2022年9月30日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(「いしかり」の模型編)

仙台港フェリーターミナルの中に戻ってきました。乗船手続きを待つ人の列は少し短くなったでしょうか(この写真では良くわからないですが)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

「いしかり」の模型

フェリーターミナルあるあるですが、 1F には「いしかり」の模型が飾られています。かなり大きな模型ですが、縮尺は 1/100 のようです。

2022年9月29日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港 FT 一周編)

フェリーに戻るまで少し時間があるので、フェリーターミナルの周りをグルっと一周してみることにしました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

バス停の先は納品車輌用の駐車スペースとなっていて、一般車は駐停車禁止となっています。

2022年9月28日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(謎の「泉中央駅」行き編)

仙台港フェリーターミナルに戻ってきました。ケーズデンキ往復でお世話になったタクシーは、新たな客を探しに出かけたようです。
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どこへ行くのも 1.6 km

フェリーターミナルの十字路の手前には「みやぎ観光マップ」が置かれていました。

2022年9月27日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(一時上陸編)

仙台港フェリーターミナルの階段を下りて 1 階に向かいます。踊り場には連絡バスの時刻表が掲出されていますが、結構な頻度で運転されているようですね(しかも仙台駅前まで直通!)。
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心ゆったり船の旅

フェリーターミナルの 1 階では乗船手続きが行われていました。連休の初日だけあって、それなりに列ができていますね。

2022年9月26日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ボーディングブリッジ編)

仙台港で一時下船しました。普段は乗船・下船ともに車で行うので、こうやってボーディングブリッジを歩くことはめったに無いんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

ボーディングブリッジの窓から「いしかり」の船体を眺めます。このアングルだとますます「のぞみ」っぽく見えるような……(汗)。

2022年9月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (973) 「ニタトルシュケ山・キナチャン沢川・トーパオマプ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニタトルシュケ山

nitat-oro-us-pe
湿地・その中・そこにある・もの(山)
(典拠あり、類型あり)
川湯温泉の北東、国道 391 号の東に聳える標高 381.4 m の山です。頂上付近に二等三角点がありますが、三角点の名前は何故か「川湯」です。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

此源に
     ニタトルシベ
といへる高山有。此峯つゞきシャリ領のヤンヘツ岳なり。東え落るはワッカヲイのサツルヱの源となる。此辺数十里の平地茅原のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.449 より引用)
改めて明治時代の地形図を見てみると、山名は「ニタトルシユペ」となっていました。大正から昭和にかけて作図された陸軍図では「ニタトルシュケ山」となっているので、その間に「ペ」が「ケ」に化けたといったところでしょうか。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。

ニタトルシペ
 川湯市街の北東に位置する、標高380.4㍍の山。
 ニタッ・オロ・ウㇱ・ペ「nitat-oro-us-pe 湿地・の所・にいる・もの(山)」の意で、湖からこの山裾までは広い湿地帯である。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.349 より引用)
あれ、いつの間にか山名が先祖返りしていますね。地形図ではずっと「ニタトルシュケ山」表記のように見えるのですが、地元では「ニタトルシペ」と呼ばれていた……とかでしょうか。

nitat-oro-us-pe で「湿地・その中・そこにある・もの(山)」との解釈で良さそうな感じですね。何故「シペ」あるいは「シュペ」が「シュケ」に化けたのかは……謎です。

キナチャン沢川

kina-cha-us?
草・刈る・いつもする
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ニタトルシュケ山の北から西を流れて、アメマス川に合流する川です。地理院地図には川として描かれていますが、残念ながら川名の記入はありません。

明治時代の地形図には「キナチヤウシ」という名前の川が描かれているのですが……何故か「ニタトルシユペ」の *南側* を流れていることになっています。

また、現在の「アメマス川」の下流部には「キナヤオロ」と描かれていました。この川については永田地名解に記載がありました。

Kina cha oro  キナ チャ オロ  蒲ヲ刈ル處 安政帳ニ中川トアルハ是レナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.347 より引用)
ただ、「キナチャオロ」と「キナチャン沢川」では少し違いがあるように思えますし、上流部(ニタトルシュケ山の北か南かという大きな問題はありますが)には「キナチヤウシ」という川名が描かれているので、「キナチャン沢川」は「キナチャウシ」だったか、あるいはそれに類する別名だったと考えたいです。

