2023年1月21日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1006) 「トリサンケベツ川・オマンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トリサンケベツ川

turi-sanke-oma(-nay)??
棹・浜へ出す・そこにある(・川)
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在の「別海町床丹」集落は海沿いを南北に伸びているのですが、集落の南部を「トリサンケベツ川」が流れています。ただ地理院地図には川として描かれていないレベルで、地元でも川として認識されているか、ちょっと疑わしい感じもしますが、「国土数値情報」でもちゃんと川として扱われているんですよね。

「沼から浜へ出る川」説

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「トーサンケヲマエ」という地名?が描かれていました。また「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

トウサンケヲマナイ(小川)、此上に沼有、名義、沼より下る儀也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.339 より引用)
to-sanke-oma-nay で「沼・浜へ出す・そこにある・川」と考えたのでしょうか。地形図ではところどころに谷地があるように見えますが、鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」(1995) にて次のように言及していました。

現在この沢の上流には、沼らしき形は見えない。干し上がってしまったのであろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.373 より引用)
地理院地図を見る限りでは谷地はありそうにも見えるんですが、やはりこの説はちょっと疑わしいと見るべきでしょうか。

「棹を浜へ出す川」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Turi sange nai   ト゚リ サンゲ ナイ   棒ヲ下ス澤 未タ橇ナキ以前ニハ縄ヲ棒ニ付ケ額ニ當テ棒ヲ山ヨリ下シタル故ニ名ク此澤ノ雨降ラザレバ水無シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
永田さんがいつになく饒舌……ということは、少し疑ってかかる必要が出てきますが(ぉぃ)、この川については「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

トリサンケヲマ むかし家を作る木を山にて切て、担で浜え下りし由。トリは棹の事、サンケは下ると云事
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.261 より引用)
あら。turi-sanke-oma(-nay) で「棹・浜へ出す・そこにある(・川)」とありますね。sanke という動詞を oma で受けるのはちょっと変な感じもしますが、「チㇷ゚サンケ」という「舟を川に下ろす」神事があるので、それと似たような感じで「棹」を下ろすイベントがあって、それが行われる場所……とかだったんでしょうか(でもそれだったら turi-sanke-us-i のほうが良さそうな気も)。

それにしても、ちょっと不思議なのが、「午手控」には割と妥当に思える内容が記されているにもかかわらず、「東蝦夷日誌」ではちょっと外した内容に書き換えられるケースが続いていることで……。ウケ狙いで話を盛ったようにも見えないですし、一体何なんでしょう……?

オマンベツ川

nisuppa-oma-pet?
木の切り株・そこにある・川
oman-pet?
山のほうへ行く・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
床丹集落の南端で「フタマタ川」と合流して海に注ぐ川です。明治時代の地形図を見てみると、現在の位置に「オマンペッ」と描かれているものと、「ニシユパオマペツ」の北隣に「ヲマンペツ」が並んで(=別の川として)描かれているものがありました。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ニシハヲマヘツ」という川が描かれています。「トーサンケヲマエ」(=トリサンケベツ川)の南に「ピラ」と描かれていて、その南隣が「ニシハヲマヘツ」です。

「東西蝦夷──」には「オマンベツ川」に相当する川は描かれていないので、「ニシハヲマヘツ」が「オマンベツ川」に変化した……と考えたくなりますが、鎌田正信さんは現在「第 4 川」「第 3 川」と呼ばれる川が「オマンペツ」だとしています。これは「ニシユパオマペツ」の北隣に「ヲマンペツ」があるとした古い地図と整合性のある見方です。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nishinpa oma pet  ニシンパ オマ ペッ  樹根川 木ノ根流レテ中ニアリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
若干謎な感じの解が記されていますが、これは nisuppa-oma-pet で「木の切り株・そこにある・川」と読めそうです。永田地名解にも「オマンベツ川」に相当する記載は見当たらないので、やはり「ニシユパオマペツ」が「オマンベツ川」に化けた……と考えたいところですが……。

「オマンペツ」は実在したか

「オマンペツ」について、鎌田正信さんは次のような見解を記していました。

オマンペツ
 床丹集落の中程より少し南に寄った所で、海峡に流入の小沢(高砂橋が架設されている)。
 オマン・ベッ「oman-pet 山の方に行く・川」の意か。あるいは川口付近には、海岸に沿った段丘が続いている処から「オマンペシ oman-pes-i 浜通りの山(沿岸の山)」の意とも読める。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.372-373 より引用)
「高砂橋」の場所を確認してみたのですが、現在は「第 3 川」と呼ばれる川の橋でした(鎌田さんの手書きの地図にある「オマンペツ」は、どう見ても「第 3 川」ではなく「第 4 川」の位置に見えるのですが……)。

あとは「オマンベツ川」の意味をどう考えるかなのですが、現在「オマンベツ川」とされる川は、周りの川と比べると比較的水源が奥のほうにあります。そのため、oman-pet で「山のほうへ行く・川」というネーミングもそれなりに妥当性のあるもののように思えます。

別の言い方をすれば、現在の「第 3 川」(あるいは「第 4 川」)がもともと「オマンペッ」だったというのは、若干妥当性を欠くような気もします(どちらもそれほど山奥に入る川とは言いづらいので)。もともとは「ニシユパオマペツ」で、いつしか「ニシユパ」が略されて「オマペツ」になり、そこから「オマンペツ」という *新解釈* が生まれた……と考えるのが自然に思えるのですが……。

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