2022年11月23日水曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

「日本奥地紀行」を読む (141) 久保田(秋田市) (1878/7/25)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十四信」(初版では「第二十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

海草による象徴

なんか、いつまで経っても久保田(秋田)を出発しそうにない印象が強くなってきましたが……

 とうとう天候回復の兆候が見えてきたので、明日は出発しようと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
あ、ようやく出発しそうですね。とは言っても出発は「明日」の話のようなので、今日一日は休養日に充てるということでしょうか。

ちょうどこの文を書いたとき伊藤がやってきて、隣の家の人が私の担架式ベッドと蚊帳を見たいと言う。そして例の如く海草(熨斗こんぶ)をつけた菓子を一箱送ってきてあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「海草をつけた菓子」というのはちょっと謎な感じもしますが、原文では cakes with the usual bit of seaweed attached とのこと。「熨斗のしこんぶ」というもの自体に馴染みが無いので途方に暮れているところですが、「熨斗鮑のしあわびの代用にする昆布」とのこと。……あ、「熨斗昆布」は「熨斗」の本来の形だったんですね。あくまで贈り物の主体は「菓子」で、「熨斗代わりの昆布」がつけられていた……と。

海草は贈り物のしるしである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
やっと、この謎の文章の意味も理解できました。熨斗代わりの昆布がついた(=贈答用)箱に入ったお菓子をもらった、ということですね。

イザベラは「日本人は漁業民族の子孫であると信じている」として、次のように続けています。

彼らはそれを誇りとし、恵比須という漁師の神は、家の内に祀る神のうちでもっとも人気のある神の一人である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「えびす」は「商売の神様」という印象があるのですが、元々は「漁業の神」だったとのこと(そう言われてみれば釣り竿を持ってましたよね)。そしてイザベラはどうやって「恵比須」に関する知識を手に入れたのでしょう……。端的に言えば誰かに聞いたということなんでしょうけど、当時の知識人にとっては常識の範囲だったんでしょうか。

ふつうの人に贈り物をするときには海草を一片つけてやり、天子ミカドへの献上品には乾かした魚の薄皮(熨斗飽)をつけるというのは、この民族の起原を示すもので、同時に素朴な勤勉の尊厳を象徴している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
イザベラは「熨斗昆布のしこんぶ」が「熨斗鮑のしあわび」の簡略型だということも把握していた、ということですよね……(すげぇ)。

午後の訪問者

本筋に戻りますが、イザベラが隣家の人から「のし付き」の「お菓子」をもらったのは、イザベラの「担架式(携帯用?)ベッド」と「蚊帳」を見たいという、ミーハー根性(死語?)丸出しの依頼と抱合せでした。

各地で「見世物」扱いされることには辟易していた筈のイザベラですが、意外なことに今回の「訪問者」については OK を出しています。少人数の礼儀正しい客であれば、イザベラにとってもプラスになるという判断でしょうか。

温度は八四度もあるのに、五人の男と二人の少年、五人の女が、私の小さくて天井の低い部屋に入ってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
華氏 84 度は摂氏 28.9 度なのでそれほど暑くないように思ってしまいますが、7 月末なので湿度も相当高かったことが想像できます。「小さくて天井の低い部屋」とありますが、風通しはどうだったんでしょう……?

三度平身低頭してから畳の上に坐った。明らかに彼らは、午後をこの部屋で過ごそうと思ってやってきたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.268 より引用)
「午後をこの部屋で過ごそうと思って」の意図を取りかねたのですが、ベッドと蚊帳を見学するだけなら一瞬で済むので、おそらくそれだけではない……という意味なんでしょうね。

イザベラは訪問客に「いつも通りの礼儀作法」で振る舞うように伝えていて、訪問客はイザベラの前で煙草を吸ったりしたようですが、やはりどうしても場の雰囲気は改まったものだったようで……。

彼らは、このような「尊敬すべきオナラブル」御旅行の方に会うことができて感謝する、と言った。私はまた御国を多く見ることができたことを感謝した。そして私たちはみな深々と頭を下げた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
まぁ、でも昔は親戚同士でもこんな感じで挨拶することもあったような気がするので、めちゃくちゃガッチガチということでも無さそうでしょうか。ほぼ初対面同士の挨拶であれば、こんな感じで進むのも割と普通だったのかも……?

