2023年1月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1005) 「ライトコタン川・間意場牛・チェプンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ライトコタン川

ray-{tokotan}?
死んだ・{床丹川}
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
春別川の南、床丹川のすぐ北を流れる川で、直接海に注いでいます。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「ライトコタン」という名前の川が描かれています。

「死んだ・床丹川」?

「東蝦夷日誌」(1863-1867) には次のように記されていました。

舟中より眺むにヒラクンナイ、(六丁三十間)ライトコタン(右川)、是往古トコタン〔床谷〕の川口也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.341 より引用)
「トコタン」は「床丹」ではなく「床谷」表記ですが、「トコタン」の意味は「沼村」ではないか……としています(異説も多いですが)。

明治時代の地形図を見ると、床丹川(トコタン川)の河口は今よりも北にあったようで、かつては「ライトコタン川」が「トコタン川」の河口に注いでいた可能性もありそうです。ray-{tokotan} は「死んだ・{床丹川}」で、床丹川の旧河道をそう呼んだ可能性がありそうです。

「ライト」ではなく「ライチ」?

この明治時代の地形図には「ライトコタン」ではなく「ライチコタン」と描かれているのですが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Rai chi kotan   ライ チ コタン   死枯村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.374 より引用)
とあります。良く見ると直前の項にも言及があるのですが……

Tu kotan    ト゚ コタン   二ッ村 今ノ「ト゚コタン」ト「ライチコタン」ヲ呼ビテ二ツ村ト稱セシガ後世一村ノ名トナリシト「アイヌ」云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.373 より引用)
ふむ、永田方正は「ト゚コタン」と「ライチコタン」がそれぞれ別の村で、その総称が「ト゚コタン」だった……と言っているように思えるのですが、見事に矛盾しているというか、循環参照しているような気が……。

不思議なのは、永田方正は何故 ray-tu-kotan で「死んだ・二つ・村」と考えなかったのか……というところです。「二つ村」があるならば、その隣に「元・二つ村」が並んでいたと考えることもできそうに思うのですが……。

違う、そうじゃない

「床丹」の解釈については諸説あって決定打に欠けるという印象ですが、道内各所に散見される「トコタン」の多くが tu-kotan で「廃・村」ではないかとされます。そう言えば「午手控」(1858) にも次のように記されていたんでした。

○トコタン
 むかし土人多く有しが、皆ハラサンえ引取りしによって、今明地になり有しによって号るよし也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.376 より引用)
仮に「トコタン」が「廃・村」だったとすると、「ライトコタン」は「死んだ・廃・村」となり、屋上屋を架すことになるんじゃないか……と考えたくなりますが、「ライトコタン」の「トコタン」は川名(固有名詞)としての「トコタン」だと考えれば、そこまで奇妙なものでも無いような気がします。

「ライトコタン川」という名称の面白いところは、松浦武四郎が「ライトコタン」と記録したものを永田方正が「ライチコタン」だとして、当時の地図もそれに追随したにもかかわらず、いつの間にか「違う、そうじゃない」として「ライトコタン川」に先祖返りしたように見えるところです。

結局のところ、松浦武四郎が記録した ray-{tokotan}死んだ・{床丹川}」説で良さそうな気がするんですが……。

間意場牛(かんいばうし)

kamuy-wa-us-i?
熊・渡渉する・いつもする・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「ライトコタン川」の河口近くの高台に「間意場牛かんいばうし」という名前の三等三角点があります(標高 20.8 m)。いかにもアイヌ語由来っぽい名前ですが、明治時代の地形図を見ると、「ライトコタン川」の北を流れる「モノトコタン川」とされる川の位置に「カムイバウシ」と描かれていました。

「モノトコタン川」は古い地図などに見当たらないため、(現時点では)元となるアイヌ語由来の川名があったかどうかは疑わしいと考えています。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「カモエハウシ」という地名?が描かれていて、「東蝦夷日誌」(1863-1867) にも次のように記されていました。

(八丁三十間)カモイハウシ(小川)、越て(廿三丁廿間)ユワエト、(廿一丁十三間)ポロシユンベツ、(九丁廿間)ホンシユンベツ(小川)等疇、皆上は平地にて盧荻原多し。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.341 より引用)
どうやら「カモイハウシ」は「小川」で、「ライトコタン」から「八丁三十間」とあるので、現在「モノトコタン川」とされる川が「カモイハウシ」だったようですね。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Kamui pa ushi   カムイ パ ウシ   熊ヲ見付タル處 川名、昔シ機弓ヲ置キ熊ヲ見付ケタル處ナリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.374 より引用)
確かに pa には「……を見つける」という意味があるので、kamuy-pa-us-i で「熊・見つける・いつもする・ところ」と読むことも可能でしょうか。

ただ「午手控」(1858) には次のように記されていました。

カムイワウシ むかし熊がよく上りし由也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.261 より引用)
kamuy-wa-us-i で「熊・渡渉する・いつもする・ところ」と読めそうですね。実際に熊が良く上陸するところだったのかもしれませんが、あるいは kamuy-pa-us-i で「熊・頭・そこにある・ところ」とも読めそうな気がします(釧路町の「又飯時」の近くに「カモイハウシ」があり、「午手控」に「熊の頭」説の記載あり)。これらの解のほうが、「熊を見つけたところ」よりも適切に思えるんですよね……(何を以て「適切」とするか、という問題がありますが)。

チェプンナイ川

chep-un-nay
魚・入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
床丹川を河口から 2 km ほど遡ったところに「さけ・ます捕獲採卵場」があるのですが、そこから更に 1.2 km ほど遡ったところで「チェプンナイ川」が北から床丹川に合流しています(国土数値情報では「チエンプンナイ川」とのこと)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にも「チエフンナイ」と描かれていますが、残念ながら永田地名解 (1891) には見当たらないようです。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には次のように記されていました。

チエㇷ゚ウンナィ
チエブンナィ川(地理院図)
 床丹川の支流から 3 キロ上流を、北西の湿地帯を通って流入している。
 チエㇷ゚・ウン・ナィ(chiep-un-nay さけ、ます・そこに入る・川)の意で、合流点から 1 キロ下流には「さけ• ます捕獲採卵場」がある。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.374 より引用)
これは流石に議論の余地が無さそうですね。chep-un-nay で「魚・入る・川」と見て良さそうです。

ちょいと余談ですが

chepcep と表記すべきなのかもしれませんが、ヘボン式のローマ字に慣れ親しんだ日本人にとっては、chep のほうがわかりやすい……というのが正直なところです。

また鎌田さんは chiep としていますが、これは chep がもともと chi-e-p(我ら・食べる・もの)に由来するのではないか……という点を考慮した表記でしょうか。

地名アイヌ語小辞典」によると、幌別(胆振)や白老では鮭を chep と呼び他の魚を chiep と呼ぶ……とありますが、このような使い分けが全道的に行われていたかどうかは……?

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