「キナチャン沢川」が「キナチヤウシ」だったのであれば、kina-cha-us(-nay?) で「草・刈る・いつもする(・川)」ということになりますね。ただ、「キナチヤウシ」が本当に「ニタトルシュケ山」の南東側の川だったとすると、「キナチャン沢川」は kina-cha-an-nay で「草・刈る・反対側の・川」とかでしょうか。

この場合の an-ar- の音韻変化形なのですが、こういった用法はこれまで見た記憶が無いので、ちょっと無理がありそうな予感もするのですが……。

トーパオマプ川

to-pa-oma-p?
湖・かみて・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 391 号と道道 102 号「網走川湯線」の間を流れて、最終的には「アメマス川」に合流する川です。地理院地図には川として描かれているものの、やはり川名に記入はありません。

明治時代の地形図では、この「トーパオマプ川」のことと思しき「トーバオマ」という川が、ニタトルシュケ山の北、野上峠の南のあたりから西に向かって屈斜路湖に注ぐように描かれていました。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。

またセヽキベツより並びて
     トマヲマフ
此川端延胡索多きによって号。トマは延胡索、ヲは多し、マフは有る儀也。是沼の内第一番の大川也。此源に
     ニタトルシベ
といへる高山有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.449 より引用)
なんか色々と不思議な感じがしますね。「トーパオマプ川」ではなく「トマヲマフ」だとするのは良いとして、「是沼の内第一番の大川也」というのは……?

改めて明治時代の地形図を眺めてみると、「セセㇰペッ」(=湯川)と「キナチャオロ」(=アメマス川)の北に「トーパオマ」という川が描かれていました(「マ」の後ろに別の文字がついているかもしれませんが判読できず)。陸軍図では川湯温泉の北に湿地が広がっているように描かれているので、現在「アメマス川」として注ぐ水の多くが、当時は北側の「トーパオマ」を流れていた可能性もありそうです。

「トーパオマ」であれば to-pa-oma で「湖・かみて・そこにある」と考えられますが、「東部久須利誌」では「トマヲマフ」とあり、これだと toma-oma-p で「エゾエンゴサクの根・そこにある・もの(川)」と解釈できます。

これはちょっと悩みどころですが、幸いなことに永田地名解にも記載がありました。

Tō pa omap  トー パ オマㇷ゚  沼頭ニ在ル川 安静帳大川トアリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.347 より引用)
あー、やはりと言うべきか to-pa-oma-p と考えたようですね。多数決というわけでは無いですが、to-pa-oma-p で「湖・かみて・そこにある・もの(川)」と考えて良さそうです。

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2022年9月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (972) 「アトサヌプリ・湯川・オンシエシッペ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アトサヌプリ

atusa-nupuri
裸である・山
(典拠あり、類型あり)
JR 釧網本線の川湯温泉駅の西南西、マクワンチサップの東南東に位置する山の名前です。地名としては漢字で「跡佐登あとさのぼり」と表記されるのですが、現在は何故か川湯温泉の 2~3 km ほど北側の地名という扱いのようです。

戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。興味深い内容なので前後を含めて引用します。

    セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシャフ、また其前にマツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
    アトサシリ
といへる高山有。其高山マシウの西の方につヾく。山皆岩山にして草も木もなく皆硫黄山也。其山のもえさし沢より流れ来る川なるが故に、常に湯の如く涌立有るが故に此セヽキヘツの名有りと思わる。水至て酸し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.449 より引用)
文脈からは「アトサシリ」が現在の「アトサヌプリ」のことで、「セセキベツ」は「湯川」のことだと考えられます。

永田地名解には次のように記されていました。

Atusa nupuri  アト゚サ ヌプリ  裸山 一名硫黄山
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.346 より引用)
atusa-nupuri で「裸である・山」ということになりますね。

知里さんの「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

atusa [複 atus-pa] アと゜サ 《完》裸デアル(ニナル)。──山について云えば木も草もなく赤く地肌の荒れている状態を云う。[<at-tus-sak<ar-rus-sak(全く・衣を・欠く)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.10 より引用)
アトサヌプリを上空から見ると、この山の周辺だけ緑が異様に少ないことに気づきます。この緑の少なさは火山活動によるものですが、緑が少ないことを指して「裸の山」と呼んだということのようですね。

「──小辞典」には atusa の次に atusa-nupuri が立項されていました。

atusa-nupuri アと゜サヌプリ 【H 北】もと‘裸の山’の義。東北海道・南千島で溶岩や硫黄に蔽われた火山を云う。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.10 より引用)
かなりそのまんまでしたね。atusa-nupuri は「裸である・山で、意味するところは「火山」と考えて良さそうです。

