2023年1月31日火曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (26) 「東釧路・釧路」

別保川を渡って釧路市に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

釧網本線は右カーブを抜けた先で根室本線と合流します。間もなく東釧路駅なのですが……

2023年1月30日月曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (25) 「釧路湿原・遠矢」

進行方向右側の車窓には、一面の雑木林が広がっている……ようにも見えてしまいますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

良く見ると、大量の谷地坊主ヤチボウズが! これまでも何度も見かけたものですが、ここまで群生していた場所は無かったような気も……

2023年1月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1009) 「ルツチヤル・伏古遠太・ハルタモシリ島・遠太」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルツチヤル(ルッチャル)

rutu-us-sar???
押してずらす・いつもする・葭原
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
本別海の南から道道 475 号「風蓮湖公園線」を 2.5 km ほど入ったところにある四等三角点の名前です(標高 4.8 m)。選点は 1985 年 5 月で、1980 年代の土地利用図にも「ルッチャル」という地名?が描かれているため、当時は現役の地名だったことが窺えます。

「ルッチャル」と「ルエサンサル」

陸軍図」にも同じ場所に「ルッチャル」と描かれていました。ところが不思議なことに明治時代の地形図には地名の記入がありません。更に時代を遡ると「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) に「ルエサンサル」と描かれていました。

「ルエサンサル」はおそらく「ルエサニ」の親戚で、ru-e-san-sar で「路・そこで・浜へ出る・葭原」だと思われます。問題は「ルエサンサル」がいつの間にか(遅くとも大正時代に)「ルッチャル」に化けているという点なのですが、「ルッチャル」を素直に解釈すると rut-char で「崩す・口」あたりでしょうか。

ただ rut-ke で「崩れる」となるものの、rut 単独での用法は手元の辞書類では確認できません。rup-char で「氷・口」か……とも考えてみましたが、「ルッチャル」のあたりがそう呼ぶに相応しい特性を有していたかと言われると、今一つ確信が持てません。

押しずらす?

改めて辞書類を眺めてみると、rutu という語が複数の辞書で確認できました。例えば「アイヌ語千歳方言辞典」(1995) には次のように記されています。

ルトゥ rutu 【動 2】 ~を押しずらす。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.420 より引用)
また「アイヌ語沙流方言辞典」(1996) にも次のように記されています。

rutu ルトゥ【他動】...を押してずらす、持ち上げないで下を引きずりながら押して動かす。{E: to push along, drag...}
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.593 より引用)
ということで、「ルッチャル」は rutu-sar で「押してずらす・葭原」ではないか……と考えてみました。文法的にちょいと謎な感じもしますが、rutu-us-sar で「押してずらす・いつもする・葭原」と考えれば違和感も減少するでしょうか。

何を「押してずらす」のかと言えば、やはり丸木舟かな……と。つまり「ルエサンサル」も「ルッチャル」(ルツサル?)もほぼ同じニュアンスだったんじゃないか……という *想像* です。

伏古遠太(ふしことうぶと)

husko-to-putu
古い・湖・口
(記録あり、類型あり)

2023年1月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1008) 「平糸・清丸別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

平糸(ひらいと)

pira-etu
崖・鼻(岬)
(記録あり、類型あり)
茨散沼の西北西にある牧場の敷地内に「平糸台」という名前の一等三角点があります(標高 26.4 m)。別海町には「平糸台」三角点のほか、「平糸」という名前の四等三角点が何故か二つもあり、どれも 10 km 以上離れていたりします。

似たような名前の三角点が複数存在するのは良くある話ですが、ここまで離れているのは珍しいのではないかと。

明治時代の地形図を見てみると、ニショパラペッ(=西丸別川)の河口付近に「平糸」と描かれています。現在は「別海町本別海」の北部という扱いですが、昔はこのあたりが「平糸村」だったとのこと。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Pira etu   ピラ エト゚   崖鼻 山崎ノ義○平絲村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
どうやらかなりストレートな地名だったようで、pira-etu で「崖・鼻(岬)」とのこと。鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも次のように記されていました。

かつて、この辺から当幌川春別川・床丹川流域はピラエトゥの当て字の平糸が、明治 5 年(1872) から大正 12 年(1923) の村名であった。同 12 年に別海村の大字であったが、昭和 47 年(1972) にこの大字も廃止された。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.369 より引用)
ふむふむ。どうせだったらこのあたりの情報が充実している「角川日本地名大辞典」(1987) も見ておこうか……ということで。

昭和 47 年 1 月 1 日大字が廃され,字中西別・床丹・美原・豊原・大成・本別・尾岱沼(おだいとう)・尾岱沼港町・尾岱沼岬町・尾岱沼潮見町・上春別・上春別南町・上春別栄町・上春別旭町・上春別緑町・中春別・中春別東町・中春別西町・中春別南町・西春別宮園町・西春別清川町・西春別昭栄町・西春別幸町・西春別本久町・西春別駅前柏町・西春別駅前曙町・西春別駅前西町・西春別駅前寿町・西春別駅前栄町・西春別駅前錦町・西春別・別海・本別海となる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1259 より引用)
うわ、これは……。別海町北部にある「平糸ひらいと」四等三角点の所在地は「北海道野付郡別海町大字平糸村字春別原野6360番地の14」で、現在は「別海町中春別」に含まれるとのこと。

