2022年10月31日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (11) 「プラネタリウム」

「苫小牧市科学センター・本館」のメインコンテンツは「プラネタリウム」です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

階段脇には「旧プラネタリウム投影機」が展示されていました。プラネタリウムの「本体」を間近で見ることはあまり無いので、なかなか貴重な感じがしますね。

2022年10月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (983) 「チャラケンナイ川・札友内・ルラフシナコイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チャランケンナイ川

{cha-tek}-kere-nay?
{小枝}・削らせる・川
(? = 典拠あり、類型未確認)
釧路川の西支流で、弟子屈町字札友内のあたりを流れています(地理院地図では「チャラケンナイ川」ですが、国土数値情報では「チャラケンナイ川」)。このあたりは釧路川の西支流が三つ並んでいますが、チャランケンナイ川は最も北側を流れています。他の西支流と比べると長さが倍ちかくあるのが特徴でしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「チヤテケレナイ」という名前の川が描かれています。戊午日誌「東部久須利誌」にも次のように記されていました。

またしばし過西岸
     チヤテケレナイ
小川、急流。上高山に成たり。此沢両岸より樹の枝多く出て有る故に、両手にて其枝を手にて刎のけのけして沢まヽを上るが故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.438 より引用)
また永田地名解には次のように記されていました。

Chatekere nai  チャテケレ ナイ  樹林ノ傍ナル川 河側ノ樹木茂生スル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.344 より引用)
大筋では似た解と言えそうでしょうか。その後「テケレ」が「ランケン」に化けて現在に至る……と言ったところでしょうか(ん、「ラ」と「ケ」の間の「ン」はどこから出てきた?)。

cha は「枝」で kere は「削る」なのですが、これだと te が余ってしまいますね。さてどうしたものか……と思ったのですが、{cha-tek} で「{小枝}」を意味するとのこと。せっかくなので知里さんの名調子を引用してみますと……

cha-tek-e) cha を構成する個々の小枝。柴の枝。<cha(柴)tek (手)。── tek わ,もと“手”の義であるが,木に就いて云う時わ“枝”をさす。ni-tek“木の手”すなわち“木の枝”, has-tek “小枝の手”すなわち“小枝の枝”,等。樹枝のことを「にモン」ni-mon とも云うが,これも“木の手”の意味である。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.264 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。確かに他の辞書にも tek は「手」を意味するとありますね。

これわ木の幹から枝の出ている恰好が人間の體から手の出ているのに似ているから譬喩的に手と云ったのでわなく──その様な譬喩でわなく──アイヌわ實際枝を樹の手と考えていたのである。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.264-265 より引用)※ 原文ママ
「譬喩」は「比喩」のことで、「譬喩」も「ひゆ」と読むとのこと。本題に戻りますが、この川ではその「植物の『手』」を払い除けながら進む必要があった……ということですね。{cha-tek}-kere-nay で「{小枝}・削らせる・川」と考えて良さそうでしょうか。

札友内(さつともない)

sat(r)-tom-oma-nay?
葭原・途中・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 243 号と国道 391 号の重複区間が終了し、国道 243 号は「札友内橋」で釧路川を横断して西岸に入ります。釧路川の東岸が「字美留和」で、西岸が「字札友内」と言えばわかりやすいでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「サツトモヲマナイ」という川が描かれていて、明治時代の地形図にも「サツタモマナイ」という川が描かれています。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

サットモナイ
 国道243号の札友内橋のすぐ下手を、西側川から釧路川に流入。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.315 より引用)※ 原文ママ
ん……? 確かに「札友内橋」のすぐ南に川が流れていますが、国土数値情報ではこの川は「ルラフシナコイ川」となっていますね。どうやらこのあたりの川名はかなり混乱がある(あった?)ようで、「チャラケレナイ」(=チャランケンナイ川)の項にも次のように記されていました。

チャラケレナイ
札友内川(地理院・営林署図)
 札友内五十二線のすぐ上手で、西側から釧路川に流入している。地理院図や営林署図は、この川を札友内川と記入してあるが、これはまちがいであろう。松浦山川取調図は美留和川の下手にサットムマナイが記されており、これは官林境界図や実測切図(北海道庁・20万分図)と一致している。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.315-316 より引用)
これで「サットモナイ」の位置の件は一件落着したかのように見えて、国土数値情報ではしれっと「ルラフシナコイ川」になっているので手に負えませんね……。とりあえず「東西蝦夷──」と明治時代の地形図を信用して、「札友内橋」の南の川が「サットモナイ」だったと考えるしか無さそうでしょうか。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

また並びて
     サツトムマナイ
本名シヤリヲマナイと乙名メカンカクシは云也。此川の上に蘆荻原有と云。またコロコ、タンコアイノ等申には此川谷地中を潜り来るによつてとも云。少しの異り有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.437 より引用)※ 原文ママ
肝心の解釈についても、なんとインフォーマントの間で意見が割れていました。sat(r)-tom-oma-nay で「葭原・途中・そこにある・川」で、本来の名前は sar-oma-nay で「葭原・そこにある・川」だ……と読めますが、sat-tom-oma-nay で「乾いた・途中・そこにある・川」だという意見もあった、ということでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Sattamoma nai  サッタモマ ナイ  吥坭ノ間ニアル川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.344 より引用)
「吥坭」は「やち」なので、これは sarsat に音韻変化したものと考えられそうでしょうか。やはり sat(r)-tom-oma-nay で「葭原・途中・そこにある・川」と見て良さそうに思えます(実はそう判断する理由がもう一つあるのですが)。

ルラフシナコイ川

rar-kus-nay?
潜る・通る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国土数値情報によると、国道 243 号の「札友内橋」の南で合流する川は「ルラフシナコイ川」という名前だ……ということになっています(この川が実は「サットモナイ」じゃないかというのは前項に記した通りです)。

この川と、北に位置する「チャランケンナイ川」の間には「札友内51線沢川」という川が流れていることになっていますが、明治時代の地形図では、この川は「ラルクシユナイ」と描かれていました。「ラルクシユナイ」と「ルラフシナコイ川」、二箇所で順序を入れ替えて二文字直せばそっくりですね!(それだと選択肢が無数に増えるのでは

「東西蝦夷山川地理取調図」には「チヤテケレナイ」の南隣に「ラウクシナイ」という川が描かれていました。この川については戊午日誌「東部久須利誌」に次のように記されていました。

またしばし過て山道
     ラウクシナイ
溪間の小川也。沢ふかきよりして号く。ラウは深し、クシは在る儀。深く在る沢と号し也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.438 より引用)
「ラウは深し」とありますが、確かに raw は「水などのもぐって行く中、深いところ、沈む底の方」とありますね(「アイヌ語沙流方言辞典」より)。ただ今回の川名は、永田地名解には少し違った形で記録されていました。

Raru kush nai  ラル クㇱュ ナイ  潜流川 川尻ニ至リ地中ヲ潜流ス故ニ安政帳「オラルクㇱュナイ」ニ作ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.344 より引用)
rar-kus-nay で「潜る・通る・川」と見て良さそうでしょうか。どこかで聞いた話ですが、戊午日誌の「サツトムマナイ」のところで「此川谷地中を潜り来る」とあるんですよね。川名をヒアリングしたときにちょっと混乱があったのかもしれません。

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2022年10月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (982) 「美留和」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

美留和(びるわ)

pir-aw??
傷・枝
perke-iwa?
裂けた・岩山
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
弟子屈町域のほぼ真ん中あたりの地名で、同名の山と川があるほか、JR 釧網本線にも同名の駅があります。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。

  美留和(びるわ)
所在地 (釧路国)川上郡弟子屈町
開 駅 昭和 5 年 8 月 20 日
起 源 駅の近くにある美留和山という小山を、アイヌ語で「ペㇽケ・ヌプリ」(さけた山)とも、「ペㇽケ・イワ」(さけた岩山)とも呼び、そのふもとを流れる川を「ペㇽケ・イワ・ナイ」と呼んでいたのを、ペレイワナイから、ペルアとなり 「美留和」という漢字に定着したものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.163 より引用)
ふむふむ。現在「美留和山」と呼ばれる山が perke-iwa で「裂けた・山」と呼ばれていて、その麓を流れる川を perke-iwa-nay と呼んでいたのが「ペルア」に訛った……という説ですね。