湯川(ゆかわ)

sesek-pet
熱い・川
(典拠あり、類型あり)
アトサヌプリと川湯温泉駅の間を北に向かって流れて、川湯温泉の中心部を通って屈斜路湖に注ぐ川です。現在名は思いっきり和名っぽいですが、この川は戊午日誌「東部久須利誌」に「セセキベツ」と記録されている川のことだと考えられます。

永田地名解にも次のように記されていました。

Sesek pet   セセㇰ ペッ   湯川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.346 より引用)
いかにもざっくりとした解釈ですね。sesek は「熱い」「熱くなる」「温かい」「沸く」あるいは「なまぬるい」「暑い」などを意味し、厳密には「湯」という意味は無さそうです。

sesek-pet を直訳すれば「熱い・川」になるのかもしれませんが、「川が熱い」ことを「湯の川」と言い換えるのは想像の範囲内ですよね。そもそも「温泉」を意味する sesek-i 自体が「熱い・もの(ところ)」ですし……。

更に言ってしまえば、現在の「湯川」という川名が sesek-pet の「和訳」であるかどうかも疑わしいかもしれません。仮に sesek-pet という名前が無かったとしても、ぬるま湯が流れる川のことを「湯川」と呼んでいた可能性も十分ありそうなので。

2022年9月23日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (138) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

伊藤の欠点

「伊藤の優秀性」を列挙したイザベラでしたが、やはりと言うべきか、「伊藤の欠点」についてもちゃんと言及しています。

彼は同じことを如才なく繰り返し、すべて自分自身の利益にしようという意図を隠さない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262-263 より引用)
「すべて自分自身の利益にしようとする意図を隠さない」というのは「抜け目がない」と言い換えることができるでしょうか。いや、それよりは「野心家」と言ったほうがいいのか……?

彼は給料の大部分を、未亡人である母に送る。「この国の習慣です」と言う。残りは菓子や煙草に使ったり、しばしば按摩にかかるのを楽しみにしているようである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
あれっ。これは普通に良い話ですよね。伊藤は当時 18 か 19 の筈ですが、過酷な旅を続けると肉体的にも疲労が溜まる一方でしょうから、マッサージを楽しみにするというのは理解できます。

 彼が、自分の目的をかなえるためなら嘘もつくし、私に見られないならとことんまで上前をはねていることは、疑いない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
「私に見られないなら」と前置きしつつ「疑いない」と言うことは……。イザベラが根拠のない「単なる憶測」でここまで断言するとも思えないので、やはり何らかの「証拠」があったと見るべきなんでしょうね。「代理人ビジネス」はある意味「上前をはねる商売」とも言えますが、イザベラがここまで悪し様に書くということは、上前のはね方が相当なんでしょうか……。

彼は、悪徳の楽しみ以外には、やる気もないし知ってもいないようだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
イザベラ姐さん、調子が上がってきましたね……。

彼の率直な言葉は、人を驚かせるものがある。どんな話題についても、彼は遠慮というのを知らない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
これはある意味現代的というか、若者的な感じもしますね。露悪的というか、ちょっと色々と拗らせた感じがある……と言ったところでしょうか。もちろん給料の大半を仕送りに当てたりして孝養に尽くしている側面もあるわけで、根っからのアウトロー(死語?)というわけでも無さそうですが……。

ただ、イザベラは伊藤の「炎上覚悟でぶっちゃける」性格について「わかりやすい」と捉えていた節もあります。イザベラが伊藤のことを「抜け目のない野心家で自分の利益になることなら何でもする」と見抜いていたのも、伊藤の「わかりやすい」性質によるものとも言えそうです。

彼の前の主人のことは別として、彼は男や女の美徳をほとんど信じない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
伊藤がイザベラの前に現れた(面接にやってきた)くだりを改めて読み返してみたのですが、「前の主人のこと」が具体的に何を指すのかは良くわかりませんでした。一体何があったんでしょう……?

