
共に小川有り。岩磯。小石浜なり。越而一り斗行而
     シキムイ
小川有るなり。并而
     イシヨヤ
小石浜。小岩岬有。廻りてしばし行
     ノツカマフノチ
海深し。此処よりまた出岬を越而
     ノツカマフ
此処少しの湾にし而番屋、夷人小屋有。此上皆平山にし而上ニ蝦夷乱の時之墓と云もの有るなり。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.431 より引用)
「蝦夷乱」とあるのは 1789 年の「クナシリ・メナシの戦い」のことで、その際に降伏した 37 人のアイヌがノッカマップで処刑されています。ノッカマップにはコタンが存在していましたが、処刑地となったことを嫌って多くがノッカマップを離れたとのこと。

気になるのが「ノツカマフノチ」で、これは not-ka-oma-p-noti で「岬・かみて・そこにある・もの・の岬」と読めます(実際は「{ノッカマップ}・の岬」と捉えるべきですが)。完全な循環地名ですが、この「ノツカマフノチ」がどこなのか、ちょっと気になるんですよね。

「ノツカマフノチ」は何処に

幸いなことに、戊午日誌 (1859-1863) 「東部能都之也布誌」にも詳細な記述がありました。思いっきり引用しようかと思ったのですが、相当なボリュームになりそうなので、表にまとめてみることにしました。

東西蝦夷山川地理取調図 (1859) 初航蝦夷日誌東部能都之也布誌明治時代の地形図現在の地名
ホンコタンケシホンコタンケシ
(少しの浜・小川)
ポンコタンケシ4 番川
ロクニウシモイ-コロクニウシモイ
(湾・小川)
--
---ノッカマップ崎ノッカマップ岬
ヒヤウチヤラセ-ヒヤウチヤラセ
(小川・高崖)
--
シキムイシキムイ(小石浜)--
イソヤイシヨヤイシヤウヤ(小島)--
--チヤシコツ(城跡)--
ノツカマフノツノツカマフノチノツカマフノツ
(岬)
--
チヤシコツ---根室半島
チャシ跡群
ノツカマフノッカマプノッカマップ川

地理院地図では「4 番川」(=ポンコタンケシ)と「ノッカマップ川」の間に川が二つ描かれています(いずれも川名未詳)。そして川名未詳の川のにノッカマップ岬がある……ということになっています。

「川名未詳の川」は、「東部能都之也布誌」の記述からは「コロクニウシモイ」と「ヒヤウチヤラセ」だと考えられます。となると、松浦武四郎が記録した「ノツカマフノツ」と現在の「ノッカマップ岬」は別物である……と考えるしか無さそうなのですね。

「ノッカマップ岬」が「お引越し」したのは明治時代のことと考えられますが、何故そのようなことが起こったかを考えてみると……。現在のノッカマップ岬は「岬」と言うには随分と「平べったい」形をしていますが、沖合にいくつも岩礁があり、船の航行に注意を要する地点だったと考えられます。そのため近くに「ノッカマップ埼灯台」が建設されて現在に到る……となります。

ちょっと変な言い方ですが、明治以降は「岬」の概念に「灯台のあるべき所」という考え方が追加された……と言えそうな気がするのですね。上記の表からは、松浦武四郎が記録した「ノツカマフノツ」は現在「根室半島チャシ跡群」とあるあたりの半島状の場所だったと考えられるのですが、明治に入ってからは西北西の岩礁が乱立するあたりが「要注意スポット」となり、灯台が建設されるとともに「ノッカマップ岬」という地名も引っ越してしまった……と言うことではないかと考えてみました。

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