ところが、昭和 29 年版の「北海道駅名の起源」では、全く違う解が記されていました。

 美留和駅(びるわ)
所在地 釧路国川上郡弟子屈町
開 駅 昭和五年八月二十日
起 源 アイヌ語「ペル・ワアン・ペッ」(泉池・ある・川)から出たものであると思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和 29 年版)」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.404 より引用)
{pe-ru}-wa-an-pet で「{泉}・に・ある・川」ではないか……と言うのですね。この解は永田地名解を参考にしたようで、ネタ元と思しき永田地名解には次のように記されていました。

Pe rua   ペ ルア   泉 清泉岩中ヨリ涌出ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.344 より引用)
pe が「水」だというのは理解できるのですが、rua の正体が良くわからないですね。「雨」を意味する ruanpe という語があり(方言かも)、久保寺逸彦さんの「アイヌ語・日本語辞典稿」には ruan kamui ne で「昇天ノ神ノ如ク」とあるので、ruan には「天に上る」という意味があるのかもしれません。

どうやら perke-iwa 説は更科源蔵さんが唱えたようで、「アイヌ語地名解」や「北海道地名誌」にも同じ解釈が記されていました。どちらの解釈も個人的には納得の行くもので、さてどうしたものか……。

果たして「パンケヌプリ」は実在したか

美留和山は美留和駅の南南東に位置する標高 401.1 m の山ですが、頂上付近には「弁慶登べんけいのぼり」という三等三角点があります。ん……と思って明治時代の地形図を見てみたところ、山名は「ペンケヌプリ」で麓を流れる川は「ペルア」となっていました。

「ペンケヌプリ」(川上側の山)があるのなら「パンケヌプリ」(川下側の山)があっても良い……というか普通はある筈なんですが、近くにはそれらしい山が見当たりません。ただ美留和山の南南西に「美羅尾びらお山」があり、この山の別名が「パンケヌプリ」だったという可能性はあるかもしれません(根拠のない憶測ですが)。

明治時代の地形図を素直に読み解くと、山名は「ペンケヌプリ」で川名が「ペルア」だったことになりますが、これだと「似て非なる名前がたまたま並んだ」ということになりますね。

それに異を唱えたのが更科さんで、「ペンケヌプリ」は「ペレケヌプリ」だった……という考え方です。山名は「ペㇽケヌプリ」が「ペンケヌプリ」に化けて、川名は「ペㇽケヌプリ」の別名「ペㇽケイワ」に由来する「ペㇽケイワナイ」が「ペルア」に化けた……ということになるでしょうか。

「裂けた山」と「枝分かれした谷」

「東西蝦夷山川地理取調図」には「美留和」に相当する山や川を確認できませんが、戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

また少し上りて東岸
     ヘ リ (ワ)
川巾五六間も有りと云。此川の奥弐十丁計に一ツの沼有、其上に一ツの丸山有りしによつて号ると聞侍るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.438 より引用)※ 原文ママ
これまた、いくつもの可能性を想起させる記録ですね。「この川の奥に沼あり」は {pe-rua} で「」説を裏付けているようにも思えますし、一方で「その上に丸山があることにより命名」からは、やはり川名が山名に由来するようにも思わせます。

ただ、perke-iwa が「ヘリウ」あるいは「ピルア」に化けたというのも少し難易度が高そうに思えるので、もしかしたら pir-aw で「傷・枝」とかの可能性があったりしないかな……と。美留和山の西側には三つに枝分かれした谷があり、これを pir-aw と呼んだのではないかという想像です。

この考え方だと「ペンケヌプリ」あるいは「ペレケヌプリ」と呼ばれた理由が説明できないですが、perke-nupuri(裂けた山)も pir-aw(枝分かれした谷)も同じものを指していると思われるので、二通りの呼び方があったんじゃないかなぁ、と……。

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2022年10月28日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (10) 「科学展示室」

「ミール展示館」から「本館」への渡り廊下の途中には「顔出しパネル」が置かれた場所が。後ろの「宇宙開発のエレクトロニクス」というキーワードはちょっと謎ですが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

「くつのまま上がってよろしいです」という言い回しもちょっとユニークな感じですが、道内では良く使われる表現なんでしょうか。

2022年10月27日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (9) 「カエルのレントゲン写真」

「ミール展示館」と「本館展示室」の間の通路には「サイエンスークイズ」なるものが。どれどれ……と思って見てみたのですが、これってかなり難問では……?
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気になる回答は、なんと「ステーキを焼いたようなにおい」とのこと。船外活動を終えたあとに、ステーキを思い出しながら宇宙食を食べていたと考えると、ちょっと気の毒に思えてきますね。

2022年10月26日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (8) 「宇宙食コーナー」

「ミール展示館」の話題を続けます。糸川博士の「ペンシルロケット」の隣には、日本人宇宙飛行士の写真が飾られているのですが……
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この星出さんと山崎さん、背景はともかく肩の角度から手を組んでいるところまでそっくり(組み方はちょいと違うけど)なのは……。写真に収まる際のルールでもあるのでしょうか

2022年10月25日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (7) 「苫小牧東部工業基地の宇宙開発実験」

「ミール」の奥には階段があり、隣の「プラネタリウム」や「本館展示室」に移動することができます。この写真はプラネタリウムに向かう通路から撮影したものですが、通路と階段の配置は明らかに遠回りを強いるものです。これはミールを上から眺めることができるように……ということなんでしょうね(良い設計だと思います)。
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工業基地の宇宙開発実験

通路の下には「苫小牧東部工業基地の宇宙開発実験」と題された一角があり、使用済みのロケットエンジンと思しきものが展示されていました。工業基地で宇宙開発実験というのも少々解せませんが、色々あって広大な土地が存在しているため(オブラートに包んでみました)、有効活用してみた……と言ったところでしょうか。

2022年10月24日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (6) 「あらゆるものが無重力状態対応」

「ミール」の船内の話題を続けます。真ん中にオーブンがあるという「焼肉屋スタイル」のテーブルの横には「無重力対応温水蛇口」なるものの紹介が。簡単にインスタントコーヒーが作れるようになっていたのですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

蛇口と言えば、冷蔵庫の上にもこんなものが展示されていました。

2022年10月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (981) 「雄武建山・石狩別川・インロマサイ川・本登」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

雄武建山(おぶたてやま)

op-ta-teske-nupuri
槍・そこで・跳ね返った・山
(典拠あり、類型あり)
屈斜路湖口の東、アトサヌプリの南西に位置する山の頂上付近にある二等三角点(標高 503.9 m)の名前です。普通に考えると山の名前が「雄武建山」なのだと思われるのですが、何故か地形図には「雄武建山」の名前が見当たりません。

戦前の陸軍図でも山名が見当たりませんが、明治時代の地形図には「オプタテシケヌプリ」と描かれていました。十勝岳の北東、上川郡美瑛町と上川郡新得町の境界にも「オプタテシケ山」(標高 2,012.5 m)がありますが、ほぼ同名と見て良さそうでしょうか。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オプタテシケヌプリ
 屈斜路コタンの東の五〇〇㍍級の山。槍が肩をそれた山の意。藻琴山と槍投げをしたという伝説がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.257 より引用)
これは op-tap-teske-nupuri で「槍・肩・そらす・山」と考えたのでしょうか(文法的に適切であるかどうかは未確認ですが)。

山田秀三さんの「北海道の地名」にも、似たような内容が記されていました。

石狩川と十勝川の水瀕の間にある有名なオプタテシケと同名である。オㇷ゚・タ・テㇱケ・ヌプリ(op-ta-teshke-nupuri 槍が・そこで・はねかえった・山)の意だろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.274 より引用)
どうやら op-ta-teske-nupuri で「槍・そこで・跳ね返った・山」と見て良さそうでしょうか。まだ続きがありまして……

 アイヌ古老八重九郎翁の話。「オプタテシケは女山で,トイトクシペ(藻琴山)は男山だ。女は位があるので,ためしに槍を投げたら槍がテㇱケ(それる)して眠っている摩周湖ヌプリに剌さって其の跡が赤い血の沼になった云々」。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.274 より引用)
摩周湖が血の沼に……! 「火曜サスペンス劇場」と「東映ヤクザ映画」を足して 2 で割ったような感じでしょうか(足すな)。

石狩別川(いしかりべつ──)

e-sikari-pet??
水源・回る・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
JR 釧網本線・美留和駅の西を流れる川の名前です。「イシカリベツ」という音はアイヌ語由来っぽく思えますが、不思議なことに古い地図ではその存在を確認できません。

「東西蝦夷山川地理取調図」に「ウフシワ」とある川がどうやら現在の「石狩別川」のようなのですが、明治時代の地形図には「オプシワ」と描かれています。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