日本の将来の予言

イザベラは、伊藤が自らの国についてどう考えていたかについても詳らかに記していました。伊藤は日本が海外からあらゆるものを貪欲に取り入れるべきだと思っていて、同時に日本の優れたものを海外に広めるべきだと考えていたようです。日本が数百年に亘った「鎖国」を解いたことに好意的だったと見られますが、「通訳」を生業にしているくらいですから、これはまぁ当然のことでしょうか。

外国もそれと同じほど日本から学ぶべきものがあるし、やがて日本は外国との競争に打ち勝つであろう、と信じている。なぜなら、日本は価値あるものをすべて採用しキリスト教による圧迫を退けているからだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
ここが面白いところで、これは「師範学校」でのやり取りとほぼ同じなんですよね。欧米の文明が「キリスト教の価値観」の上に成り立っていることを知ってか知らずか、「キリスト教による圧迫」と表現しているところも気になるところです。

また「やがて外国との競争に打ち勝つだろう」という考え方……というかメンタリティは、どことなく「改革開放」以降の中国のイメージとも重なるものがありますね。

愛国心が彼のもっとも強い感情であると思われる。スコットランド人やアメリカ人は別として、こんなに自分の国を自慢する人間に会ったことがない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
どうやら伊藤の不遜な態度や露悪的な言動は、「愛国心」を拗らせたものである可能性がありそうですね。「黒船」による恫喝で、不平等な形で開国を強いられたことが、伊藤の態度に暗い影を落としているようにも思えます。

彼は片仮名も平仮名も読み書きできるので、無教育者を軽蔑する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
これも残念な感じのエピソードですね。

彼は外国人の地位や身分に対して、少しも尊敬も払わないし価値を認めないが、日本の役人の地位身分に対しては非常に重きを置く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263 より引用)
うーむ、これは……。海外の文物を積極的に取り入れようとする時点で「国粋主義者」では無いのでしょうが、その一方で海外の文化や文明には敬意を払う必要はないという考えでしょうか。日本の役人にペコペコするのは処世術なのかもしれませんが、これもちょっと残念な感じでしょうか。

彼は女性の知能を軽蔑するが、素朴な茶屋の女に対しては町育ちらしくふざける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.263-264 より引用)
「無教育者差別」「外国人差別」に加えて「女性差別」でしょうか。こうやって書き並べてみると最低最悪な人間ですが、昔の日本はこれが当たり前だったという説もあると言えばある訳で……。

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2022年9月22日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港接岸編)

太平洋フェリー「いしかり」は仙台港に入港しました。あとはフェリー埠頭に接岸するだけ……ですね(言うのは簡単)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

減速しながら横滑り

ここから岸壁に横付けするのですが、先頭部(バウランプ)のドア(バウバイザー)をオレンジ色のゲートの間にピッタリ寄せる必要があります。

2022年9月21日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港入港編)

15:50 を過ぎたあたりで、前方に港湾施設が見えてきました。まもなく仙台港へ入港です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

前方の窓からは船首部の甲板が見えるのですが、早くも(係留用の)ロープが引っ張られているということは、巻き上げの動作確認とかでしょうか。

2022年9月20日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ピアノ生演奏編)

二日目の午後はイベントが目白押しです。僚船「きそ」とのすれ違いは 14:30 頃に完了したのですが……
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15 分後の 14:45 からは「ピアノステージ」でピアノの生演奏があるとのこと(!)。前夜の「ラウンジショー」ではノリノリの演奏で聴衆を大いに楽しませてくれた「ザ・サウンドスピリッツ」さんの写真が出ていますが、あれ、ピアノを担当する人はいましたっけ……?

2022年9月19日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (137) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

長雨

イザベラは久保田(秋田)で病院や師範学校、工場の見学に二日ほど費やした後も、止むこと無く降り続く雨のために出発できずにいました。

次々と旅行者が来て、道路が通れなくなったとか、橋が流されたという話をする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)
これは現代でも良くある光景ですね。もちろん当時の交通網は現在のものと比べると遥かに脆弱なのですが、どれだけ「強靭化」しても自然災害は普通に想定を上回ってくるのが恐ろしいところです。

信頼できる召使い

ネタが尽きたから、というわけでも無いとは思いますが、ここで何故か召使い兼通訳である伊藤(伊藤鶴吉)の話題に移ります。

伊藤はよくおもしろいことを言って私を笑わせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)
伊藤が口にするのは「ジョーク」と言うよりは「ホラ吹き」のようで、イザベラは次のような具体例を示していました。

そこで彼はいつもほらを吹く。学生たちはすべて教育ある人間や東京の住民のように、口を閉めているが、いなかの人間はみな口を開けたままであることに気がついたか、と私にたずねた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)
決して上品なホラとは言えないですが、まぁ「そんな時代だった」と言うことでしょうか。