標津線・平糸駅の近くにあった「平糸ひらいと」四等三角点の所在地は「北海道野付郡別海町中春別 336 番地 6」で、これも「別海町中春別」……ということは、かつての「大字平糸村」と考えられます。「平糸台ぴらいとだい」一等三角点の所在地も「北海道野付郡別海町床丹 1 番 55」なので、かつての「大字平糸村」ということになりますね。

「平糸」は、別海町のほぼ北半分を占める大字だったものが、大字が廃されたことで、現在は標津線・平糸駅跡近くのバス停の名前になってしまった……ということのようです。

しかも「平糸駅」は「大字平糸村」に由来するので、本来のアイヌ語の地名とは随分と離れている点にも注意が必要です。おそらく平糸駅(跡)の近くには pira-etu は見当たらないと思われるので……。

清丸別川(きよまるべつ──)

kim-un-para-pet?
山(側)・にある・広い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月27日金曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (24) 「細岡」

再び、釧網本線のすぐ傍に釧路川が近寄ってきました。このアングルだとどれが本流なんだか良くわからないことになっていますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

正解は「どれも本流」でした。巨大な S 字カーブを描いていて、S の書き順と同じ向きに流れています。やっぱ平野部の大河は極端に曲がりくねっていて、至るところに河跡湖がないと……!

2023年1月26日木曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (23) 「塘路」

釧路行き快速「しれとこ」はシラルトロ湖の傍を通過して、快調に走り続けています。
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沼! 沼! 沼!

今度は進行方向右側に沼が見えてきました。この沼は「サルルントー」でしょうか。

2023年1月25日水曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (22) 「茅沼」

「五十石駅」跡を通過すると、右側に川が見えてきました。これは……釧路川ですね!
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放水路の謎

先程の写真は、厳密には旧河道かもしれませんが、こちらは正真正銘の釧路川……でしょうか。

2023年1月24日火曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (21) 「標茶」

標茶町の「旭町踏切」にやってきました。「45K505M」とあるのは東釧路からの距離ですね。
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標茶駅(B61)

標茶駅の構内に入りました。出発信号機が見えていますが、その後ろに線路跡と思しき右カーブが見えています。

2023年1月23日月曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (20) 「磯分内」

釧路行き快速「しれとこ」は「磯分内駅」に到着しました。線路が見えますが、これはかつての貨物ホームに向かうものらしく、現在は保線用車輌用に残してあるとのこと。
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磯分内駅(B62)

磯分内駅の西には「北海道製糖」の磯分内工場があり、駅の北西から専用鉄道が伸びていました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
北海道製糖改め「日本甜菜製糖」の磯分内工場は 1970 年にホクレンに売却され、現在ではすっかり野に還りつつあるように見えます。


Wikipedia によると、駅の南東にある「雪印乳業磯分内工場」までも専用線が存在した……とありますが、1970 年代の航空写真ではその存在が確認できない……ような気がします。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
磯分内駅は 1 面 1 線の棒線駅です。かつては 2 面 2 線の相対式ホームに加えて貨物ホームがあり、また貨物列車用の副本線(と言うのですね)もあったそうですが……。

2023年1月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1007) 「西丸別川・茨散沼」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

西丸別川(にしまるべつ──)

pis-o-para-pet?
海側・にある・広い・川
pis-oma-ru-pet??
海側・そこにある・(氷が)解ける・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
西別川の北を流れる川で、途中に「茨散沼ばらさんとう」があります。「尾岱沼おだいとう」もそうでしたが、このあたりには「沼」を「とう(=to)」と読ませる地名が散見されるのが興味深いですね。

「尾岱沼」の場合はそもそも to じゃ無いだろう、という話もありますが。

「エシヨマヘツ」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「エシヨマヘツ」という名前の川が描かれています。「茨散沼」に相当する沼が描かれていないのはちょっと不思議な感じもしますが、「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

濱續き(十一丁五十間)エシヨマベツ(小川)平沙地、上に茫地〔落地やちヵ、谷地〕多し。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.339 より引用)
これを見た感じでは、「茨散沼」から流れ出る川が「エシヨマベツ」と認識されていた、と見て良さそうでしょうか。

「ニショパラペッ」

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nisho para pet   ニショ パラ ペッ   鑛氣アル廣川 水赤クシテ上流ニ沼アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも次のように記されていました。

湿地を流れているこの川岸と川底は、見事な赤褐色であった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.369 より引用)
ふむふむなるほど。そういうことか……と思ったのですが、手元の辞書類を調べても「ニショ」に「鉱気」、「金属混じり」という意味が確認できないのですね。nis は「空」ですし、nisu で「臼」だったり nisa少額投資非課税制度「木の空洞」だったりするのは確認できるのですが……。

kim- があるなら pis- もある筈

壁にぶつかった時には、一歩引いて物事を俯瞰すると良い……なんて話もありますが、このあたりの地図を大縮尺で見てみると、茨散沼の西に「清丸別川」という川があることに気づきました(西別川の北支流)。

