2023年1月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1008) 「平糸・清丸別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

平糸(ひらいと)

pira-etu
崖・鼻(岬)
(記録あり、類型あり)
茨散沼の西北西にある牧場の敷地内に「平糸台」という名前の一等三角点があります(標高 26.4 m)。別海町には「平糸台」三角点のほか、「平糸」という名前の四等三角点が何故か二つもあり、どれも 10 km 以上離れていたりします。

似たような名前の三角点が複数存在するのは良くある話ですが、ここまで離れているのは珍しいのではないかと。

明治時代の地形図を見てみると、ニショパラペッ(=西丸別川)の河口付近に「平糸」と描かれています。現在は「別海町本別海」の北部という扱いですが、昔はこのあたりが「平糸村」だったとのこと。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Pira etu   ピラ エト゚   崖鼻 山崎ノ義○平絲村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
どうやらかなりストレートな地名だったようで、pira-etu で「崖・鼻(岬)」とのこと。鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にも次のように記されていました。

かつて、この辺から当幌川春別川・床丹川流域はピラエトゥの当て字の平糸が、明治 5 年(1872) から大正 12 年(1923) の村名であった。同 12 年に別海村の大字であったが、昭和 47 年(1972) にこの大字も廃止された。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.369 より引用)
ふむふむ。どうせだったらこのあたりの情報が充実している「角川日本地名大辞典」(1987) も見ておこうか……ということで。

昭和 47 年 1 月 1 日大字が廃され,字中西別・床丹・美原・豊原・大成・本別・尾岱沼(おだいとう)・尾岱沼港町・尾岱沼岬町・尾岱沼潮見町・上春別・上春別南町・上春別栄町・上春別旭町・上春別緑町・中春別・中春別東町・中春別西町・中春別南町・西春別宮園町・西春別清川町・西春別昭栄町・西春別幸町・西春別本久町・西春別駅前柏町・西春別駅前曙町・西春別駅前西町・西春別駅前寿町・西春別駅前栄町・西春別駅前錦町・西春別・別海・本別海となる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1259 より引用)
うわ、これは……。別海町北部にある「平糸ひらいと」四等三角点の所在地は「北海道野付郡別海町大字平糸村字春別原野6360番地の14」で、現在は「別海町中春別」に含まれるとのこと。

標津線・平糸駅の近くにあった「平糸ひらいと」四等三角点の所在地は「北海道野付郡別海町中春別 336 番地 6」で、これも「別海町中春別」……ということは、かつての「大字平糸村」と考えられます。「平糸台ぴらいとだい」一等三角点の所在地も「北海道野付郡別海町床丹 1 番 55」なので、かつての「大字平糸村」ということになりますね。

「平糸」は、別海町のほぼ北半分を占める大字だったものが、大字が廃されたことで、現在は標津線・平糸駅跡近くのバス停の名前になってしまった……ということのようです。

しかも「平糸駅」は「大字平糸村」に由来するので、本来のアイヌ語の地名とは随分と離れている点にも注意が必要です。おそらく平糸駅(跡)の近くには pira-etu は見当たらないと思われるので……。

清丸別川(きよまるべつ──)

kim-un-para-pet?
山(側)・にある・広い・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
西別川の北支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「キモハルヘツ」という名前の川が描かれていて、明治時代の地形図には「キムクシパラペツ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部奴宇之辺都誌」には次のように記されていました。

 下りて
      キモハルベツ
 川巾五問計。此辺家山薬(やまいも)多きによつて号るとかや。キモは家山薬の事、ハルは喰草の惣名也。よつて号るとかや。是子モロの方言也。クスリまた家山薬をしてチロシと云。もし、此処クスリ土人をして名を附しめば、チロシウシヘツとも云べきをや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.414-415 より引用)
ciros は「祖印入りの矢」あるいは「花矢」を意味するとのこと。「キモ」は根室の方言で「山芋」を意味する……とありますが、手元の辞書類では裏付けが取れませんでした。

一方で、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kim un para pet   キㇺ ウン パラ ペッ   奥ノ廣キ川 山ノ方ヘ行クホド川幅廣シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.375 より引用)
kim-un-para-pet で「山・に入る・広い・川」と考えた、ということでしょうか。現在の「清丸別川」は大半の区間が改修済みでかつての面影はありませんが、「陸軍図」を見ると確かに上流部のほうが広い湿地帯に囲まれているように見えます。

ただ kim-un-para-pet で「山(側)・にある・広い・川」と捉えることも可能かと思います。2023/1/22 の記事で記したように、「西丸別川」と「清丸別川」は似た特性(広い?)があったのではないかと考えているので、kim-un- は抽象的な位置を示す記号だったのでは……という考え方です。

松浦武四郎が残した細かい記録が気になるのも事実ですが、あるいは para-pet ではなく haru-pet だったのかも……?

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