伊藤がイザベラの前に現れた時から、イザベラは伊藤のことをあからさまに不審に思っていたものの、二ヶ月ほど旅を続けたことでイザベラにも心境の変化があったようです。

 私は近ごろ伊藤についてほとんど何も言っていないが、日毎に彼を頼りにしているように思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)
まぁ外国人が日本を旅する上で通訳を「頼りにする」のは当たり前ですが……あれ、原文を見るとちょっとニュアンスが異なるような……。原文はこうなっていて、

I have said little about him for some time, but I daily feel more dependent on him, not only for all information, but actually for getting on.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
時岡敬子さんはこれを次のように訳していました。

このところ伊藤についてはあまり手紙に書いていませんが、情報収集という点ばかりでなく、実際に旅を続けていく上において、彼を頼る気持ちが日に日に強くなってきています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.378 より引用)
ああ、やはり「情報収集」で伊藤を頼るのは当然のこととして、旅を続ける上での「パートナー」としての側面が強くなってきている、ということですね。

伊藤は宿泊の際にイザベラの「時計・旅券・所持金の半分」を預かるとのこと。これはイザベラにとって随分と分の悪い取引に思えるのですが、伊藤はどのようにしてイザベラからこれらの「条件」を引き出したのでしょうか。

もし彼が夜中に逃亡したら私はどうなることだろうかと、ときどき考える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)
そうなんですよね。仮に伊藤が逃亡しただけでも、イザベラは周囲とのコミュニケーション不全に陥るのが目に見えているわけで、ただでさえ危険が大きいのに何故「パスポートを預ける」というような危険を冒したのか……?

まぁイザベラが所持金を手元に置いたならば、それはそれで盗賊の格好の餌食になりそうですし、所持金の半分をイザベラの枕元に残すというのは伊藤の良心なのかもしれませんが……。

伊藤の格付けを「信頼できるパートナー」に上げたイザベラですが、その一方で次のようにも記しています。

彼は決して良い少年ではない。彼は私たちの考えるような道徳観念を持っていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261-262 より引用)
どうやら伊藤は「腹黒だが信頼できるパートナー」という格付けが正しいのかもしれません。イザベラは伊藤の態度が不遜であるとして、次のように不快感を示しています。

彼は外国人を嫌っている。彼の態度は実に不愉快なときが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
ただその一方で、イザベラは伊藤以上の「召使い兼通訳」を雇えていたかどうかは疑わしいとした上で、伊藤の語学力を次のように評しています。

東京を出発するとき、彼はかなりうまい英語を話した。しかし練習と熱心な勉強によって、今では私が見たどの通訳官よりもうまく話せるようになっている。彼の語彙は日毎に増している。彼は単語の意味を覚えると、決して不正確に使用しない。彼の記憶力はたしかである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
伊藤の格付けは「腹黒だが極めて優秀で信頼できるパートナー」に変化したようですね(格付けとは)。

伊藤の日記

イザベラの「伊藤ネタ」が続きます。

彼は日記をつけ、英語と日本語と両方を書きこむ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
旅の記録を残すのは理解できるとして、英語と日本語の両方で記していたとは……! これはイザベラのことを考えてのことなのか、それとも英語のトレーニングなのか……イザベラは後者だと考えたでしょうが、果たして……?

それを見ると、非常に苦労して物事を観察していることが分かる。彼はときどき日記を私に読んで聞かせる。彼のように旅行の経験の多い青年から、この北国で新奇に感じたことを聞くのはおもしろい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
これまでもイザベラの「日記」が異常なまでに「鋭い」内容になっているケースがありましたが、その一部は伊藤の日記から詳細を拾っていた可能性もありそうですね。

ここまで見ると、伊藤は凄まじい向学心の持ち主であることがわかりますが、その上に実務面でも優秀だったようで……

彼は宿泊帳と運送帳をもっていて、請求書と受取書をすべて書きこんである。彼は毎日あらゆる地名を英語の文字に直し、距離や、輸送と宿泊に払った金額を書きこむ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
これはイザベラのリクエストだったのかもしれませんが、リクエストを卒なくこなすあたり、やはり只者では無いですね。