この「清丸別川」、「東西蝦夷山川地理取調図」では「キモハルヘツ」とあり、明治時代の地形図では「キムクシパラペツ」と描かれています。頭の「キモ」あるいは「キム」は kim で「山(側)」と考えて良さそうでしょうか。

kim について、「地名アイヌ語小辞典」(1956) では次のように記されていました。

kim きㇺ 里または沖合に対して云う山。生活圈の一部としての山。村の背後の生活資料獲得の場としての山。「爺さんが山へ柴刈りに行った」などという時の「山」の観念に当る。従ってこの kim は聳えることができない。それが nupuri 「山」との差である。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.48 より引用)
「清丸別川」ですが、わざわざ kim を冠しているということは、その対になる川の存在が示唆されます。kim の対義語として真っ先に考えられるのが pis」ですが、「西丸別川」は「清丸別川」よりも東(海側)に位置するため、「西丸別川」が pis- であると考えても位置関係には矛盾はありません。

「エ」でも「ニ」でもなく

「ちょっと待て、松浦武四郎が記録したのは『エシヨマベツ』じゃないのか?」とツッコまれそうな気もしますが、「午手控」(1858) には「ニシヤマルヘツ」あるいは「ニシヨマルヘツ」と記録されているため、「エ──」は「ニ──」の誤字(転記ミス)と考えることも一応は可能です。

もっと重大な問題として、果たして pis-nis- に化けることがあるのか……という話がありますが、これは山側に kim- を冠する川名があることから「化けたんです!」と言い切るしか無いでしょうか(少し北に「ニシユパオマペツ」があったとされるので、その影響を受けた可能性もあるかも知れません)。

ということで、「ニシヨパラペツ」であれば pis-o-para-pet で「海側・にある・広い・川」と考えたいところです。あるいは para ではなく haru で「海側・にある・食料・川」だったかもしれません(=菱の実あたりを拾える沼だった可能性)。

問題は「ニシヤマルヘツ」で、pis-oma-pet で「ル」が行方不明になってしまうので、pis-oma-ru-pet で「海側・そこにある・路・川」となるでしょうか。

あるいは……ですが、pis-oma-ru-pet で「海側・そこにある・(氷が)解ける・川」の可能性もあるかもしれません。

茨散沼(ばらさんとう)

para-san?
広い・棚
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1006) 「トリサンケベツ川・オマンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トリサンケベツ川

turi-sanke-oma(-nay)??
棹・浜へ出す・そこにある(・川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在の「別海町床丹」集落は海沿いを南北に伸びているのですが、集落の南部を「トリサンケベツ川」が流れています。ただ地理院地図には川として描かれていないレベルで、地元でも川として認識されているか、ちょっと疑わしい感じもしますが、「国土数値情報」でもちゃんと川として扱われているんですよね。

「沼から浜へ出る川」説

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トーサンケヲマエ」という地名?が描かれていました。また「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

トウサンケヲマナイ(小川)、此上に沼有、名義、沼より下る儀也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.339 より引用)
to-sanke-oma-nay で「沼・浜へ出す・そこにある・川」と考えたのでしょうか。地形図ではところどころに谷地があるように見えますが、鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にて次のように言及していました。

現在この沢の上流には、沼らしき形は見えない。干し上がってしまったのであろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.373 より引用)
地理院地図を見る限りでは谷地はありそうにも見えるんですが、やはりこの説はちょっと疑わしいと見るべきでしょうか。

「棹を浜へ出す川」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Turi sange nai   ト゚リ サンゲ ナイ   棒ヲ下ス澤 未タ橇ナキ以前ニハ縄ヲ棒ニ付ケ額ニ當テ棒ヲ山ヨリ下シタル故ニ名ク此澤ノ雨降ラザレバ水無シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
永田さんがいつになく饒舌……ということは、少し疑ってかかる必要が出てきますが(ぉぃ)、この川については「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

トリサンケヲマ むかし家を作る木を山にて切て、担で浜え下りし由。トリは棹の事、サンケは下ると云事
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.261 より引用)
あら。turi-sanke-oma(-nay) で「棹・浜へ出す・そこにある(・川)」とありますね。sanke という動詞を oma で受けるのはちょっと変な感じもしますが、「チㇷ゚サンケ」という「舟を川に下ろす」神事があるので、それと似たような感じで「棹」を下ろすイベントがあって、それが行われる場所……とかだったんでしょうか(でもそれだったら turi-sanke-us-i のほうが良さそうな気も)。

それにしても、ちょっと不思議なのが、「午手控」には割と妥当に思える内容が記されているにもかかわらず、「東蝦夷日誌」ではちょっと外した内容に書き換えられるケースが続いていることで……。ウケ狙いで話を盛ったようにも見えないですし、一体何なんでしょう……?

オマンベツ川

nisuppa-oma-pet?
木の切り株・そこにある・川
oman-pet?
山のほうへ行く・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月20日金曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (19) 「南弟子屈」

釧路行き快速「しれとこ」は摩周駅を出発しました。「弟子屈駅」は 1990 年に「摩周駅」になってしまいましたが、お隣の「南弟子屈駅」は健在です(2017 年時点)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おっ、またしても国鉄コンテナが。流石にサビが目立ちますが、国鉄民営化から 30 年近くが経っても倉庫として現役っぽい感じでしょうか。

2023年1月19日木曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (18) 「摩周」

進行方向右手の車窓に「美羅尾びらお山」が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この「美羅尾山」は頂上が電波塔だらけで、遠目からもなかなかのインパクトがあります。

2023年1月18日水曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (17) 「美留和」

釧路行き快速「しれとこ」は「摩周登山道踏切」という名前の踏切を通過しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