オプシワ
石狩別川(営林署図)
 札友内の北端(五十五線)から美留和集落に向かう農道に沿って、北東から釧路川に流入している。営林署図の石狩別川は、弟子屈町史「エシカリベツ」のことであろうが、オプシワ(町史はウプシワ)とは別の川なのである。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.316 より引用)
なんだか良くわからないというか……良くわからないですね……(何を言ってるんだか)。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

並び東岸に
     ウブシワ
形計の小川、上に谷地有て地味前に同じ。此辺川端に椴有。山の方に椴無が故に号るもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.439 より引用)
この記述から鎌田さんは hup-us-wa で「トドマツ・多くある・岸」ではないかとしていますが、この記録を見る限りは確かにそう考えるしか無さそうな感じですね。

また現在の名前である「石狩別川」については、次のように考えられるとのこと。

 石狩別川はエシカリ・ペッ(つかむ・川)で、知里地名小辞典は「エシカリ 原義は“つかむ”であるが、川について言えば水源がもぎとったように急に地中に消えてしまっているのを云う」とある。この川の上流は、直角に近い形で曲がっており、川下から川上に向かって行くと、突然先が見えなくなってしまう川なのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.316 より引用)
うーん……。この川の水源を遡ると、アトサヌプリとオプタテシケヌプリの間の山の東麓に辿り着くのですが(但し川としては描かれていない)、確かに直角に近い角度で右に左にと曲がっているように見えます。ただ、それだったら e-sikari-pet で「水源・回る・川」と考えることもできそうな気がするんですよね。

インロマサイ川

e-rer-oma-nay?
水源・山の向こう側・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「石狩別川」の南東を流れる川で、釧路川に注いでいます。地理院地図には川として描かれていますが、川名の記入はありません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「イレロマナイ」という名前の川が描かれていますが、明治時代の地形図では「イシヨマナイ」と描かれているようにも見えます。戊午日誌「東部久須利誌」では「イレロマナイ」で、午手控でも「イレロマナイ」と記録されています。

「インロマサイ川」という名前はおそらくいくつかの間違いを含んでいると思われるのですが、とりあえず「サイ」は「ナイ」だったと見て良さそうでしょう。あとは「レロ」なのか「シヨ」なのかというところですが、「イシヨマナイ」だとしたら iso-oma-nay で「水中の波かぶり岩・そこにある・川」と読めそうでしょうか。

松浦武四郎が記録した通りの形の「イレロマナイ」だったとすると、もしかしたら e-rer-oma-nay で「水源・山の向こう側・そこにある・川」とかでしょうか。

地理院地図で「インロマサイ川」を遡ると、平野部で突然川が途切れていますが、実際には美留和駅の南、美留和山の北側あたりまで遡ることができるとのこと。だとすると「水源が山の向こう側にある川」と言えそうな気も……?

本登(ぽんのぼり)

pon-nupuri
小さい・山
(典拠あり、類型多数)
JR 石北本線・美留和駅の北北東に「石山」という山があるのですが、頂上付近の三等三角点(標高 252.5 m)は「本登ぽんのぼり」という名前です。

明治時代の地形図には「石山」のあたりに「ポンヌプリ」と描かれていました。ほぼ正解が見えたも同然ですが、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」によると……

ポンヌプリ
石山(地理院図)
本登(営林署図・三角点名)
 美留和市街の2.2キロ北の釧網本線沿いに位置している、標高252㍍元の独立した小山。
 ポン・ヌプリ(pon-nupri 小さい・山)の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.346 より引用)
やはり pon-nupuri で「小さい・山」と考えて良さそうですね。音にそのまま「本登」という字を当てたものの、今ひとつしっくり来なかったのか、結局「石山」に改められてしまった……と言ったところでしょうか。

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2022年10月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (980) 「ポント・サッテキナイ川・ヌプリオント川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポント

pon-to
小さな・沼
(典拠あり、類型多数)
和琴半島の南、「屈斜路郵便局」のあるあたりの地名です。近くには「奔渡」という名前の四等三角点もありますが、陸軍図でもカタカナで「ポント」と描かれているため、漢字で「奔渡」という表記を考案したもののあまり使われることが無かった……あたりでしょうか。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

 其東を
     ホントウロ
 此処湾の中に一ツの沼有り、其を云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.454 より引用)
これは pon-to-oro で「小さな・沼・ところ」と読めそうでしょうか。また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

ポントー
 屈斜路集落和琴小学校の東側で湖岸に沿った小沼である。
 ポン・トー(pon-to 小さな・沼)の意で、かつてはこの辺の集落もポントーと呼ばれていた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.329 より引用)
現在でも郵便局の 0.4 km ほど北に、屈斜路湖から切り離された?小さな沼がありますが、明治時代の地形図では「屈斜路パークゴルフ場」のすぐ近くまで西に伸びていたようです。どうやら pon-to で「小さな・沼」と見て間違いなさそうですね。

サッテキナイ川

moy-oro-kus-sattek-nay
湾・の中・横断する・やせている・川
(典拠あり、類型あり)
道道 52 号「屈斜路摩周湖畔線」の起点から 0.5 km ほど西を「ポント川」という川が流れているのですが、国道から 545 m(=殖民区画の「300 間」)ほど上流で「サッテキナイ川」と合流しています。「ポント川」は地理院地図に川として描かれていますが(川名は記載されず)、「サッテキナイ川」は残念ながら川として描かれていません。

「サッテキナイ川」の東には「札的内」という名前の四等三角点も存在しますが、陸軍図ではこのあたり(より少し東)の地名として「サッテキナイ」と描かれていました。どうやらこの「札的内」も「奔渡」と同じく、漢字表記にしたもののあまり使われなかった系でしょうか……?

明治時代の地形図では、現在の「ポント川」の位置に「サッテキナイ」と描かれていました。「東西蝦夷山川地理取調図」では屈斜路湖に注ぐ川ではなく釧路川に注ぐ川として「サツテクナイ」と描かれていますが、これは果たして……?

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

 また並びて
     モヨロクシサツテクナイ
 モヨロとは湾なり、クシは有、サツテキナイは乾た川と云儀也。其川の上に
     サツテキナイイトコ
     モヨロクシサツテキナイイトコ
 等二ツの椴山有。其うしろセチリの川すじに成よし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.454 より引用)
この「モヨロクシサツテクナイ」が、現在「サッテキナイ川」と呼ばれる川(あるいは「ポント川」かもしれませんが)だと考えられるのですが、「東部久須利誌」には「サツテクナイ」という川も記録されていました。

並びて
     サツテクナイ
〔欄外〕サツテク 此川乾たる故に号る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.440 より引用)
これで「東西蝦夷山川地理取調図」の「サツテクナイ」が屈斜路湖ではなく釧路川に注いでいた理由も理解できました。現在の「サッテキナイ川」(あるいは「ポント川」)が「モヨロクシサツテクナイ」と呼ばれていたのは、釧路川支流の本家「サツテクナイ」を憚ってのことだったんですね。

「モヨロクシサツテクナイ」は moy-oro-kus-sattek-nay で「湾・の中・横断する・やせている・川」と見て良いかと思われます。sattek の「やせている」については、「地名アイヌ語小辞典」によると「川が夏になって水がかれて細々と流れている状態」とのこと。夏になると水が涸れる川だったのでしょうね。

ヌプリオント川

nupuri-onto?
山・尻
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
屈斜路湖は南岸にある湖口から釧路川に流出していますが、湖口の近くに標高 229 m の「丸山」という山があり、「丸山」から 1 km ほど東南東にも標高 231.3 m の山があります。この標高 231.3 m の山の頂上付近には「登音洞」という四等三角点があるのですが、「登音洞」で「のぼりおんどう」と読ませるとのこと(あれ、意外と普通の読み方……)。

この「登音洞」三角点のある山は、陸軍図では「ヌプリオンド山」と描かれていました。この山の西を流れる川が「ヌプリオント川」なので、「登音洞のぼりおんどう」も本来は「ヌプリオント」と読ませていた可能性が高そうに思えます。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には、次のように記されていました。

ヌプリオントー
登音洞
 釧路川の出口から下流1.6キロ付近の、尾根筋が川に突出したところの地名である。
 ヌプリ・オント(nupuri-onto 山の・尻)で山のふもと、山裾の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.317 より引用)
この nupuri-onto知里さんの「──小辞典」にも次のように記されていました。

nupuri-onto-ke) ヌぷリオント 【H 北】原義‘山の尻’。山のふもと。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.70 より引用)
ほぼ同じでしたね……。nupuri-onto で「山・尻(ふもと)」と見て良さそうです。

