(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
オンネシレト川
(典拠あり、類型あり)
美幌峠(国道 243 号)の南、中島から見て西の湖岸に注ぐ川です。地理院地図にも川として描かれている上に、川名も記載されています。「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヲン子シレト」と描かれていました。河口部に「ヲン子シレト」と描かれているように見えますが、よく見ると河口の北側の「出っ張り」のところに「ヲン子シレト」と描かれていますね。
戊午日誌「東部久須利誌」にも次のように記されていました。
また並びて
ヲン子シレト
大山湖中え突出す。此辺の上樹木なし。只茅原。湖の乾 に当るなり。ヲン子は大し、シレトは岩岬の事。此上よりアハシリ越宜し。やはりヒホロえ出る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
onne-sir-etu で「親である・大地・鼻(岬)」と見て良さそうですね。どうやら本来は川の名前ではなく岬の名前のようですが、明治時代の地形図を見てみると、確かに岬の位置に「オン子シレト」とあり、現在の「オンネシレト川」のところには「オン子シレトナイ」と描かれていました。なお余談ですが、美幌峠の南東側からまっすぐ屈斜路湖に向かう川は「ルーチシポコオマナイ」と描かれていました。これは {ru-chis}-pok-oma-nay で「峠の下にある川」と読めそうですね。
シレトナイ川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「オンネシレト川」の二つ南隣を流れる川です(=「オンネシレト川」と「シレトナイ川」の間にも川があるのですが、川名は不詳)。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川名・地名は見当たらず、明治時代の地形図にも川名・地名が見当たりません。まぁ sir-etu-nay で「大地・鼻(岬)・川」なんでしょうけど、いつからこの名前で呼ぶようになったのでしょう……?
「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子シレト」の南に「チフ子ウシナイ」という川が描かれていました。この川が現在の「シレトナイ川」のことかもしれませんが、確証はありません。戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
また並びて
チフ子ウシナイ
此処舟を作るに木多く有りてよしと云儀。本名チツフニウシナイなるよし。チツフは船、ニは木、ウシは多しと云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
chip-ni-us-nay で「舟・木・多くある・川」だったようです。「ヲン子シレトナイ」があるんだったら「シレトナイ」もあるだろう……という考え方なのかもしれませんが、元々「ヲン子シレト」は岬の名前なので、果たして本当に「シレトナイ」が実在したかどうかは……なんとも言えないような気もします(実在したかもしれないし、実在しなかったかもしれない)。
いつの間にしれっと「シレトナイ川」と呼ばれるようになってしまったのだろう……と書きかけて、ダジャレ臭が凄まじいことに気づいて頭を抱えています。
サマッカリヌプリ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「シレトナイ川」の南に「トイコイ川」が流れているのですが、両者の間(トイコイ川の北隣)に「サマカリ川」という川が存在します(地理院地図では川として描かれていませんが)。この「サマカリ川」ですが、西南西に聳える「サマッカリヌプリ」に由来する川名だと思われます。ということで「サマッカリヌプリ」ですが、頂上付近に「様狩山」という名前の二等三角点が存在する山です(標高 974.3 m)。昔の人はちゃんと「様狩山」という字を当てたものの、結局普及しなかった系でしょうか。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤマツカリ」という名前の山が描かれています。戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
並びて
シヤマツカリ
少しの峨々たる一ツの山有。此山峻しく辷りて上り難きが故に此名有るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.451 より引用)
ちょっと意味が掴みきれないので、別ルートから攻めてみましょうか。「北海道地名誌」には次のように記されていました。サマッカリヌプリ 974.4㍍ 屈斜路湖畔西岸,津別町との境。頂上近くを道道が貫通しているが,美幌峠の南方数㌖の地点にあたる。⇒サマッカリヌプリ(津別町)
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.684 より引用)
頂上近くを道道が貫通……? なんか違う世界線に入ってしまった感もありますが、とりあえず「津別町」側の記述を見てみましょうか。サマッカリヌプリ岳 974.4㍍ 弟子屈町との境の,屈斜路湖の壁を形つくっている山で,浜手の奥をまわっている山の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.451 より引用)
「険しくて上がり難い」と「浜手の奥をまわっている」には随分と違いがありますが、さてどう考えたものか……。鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。
松浦久須利誌は「シヤマツカリ 此山峻しく辿りて上り難きが故に此名有るとかや」と記し、弟子屈町史は「サマ・チ・カリ 傍・我々・廻る、(急坂で通れず廻り道したところ)と書いた。サマタ・カリ・ヌプリ(samata-kari-nupuri 傍を・廻る・山)の意で、それは、松浦氏や弟子屈町史のいう通りの理由があったのであろう。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.348-349 より引用)※ 原文ママ
「サマタ」という語は sama-ta に分解できるようで、sama-ta で「傍・に」と読めます。sama-ta-kari-nupuri で「傍・に・回る・山」ということになるでしょうか。戊午日誌「東部久須利誌」が「シヤマ
「サマッケ」では?
道内各地に「サマッケヌプリ」という山があり、他ならぬ「サマッカリヌプリ」の南 6.5 km ほどのところにも「サマッケヌプリ」が存在しています。「サマッケヌプリ」は samatke-nupuri で「横になっている・山」で、一般的には頂部が尾根状に伸びた山を指します(「連山」と言えるかな?)。この考え方で行くと、屈斜路町・津別町境にある「サマッケヌプリ」は寧ろ例外的な山容で、本来は 1.3 km ほど南の釧路市との境界を形成する山の名前だったのでは……と思えてきます。あるいは「オサッペヌプリ」と「サマッケヌプリ」の位置を取り違えたか……?
今回の「サマッカリヌプリ」も「サマッケヌプリ」の親戚筋のように思えて仕方がないのですね。サマッカリヌプリは南側の津別峠のあたりから 4 km 近く北までずっと山が連なっていて、samatki と呼ぶに相応しい形をしています。
「サマッカリヌプリ」が他の「サマッケヌプリ」と一線を画するのは、頂上(の 0.3 km ほど東南東)から東に尾根が伸びている点でしょうか(屈斜路プリンスホテルのすぐ近くまで伸びています)。
知里さんの「地名アイヌ語小辞典」によると、samatki は sama-at-ki ではないかとのこと。「サマッカリヌプリ」も sama-at-tu-kor-nupuri で「横になる・ずっとそうである・支峰・持つ・山」と考えたいところです。
サマカリ川
(?? = 典拠未確認、類型あり)
「トイコイ川」の北を流れる川です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川名は見当たりません。明治時代の地形図にはトイコイ川の南、ウランコシ川のすぐ北に「サマッカリ」という地名(と思われる)が描かれていました。「サマカリ川」の川名は「サマッカリヌプリ」に由来し、sama-at-tu-kor で「横になる・ずっとそうである・支峰・持つ」だと思われます。ただこの川も「シレトナイ川」と同じく、明治時代の地形図や戦前の陸軍図では川名を確認できません。いつ頃から「サマカリ川」と呼ばれるようになったのかは不明です(故に「典拠未確認」としています)。
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