(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ポント
(典拠あり、類型多数)
和琴半島の南、「屈斜路郵便局」のあるあたりの地名です。近くには「奔渡」という名前の四等三角点もありますが、陸軍図でもカタカナで「ポント」と描かれているため、漢字で「奔渡」という表記を考案したもののあまり使われることが無かった……あたりでしょうか。戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
其東を
ホントウロ
此処湾の中に一ツの沼有り、其を云よし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.454 より引用)
これは pon-to-oro で「小さな・沼・ところ」と読めそうでしょうか。また、鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。ポントー
屈斜路集落和琴小学校の東側で湖岸に沿った小沼である。
ポン・トー(pon-to 小さな・沼)の意で、かつてはこの辺の集落もポントーと呼ばれていた。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.329 より引用)
現在でも郵便局の 0.4 km ほど北に、屈斜路湖から切り離された?小さな沼がありますが、明治時代の地形図では「屈斜路パークゴルフ場」のすぐ近くまで西に伸びていたようです。どうやら pon-to で「小さな・沼」と見て間違いなさそうですね。サッテキナイ川
(典拠あり、類型あり)
道道 52 号「屈斜路摩周湖畔線」の起点から 0.5 km ほど西を「ポント川」という川が流れているのですが、国道から 545 m(=殖民区画の「300 間」)ほど上流で「サッテキナイ川」と合流しています。「ポント川」は地理院地図に川として描かれていますが(川名は記載されず)、「サッテキナイ川」は残念ながら川として描かれていません。「サッテキナイ川」の東には「札的内」という名前の四等三角点も存在しますが、陸軍図ではこのあたり(より少し東)の地名として「サッテキナイ」と描かれていました。どうやらこの「札的内」も「奔渡」と同じく、漢字表記にしたもののあまり使われなかった系でしょうか……?
明治時代の地形図では、現在の「ポント川」の位置に「サッテキナイ」と描かれていました。「東西蝦夷山川地理取調図」では屈斜路湖に注ぐ川ではなく釧路川に注ぐ川として「サツテクナイ」と描かれていますが、これは果たして……?
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
また並びて
モヨロクシサツテクナイ
モヨロとは湾なり、クシは有、サツテキナイは乾た川と云儀也。其川の上に
サツテキナイイトコ
モヨロクシサツテキナイイトコ
等二ツの椴山有。其うしろセチリの川すじに成よし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.454 より引用)
この「モヨロクシサツテクナイ」が、現在「サッテキナイ川」と呼ばれる川(あるいは「ポント川」かもしれませんが)だと考えられるのですが、「東部久須利誌」には「サツテクナイ」という川も記録されていました。並びて
サツテクナイ
〔欄外〕サツテク 此川乾たる故に号る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.440 より引用)
これで「東西蝦夷山川地理取調図」の「サツテクナイ」が屈斜路湖ではなく釧路川に注いでいた理由も理解できました。現在の「サッテキナイ川」(あるいは「ポント川」)が「モヨロクシサツテクナイ」と呼ばれていたのは、釧路川支流の本家「サツテクナイ」を憚ってのことだったんですね。「モヨロクシサツテクナイ」は moy-oro-kus-sattek-nay で「湾・の中・横断する・やせている・川」と見て良いかと思われます。sattek の「やせている」については、「地名アイヌ語小辞典」によると「川が夏になって水がかれて細々と流れている状態」とのこと。夏になると水が涸れる川だったのでしょうね。
ヌプリオント川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
屈斜路湖は南岸にある湖口から釧路川に流出していますが、湖口の近くに標高 229 m の「丸山」という山があり、「丸山」から 1 km ほど東南東にも標高 231.3 m の山があります。この標高 231.3 m の山の頂上付近には「登音洞」という四等三角点があるのですが、「登音洞」で「のぼりおんどう」と読ませるとのこと(あれ、意外と普通の読み方……)。この「登音洞」三角点のある山は、陸軍図では「ヌプリオンド山」と描かれていました。この山の西を流れる川が「ヌプリオント川」なので、「
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には、次のように記されていました。
ヌプリオントー
登音洞
釧路川の出口から下流1.6キロ付近の、尾根筋が川に突出したところの地名である。
ヌプリ・オント(nupuri-onto 山の・尻)で山のふもと、山裾の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.317 より引用)
この nupuri-onto は知里さんの「──小辞典」にも次のように記されていました。nupuri-onto(-ke) ヌぷリオント 【H 北】原義‘山の尻’。山のふもと。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.70 より引用)
ほぼ同じでしたね……。nupuri-onto で「山・尻(ふもと)」と見て良さそうです。既述の通り、陸軍図では「ヌプリオンド山」という名前の山が描かれていて、これは現在も四等三角点「登音洞」として健在です。そして四等三角点「登音洞」の西を「ヌプリオント川」という名前の川が流れています。
山の名は
ところが、明治時代の地形図を見てみると、「ヌプリオント川」の上流部の東支流として「サ四等三角点「登音洞」のある山に「オパシアンヌプリ」と描かれている点については、「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。
オパシアンヌプリ
花輪山(営林署図)
釧路川は出口から下流1.7キロ付近で右岸の崖につき当たる。この崖の山の三角点名花輪山(233.2㍍)がオパシアンヌプリである。
オ・パ・ウㇱ・アン・ヌプリ(o-pa-us-an-nupuri 尻を・川下に・つけて・いる・山)の意である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.317 より引用)
「三角点名花輪山」とありますが、この三角点名は営林署で定義したものでしょうか。「花輪山」というネーミングもなかなか興味深いもので、松浦武四郎は「ヘナワンヌフリヲント」という地名を記録しています。pe-na-wa-an-nupuri-onto があるということは pa-na-wa-an-nupuri-onto もあったと考えられ、そこから「花輪山」が命名された可能性も考えられます。そして「オパシアンヌプリ」ですが、opasi-an-nupuri で「川下に・ある・山」と読めそうですね。opasi は o-pa-us-i で「尻・川下・つけている・もの」と分解できるので、鎌田さんの解釈も本質的には同じと言えます。
「ヌプリオントー」は何処に
ここで謎なのが、鎌田さんは「ヌプリオントー」の場所を「下流1.6キロ付近」として、「オパシアンヌプリ」の場所を「下流1.7キロ付近」としている点です。明治時代の地形図を見る限り、両者の位置は鎌田さんの記述とは逆だったと思われるのですね。ここまでの情報を突き合わせると、「ヌプリオント川」は松浦武四郎が記録して現在は失われたと思しき「サツテクナイ」のことで、「ヌプリオント」は三角点名「登音洞」の東側の、二股になった谷のあたりを指していたように思われます。
この谷はまるで巨人が尻もちをついたような形をしているのですが、この手の地形は他所では「オソルコチ」と呼ばれることがありますね。「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。
osor-kot オそㇽコッ(オしョㇽコッ) osor は「尻」,kot は「くぼみ」,尻餅をついた跡のくぼみの意。各地に Osorkochi〔オそㇽコチ, オしョㇽコチ〕という地名があり,海岸の段丘を尻餅の跡の形にくりぬいたような窪地にその名がついている。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.80 より引用)
ということでまたしても「尻」の話です。「ヌプリオント」は nupuri-onto で「山・尻(ふもと)」ではないかと考えましたが、実は山の東側にある「尻の形をした窪み」をそのまま「山・尻」と呼んだ可能性があるんじゃないかと……。www.bojan.net
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