2023年1月1日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (142) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

日本の印章(花押)

久保田(秋田)で天候の回復を待つ間に、突然押しかけてきた「書道の神童」のパフォーマンスを楽しんだイザベラですが、ここでささっと日本の「かな文字」についての説明を始めます。やはり「旅行記」としてはオフトピックだと見たのか、「普及版」では見事にカットされていますが……。

 日本には 2 種類の文字(アルファベット)がある、と言うより、むしろ字音表[二つの音節文字表]があると言った方がよい。一つはヒラカナで、それは 47 音節からなる字音表で、それぞれの文字はより一般的に使われる漢字の続け字[筆記体]の短縮されたものからなり、100 個ほどの記号を含み、また、同様に 47 音節を表記するカタガナ[カタカナ]であるが、各音節には一記号だけがある。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
「100 個ほどの記号」というのが意味不明ですが、原文を見てみると……

There are two alphabets, or rather syllabaries, in Japan─the Hirakana, which is a syllabary of forty-seven syllables, each being represented by several characters, which consist of abbreviated cursive forms of the more common Chinese characters, and containing some hundred signs, and the Katagana, which also consists of a syllabary of forty-seven syllables, but with only one sign for each.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに some hundred signs とありますね。なんとも謎なこの部分ですが、時岡敬子さんは「数百にのぼる文字がこれに含まれます」と訳していました。結局のところ意味不明なんですが、もしかすると変体仮名あたりなんでしょうか。

 女性はほとんどいつも第一の文字(ヒラカナ)を使う。しかしこの子どもはどちらも書いた。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
戦前から戦中にかけては、今にしてみれば不自然なくらいカタカナが良く使われていましたね。今では専ら外来語用の文字セットという印象がありますが、昔は「男ならカタカナで」というイメージがあったのでしょうか。

日本の絵画には一方の側の端の所に赤い印が押してあるのにお気づきでしょう。誰でもこのような印鑑を持って、筆箱にはそれでもってハンコを捺す朱[朱肉]を入れるところがある。ほんの子どもでさえ印鑑はんこセットを持っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
文体が「ある。」だったり「います。」だったりで少々落ち着かないですが……(編集さんは気にならなかったのでしょうか?)。「ハンコを捺す朱肉」の部分の原文は以下の部分でしょうか。

Every one has such a seal, and the writing-boxes contain the vermilion with which the impression is made.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、「朱肉」は vermilion なんですね。そして impression が「ハンコ」ということになるのですが、impression は「印象」だけではなくて「印」という解釈もできるのですね。「印」と「印象」、偶然同じ字になったのか、それとも由来が同じなのか……?

「ひらがな」「カタカナ」から「ハンコ」の話題に脱線しましたが、話はササッと元に戻り……

私を訪問してきた人たちはいたるところでタバコをふかし、それからお辞儀をして出て行きました。その子どもは目を見張らせたが、でも可愛くはなかったのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
イザベラの目には、「書道の天才少年」は印象的ではあったものの「可愛くはなかった」とのこと。妙に違和感のある言い回しなので、原文をチェックしてみると……

The child was a most impressive spectacle, but not loveable.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
うー。確かに but not loveable とありますね。この一文は時岡敬子さんも「かわいくはありませんでした」と訳しているので、やはりそう読むのが正解っぽいのでしょうか。

更に次の文章が続いていたのですが、これは一体……?

私は、床より高いところに据えられたイスに坐るようになり、家でじっとしていることを望むようになることが、西洋文明を取り入れる初期の2段階ではないかと思うのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.99 より引用)
地べたではなく「椅子に座るようになる」のが「西洋化」の第一歩というのは(何となく)理解できるのですが、「家でじっとしていることを望む」のが「西洋化」というのは、果たして……? 原文だとこんな風になっているのですが……

I think that sitting on seats raised above the floor, and a desire for domestic seclusion, are two initial steps of western civilisation.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
seclusion は「隔離」だったり「独居」や「隠遁」と言った意味らしいのですが、domestic seclusion を直訳すると「家庭的な隔離」となるでしょうか。時岡敬子さんは「各家庭のプライバシーを守りたいと願うこと」と訳していましたが、なるほど、これだと意味が理解できそうな感じがしますね。

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