既述の通り、陸軍図では「ヌプリオンド山」という名前の山が描かれていて、これは現在も四等三角点「登音洞」として健在です。そして四等三角点「登音洞」の西を「ヌプリオント川」という名前の川が流れています。

山の名は

ところが、明治時代の地形図を見てみると、「ヌプリオント川」の上流部の東支流として「サテキナイ」という川が描かれていて、また四等三角点「登音洞」のあるあたりに「オパシアンヌプリ」と描かれています。しかも「オパシアンヌプリ」の *東* に「ヌプリオントー」と描かれているのですね。

四等三角点「登音洞」のある山に「オパシアンヌプリ」と描かれている点については、「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。

オパシアンヌプリ
花輪山(営林署図)
 釧路川は出口から下流1.7キロ付近で右岸の崖につき当たる。この崖の山の三角点名花輪山(233.2㍍)がオパシアンヌプリである。
 オ・パ・ウㇱ・アン・ヌプリ(o-pa-us-an-nupuri 尻を・川下に・つけて・いる・山)の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.317 より引用)
「三角点名花輪山」とありますが、この三角点名は営林署で定義したものでしょうか。「花輪山」というネーミングもなかなか興味深いもので、松浦武四郎は「ヘナワンヌフリヲント」という地名を記録しています。pe-na-wa-an-nupuri-onto があるということは pa-na-wa-an-nupuri-onto もあったと考えられ、そこから「花輪山」が命名された可能性も考えられます。

そして「オパシアンヌプリ」ですが、opasi-an-nupuri で「川下に・ある・山」と読めそうですね。opasio-pa-us-i で「尻・川下・つけている・もの」と分解できるので、鎌田さんの解釈も本質的には同じと言えます。

「ヌプリオントー」は何処に

ここで謎なのが、鎌田さんは「ヌプリオントー」の場所を「下流1.6キロ付近」として、「オパシアンヌプリ」の場所を「下流1.7キロ付近」としている点です。明治時代の地形図を見る限り、両者の位置は鎌田さんの記述とは逆だったと思われるのですね。

ここまでの情報を突き合わせると、「ヌプリオント川」は松浦武四郎が記録して現在は失われたと思しき「サツテクナイ」のことで、「ヌプリオント」は三角点名「登音洞」の東側の、二股になった谷のあたりを指していたように思われます。

この谷はまるで巨人が尻もちをついたような形をしているのですが、この手の地形は他所では「オソルコチ」と呼ばれることがありますね。「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

osor-kot オそㇽコッ(オしョㇽコッ) osor は「尻」,kot は「くぼみ」,尻餅をついた跡のくぼみの意。各地に Osorkochi〔オそㇽコチ, オしョㇽコチ〕という地名があり,海岸の段丘を尻餅の跡の形にくりぬいたような窪地にその名がついている。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.80 より引用)
ということでまたしても「尻」の話です。「ヌプリオント」は nupuri-onto で「山・尻(ふもと)」ではないかと考えましたが、実は山の東側にある「尻の形をした窪み」をそのまま「山・尻」と呼んだ可能性があるんじゃないかと……。

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2022年10月21日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (5) 「VHS のビデオカセット」

「ミール展示館」にて展示されている「ミール」は、なんと中に入ることもできます。ちゃんと「入口」と「出口」が設けられているのですが、改めて考えてみると本来はこのような出入口は存在しない筈なんですよね(穴を開けちゃったのか……)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や営業時間などが現在と異なる可能性があります。

入口の横には「外の様子」と「中の様子」が図示されていました。向かって右側のドッキングポートがある側が「前部」だったんですね。なんとなく逆だと思ってましたが……。

2022年10月20日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (4) 「温泉旅館式宇宙ステーション」

「苫小牧市科学センター」の敷地内にある「ミール展示館」には、ロシア旧ソ連の宇宙ステーション「ミール」の予備機(世界で唯一現存する機体)が展示されていて……

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その隣には拡張モジュールの「クバント 1」が「ミール」とドッキングした状態で展示されています。

2022年10月19日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (3) 「世界で唯一の『ミール』」

ところで、C11 133 号機と同じ敷地内に「ミール展示館」があるのですが、「ミール」と言えば食事……じゃなくて、ロシアの宇宙ステーションの名前ですよね。
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入り口の横には「利用案内」が出ているのですが、なんと……無料ですか!

2022年10月18日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (2) 「C11 133 号機『たるまえ号』」

マルトマ食堂から北に向かう坂道がありました。うっかり漁協の冷蔵庫前を通ってしまいましたが、本来はこの坂道を下りてくるのが正解だったのですね。
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マルトマ食堂に向かう下り坂が接続する T 字路には信号はありませんが、すぐ横の横断歩道に信号機が設置されています(押ボタン信号)。ちゃんと看板も設置されている……のですが、なぜ 2 つも……?

2022年10月17日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (1) 「苫小牧と言えば」

11:09 に太平洋フェリー「いしかり」から下船して、ついに北海道に上陸です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

「苫小牧サイロ」を横目に市街地方面に向かいます。ここの交叉点はラウンドアバウトになっていることもあってか、下船後の車輌がうっかり逆走しないように誘導員の方が案内を行っていました。わざと車輌を停めたりクッションドラムを並べたりして、ラウンドアバウトの右側に迷い込まないようにしている……ように見えます。

2022年10月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (979) 「イクルシベ山・サマッケヌプリ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イクルシベ山

yuk-ru-pes-pe
鹿・道・それに沿って下る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
岩田主山の南に聳える標高 727 m の山です。イクルシベ山の西には尾札部川の支流(名称不詳)が流れているのですが、明治時代の地形図では、この支流のあたりに「ユクルペシュペ」と描かれていました。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 イクルシベ山
 尾札部川の奥にある山。元々はこの山から流れる尾札部川の支流の名で、ユㇰ・ルペㇱペ(鹿の越す路)といい、ここを越して鹿が阿寒の山からおりて来たり越えて行ったりした。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.257 より引用)
あー、やはり。これから書こうと思っていたことを完全に先に言われてしまった感がありますが、yuk-ru-pes-pe で「鹿・道・それに沿って下る・もの(川)」と考えて良いかと思われます。更科さんが記した通り、もともとは西側の支流の名前で、それが多少変化した形で山の名前に転用された……と見て良さそうですね。

サマッケヌプリ

samatki-nupuri
横になっている・山
(典拠あり、類型あり)
岩田主山やイクルシベ山の西側を流れる「尾札部川」を遡ると、イクルシベ山の西あたりで西に向きを変えて、最終的には津別町との境界を構成する分水嶺にたどり着きます。「サマッケヌプリ」は「コトニヌプリ」と「オサッペヌプリ」の南にある標高 897.8 m の山で、頂上付近には「様毛山」という名前の一等三角点があります。

意味するところは明瞭で、「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 サマッケヌプリ 897.9 ㍍ 屈斜路湖の西南,津別町との境界をなす山。アイヌ語で横になっている(川に直角にのびている)山の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.684 より引用)
samatki-nupuri で「横になっている・山」と考えて良いかと思います。似たような地名は道内の各所に存在していて、永田地名解ではその多くが samatke と綴られていますが、辞書類では samatki と表記されるのがお多いようです。「サマッケ」という読み方は永田地名解の影響を受けたものである可能性も考慮すべきかもしれません。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも、次のように記されていました。

 サマッケ・ヌプリ(samakke-nupuri 横臥している・山)の意で、屈斜路湖尻のコタン集落付近から見ると、枕をして寝ているように見える山である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.348 より引用)
屈斜路湖畔のコタン集落からサマッケヌプリまでは直線距離で 10 km ほどありますが、手前にある山よりもやや高いので湖畔からも見える……ということのようです。

屈斜路湖畔からの眺めをストリートビューで見てみると……


手前のちょい右に見える形の良い山が「三角山」(=チセ子ノホリ)で、中央奥に見えるのが「コトニヌプリ」だと思うのですが、仮に「コトニヌプリ」がつま先だとすると、左のほうに「頭」に相当する山が見えるような……。

どうやらこの台形状の山が「サマッケヌプリ」だと思われるのですが、あー、これは確かに寝ているように見えますね! samatki-nupuri で「横になっている・山」と呼んだのも納得するしかないように思われます。

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2022年10月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (978) 「背根登・岩田主山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