伊藤の優秀性

イザベラは、伊藤がどのような点で優秀なのか、次のように具体例を挙げていました。

 彼は各地で、警察や駅逓係からその土地の戸数や、その町の特殊の商業をたずねて、私のためにノートに記しておく。彼は非常な努力を払って正確に記録しようとする。不正確な情報のときには、「確かでないなら書きこむ必要はありません」と言う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
あー。イザベラの「日記」の地誌的な側面が異様に強くなったのも、伊藤の努力の賜物だったのですね。いや、そりゃまぁそうだろうと思ってはいましたが、イザベラの通訳をしていただけではなく自主的に取材していたということになるので、もう「召使い」ではなく「アシスタント」と呼ぶべきですよね。

彼は決して遅くならず、怠ることもなく、私の用事以外は夕方に外出することもない。酒には手を触れず、言うことに従わぬことは一度もない。同じことを二度言ってやる必要もなく、いつも私の声の聞こえるところにいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)
ここまで見た限りでは、伊藤の特性は次のあたりでしょうか。
  • 腹黒
  • 態度が悪い
  • 向学心が強い
  • 実務能力が高い
  • 職務に忠実
好ましくない点もあるとは言え、美点がそれを遥かに上回っている、と言ったところかもしれません。

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2022年9月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (971) 「和骨・サワンチサップ・マクワンチサップ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

和骨(わこつ)

pena-wa-an-wa-kot?
川上のほう・に・ある・岸・凹み
pana-wa-an-wa-kot?
川下のほう・に・ある・岸・凹み
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
屈斜路湖の東岸、弟子屈町仁伏にぶしの西に小さな山があるのですが、その頂上付近に「和骨」三等三角点があります(標高 195.7 m)。

「オヤコッ」説

明治時代の地形図には「オヤコツ」と描かれています。また鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。

オヤコツ
和骨(営林署図、図根点名)
 仁伏温泉の西側で、半島のように突き出ている所の地名。
 和琴半島と同じ地名でオ・ヤ・コッ(o-ya-kot 尻が・陸岸・についている」の意である。このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.336 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。o-ya-kot が「和骨」に化けたのか……と思ったのですが、改めて戊午日誌「東部久須利誌」を見てみると……あっ。

また並びて(北東)のかた
    ヘナワーコチ
此処一ツの出岬に成り、其岬の鼻また山に成居るとかや。また其並びに
    ハナワーコチ
と云て同じき様成岬に成るよし、並びて
    ニベシ
ニブシなるべし。是土人の庫の事也。木を組上て立しもの。此辺え土人等鹿のアマホを懸に来り、其取りし肉を其庫え入置為に作りしもの也。其盾多きか故に号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.448 より引用)
「ニベシ」(仁伏)の手前(南西側)に「ヘナワーコチ」と「ハナワーコチ」という地名が記録されています。「オヤコッ」と「ワーコチ」のどちらが「和骨」の由来かと言えば……後者の可能性を考えないといけませんよね。

「ワーコチ」説

「ワーコチ」が wa-kot-i であれば「岸・ついている・もの」と読めそうでしょうか。ただ「ヘナ」と「ハナ」とあり、これらは pena-pana- で「川上のほう」と「川下のほう」を意味します。要は似たような地形が二つ並んでいる……ということになるのですが、このあたりでは「和骨」三角点以外にそれらしい地形(出岬)が見当たりません。

ただ、これは kot を本来の「凹み」という意味で捉えれば良いということかもしれません。小さな山状の岬があるということは、その東西に「谷」がある、ということになるので、pena-wa-kot で「川上のほう・岸・凹み」あるいは pena-wa-an-wa-kot で「川上のほう・に・ある・岸・凹み」と考えて良いかと思われます。

改めて考えてみると、鎌田さんが「このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか」と記したのは全くその通りで、実際に o-ya-kot と呼ばれていたと考えられます。ただ「和骨」という三角点の名前を半島の東西にある「凹み」から取ってしまったので、ちょいと妙なことになった……と言えそうです。

サワンチサップ

sa-wa-an-chisa-p??
手前・に・ある・泣く・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
仁伏の南東、川湯温泉の西南西に位置する山の名前です。「サワンチサップ」「マクワンチサップ」「アトサヌプリ」が三連山のようになっていて、その中では最も北西に位置しています。

「手前の岩山」説

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 サワンチサプ山
 川湯の裏山。手前(湖寄り)の岩山の意、俗にシャッポ山という。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.257 より引用)
この「サワン」は sa-wa-an で「手前・に・ある」と考えて良さそうな感じですね。お隣の「マクワンチサップ」は mak-wa-an で「奥・に・ある」となりそうなので。

問題は「チサップ」で、更科さんはこれを「岩山」としましたが、果たしてそんな意味があるのかどうか……?