空き地と、その先に防雪柵が見えてきました。この防雪柵は夏の間も撤去せずにそのまま置かれているのでしょうか。そして……

2023年1月17日火曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (16) 「川湯温泉」

釧路行き快速「しれとこ」は「オニセップ沢川」沿いの上り勾配を快調に駆け上がります。こういった区間では特にエンジンが 2 基搭載された車輌が重宝されるのでしょうね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

釧網本線は並走する林道(ですよね)と川よりも一足先に上り勾配を駆け上がって、立体交叉で一気に両者を越えます。雪解けの時期だけあってか、オニセップ沢川の水量は豊富なようです。

2023年1月16日月曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (15) 「緑」

釧路行き快速「しれとこ」が踏切を通過します。踏切のすぐ向こうにリフトが見える……ということは、スキー場ですね。良く見ると手前に「2」の標柱も見えますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このスキー場は「清里町営緑スキー場」とのこと(鉄道だけで行けるスキー場って、なんか格好いいですよね)。右側にリフトが一本あるだけのシンプルな一枚バーンのようですが、良く見ると左側にも段違いのコースがありますね。斜度などの難易度はそれほど違わないようにも見えますが……。

2023年1月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1005) 「ライトコタン川・間意場牛・チェプンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ライトコタン川

ray-{tokotan}?
死んだ・{床丹川}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
春別川の南、床丹川のすぐ北を流れる川で、直接海に注いでいます。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「ライトコタン」という名前の川が描かれています。

「死んだ・床丹川」?

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

舟中より眺むにヒラクンナイ、(六丁三十間)ライトコタン(右川)、是往古トコタン〔床谷〕の川口也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.341 より引用)
「トコタン」は「床丹」ではなく「床谷」表記ですが、「トコタン」の意味は「沼村」ではないか……としています(異説も多いですが)。

明治時代の地形図を見ると、床丹川(トコタン川)の河口は今よりも北にあったようで、かつては「ライトコタン川」が「トコタン川」の河口に注いでいた可能性もありそうです。ray-{tokotan} は「死んだ・{床丹川}」で、床丹川の旧河道をそう呼んだ可能性がありそうです。

「ライト」ではなく「ライチ」?

この明治時代の地形図には「ライトコタン」ではなく「ライチコタン」と描かれているのですが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Rai chi kotan   ライ チ コタン   死枯村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.374 より引用)
とあります。良く見ると直前の項にも言及があるのですが……

Tu kotan    ト゚ コタン   二ッ村 今ノ「ト゚コタン」ト「ライチコタン」ヲ呼ビテ二ツ村ト稱セシガ後世一村ノ名トナリシト「アイヌ」云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
ふむ、永田方正は「ト゚コタン」と「ライチコタン」がそれぞれ別の村で、その総称が「ト゚コタン」だった……と言っているように思えるのですが、見事に矛盾しているというか、循環参照しているような気が……。

不思議なのは、永田方正は何故 ray-tu-kotan で「死んだ・二つ・村」と考えなかったのか……というところです。「二つ村」があるならば、その隣に「元・二つ村」が並んでいたと考えることもできそうに思うのですが……。

違う、そうじゃない

「床丹」の解釈については諸説あって決定打に欠けるという印象ですが、道内各所に散見される「トコタン」の多くが tu-kotan で「廃・村」ではないかとされます。そう言えば「午手控」(1858) にも次のように記されていたんでした。

○トコタン
 むかし土人多く有しが、皆ハラサンえ引取りしによって、今明地になり有しによって号るよし也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.376 より引用)
仮に「トコタン」が「廃・村」だったとすると、「ライトコタン」は「死んだ・廃・村」となり、屋上屋を架すことになるんじゃないか……と考えたくなりますが、「ライトコタン」の「トコタン」は川名(固有名詞)としての「トコタン」だと考えれば、そこまで奇妙なものでも無いような気がします。

「ライトコタン川」という名称の面白いところは、松浦武四郎が「ライトコタン」と記録したものを永田方正が「ライチコタン」だとして、当時の地図もそれに追随したにもかかわらず、いつの間にか「違う、そうじゃない」として「ライトコタン川」に先祖返りしたように見えるところです。

結局のところ、松浦武四郎が記録した ray-{tokotan}死んだ・{床丹川}」説で良さそうな気がするんですが……。

間意場牛(かんいばうし)

kamuy-wa-us-i?
熊・渡渉する・いつもする・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1004) 「戸春別・レウシナイ川・封春別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

戸春別(としゅんべつ)

tu-sum-pet?
二番目・油・川
tu-sum-pet??
古い・萎れた・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
尾岱沼漁港と道の駅「おだいとう」の中間あたりを「戸川」が流れていて、河口から 2 km ほど西に「戸春別」という名前の二等三角点があります(標高 26.6 m)。現在「戸川」の河口のあたりは「別海町尾岱沼」ですが、かつては地名も「戸春別」だったようです。

「油・川」説と「溺死・川」説

東蝦夷日誌 (1863-1867) には「ポロシユンベツ」と「ホンシユンベツ」という川があるとして、その意味について次のように記していました。

 名義、油川と云儀也。昔し鯨を取、油を絞りしが故に此名有と。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.341 より引用)
sum-pet で「油・川」ということですね。一方で、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shum pet    シュㇺ ペッ    溺死川「エシユムペツ」ノ略言ナリト云フ
Tu shum pet  ト゚ シュㇺ ペッ  溺死ノ二ッ川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.374 より引用)
これが「戸春別」の初出でしょうか。「ト」ではなく「ト゚」とあるので、tu-sum-pet と考えて良さそうですね。そして sum-pet は「溺死する・川」だと言うのですが……。

sum の意味は?