イザベラはイザベラなりに、訪問客の興味を惹きそうなコレクションを紹介したものの……

次に私はブラントンの地図を床の上にひろげ、私の旅行のコースを示した。彼らに『アジア協会誌』を見せて、上から下へではなく、左から右へ読むのだと説明した。私の編み物や上等の毛糸編みを見せると、彼らはそれに驚嘆した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
残念なことに、持ちネタは程なく尽きてしまいます。

ほかに私は何もすることがなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
ただ、どうやら訪問客は「イザベラ・コレクション」の鑑賞が主目的では無かったようで……

すると彼らは私をもてなそうとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
「お、おう」という展開に。

神童

どうやら訪問者の真の目的はイザベラに「神童」を紹介することだった……とのこと。

彼は四歳の少年で、頭は上に二房だけ髪を残し他はすべて剃ってあり、異常な思考力と沈着さをうかがわせる顔をしており、年配の人のように堂々と落ちついていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
あー。昔にもこんな「神童」がいたのですね。今風の言い方をすれば「ギフテッド」なのかもしれませんが、別の言い方をすれば「非定型発達」ですよね。着物袴姿で片手に扇子というのは、悪い冗談か、コントのようにすら思えてしまいますが……。

もし彼に子どものような話をしたり、おもちゃを見せたり、嬉しがらせようとしたら、それは侮辱であろう。彼が読み書きや歌をつくるのは、自学自習による。彼は一度も遊ぶことはなく、ちょうど大人と同じように何事も分かるのだ、と父親は語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
仮に彼の神童ぶりが周りの大人による「演出」だとしても、四歳の子供に読み書きを教えたり歌を詠めるように訓練するのは容易ではないので、少なくとも世間平均の子供よりは聡明だった……ということでしょうか。

私がこの少年に何か書いてくれと頼んでもらいたがっている様子だったので、私はその通り頼んでみた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.269 より引用)
どうしても「仕込み」っぽい雰囲気が(個人的には)拭えませんが、イザベラは素直に話に乗ってくれたようです。

書道の神業

「ベッドと蚊帳の見学会」は、何故か「神童による書道パフォーマンス」に早変わりしてしまい……

 それはおごそかに行なわれた。赤い毛布が床の中央に敷かれ、その上に漆塗りの硯箱が置かれた。少年は硯の水で墨をすり、五フィートの長さの巻紙を四本開き、その上に九インチの長さの漢字で書いた。きわめて複雑な文字であったが、筆の走りもしっかりとして優美であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
イザベラの目には、天才少年の書はとてもしっかりしたものに見えたようです。

ジョットー(イタリアの画家)が円形を描くときのあのすらすらと的確な筆捌きがあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
この「ジョットー」は Giotto di Bondone のことのようですね。原文には with the ease and certainty of Giotto in turning his O. とあり「『O.』って何?」となったのですが、円形のこと……ですか。

彼は署名して朱肉の印を押し、三度お辞儀をして、書く仕事は終わった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
このあたり、まるで書家のような「パフォーマンス」ですね。

子ども崇拝

イザベラは「書く仕事は終わった」と書いていますが、実は原文を見ると the performance was ended. となっています。この「書く仕事」は高梨健吉さんによる「不実な美女」だったようですが、実際にこの「神童」は「書く仕事」をしていたようで……

人々は彼に掛物カケモノや看板を書かせる。その日も十円〈約二ポンド〉謝礼をもらったという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
「神童」の「書道パフォーマンス」は既にマネタイズ済みだった、ということのようです。

父親は彼を京都キョートまで連れて行って、十四歳未満の子どもで彼ほどうまく書道のできるものがいるかどうか調べたい、と言った。私はこれほど大袈裟な子ども崇拝の例を見たことがない。父も母も、友人も召使いも、彼を王侯貴族のように待遇している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.270 より引用)
なんと言いますか……、現代の日本でも「親バカ」と呼ばれるスタイルがありますが、明治 11 年の時点でもこんなに本格的な「親バカ」がいた、という貴重な記録……なのでしょうか(汗)。これが詐術まがいの「仕込み」なのであれば悲劇と言うしかありませんが、果たして真相は……?

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事