「手前の『前に出るもの』」説

鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」にて次のように記していました。

サワンチサプ
サワンチサップ(地理院図)
 川湯温泉市街の西方標高520㍍の山。山麓にはスキー場が設けられており、地元では帽子山と呼んでいる。
 サ・ワ・アン・チ・サンケ・ㇷ゚(sa-wa-an-chi-sanke-p 前・に・いて・浜に出て来る・もの(山)」の意である。これは屈斜路湖の沖(北東)から舟で仁伏方面に帰る時に、だんだん舟が進むと手前にあるこの山が、湖岸に迎えに出て来るように感じとったのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.341-342 より引用)※ 原文ママ
んー。sa-wa-an-{chi-sanke}-p で「手前・に・ある・{前に出る}・もの」と考えたのですね。ただ戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていて……

並びて
     セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシヤフ、また其前に、マツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
     アトサシリ
といへる高山有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.449 より引用)
「サワンチシヤフ」が「サワンチサップ」のことで、「マツカンチシヤフ」が「マクワンチサップ」のことだと思われるのですが、そうすると最初に出てきた「チシヤフノホリ」が何なのか……という疑問が出てきます。ただ「第一の上に『アトサシリ』」とあるので、「チシヤフノホリ」は現在の「アトサヌプリ」のことと考えられそうでしょうか。

本題はここからで、「サワンチサップ」のことを松浦武四郎は「サワンチシヤフ」と記録していたと見られます。これが「サワアンチサンケㇷ゚」に化けて、現在は「サワンチサップ」に戻った……というのも、ちょっと考えづらいように思えるのですね。

「手前にある『泣くもの』」説

結局のところ「チサップ」をどう読み解くか……という話に戻るのですが、久保寺逸彦さんの「アイヌ語・日本語辞典稿」によると {chisa-chisa} で「泣きに泣く」を意味するとのこと(動作的反復形)。chis も「泣く」という意味ですが、chisa もほぼ同じような意味で使われる、のかもしれません。

となると sa-wa-an-chisa-p で「手前・に・ある・泣く・もの(山)」ということになりますが、もしかしたら山から噴煙を上げる様を「泣く」と表現したんじゃないかな……と。

現在も噴煙を上げているのは「アトサヌプリ」だけだと思いますが、戊午日誌「東部久須利誌」の記述を見ると「アトサシリ」の下部を「チシヤフノホリ」と呼んでいたようにも見えます。

「マクワンチサップ」と「サワンチサップ」も「アトサヌプリ」と同様の溶岩ドームのため、あるいは火口から溶岩が流れ出る様を「泣く」と表現した可能性も……あったら面白そうですよね(少なくとも「アトサヌプリ」の活発な火山活動を目撃したアイヌは存在していたような感じが)。

マクワンチサップ

mak-wa-an-chisa-p??
奥・に・ある・泣く・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
既に語り尽くした感もあるので、改めて立項するまでもないという説もありますが……。「マクワンチサップ」は「サワンチサップ」の南南東、「アトサヌプリ」の北西に位置する標高 574.1 m の山です。頂上には「硫黄山」という名前の三等三角点もあります。

戊午日誌「東部久須利誌」に「マツカンチシヤフ」とあるのは前述の通りで、明治時代の地形図には「マクワンチサㇷ゚」と描かれていました。

「マクワンチサップ」は「サワンチサップ」と対になる山……という認識でほぼ間違いないでしょう。mak-wa-an-chisa-p で「奥・に・ある・泣く・もの(山)」と考えてみたいです。

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2022年9月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (970) 「ユクリイオロマナイ沢川・ホロカサル川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ユクリイオロマナイ沢川

yuk-ru-iwor-oma-nay?
鹿・路・山の谷あい・そこにある・川
yuk-ru-e-wor-oma-nay?
鹿・路・その頭・水の中・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「タテクンナイ川」の 1.8 km ほど上流側で斜里川に合流する東支流(北支流)です。永田地名解にはそれらしい記録が見当たりませんが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ユコロマナイ(斜里川左支流) 「ユク・オロ・オマ・ナイ」(yuk-oro-oma-nay 鹿が・そこに・入る・沢)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)
ふむふむ。yuk-oro-oma-nay で「鹿・その中・そこにある・川」となるのですが、改めて考えてみると少々意味不明なところがあります。たとえば「イワオロマナイ」という川(中斜里駅の南のあたりに存在したと思われる)の場合、iwa-oro-oma-nay で「岩山・の所・にある・川」だとされます。

同じ考え方で「ユコロマナイ」を読み解くと「鹿・その中・にある」あるいは「鹿・の所・にある」となるのですね。故に知里さんは「鹿が・そこに・入る」としたのでしょうが、それだったら yuk-oma で「鹿・そこに入る」と解釈できるので、あえて oro を加える余地は無さそうにも思えるのです。

鹿が死ぬ川?