sum をどう解釈するかですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) には次のようにあります。

sum, -i すㇺ ①西。(対→menas)。②【H】油。=ke. ③【K】泡。=koy-sum. ④ 合成語の中では水の意をあらわすこともある。
sum すㇺ 《完》① しおれる; なえる。② 【ナヨロ】溺死する。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.134 より引用)
sum を松浦武四郎は「油」とし、永田方正は「溺死」としましたが、他にも「西」と解釈することもできますし、「しおれる」と解釈することもできます。面倒なことに sum-un-pet で「西・に入る・川」という解釈も成り立ってしまうんですよね。

更に言うなら、sum-pet で「しおれる・川」という解釈もできるのではないかと。川の規模から言っても「枯れ川」だとは考えられないですが、当幌川西別川と比べると(川筋を遡った際に)「萎れる」のが早い……とも言えそうな気も。

永田方正が「溺れる川」としたのも、実は人が溺れるのではなく「川の流れ」が「溺れる」のではないかと思えてきました。平たく言えば「伏流」ですが、川筋を遡るといつの間にか川が居なくなる(?)ことを「(川の流れが)溺れる」と呼んだ……と解釈できないかなぁ、などと。

結局「油・川」なの?

……と言った感じで「萎れる川」に傾きつつあったのですが、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

 別海町百年史は『この沿岸では昭和に入ってからでも鯨が浅瀬に乗り上げること数回に及ぶことなどから、鯨の解体等が行われたこともあろうが、加賀文書中の地名解には「此川上谷地水にして油の多く光るを名付よし」とある。この春別川の上流の地形などから、戸春別川(トウシュㇺペッ)同様、加賀説の解明が妥当であろう。戸春別川とは二番目の油川の義である』と書いた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.375 より引用)※ 原文ママ
思いっきり孫引きですいません。そしてここに来てまさかの「油・川」説推し……。うー、これはどう考えたものか……。

sum を「油」と見るか「萎れる」と見るかでしばらく悩んだのですが、tu についても「二番目」でいいのか、あるいは「古い」とも読めるので悩ましいところです。結論が出なかったので両論併記で、tu-sum-pet で「二番目・油・川」か、あるいは「古い・萎れた・川」か……ということで。

レウシナイ川

rewke-us-nay?
曲がる・いつもする・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月13日金曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (14) 「札弦」

釧路行き快速「しれとこ」は清里町を出発しました。民家の軒先にはこいのぼりの姿も見えます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

農地と農地の間のあぜ道には立派な白樺並木が。こんなに綺麗に一直線で育つものなんですね。

2023年1月12日木曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (13) 「清里町」

釧路行き快速「しれとこ」は、南斜里駅を *通過* してひた走ります。通過ですよ通過、しかも釧路行きではこの日唯一の通過列車です。凄くないですか?(さてどうだか
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

おっ、絶妙なタイミングで木がフレームインしましたね。

2023年1月11日水曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (12) 「中斜里・南斜里」

快速「しれとこ」は知床斜里駅を出発しました。釧網本線が市街地のど真ん中を走るのは網走(あるいは桂台?)以来のような気が……。
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駅の東にある踏切……かつて「国鉄根北線」がこのあたりで分岐していた筈ですが……を抜けると……

2023年1月10日火曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (11) 「知床斜里」

快速「しれとこ」は斜里町に入りました。雲の切れ間に青空が覗くようになってきましたね(嬉しい!)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

斜里岳!

進行方向右側(南側)の車窓は、ずっと林が見えるばかりだったのですが、ようやく斜里の市街地が近づいてきたようです。

2023年1月9日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (143) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

借り着

イザベラは「天候の回復を待つ」として久保田(秋田)に数日ほど留まっていますが、「書道の神童」のパフォーマンスを楽しんだほかに宿の主人の姪の結婚式にも参列していました。この二つのイベントが果たして同日だったのか、ちょっと判断が難しいのですが……。

 宿の主人はたいそう親切な人で、私を彼の姪の結婚式に招待してくれた。私はそこから今帰ってきたところである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
「書道の神童」が来訪した際に、イザベラは次のように記していました。

明らかに彼らは、午後をこの部屋で過ごそうと思ってやってきたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
これは……「書道の神童」が帰った後にイザベラは結婚式に招待された、ということでしょうか……?