背根登(せねのぼり)

chise-ne-nupuri
家・のような・山
(典拠あり、類型あり)
エネトコマップ川の東に「三角山」という名前の山がありますが、この山の頂上付近に「背根登」という名前の三等三角点があります(標高 453.4 m)。どことなく「木根尚登」を彷彿とさせますが、もちろん何の関係も無いでしょう。

明治時代の地形図を見てみると、「三角山」の位置に「チセ子ヌプリ」という山名が描かれていました。これは chise-ne-nupuri で「家・のような・山」と考えられそうですね。

知里さんの「地名アイヌ語小辞典」の chise-ne-sir の項には次のように記されていました。なかなか示唆に富んだ文なので、ちょっと長い目に引用してみます。

chise-ne-sir, -i チせネシㇽ 家の形をした山の義。ただし,ここで家と云っているのは,今のアイヌの家ではなく,古い時代のアイヌの家で,竪穴形式のものをさしているのである。それをアイヌは 「とィチセ」(toy-chise 土・家)とよぶのであるが,家の本体は地中に埋もれていて外部から見えず,地上に見えているのはその屋根の部分だけである。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.20 より引用)
ふむふむ。確かに「チセ」には普通に壁や窓があり、現代的な家と姿形は大差ない印象があります。「家のような形の山」というのが実際には「屋根のような形」をしているのは当たり前のように受け止めていますが……

そこで,‘家の形をした山’といっても,現実に見られる山は,今われわれがその名によって想像するような側壁のある家の形をした山ではなく,側壁の無い,屋根だけを持って来て地上においたような形の,いわば三角山である。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.20-21 より引用)
あっ。こんなところで「三角山」の文字を目にするとは。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。

営林署図の三角点名背根登りはアイヌ名のチがぬけた形の当て字である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.347 より引用)
そういうことなんでしょうね。何故「チ」が抜けたのかは不明ですが……。

岩田主山(いわたぬし──)

{i-(h)uta-ni}-us-i?
{杵}・ある・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
和琴半島の南を流れる「尾札部川」の東に聳える、標高 607 m の山です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき山が見当たりませんが、明治時代の地形図に「イワタヌシ」という名前で描かれていました。また「イワタヌシ」の北西には「ポンイワタヌシ」と描かれていますが、これは三角山の南南東にある標高 349 m の山のことでしょうか。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

イワタヌシ
岩田主〔山〕(地理院図・営林署図三角点名)
ポンイワタヌシ
 和琴小学校の南に位置し、標高606㍍(地理院図)がイワタヌシ、尾札部川の対岸で、この山の北西に位置しているのがポンイワタヌシである。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.346 より引用)
これを見ると「ポンイタワヌシ」の位置が少々不安に思えてきました。明治時代の地形図を見た限りでは 349 m の小山のように思えるのですが、鎌田さんの記述ではその南南西(岩田主山の北西)の標高 456 m の山のように見えます。

ついでに言えば、「イワタヌシ」の位置も現在の岩田主山ではなく、山頂の北にある標高 484 m の支峰を指しているように見えます。「イワタヌシ」と「ポンイワタヌシ」は、どちらも支峰を指していた可能性がありそうです。

 イワ・タ・ニ・ウㇱ・イ(iwa-ta-ni-us-i 山・に・木・群生している・所)の意である。この山は国道 243 号からよく見え、昭和 30 年(1955)頃までは、中、大経木のうっそうとした針葉樹林であった。「密林の山」とでも解すべきであろう。ポンは(pon 小さい)の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.347 より引用)
うーん、そう来ましたか。もっと単純に iwa-tanas-i で「岩山・高くなっている・もの」ではないか、とも思えるのですが……。

そういえば北見市留辺蘂町の「北見富士」の旧名が yuk-riya-tanas-i鹿・越冬する・高くなっている・もの)でしたね。「イワタヌシ」ももしかして riya-tanas-i が転訛したものだったりして……。

あるいはもしかして……

……と、ここまで書いてから、別の可能性に思い当たってしまいました(汗)。津別町・足寄町・陸別町の境界に「イユダニヌプリ山」という山が聳えているのですが、この山は {i-uta-ni}-nupuri で「きね・山」ではないかとされています。もちろん「木根尚登」は関k(ry

山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

 アイヌ時代の杵(イ・ウタ・ニ。それを・つく・木)は昔風の竪て杵で,手で持つ処が細くなっている。この山は細長い独立山で両側が高く,間が低いので,竪て杵を横に置いた姿に見たててこの名がつけられたか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.213 より引用)
この「細長い独立山で両側が高く」というのは「岩田主山」にも当てはまるような気がするのです。「ポンイワタヌシ」についても主峰の北に支峰が伸びていて、頂上らしきものもあると考えると……似ている……ような気もします。

「イワタヌシ」は「イウタニウシ」が転訛したもの(転記ミスかも)で、本来は {i-uta-ni}-us-i で「{杵}・ある・もの」だった可能性がありそうです。また「釧路地方のアイヌ語語彙集」によると iyutaniihutani の両方の形で記録されています。これだと「イフタニウシ」が「イワタヌシ」に化けた可能性も出てきますね。

-nupuri ではなく -us-i なのも若干謎ですが、{i-uta-ni}-us-i{i-uta-ni}-nupuri から流れる川の名前で、いつの間にか主客転倒して山の名前に収まってしまった……と考えれば(ちょっと強引な考え方ですが)一応なんとかなるかな……と。

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2022年10月14日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(下船編)

「いしかり」は 10:30 頃に苫小牧西港に入港して、10:45 頃には所定の位置に停止しました(波に揺られたままですが)。10:47 に車輌甲板が開放されたとのアナウンスがあったので、キャリーバッグ片手に 5 甲板のエレベーターに向かいます。
あれ、この瓶はもしかして……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

この瓶……のような気が。5 甲板のショップで購入したものですが、飲み終えた後ゴミ箱に捨てるのを失念していたようです。すいませんでした……。

2022年10月13日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(苫小牧西港接岸編)

「いしかり」は、苫小牧西港フェリーターミナルの第 2 バースに接岸する……筈なのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

見る見る間に左へ

おおっ、流石です。見る見る間に左に寄せてきましたね。タグボートで横から押したのかと思いましたが、よく考えたら今どきのフェリーは自力で横に動けるのが普通でしょうし……。タグボートの出番があったとしても右舷側なので、左舷側の客室からは確認することができません。

2022年10月12日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(苫小牧西港に入港!編)

川崎近海汽船の「シルバーエイト」とすれ違ってから 15 分ほど、ついに……前方に陸地らしきものが見えてしまいました!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

目一杯ズームしてみると……おおお。煙突がいくつも見えますが、ひときわ高い煙突は王子製紙苫小牧工場のもののようです。

2022年10月11日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(「シルバーエイト」編)

朝食の後、そして下船の前の最後のイベントが「ピアノ演奏」です。時間は朝の 9:30 から、いつもの「ピアノステージ」で行われます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

開始まであと 10 分となったので、そろそろ「ピアノステージ」に向かいましょう。

2022年10月10日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (139) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

奇妙な質問

イザベラの「通訳」兼「召使」であり、実は「超優秀なアシスタント」でもあったことが明らかになった「伊藤」についての話題が続きます。仕事が良くできる代わりに態度がデカかったり、ピンハネの常習者と目されたりと、まぁ、色々とアレな部分も明かされたりした訳ですが……。

 彼は一番良い英語を話したがる。その言葉は俗語だとか、「ふつうコモン」の言葉だと言うと、彼はその語を使うのをやめる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.264 より引用)
伊藤はイザベラの従者になる前にも外国人の下で働いていた筈(本人は「推薦状は火事で焼けてしまった」と弁解していた)ですが、その時の「ご主人さま」はどこの国の人物だったのでしょう。「イギリス英語こそ正統」という発想があったのか、それとも「イギリス英語」の中でも上流階級が使う言い回しに憧れていたのか……?

