(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
オシャマンナイ川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 釧網本線の摩周駅(かつての弟子屈駅)の 1 km ほど南東で釧路川に合流する東支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「イサマヌンナイ」と描かれていました。カワウソがいる川?
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。其向に
イシヤマニウンナイ
東岸テシカヾ人家の後ろに当りて小川有と。イシヤニはエシヤマニの訛り、是獺 の夷言也。ウンはウシの詰言かと思わる。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.435-436 より引用)
esamani-un-nay で「カワウソ・いる・川」と考えたのですね。この考え方は永田地名解にも継承されていました。Isamanun nai イサマヌン ナイ 獺川
どうやら「エシヤマルンナイ」らしい
ということで、カワウソに思いを馳せつつ戊午日誌に目を通していたところ、「東部摩之宇誌」にちょっと気になる記述が見つかりました。摩周湖をグルっと回った際の記録らしいのですが……此上の処同じく周り行に、またしばし過て
エシヤマルンナイラフシ
是エシャマルンナイえ山越道也。エシャマルンナイはテシカヾ川の上の小沢也。是え此処より沢まヽ下る時は、雪の節一日にてテシカヾ(え)出ると聞けり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.374 より引用)
「テシカヾ川」というのが少々意味不明ですが、とりあえずスルーして……(汗)。この「エシヤマルンナイラフシ」から「沢まヽ下る」と約一日で弟子屈に行ける……と読めます。「ラフシ」は、「地名アイヌ語小辞典」によると……ráp-us-i らプシ 降り道のある所。[人々が降り・つけている・所]ということなので、「エシヤマルンナイラフシ」であれば「エシヤマルンナイ」川筋に降りるところ、ということになりますね。
随分と回りくどい書き方になっていますが、要は「摩周湖の外輪山から弟子屈に向かって『エシヤマルンナイ』という川が流れていた」ということになります。この「エシヤマルンナイ」が「イシヤマニウンナイ」になり、挙句の果てには「オシャマンナイ川」になってしまったのでは……と思われるのです。
「イシヤマニウンナイ」であれば esamani-un-nay で「カワウソ・いる・川」と読めますが、「──ルンナイ」であれば -ru-un-nay で「・路・そこにある・川」と読みたくなります(実際に川沿いが弟子屈に向かう路だったと見られるので)。
「坪の沢川」か「松尾川」か
そしていつものように、ここで大きな問題点にぶち当たります。現在の「オシャマンナイ川」を遡ったところで、名称不明の山(「知多伏」三角点が存在する)が存在するため、どう転んでも摩周湖には辿り着けないのですね。摩周湖の外輪山から弟子屈に向かう川としては、「オシャマンナイ川」の西隣を流れる「坪の沢川」か、「オシャマンナイ川」の南東を流れる「仁多川」の支流である「松尾川」の可能性が考えられます。ただ、「東部摩之宇誌」には「イタトロマブラブシ」という地名が記録されていて、これが「松尾川」に降りるポイントだと考えられるのですね。
もっとも、この比定にも大きな問題があって、「東部摩之宇誌」では「イタトロマブラブシ」が「エシヤマルンナイラフシ」よりも *北* の地名として記録されています。摩周湖の外輪山から弟子屈の市街地に向かう川筋は「エシヤマルンナイ」と「イタトロマブ」(=「ニタトロマフ」、即ち「仁多川」と考えられる)しか無いわけで、これは「東部摩之宇誌」が南北を間違えて記録したと考えるしか無いのですが……。
ということで「エシヤマルンナイ」は現在「坪の沢川」と呼ばれる川のことと考えられるのですが、この川は「知多伏」三角点が存在する無名峰の北麓を流れています。この無名峰自体が samatke-nupuri(横たわっている・山)と呼べそうな形なのですが、その北麓を流れるということは e-samam-ru-un-nay で「頭(水源)・横になっている・路・そこにある・川」と考えられるかな……と。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
知多伏(ちたふし)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
「オシャマンナイ川」の北、「坪の沢川」の南に位置する無名峰(テレビ塔があるとのこと)の頂上付近に「知多伏」という名前の三等三角点があります(標高 252.6 m)。古い地図を見てもそれらしい地名が確認できず、さてどうしたものか……と思ったのですが、よく見ると「東西蝦夷山川地理取調図」に「チフカル
永田地名解には次のように記されていました。
Chep kara kotan チェㇷ゚ カラ コタン 漁村 安政帳ニ云フ昔ヨリアイヌ住居ノ處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.343 より引用)
改めて明治時代の地形図を見てみると、釧路川の *西岸* に「チエプウンピラ」という地名(と思われる)が描かれていました。ところが戊午日誌「東部久須利誌」には……また東岸少しにて
チフカルコタン
地名チフカルは船作ると云。コタンは村也。近年まで人家不レ残此処に有りしが、近年今のテシカヽえ引こしたり。此処庫の跡家の柱等皆見えたり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.433 より引用)
むむっ。やはり「チフカル「知多伏」三角点は弟子屈の市街地から北東に 3 km ほど離れたところにありますが、これは chip-ta-us-i で「舟・彫る・いつもする・ところ」では無いでしょうか。「チㇷ゚タウシ」→「チタウシ」→「ちたふし」→「知多伏」と変化したように思えるんですよね。
chip-kar-kotan という記録があるものの、残念ながら chip-ta-us-i という記録は見当たらないので、念のため ??? としています。
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