この日のイザベラの動きが今一つ釈然としませんが、まぁ気にしてもどうしようもないですし()、続きを読み進めてみましょうか。

彼自身は三人の「妻」をもっている。一人は京都の宿屋に、一人は盛岡に、もう一人の一番年若いのが彼と一緒にここに住んでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
なかなか「うひょひょ」な話ですが、この「三人の妻」は旅先で芸妓さんを身請けして……とかなんでしょうか。だとすると、かなりの資産家っぽい感じが……。

結婚式に招待されたイザベラの正装は、宿の主人の「若妻」が選んでくれたようですが……

彼女は無限と思われるほどの着物の貯えの中から私に合いそうな着物を選んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
あー。これはやはり、相当な金持ちですね……(汗)。

私は宿の主人とともに出かけたが、伊藤は招待されなかったので残念がっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
これは……(笑)。「伊藤ドンマイ」ですね。

彼がいないと私は五官の一つがもぎとられたようなもので、帰って来るまでなんの説明もきくことができなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270-271 より引用)
ですよねー。イザベラもそうなることをわかっていながら尻尾を振って結婚式に「お呼ばれ」されるあたり、色々と流石です。

 儀式は、私が今まで作法の本で読んだ結婚式の式次第とは違っていた。しかし、それは士族階級の結婚式であり、この場合の花嫁と花聟は、裕福な商家の子女ではあったが平民階級に属しているからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.271 より引用)
当時の「裕福な商家」は、ここまで裕福だったんですね……。そして結婚式のスタイルが士族と平民で異なるところを見抜くあたり、相変わらずの慧眼ぶりですね。

婚礼

イザベラは婚礼のあり方について詳らかに記していましたが、「奥地紀行」としてはオフトピックだと判断したのか、「普及版」ではバッサリとカットされています。

 結婚は両家の知人たちによって取り仕切られ、たくさんの世俗の叡智が交渉の過程で不断に示される。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.100 より引用)
これはまた……かなり抽象化された表現で、端的に言えば何を言っているかよくわからないですね。ということで原文を見てみると……

Marriages are arranged by the friends of both parties, and much worldly wisdom is constantly shown in the transaction.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なんか……訳者さんお疲れ様です、と言いたくなりますね。

それでも、まだ若々しい愛情は常に定められた河床を流れるというわけではなく、魅力的な娘が、彼女の父の家の深層に隔絶されているのにもかかわらずきっと数人の恋人がいて、日本でも、どこにでもあるように、恋人たちのしばしばの自殺が証明しているとおり、まことの恋路はいつも順調に行くとは限らないのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.100 より引用)
なんだかシェイクスピアの戯曲みたいな話になってきましたね。若干文章が読みづらく感じますが、原文と照らし合わせてみると *忠実な* 訳なんですよね。

伊藤が言うには、決定的な選好を形成した恋人は相手の娘の両親の家に錦木ニシキギ Celastrus alatus の小枝をしっかりと立てる。もし、それが無視されると彼もまた無視されたことになり、もし娘が歯を黒く染めれば、両親の承諾を前提として、彼は受け容れられたことになる訳注 1
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.100 より引用)
うー、これは凄い……。これって「僕と結婚してください!」という意思表示の「作法」だと思うのですが、ちゃんと「ごめんなさい」という選択肢も用意されているんですね。

そしてイザベラがこの「作法」を「伊藤から聞いた」というのも地味にポイントが高いと言うか……。この作法は全国的に見られるものなのか、それとも秋田近辺で良く見られるものなのかが若干謎でしょうか。

家の主人は、これは久保田近隣では時おりとられる手段だが、結婚はふつうは決められた様式に従って成立するということです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.100 より引用)
あ、この「作法」は久保田(秋田)近隣でも「時おり」見られるものなんですね。流石に全ての婚姻においてこんなドラマティックなやり方はしてない……ですよね。

イザベラは日本の「嫁入り」の要件について、財産の多寡についてはそれほど重要ではないとした上で、次のように続けていました。

しかし、婦人の条件としては思慮分別があり、愛らしく、他人とうまくやり、そして、女性の礼儀作法を身につけており、家庭内の取り仕切りができることは必要不可欠である。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.100 より引用)
イザベラのこの指摘、現代だと「相撲部屋の女将」に求められる資質と近かったりするでしょうか。前近代的で封建的な感じが色濃く感じられるような……。

嫁入り衣装

イザベラは「求婚」と「結納」の「作法」について詳述し、これらは全て「普及版」ではカットされているのですが、今回の結婚の「嫁入り衣装」についてはカットされずに残されています。

 この場合に、嫁入り道具と家具は朝早く花聟の家に送られてきていたので、私は許されてそれを見に行った。金の刺繍をした帯が数本、着物をつくるための錦織の絹が数本、絹クレープが数本、仕上げた着物が多数、白絹一本、酒が数樽、調味料が数種あった。日本の女性は宝石をつけない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.271 より引用)
「仕上げた着物が多数」というあたり、やはり裕福な商家っぽい感じですね。「日本の女性は宝石をつけない」という指摘も「言われてみれば」でしょうか。

家具

「嫁入り衣装」に続いて、「家具」についても詳しく記されています。

 家具には二個の木枕があり、りっぱな漆塗りで、その―つには化粧の簪が入っている引き出しがついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.271 より引用)
「簪」にはルビが振られていませんが、これは「かんざし」ですね。他にも様々な家具(嫁入り道具)が紹介された後、次のように結んでいました。

品物はとてもりっぱなものばかりであるから、両親はきっと裕福な人にちがいない。厳格な作法に従って酒が送りこまれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.271 より引用)
最後の文がちょっと唐突な感じがしますが、原文は以下のようになっていました。

The saké is sent in accordance with rigid etiquette.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに「厳格な作法」っぽいですが、具体的にはどのような作法だったのでしょうか。