数日前に、「今日はなんて美しい日でしょう」と言うと、すぐ彼は手帳を手にとって、「美しい日、とおっしゃいましたが、たいていの外国人が言う、おそろしく良い天気だ、よりも良い英語ですか」ときいた。私がそれは「ふつうコモン」の英語だ、というと、彼はその後しばしば「美しいビューテフル」という言葉を使った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.264 より引用)
どうやら伊藤はなるべく「上品な言い回し」を取り入れようとしていたように見えますね。「今日はなんて美しい日でしょう」は “What a beautiful day this is!” で、伊藤が例示した「おそろしく良い天気だ」は “a devilish fine day” だったようです。

また「質問をするとき、いったいそいつは何だ、と他の外国人が言うのですが、あなたは決して言いませんね。男はそう言ってよいが、女はそう言ってはいけないというのですか」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.264 より引用)
えっ、これはもしかして……と思ったのですが、原文によると ‘What the d─l is it?’ とのこと。伏せられている d─l はどうやら devil のようで、キングスイングリッシュで良く見られる言い回しだそうです。さすがに「F ワード」では無かったものの、イザベラとしては伏せたくなる言い回しだったのですね。

そこで私が、それは男性も女性も使うのはよくない、それはごく「ふつうコモン」の言葉だ、と答えると、彼は自分の帳面からその語を消してしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.264 より引用)
伊藤は the devil というブリティッシュ・スラングを知っていた……ということになるので、「軽めの英語」を口にするイギリス人とやり取りすることが多かった、ということかもしれませんね。語彙をしっかりと帳面でメンテするあたりは流石です。

極上の英語

ここまで見た限りでは、伊藤が自ら「極上の英語」を求めてイザベラにあれこれと質問していたように見えますが、イザベラから伊藤の英語に対して注文が入るケースもあったようです。

初めのうち彼は、いつも男のことを「やつフエロウ」と言った。「あなたのクルマをひくやつは一人にしますか二人にしますか」とか、「やつらと女たち」というふうに。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.264 より引用)
「フエロウ」は fellow のことですが、確かに「奴」とか「仲間」と言ったニュアンスですね。車夫を fellow と呼ぶのはアリなんじゃないかな、と思ったりもしますが……(明確に上下関係のある言い回しだとしたら NG かも)。

ただ、伊藤は久保田の病院で主任医師のことを fellow 呼ばわりしたとのことで、これは流石にイザベラからツッコミがあったようです。病院のドクターを「兄ちゃん」呼ばわりは流石にちょっと……(汗)。

スラングだったりエスニックジョークだったり

イザベラは、伊藤が横浜で「言葉の正しい使い方」を学ぶのは、必ずしも容易なことでは無かったと見ていたようです。

横浜の多くの外国人の習慣のために、言葉の使い方が正しいか間違っているかを区別することが──たとえ彼が少ししか区別しなかったとしても──消えがちとなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
これは言語の「ピジン化」と言った大それた話ではなく、なんと言うか……スラングを多用する人たちが比較的多かった、と言ったところかもしれませんね。

彼は、酔った人を見た、と私に言いたいときには、「英国人のように酔っぱらったやつ」といつも言う。日光で私が彼に、日本で男子は何人合法的な妻をもてるかをきいたら、「合法的な妻は一人だけで、養えるだけの数の他の妻〈メカケ〉をもてるちょうど英国人と同じように」と答えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
あー、この辺はエスニックジョークでしょうか。エスニックジョークには思わずニヤリとさせられるものもありますが、限りなく「民族差別」に近いものも少なくないので、できれば使用したくないものです。

彼は、間違いを訂正することを決して忘れない。それは俗語だと注意するまで、彼は酪酎した人を「ぐでんぐでんタイト」といつも言っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
はて tight にそんな意味があったかな……と思ったのですが、英辞郎 on the WEB には「〈俗〉〔酒に〕酔った」とありますね。

彼に「酔ったチプシー」「酔っぱらったドランク」「酩酊したイントキシケイテツド」という語を教えると、彼はどの英語が書く場合によいのかときいた。それ以来いつも彼は「酩酊した」人と言うようになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.265 より引用)
tipsy は「ほろ酔い」とあり、intoxicated は「酔った」とありますね。intoxicated は「酒に酔った」状態だけではなく、薬物などで前後不覚になった状態や、陶酔したり興奮状態になった時にも使えるようです。

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2022年10月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (977) 「コトニヌプリ・メシキメム川・エネトコマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

コトニヌプリ

kut-un-nupuri
帯状の地層・ある・山
(典拠あり、類型あり)
道道 588 号「屈斜路津別線」の「津別峠」の南東、「オサッペヌプリ」の北に位置する標高 952 m の山です。頂上の近くからは北に向かって「コトニヌプリ川」も流れていますが、残念ながら地理院地図には川として描かれていません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「コトンノホリ」という名前の山が描かれていました。戊午日誌「東部久須利誌」にも次のように記されていたのですが……

コトンノホリは第一北に当りて仏飯を伏せし如し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.453 より引用)
山容の説明はあったものの、残念ながら山名の由来については記されていませんでした。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 コトニヌプリ
 和琴半島の西、津別町との境の山。岩棚ある山の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.257 より引用)
ん、岩棚とは一体……? この謎については「アイヌ語入門」にて次のように解き明かされていました。

 山は,ふだんは人閻同様に着物を着て暮している。
知里真志保アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.50 より引用)
故に「服を着ていない『裸の山』も存在する」とした上で……

 着物を着ているから,従って帯もしめている。釧路国弟子屈町屈斜路湖畔に次のような名の山がある。
「クと゜ンヌプリ」(Kut-un-nupuri 「帯・している・山」[俗にコトニヌプリといわれ,帯状の岩層が露われている])
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.50 より引用)
あー! 「岩棚」というのは「地層の露見した岩崖」だったんですね。kut-un-nupuri で「帯状の地層・ある・山」と見て良さそうな感じです。

2022年10月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (976) 「トイコイ川・ウランコシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トイコイ川

tu-e-kot-i??
支峰・そこに・くっついている・もの(川)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
サマッカリヌプリの東北東を流れる川です。「コイトイ」ならば道内のあちこちに見られますが、ここは「トイコイ」なんですよね。

食土?

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トイトコ」と描かれています。一方で戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

また並びて
    トイコイ
此処チエトイ多く有て、其を鹿が掘て喰て一すじの川に成り居るが故に、此名有りとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.452 より引用)
「チエトイ」は chi-e-toy で「我ら・食べる・土」とされますが、もちろん「土うめえ!土うめえ!」と言ってパクパク食べるわけではなく、一例としてはアザラシの肉で鍋料理を作る際に、強烈な灰汁を中和するための「調味料」として使われたとのこと。

鹿が何のために「チエトイ」を食んでいたのかは不明ですが、エゾシカが良く線路に近づくのは鉄分補給のため……という巷説を聞いたことがあります。鹿も何らかのミネラルを求めていた可能性があるかもしれません。

「沼の奥」?

永田地名解には次のように記されていました。

Tō etoko   トー エトコ   沼ノ前
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.345 より引用)
これは「東部久須利誌」の「トイコイ」ではなく、「東西蝦夷山川地理取調図」の「トイトコ」を正であると考えたのでしょうか。to-etok であれば「沼・奥」であり、「沼の前」とは言い難いという問題がありますが……。

「土の波」?

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 トイコイ川 サマッカリヌプリから流れ屈斜路湖に入る小川。アイヌ語の土波川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.685 より引用)
これはもの凄い直球で来ましたね。toy は「畑」や「土」という意味で、koy は「波」です。じゃあ toy-koy は「土・波」だよね……ということなんでしょうけど……。

どの説もどこかおかしい?

鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」において、これらの解について検討を加えていました。

弟子屈町史は「トイ(土) コイ(波)雨が降ると泥水が流れ出て湖に泥波がたつからいう」と書き、三者三様である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.331 より引用)
あっ、なるほどそういうことですか……。この川は他と比べて雨による土壌の運搬量が多く、湖に泥の波を形成していた……と言うのですね。

松浦久須利誌の食土説は、語尾のコイと説明がどうも結びつかない。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.331 より引用)
鎌田さんは「コイ」は kor(持つ)だったのではないか……とも考えたようですが、確かに「コイ」と「コル」の音の違いは無視できませんし、類例も記憶にありません。

永田説の「沼の前」あるいは「沼の先または奥」にしても、そのような位置ではない。屈斜路湖の沼の奥は藻琴山の下で、沼の前(先)は湖の東にある大きな入江である(トーエトクウシペ、トーパオマプ参照)。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.331 より引用)
そうなんですよね。「トーエトクウシペ」は「藻琴山」のことで、「トーパオマプ」は川湯温泉の少し北を流れています。トイコイ川を to-etok と呼ぶのは、ちょっと的外れな感じがしますね。

流れの早いこの川は町史の土波説が、一応うなずける解説なのである。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.331 より引用)
うーん、そう来ましたか。どことなく消去法なのが気になりますし、また地理院地図で屈斜路湖内の等高線を見てみると、トイコイ川の河口付近の等高線は割と稠密になっていて、大量の土砂が流れ込んだ形跡は見当たりません。

