2022年12月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (995) 「シワンベツ川・須根仁牛・コトンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シワンベツ川

suy-an-pet??
穴・ある・川
(?? = 記録はあるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
川上郡標茶町と野付郡別海町の町境の近く(別海町側)で西別川に合流する北支流です。町境の少し北西に「虹別オートキャンプ場」があり、その北側を流れています。オートキャンプ場の北には「朱安別しゅあんべつ」という名前の三等三角点(標高 160.4 m)もあるので、「朱安別」という字を当てたものの普及しなかった系でしょうか。

明治時代の地形図には「シューアンペツ」とあります(うっ、嫌な予感が……)。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはシワンベツ川の河口付近に「シュワンフト」とあり、「ホンシユワン」「シユワンイトコ」などの川名(地名?)が描かれています。川名は「シユワン」と認識されていたことを伺わせます。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部奴宇之辺都誌」には次のように記されていました。

また北岸に
     シユワン
左り岸。此川ニシベツ支流中第一番の河也。川巾十間も有。其地名は昔し此川にて鍋を破りたりと、よつて号るよし也。本名シユウアンのよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.400 より引用)
あー……。嫌な予感に限ってよく当たるもので、「この川にて鍋を破りたり」ですか。みんな鍋が好きですよね……。これまた鍋好きとして知られる [要出典][独自研究?] 永田方正さんも次のように記していました。

Shū an  シューアン  鍋アル處 此處鮏ナシ「ポンペツ」ヨリ鮏ヲ貰ヒ鍋ニテ烹食セシ故ニ名クト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.347 より引用)
流石ですね。ご丁寧に「他所から鮭をもらって鍋で煮炊きして食べたから」という背景まで語っているあたり、これはやはり「鍋好き」認定待ったなしでしょうか。

ただ意外なことに「北海道地名誌」(1975) には全く異なる解が記されていました。

 シワンベツ川 虹別市街の東を南流し,西別川に入る左小支流。本当の鷲とり小屋の川の意か。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.680 より引用)
これは……。更科さんは鍋好きでは無かったというでしょうか……? [独自研究?][かなりどうでもいい] アイヌの地名説話には何故か「鍋」が良く出てくるのですが、どうしても唐突な感があるので、少なからず「話を盛った」ケースがあるのでは……と想像しています。 ただ si-an で「本当の・鷲捕小屋」というのも負けず劣らず唐突な感じがするんですよね。

私も鍋は決して嫌いでは無いのですが、流石に地名(川名)の由来としてはどうかと……。かと言って「本当の鷲捕小屋」というのも、なんとなく疑わしく思えてしまうんですよね。

結局は「シユワン」あるいは「シューアン」に近い地名を想像するしか無いのですが、たとえば suy-an-pet で「穴・ある・川」あたりはどうでしょう? 「鍋」や「鷲捕小屋」相手だったらそれなりに勝負できそうな気もするのですが……(何の勝負だ)。

須根仁牛(すねにうし)

sine-ni-us-i?
一本の・木・ある・ところ
(? = 記録あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 243 号を道道 885 号「養老牛虹別線」の交点から 1 km ほど西に向かうと、トラック数台が駐車できそうな駐車帯(Google マップでは「標茶パーキングエリア」)があるのですが、そこから 300 m ほど北に送電線の鉄塔が立っています(もっとも国道と鉄塔の間は牧草地なので、直接移動はできないのですが)。

鉄塔の近くには 1920(大正 9)年に選点された「須根仁牛すねにうし」という三等三角点があります。牛すね肉はしっかり煮込むとめっちゃ美味しいですよね。

なんで牧草地の真ん中に三角点が……と思ったのですが、ここは実は西別川水系と釧路川水系(磯分内川)の分水嶺に当たるとのこと。虹別のあたりはかつて「釧路アイヌ」が「根室アイヌ」から「買い取った」エリアで、その後一旦は「根室国」に戻ったものの、いつの間にか標茶町域になっていました。そのため町境と遠く離れたところに分水嶺が隠れていたんですね。

「ス子ニ」は「シ子ニ」?

明治時代の地形図には、「根室国」と「釧路国」の境界に「ス子ニウシ」と描かれていました。戊午日誌 (1859-1863) 「東部奴宇辺都誌」にも次のように記されていました。

南方処々に槲柏原また赤楊原・柳原有に、鹿道多く有りて縦横になり居たるまゝ、如何にも何れが土人等が常々通ふ道と定め難きを、只針を手にして来りて
     シ子ニウシ
と云に到る。此処大なる槲柏一本有りし由。シ子ニは一本木也。ウシは有ると云儀。地味少し高くして山の形ちに成りたり。是シユサモコタンの山脈にして、クスリ、ニシベツの分水嶺なりける。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.418 より引用)
須根仁牛すねにうし」という読み方からは {sune-ni}-us-i で「灯火用の樺皮をはさむ木・ある・ところ」かと思ったのですが(これも「鍋」と同レベルに珍妙な解だという説もありますが)、sine-ni-us-i で「一本の・木・ある・ところ」だったんですね(他で聞いたことが無い地名なので、念のため「?」を残しています)。

「戊午日誌」に記録された歴史ある地名も、今では三角点の名前にひっそりと残るのみですが、「よくぞ生き残ってくれた」と思ってしまいます。

コトンナイ川

kot-un-nay
凹み・そこに入る・川
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
虹別のあたりはアイヌ語由来の川名が意外と残っていないのですが、何故か西別川の最上流部に「コントナイ川」という名前の川があります。実際は「コトンナイ川」だと思われるのですが、国土数値情報では「コントナイ川」になっているもので……。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「コトン・・ナイ」という名前の川が描かれていました。やはり「コント──」ではなく「コトン──」が正解だったようで、「午手控」(1858) にも次のように記されていました。

○コトンナイ
 沢の奥平地少し有、其両方少し高く至極沢の様子のよきより号る也。本名コツヲンナイの訛り也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.324 より引用)
これは kot-un-nay で「凹み・そこに入る・川」と考えて良さそうですね。地理院地図で見るとこのあたりの川は山肌を深く抉ったところを流れているようで、そのことを形容したネーミングなのでしょうね。

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