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2023年1月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1003) 「エトシナイ川・飛雁川・コムニウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エトシナイ川

etu-us-nay?
鼻(岬)・ついている・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
標津町と別海町の境界を「当幌川」が流れていますが、エトシナイ川は当幌川の河口(野付湾)から直線距離で 7 km ほど遡ったところで当幌川に合流しています(南支流)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には当幌川が「トホロ」として描かれていて、その上流にはいくつもの支流が描かれていますが、逆に明治時代の地形図には支流の名前が殆ど記入されていません。唯一の例外が「エトシナイ」ですが、残念ながら松浦武四郎が記録した支流の中には見当たらないようです。

余談ですが、この川は地理院地図では「エトシナイ川」ですが、国土数値情報には「エトナイ川」と記録されているようです。

「北海道地名誌」(1975) には次のように記されていました。

 エトシナイ川 当幌川の右小支流。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.711 より引用)
あえて引用するまでも無かったですね(汗)。

「エトシナイ」という音は etu-us-nay で「鼻(岬)・ついている・川」あたりかな、と思わせます。エトシナイ川が当幌川に合流する地点が岬のようになっているので、そのことを指してそう呼んだのかな、という推測です。

これまた余談ですが、河口付近には「糸市内いとしない」という三等三角点があります。

飛雁川(とびかり──)

topenpira-pira??
小洞燕・崖
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)

2023年1月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1002) 「寒世牛・当幌・ショカンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

寒世牛(かんぜうし)

kanchiw-us-i?
出水・多くある・もの(川)
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ちょっと面倒な三角点名を取り上げるのを忘れていました。計根別の *東* に「東計根別神社」という神社があるらしいのですが(神社名は Google マップによる)、神社の 0.5 km ほど南に「寒世牛」という二等三角点があります(標高 110.7 m)。

「ウシ」で終わるのはいかにもアイヌ語由来っぽいのですが、古い記録や地形図などを確認してみても、*このあたりに* それらしい地名は見当たりません。……と言うのも、計根別のずっと *北西* に「カンジウシ山」と「カンジウシ川」があるのですね。

「かんぜうし」と「カンジウシ」、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) では「カンチウシ」ですが、どうしても同じである可能性を考えたくなります。「寒世牛」三角点は二等三角点なので、三等や四等と比べると「大きな地名」を冠する傾向にある……と見ることも可能ですが、この考え方は「カンジウシ山」の頂上付近に「丸山」二等三角点がある時点で怪しくなります。

更にややこしいことに「カンジウシ山」の北西にある「温泉富士」の頂上付近に「観示守山かんじしゅやま」二等三角点があります。

釧路アイヌと根室アイヌの境界論争

西別川」の上流部が何故か標茶町域となっている点は以前にも記しましたが、このあたりは「クスリ土人」、即ち「釧路アイヌ」が「根室アイヌ」から「買い取った」テリトリーだったとされます(古くから「釧路アイヌ」の領分だったという主張もあったようで、正確なところは良くわかりませんが)。

「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

○ 辰年、ニシヘツ水源境目の事は、今のケ子カフトに境目杭を立候を、是迄は元の処に有候を川西境と志るし有たるを、松岡徳次郎、柴田弁一郎川中境と書改め立し時、土人メンカクシ左様ニ而無之段申候処、松岡メンカクシを叱り附、川中を境と致し立しより起り侯由也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.344 より引用)
これは「境界は川の中央か、それとも端か」という何ともセコいびみょうな境界論争のように思えるのですが、「今のケ子カフトに境目杭を立候」とあることから、やはりケネカ川河口に何らかの境界があったことが窺えます。

また、「辰手控」(1856) には次のような記述がありました。

○ ケ子カブト
 此処にて南よりケ子カ、北よりシヘツ川此処にて合ふ也。子モロ領也。
 ○ ケ子カはシヤリ土人来り
 ○ カンチウシはクスリ土人
 ○ シヘツフトは子モロ土人(来り猟する由)
            タンコアニ申口也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 三」北海道出版企画センター p.342 より引用)
「シヘツフト」がどこを指すのかが若干謎ですが(文脈から考えると「ケネカ川と標津川の合流点の標津川上流側(あるいは北側)」でしょうか?)、ここで重要なのが「カンチウシはクスリ土人」とある点です。

「カンチウシ=釧路領」説

ここまで見た限りでは、「ケネカ川」の *左岸* が「釧路アイヌ」の領分だったように見受けられます(ここでの「左岸」は「川下から川上に向かって左」というアイヌの流儀です)。要は「カンチウシ」という地名が「釧路アイヌの領分」の通称として使われていて、「寒世牛」という三角点の名前としてひっそりと生き残ってしまった……のではないか、と。

「寒世牛」は「カンチウシ」に由来し、kanchiw-us-i で「出水・多くある・もの(川)」となるでしょうか。もっとも今回の場合は既に地形的な特徴を云々するものでは無いという話もありますが……。

当幌(とうほろ)

to-un-poro-pet?
沼・入る・大きな・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)

2023年1月6日金曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (10) 「止別」

止別やんべつ川が見えてきました。手前に標柱が写り込んでいますが、これはどんな意味なんしょう。「C=82 S=10」と書いてあるように見えるのですが……あ。C は「カント」(いわゆるバンク角)で S は「スラック」(カーブのためレールの間隔を広げる)……でしょうか?(ググった)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

列車は止別川の河口付近を通過します。ここもかつては河口がクランク状に曲がっていましたが、現在はまっすぐオホーツク海に注ぐように改良済みです。

2023年1月5日木曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (9) 「浜小清水」

釧網本線と国道 391 号は涛沸湖沿いを走ってきましたが、ついに涛沸湖が遠ざかると……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

