2022年12月25日日曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

北海道のアイヌ語地名 (999) 「計根別・ケネカ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

計根別(けねべつ)

kene(-us)-oika-pet?
ハンノキ(・群生する)・渡渉する・川
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
中標津町西部の地名で、かつて国鉄標津線に同名の駅もありました。ということでまずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  計根別(けねべつ)
所在地 (根室国)標津郡中標津町
開 駅 昭和11年10月29日
起 源 アイヌ語の「ケネ・ペッ」(ハンノキ川)をとったもので、標津川の支流のケネカ川を指している。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.168 より引用)
あー、やはり kene-pet で「ハンノキ・川」ではないか、ということですね。まぁそうだよなぁ……と思いつつ「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を眺めてみたのですが、ケネカ川は「ケ子カ」と描かれていて、「ケネヘツ」という川名は見当たりません。

「ケ子ウオイカペッ」?

ところが、明治時代の地形図を見てみると、「ケ子カ」ではなく「ケ子ウオイカペッ」と描かれています(川名として)。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Keneu oika   ケネウ オイカ(ペッ)  蕗鱒ノ越ス川 「ケネウ」ハ鱒ノ一種ニシテ大ナリ能ク陸ヲ走リ好テ蕗ヲ食フ故ニ和人蕗鱒ト呼ブ標津川ヨリ陸ヲ越エテ此川ニ入ルヲ以テ「ケネウオイカ」ト云フ十勝國中川郡「ケネウタラ」ノ地名アリ蕗鱒岩ノ義此ノ岩ニ蕗鱒多ク居ルヲ以テ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.378 より引用)
永田さんがいつも以上に饒舌になっているということは、これは眉唾ものの可能性も高そうですが……(ぉぃ)。というか、「良く陸を走る魚(鱒の一種)が標津川からやってきて蕗を食べてるので」という説明を真に受けるかと言われると、それはさすがにどうか……と思いますよね。

もちろん鮭・鱒が「滝つぼチャレンジ」をすることを「陸を走り」と言った……と好意的に捉えてみることも考えたのですが、「魚が蕗を食べる」という時点で……やはり無理がありそうな気がします。

「陸を走り蕗を食べる魚」の正体

この「蕗鱒フキマス」について、知里さんの「動物編」(1976) を見てみたところ……

§ 73. マスノスケオオスケクチグロマスフキマス
Oncorhynchus tschawytscha Walbaum
(1) kenéw (ケねウ)[kenew←kene←kennep←kemne-p]《近文1 足 II12》[ベニマス(マスの王で 6 尺位もある)]《虻;長;礼;(B);穂 ;斜里;フプシナイ》[夏ヌクイトキイル]《チトセ (ラシャマス);アカン》[夏,暑イトキ上ッテクル,大キイノニナルト 6 尺モアル];《幌》p. 43(マス←ギンマス)ケイヂ kenne-cep.
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.57 より引用)
とあります。この「マスノスケ」は「キングサーモン」のことですが、もちろん陸上を走ることは無く、蕗を食べることも無い……筈です。ところが……

(6) sakipe (sa-ki-pe サキペ)《ホベツ;クッチャロ;オシャマンベ》
  注 1.──赤い厚司衣(attus) を着た人間の姿になる。♂ も ♀ も山中でフキとってくう。女ならば赤子を負い,山中を歩いてフキを取って食うと信じられている《ビホロ》マスノスケ,クチグロマス,フキマス
  注 2.──口の中が黒いのでクチグロマスとも云う。またその黒いのはフキを食うからだと信じられ,フキマスとも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.57 より引用)
Wikipedia の「マスノスケ」のページにオスの「マスノスケ」の写真があるのですが、胴体がかなり赤く染まっていることがわかります。これは「婚姻色」とのことで、「ベニザケ」ほどでは無いかもしれませんが、中々インパクトのあるものです。「赤い厚司衣を着た」という伝承も頷けるものです。

そして、まだ続きがありまして……

(7) keneu《ビホロ》マスノスケ。人間になってあるく。女になって子どもを負んぶして真赤な着物をきて。ある人が石狩と十勝の間でこれに会った。やらせた,誰にも云うなよ,その人は家へ帰って云った。すぐ死んだ。それからケネウが女になって歩くことが判明。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.57-58 より引用)
なんですか、この「未確認生物ファイル」みたいな締め方は(笑)。もちろんこれらは荒唐無稽な「作り話」と言えばそれまでですが、この「マスノスケ」は普通のサーモンとは別格のものとして見られていたようで、こういった形で「神格化」されていた……ということのようです。

やはり「ハンノキ」か

この、なんとも夢のある「マスノスケ」説ですが、山田秀三さんは旧著「北海道の川の名」(1971) で次のように指摘していました。

 ケネカは「榛の木の・上」と読まれる。川名はそれをとってケネ・カとも、簡略にケネ・ペツとも呼んでいたのではなかろうか。松浦図には、標津から斜里に行く当時の交通路が、ケネカ川の合流点近くを横切って描かれてある。その渡河点が、ケネオイカ(kene-o-ika ケネ川を・そこで・越える)と呼ばれたのではあるまいか。これなら自然な地名の形。永田氏の採録した Keneu-o-ika の解は、後に発生した地名説話のような気がする。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.109 より引用)
完膚なきまでにバッサリとやられた感がありますね。実は最初に引用した「北海道駅名の起源」でも、昭和 25 年版では「『ケネウ・オ・イカ・ペツ』(蕗鱒の越す川)」で、昭和 29 年版で「『ケネ・ペッ』(ハンノキ・川)」に改められていました。また鎌田正信さんも「道東地方のアイヌ語地名」(1995) で山田説を引用して「この説が現地とも合っており,すんなりと理解ができる」としています。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部志辺都誌」にも、次のように記されていました。

 扨川まヽを上るや左りの方
      ホンケ子カ
 是赤楊の少し有ると云儀。ケ子は赤楊の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.630 より引用)
あー。この「ホンケ子カ」は現在の「ポンケネカ川」のことですが、「ケ子は赤楊の事なり」というのは「ケ子カ」にも適用される筈です。明治時代の地形図にも「ケ子ウオイカペツ」とあるのが少々引っかかりますが、kene(-us)-oika-pet で「ハンノキ(・群生する)・渡渉する・川」と考えれば良いのでしょうか。

ケネカ川

kene-ka?
ハンノキ・岸
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
ということで「ケネカ川」です。標津川の西支流で、計根別の市街地の北を流れているのですが、「ケネカ」という川名はなんか違和感があると言うか……。

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を眺めてみると、「ケ子カフト」という地名があるため、河口部では「ケ子カ」が川の名前として認識されていたことが伺えます。一方で「ケ子カ」の上流部に「ホンケ子タイ」や「ケ子ワツカ」という地名?が散見されるのですが、明治時代の地形図では「ケ子ワㇰカオイ」や「ケ子???」と言った風に「カ」がついた形で描かれています(その割には「ホンケ子カ」ではなく「ポ?子ウオイカペツ」なのですが)。

ここからは想像するしか無いのですが、現在の「計根別」のあたりを kene-ka で「ハンノキ・岸」と呼んでいて、それがいつしか「ケ子ウオイカペツ」の代わりに川の名前としても通用するようになってしまった……と言った感じでしょうか。上流部の地名が軒並み「ケ子──」から「ケ子カ──」に化けたのは、「ケネカ」が「川の名前」に収まった結果だったのかな、と考えたくなります。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事