「トイトコ」と「トイコイ」

改めて地形図を眺めてみると、この「トイコイ川」は「サマッカリヌプリ」の東に伸びる支峰の北側を流れていることに気づきます。ちょっと縦長の「箕」の中を流れているようにも見えますね。

また「東西蝦夷──」には「トイトコ」と描かれていて、明治時代の地形図にも「トイトコ」と描かれていたのですが、陸軍図では「トイコエ川」と描かれていました。「トイコイ」と「トイトコ」のどちらかが勘違いによるものだと考えるのが自然かもしれませんが、「トイコイ」と「トイトコ」が隣合わせで共存していた……と考えることはできないでしょうか。

「トイトコ」については鎌田さんの指摘がある意味致命的なのですが、to-etok ではなく tu-etok だと考えるとどうでしょうか。この tu が「サマッカリヌプリ」の東に伸びる支峰だとすれば、トイコイ川と屈斜路プリンスホテルの間の山のことをそう呼んだと考えても不思議はありません。

「トイトコ」が tu-etok だとすると、「トイコイ川」の「トイ」が toy- というのはあまりに不自然なので、やはり tu- であると考えたいところです。tu- を中心に考えると「トイコイ川」は「北隣の川」ということになるのですが、tu-e-kot-i で「支峰・そこに・くっついている・もの(川)」と考えられるのではないかと……。

ウランコシ川

o-ranko-us-i
河口・カツラの木・多くある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
道道 588 号「屈斜路津別線」の北を流れて、屈斜路プリンスホテルのちょい北で屈斜路湖に注ぐ川です。1980 年代の土地利用図には「ウランコシ」という地名が描かれていました。またホテルの南西には「宇蘭越」という名前の四等三角点がありますが、この三角点はむしろ南隣を流れる「コトニヌプリ川」のほうが近いかもしれません。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウランコシ
 屈斜路湖畔の農地。ウランコシ川の名で桂の木の多い川の意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.256 より引用)
随分とあっさり片付けられてしまいましたので、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にフォローをお願いしましょうか。

オランコウシ
ウランコシ(地理院図)
ウランコシ川(営林署図)
 津別町に山越えする道道の北側から湖に流入している。永田地名解は「オランコ・ウシ O-ranko-usi 桂ある川尻」と記した。オ・ランコ・ウㇱ・イ(o-ranko-us-i 川口に・カツラ(幹)・多くある・所(川)」の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.330 より引用)※ 原文ママ
o-ranko-us-i で「河口・カツラの木・多くある・もの(川)」ということですね。o- を取れば「蘭越」ということになります。

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2022年10月7日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(三日目の朝食編)

三日目の朝を迎えました。「いしかり」は苫小牧に向かって順調に航行中です。
あれ、航海中でもロープが引っ張られた状態なんですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

前面の展望は「ちょっと雲の見える青空」という感じでしたが、左側の展望は「どんより曇った空」に見えますね。ちょうど朝 8 時頃だったので日の出からは結構時間が経っている筈ですが、太陽の位置とも関係があるんでしょうか。

2022年10月6日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(7 人いる!編)

「いしかり」は仙台港を出港して苫小牧に向かいます。レストラン「サントリーニ」でのディナーバイキングの後は、やはり……
シアターラウンジ「ミコノス」でのラウンジショーですよね。ディナーバイキングと同様に、ラウンジショーも仙台 → 苫小牧区間のみ 30 分遅れの 20:30 開始です。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります(2022 年 10 月時点ではラウンジショーは休止中とのこと)。

シアターラウンジ「ミコノス」へ

ということで、前日に引き続き 6 甲板の最後尾にあるシアターラウンジ「ミコノス」にやってきました。パフォーマーは前日に引き続き「ザ・サウンドスピリッツ」の皆さんです。

2022年10月5日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(二日目の夕食編)

仙台港での一時下船から帰還して部屋に戻ってきました。18:20 頃は、まだ空は明るかったのですが……
19:00 頃になると、すっかり夜の帳に包まれてしまいました。

2022年10月4日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(スロープ編)

歩道橋「マリンブリッジ」を歩いて太平洋フェリーの乗り場に向かいます。なるほど、フェンスはこのように折りたたむことができるのですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

船首部のバウランプからは乗用車が次々と乗船しています。

2022年10月3日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(再乗船編)

仙台港フェリーターミナルの待合室で再乗船の開始を待ちます。チェアの前にテーブルのついた席もあるんですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

お客様の乗船時間は

ボーディングブリッジと繋がる跨線橋……あ、「マリンブリッジ」と書いてありますね……のドアは開いた状態ですが……

2022年10月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (975) 「オンネシレト川・シレトナイ川・サマッカリヌプリ・サマカリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンネシレト川

onne-sir-etu
親である・大地・鼻(岬)
(典拠あり、類型あり)
美幌峠(国道 243 号)の南、中島から見て西の湖岸に注ぐ川です。地理院地図にも川として描かれている上に、川名も記載されています。

東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヲン子シレト」と描かれていました。河口部に「ヲン子シレト」と描かれているように見えますが、よく見ると河口の北側の「出っ張り」のところに「ヲン子シレト」と描かれていますね。

戊午日誌「東部久須利誌」にも次のように記されていました。

また並びて
    ヲン子シレト
大山湖中え突出す。此辺の上樹木なし。只茅原。湖の(北西)に当るなり。ヲン子は大し、シレトは岩岬の事。此上よりアハシリ越宜し。やはりヒホロえ出る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
onne-sir-etu で「親である・大地・鼻(岬)」と見て良さそうですね。どうやら本来は川の名前ではなく岬の名前のようですが、明治時代の地形図を見てみると、確かに岬の位置に「オン子シレト」とあり、現在の「オンネシレト川」のところには「オン子シレトナイ」と描かれていました。

なお余談ですが、美幌峠の南東側からまっすぐ屈斜路湖に向かう川は「ルーチシポコオマナイ」と描かれていました。これは {ru-chis}-pok-oma-nay で「峠の下にある川」と読めそうですね。

シレトナイ川

sir-etu-nay??
大地・鼻(岬)・川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「オンネシレト川」の二つ南隣を流れる川です(=「オンネシレト川」と「シレトナイ川」の間にも川があるのですが、川名は不詳)。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川名・地名は見当たらず、明治時代の地形図にも川名・地名が見当たりません。

まぁ sir-etu-nay で「大地・鼻(岬)・川」なんでしょうけど、いつからこの名前で呼ぶようになったのでしょう……?

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子シレト」の南に「チフ子ウシナイ」という川が描かれていました。この川が現在の「シレトナイ川」のことかもしれませんが、確証はありません。戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

また並びて
    チフ子ウシナイ
此処舟を作るに木多く有りてよしと云儀。本名チツフニウシナイなるよし。チツフは船、ニは木、ウシは多しと云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
chip-ni-us-nay で「舟・木・多くある・川」だったようです。

「ヲン子シレトナイ」があるんだったら「シレトナイ」もあるだろう……という考え方なのかもしれませんが、元々「ヲン子シレト」は岬の名前なので、果たして本当に「シレトナイ」が実在したかどうかは……なんとも言えないような気もします(実在したかもしれないし、実在しなかったかもしれない)。

いつの間にしれっと「シレトナイ川」と呼ばれるようになってしまったのだろう……と書きかけて、ダジャレ臭が凄まじいことに気づいて頭を抱えています。

サマッカリヌプリ

sama-at-tu-kor-nupuri?
横になる・ずっとそうである・支峰・持つ・山
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「シレトナイ川」の南に「トイコイ川」が流れているのですが、両者の間(トイコイ川の北隣)に「サマカリ川」という川が存在します(地理院地図では川として描かれていませんが)。

この「サマカリ川」ですが、西南西に聳える「サマッカリヌプリ」に由来する川名だと思われます。ということで「サマッカリヌプリ」ですが、頂上付近に「様狩山」という名前の二等三角点が存在する山です(標高 974.3 m)。昔の人はちゃんと「様狩山」という字を当てたものの、結局普及しなかった系でしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤマツカリ」という名前の山が描かれています。戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