間もなく「浜小清水駅」です。

2023年1月4日水曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (8) 「原生花園」

快速「しれとこ」は「涛沸湖」と「オホーツク海」を結ぶ川(浦士別川?)を渡って小清水町に入りました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 244 号の向こうに「涛沸湖」が見えます。「能取湖」や「網走湖」よりは小さいものの、「藻琴湖」よりは遥かに大きな湖です。

2023年1月3日火曜日

釧網本線ほぼ各駅停車 (7) 「北浜」

藻琴駅を出発すると、程なく右手に藻琴湖が見えてきました。いやー、やっぱり座席は右手に陣取るに限りますね♪(「桂台」と「鱒浦」のことは無かったことにするスタイル)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道と湖の間には、なにやら案内板らしきものが立っていますが……

2023年1月2日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1001) 「知布仁牛・俣落・パナクシュベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

知布仁牛(ちぷにうし)

{chip-ni}-us-pet
{舟材}・多くある・川
(記録あり、類型あり)

2023年1月1日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (142) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

日本の印章(花押)

久保田(秋田)で天候の回復を待つ間に、突然押しかけてきた「書道の神童」のパフォーマンスを楽しんだイザベラですが、ここでささっと日本の「かな文字」についての説明を始めます。やはり「旅行記」としてはオフトピックだと見たのか、「普及版」では見事にカットされていますが……。

 日本には 2 種類の文字(アルファベット)がある、と言うより、むしろ字音表[二つの音節文字表]があると言った方がよい。一つはヒラカナで、それは 47 音節からなる字音表で、それぞれの文字はより一般的に使われる漢字の続け字[筆記体]の短縮されたものからなり、100 個ほどの記号を含み、また、同様に 47 音節を表記するカタガナ[カタカナ]であるが、各音節には一記号だけがある。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
「100 個ほどの記号」というのが意味不明ですが、原文を見てみると……

There are two alphabets, or rather syllabaries, in Japan─the Hirakana, which is a syllabary of forty-seven syllables, each being represented by several characters, which consist of abbreviated cursive forms of the more common Chinese characters, and containing some hundred signs, and the Katagana, which also consists of a syllabary of forty-seven syllables, but with only one sign for each.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに some hundred signs とありますね。なんとも謎なこの部分ですが、時岡敬子さんは「数百にのぼる文字がこれに含まれます」と訳していました。結局のところ意味不明なんですが、もしかすると変体仮名あたりなんでしょうか。

 女性はほとんどいつも第一の文字(ヒラカナ)を使う。しかしこの子どもはどちらも書いた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
戦前から戦中にかけては、今にしてみれば不自然なくらいカタカナが良く使われていましたね。今では専ら外来語用の文字セットという印象がありますが、昔は「男ならカタカナで」というイメージがあったのでしょうか。

日本の絵画には一方の側の端の所に赤い印が押してあるのにお気づきでしょう。誰でもこのような印鑑を持って、筆箱にはそれでもってハンコを捺す朱[朱肉]を入れるところがある。ほんの子どもでさえ印鑑はんこセットを持っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
文体が「ある。」だったり「います。」だったりで少々落ち着かないですが……(編集さんは気にならなかったのでしょうか?)。「ハンコを捺す朱肉」の部分の原文は以下の部分でしょうか。

Every one has such a seal, and the writing-boxes contain the vermilion with which the impression is made.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、「朱肉」は vermilion なんですね。そして impression が「ハンコ」ということになるのですが、impression は「印象」だけではなくて「印」という解釈もできるのですね。「印」と「印象」、偶然同じ字になったのか、それとも由来が同じなのか……?

「ひらがな」「カタカナ」から「ハンコ」の話題に脱線しましたが、話はササッと元に戻り……

私を訪問してきた人たちはいたるところでタバコをふかし、それからお辞儀をして出て行きました。その子どもは目を見張らせたが、でも可愛くはなかったのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
イザベラの目には、「書道の天才少年」は印象的ではあったものの「可愛くはなかった」とのこと。妙に違和感のある言い回しなので、原文をチェックしてみると……

The child was a most impressive spectacle, but not loveable.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
うー。確かに but not loveable とありますね。この一文は時岡敬子さんも「かわいくはありませんでした」と訳しているので、やはりそう読むのが正解っぽいのでしょうか。

更に次の文章が続いていたのですが、これは一体……?

私は、床より高いところに据えられたイスに坐るようになり、家でじっとしていることを望むようになることが、西洋文明を取り入れる初期の2段階ではないかと思うのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
地べたではなく「椅子に座るようになる」のが「西洋化」の第一歩というのは(何となく)理解できるのですが、「家でじっとしていることを望む」のが「西洋化」というのは、果たして……? 原文だとこんな風になっているのですが……

I think that sitting on seats raised above the floor, and a desire for domestic seclusion, are two initial steps of western civilisation.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
seclusion は「隔離」だったり「独居」や「隠遁」と言った意味らしいのですが、domestic seclusion を直訳すると「家庭的な隔離」となるでしょうか。時岡敬子さんは「各家庭のプライバシーを守りたいと願うこと」と訳していましたが、なるほど、これだと意味が理解できそうな感じがしますね。

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