並びて
    シヤマツカリ
少しの峨々たる一ツの山有。此山峻しく辷りて上り難きが故に此名有るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
ちょっと意味が掴みきれないので、別ルートから攻めてみましょうか。「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 サマッカリヌプリ 974.4㍍ 屈斜路湖畔西岸,津別町との境。頂上近くを道道が貫通しているが,美幌峠の南方数㌖の地点にあたる。⇒サマッカリヌプリ(津別町)
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.684 より引用)
頂上近くを道道が貫通……? なんか違う世界線に入ってしまった感もありますが、とりあえず「津別町」側の記述を見てみましょうか。

 サマッカリヌプリ岳 974.4㍍ 弟子屈町との境の,屈斜路湖の壁を形つくっている山で,浜手の奥をまわっている山の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.451 より引用)
「険しくて上がり難い」と「浜手の奥をまわっている」には随分と違いがありますが、さてどう考えたものか……。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

 松浦久須利誌は「シヤマツカリ 此山峻しく辿りて上り難きが故に此名有るとかや」と記し、弟子屈町史は「サマ・チ・カリ 傍・我々・廻る、(急坂で通れず廻り道したところ)と書いた。サマタ・カリ・ヌプリ(samata-kari-nupuri 傍を・廻る・山)の意で、それは、松浦氏や弟子屈町史のいう通りの理由があったのであろう。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.348-349 より引用)※ 原文ママ
「サマタ」という語は sama-ta に分解できるようで、sama-ta で「傍・に」と読めます。sama-ta-kari-nupuri で「傍・に・回る・山」ということになるでしょうか。

戊午日誌「東部久須利誌」が「シヤマカリ」としたものを、弟子屈町史は「サマカリ」ではないかとして、また鎌田正信さんは「サマカリ」ではないかとしたようですが、個人的にはちょっともやもやした感じが残ります。

「サマッケ」では?

道内各地に「サマッケヌプリ」という山があり、他ならぬ「サマッカリヌプリ」の南 6.5 km ほどのところにも「サマッケヌプリ」が存在しています。「サマッケヌプリ」は samatke-nupuri で「横になっている・山」で、一般的には頂部が尾根状に伸びた山を指します(「連山」と言えるかな?)。

この考え方で行くと、屈斜路町・津別町境にある「サマッケヌプリ」は寧ろ例外的な山容で、本来は 1.3 km ほど南の釧路市との境界を形成する山の名前だったのでは……と思えてきます。あるいは「オサッペヌプリ」と「サマッケヌプリ」の位置を取り違えたか……?

今回の「サマッカリヌプリ」も「サマッケヌプリ」の親戚筋のように思えて仕方がないのですね。サマッカリヌプリは南側の津別峠のあたりから 4 km 近く北までずっと山が連なっていて、samatki と呼ぶに相応しい形をしています。

「サマッカリヌプリ」が他の「サマッケヌプリ」と一線を画するのは、頂上(の 0.3 km ほど東南東)から東に尾根が伸びている点でしょうか(屈斜路プリンスホテルのすぐ近くまで伸びています)。

知里さんの「地名アイヌ語小辞典」によると、samatkisama-at-ki ではないかとのこと。「サマッカリヌプリ」も sama-at-tu-kor-nupuri で「横になる・ずっとそうである・支峰・持つ・山」と考えたいところです。

サマカリ川

sama-at-tu-kor??
横になる・ずっとそうである・支峰・持つ
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「トイコイ川」の北を流れる川です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川名は見当たりません。明治時代の地形図にはトイコイ川の南、ウランコシ川のすぐ北に「サマッカリ」という地名(と思われる)が描かれていました。

「サマカリ川」の川名は「サマッカリヌプリ」に由来し、sama-at-tu-kor で「横になる・ずっとそうである・支峰・持つ」だと思われます。ただこの川も「シレトナイ川」と同じく、明治時代の地形図や戦前の陸軍図では川名を確認できません。いつ頃から「サマカリ川」と呼ばれるようになったのかは不明です(故に「典拠未確認」としています)。

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2022年10月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (974) 「トコタンカレイナ川・オンネナイ川・シケレベンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トコタンカレイナ川

tuk-kotan-kas-nay??
小山・村・渡る・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
屈斜路湖の北東隅に北から注ぐ川です……が、残念ながら地理院地図には川として描かれていません。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「トコタンカレ」という名前の川が描かれていました。

「やはり『ナイ』だったか。まぁそうだよな……」と思いながら陸軍図を見てみると、そこには堂々と「トコタンカレイナ川」と描かれていました。「ナイ」が「イナ」に化けてしまったのは陸軍図以来の伝統だった可能性がありそうです。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 トコタンカレナイ川 屈斜路湖に小清水町から入る小川。沼コタンを回る川か
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.685 より引用)
なんか誤解があるというか、誤解を招く書き方だと思うのですが、弟子屈町と小清水町の境界は分水嶺上にあるので、小清水町から屈斜路湖に流入する川は無い筈なんですよね。「小清水町との境界から」であればわかるんですが……。

to-kotan-kar-nay で「沼・集落・回る・川」と考えたっぽいですが、なんか「ぎ感」が凄いんですよね……。kotan-kar であれば「村・作る」と捉えることも可能かもしれませんし、kotan-kor であれば「村・持つ」と考えることもできそうです。kotan-kor-kamuy でれば「シマフクロウ」を意味することになります。

どうにもしっくり来ないので明治時代の地形図を眺めていたのですが、よく見ると「カレ」ではなく「カシ」と描かれているようにも見えます。だとすると kas は「渡る」かもしれませんし、あるいは「小屋」を意味するかもしれません。

to-kotan-kas-nay であれば「沼・村・渡る・川」である可能性も出てきます。また to-kotan- ではなく tu-kotan- で「廃・村──」なのかも……?

ちょっと気になったのが、この川の西側に標高 312.4 m の山(碁石山)があるというところです。いかにもランドマークになりそうな山なので、tuk-kotan-kas-nay で「小山・村・渡る・川」と呼んだ可能性もあるんじゃないかなぁ……と。

現在は人家らしきものは見当たりませんが、川湯温泉の北側に湿地が広がっていたことを考えると、山の麓にコタンがあったとしてもそれほど不思議でも無さそうです。

オンネナイ川

onne-nay
親・川
(典拠あり、類型あり)
屈斜路湖の北、弟子屈町と小清水町の境界に「藻琴山」が聳えているのですが、この「藻琴山」の標高は 999.9 m とのこと。10 cm ほど低かったばかりに随分と損をしているような気がします。

「オンネナイ川」は藻琴山の 0.7 km ほど東南東にある支峰から東に向かい、途中から南に向きを変えて屈斜路湖に注いでいます。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい名前の川が見当たりませんが、明治時代の地形図には「オン子ナイ」という名前の川が描かれていました。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 オンネナイ川 藻琴山の東側の谷を流れて屈斜路湖に入る小川。アイヌ語年老いた川の意だが,なぜか不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.685 より引用)
(汗)。でも、まさにその通りとしか言いようのないような気も……。onne-nay は「年老いた・川」で、「親・川」と解釈することもできます。

屈斜路湖の「最奥部」はどこか……という話ですが、藻琴山のことを to-etok-us-pe で「沼・奥・ついている・もの」を呼んでいたとのこと。藻琴山(とその尾根)の南側にはいくつもの川がありますが、「オンネナイ川」は途中で二手に分かれていることもあり、そのことから「親川」「子川」と呼んでいたのかもしれません。

シケレベンベツ川

sikerpe-un-pet
キハダの実・ある・川
(典拠あり、類型あり)
国道 243 号の「美幌峠」と「藻琴山」の間のあたりを流れる川で、川沿いを途中まで「志計礼辺別林道」が通っています。

この川は「東西蝦夷山川地理取調図」にも「シケレヘンヘツ」として描かれていました。戊午日誌「東部久須利誌」にも次のように記されています。

また並びて小川
    シケレベンベツ
此川むかし土人五味子を取に来りしによつて、いつも多く有るを以て号。シケレベは松前方言志古路の事也。土人是を喰料にしまた疾の薬に用ゆるとかや。本名シケレベウンヘツなるべし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.450-451 より引用)
五味子ごみし」の註として「きはだ 黄蘗 シケレペ シコロ」と記されていますが、「ゴミシ(チョウセンゴミシ)」と「キハダ」はどうやら別物とのこと。知里さんの「植物編」によると「チョォセンゴミシ」は、屈斜路では tesma-kar-punkar と呼ばれていたそうです。どちらも実のなり方が似ているようなので、混同したのでしょうか。

とりあえず「シケレベンベツ」は sikerpe-un-pet で「キハダの実・ある・川」と考えて良さそうですね。

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