実は oro-oma で「病死する」あるいは「それがために死ぬ」とも解釈できるのだとか。たとえば知里さんの「人間編」には次のように記されています。

(32) 病死する oro oma 〔o-ró|o-má オろ・オま〕[oro(その中)+oma(に入る)]《ホロベツ》
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 II『分類アイヌ語辞典 人間編』」平凡社 p.200 より引用)
穿った見方をすれば、yuk-{oro-oma}-nay は「鹿・{死ぬ}・川」とも読めてしまうのかもしれません。

鹿の路のある川?

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「サツルフト」のすぐ近くに「ユツコロマナイ」という川が描かれています。これは「アタツクシヤ」や「ヲロカサラ」よりも遥かに手前(海側)に描かれているので、どこまで信用できるかという話もあるのですが、知里さんが記録した「ユコロマナイ」とそっくりなんですよね。

そして明治時代の地形図を見てみると、現在の川名とほぼ同じ「ユクリイオロマナイ」という名前の川が(現在と同じ位置に)描かれています。さて、これはどう考えたものでしょう。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ユクリイオロマナイ沢 江鳶山から南に流れ斜里川右に入る小川の沢。意味不明であるが,「ユクルオマナイ」(鹿路にある川)であるという説もある。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.462 より引用)
確かに yuk-ru-oma-nay であれば「鹿・路・そこにある・川」なのですが、「ユクルオマナイ」あるいは「ユコロマナイ」と「ユクリイオロマナイ」の間には無視できないレベルの差があるように思えるのです。

yuk-ru-oro-oma-nay と考えれば「鹿・路・その中・そこにある・川」となりそうですが、これもやはり oro の必要性が感じられないというか、むしろ邪魔になりそうな気がします(oro が無いほうが意味が明瞭になるため)。

鹿路のある山の谷あいの川?

どうやら oro を捨てて考えるのが正解のような気がしました。oro ではなく iwor だったらどうかと考えてみたのですが、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

iwor, -i/-o イうォㇽ 神々の住む世界。具体的に云えば狩や漁の場或は生活資料(衣料・食料・燃料・建築資材など)採集場としての山奥または沖合。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.38 より引用)
これを見ると、なんだかかなり神聖な場所を意味するようにも思えるのですが、一方で「アイヌ語沙流方言辞典」を見てみると……

iwor イウォㇿ 1 【名】尾根と尾根の間の比較的平らな部分、山の谷間(たにあい)(熊狩りなどをする所、狩場)、山奥。
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.255 より引用)
あれ、「山の谷あい」だとすれば、ユクリイオロマナイ沢川のあたりもそんな地形のような……(まぁ大抵の川は「山の谷あい」ですが)。yuk-ru-iwor-oma-nay であれば「鹿・路・山の谷あい・そこにある・川」となりそうです。

鹿路のある川沿いの崖の川?

あるいは iwor ではなく e-wor で「その頭・水の中」とも考えられるかもしれません。これは東川町の「江卸」と同様の考え方で、yuk-ru-e-wor-oma-nay で「鹿・路・その頭・水の中・そこにある・川」ではないかな……と。

ユクリイオロマナイ沢川の河口の東側には標高 419 m の山があり、このことを形容して「頭を水につけているところ」と呼んだのではないか……という考え方です(鹿が頭を水につけているという訳では無いです)。

ホロカサル川

horka-{sar}
U ターンする・{斜里川}
(典拠あり、類型あり)
ユクリイオロマナイ沢川の 1 km ほど東(上流側)で斜里川に合流する東支流(北支流)です。「ホロカサル川」自体は途中で二手に分かれていて、西側の支流は「下ホロカサル川」と呼ばれています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「アタツクシヤ」の隣に「ヲロカサラ」と描かれています。ただ川が二手に分かれるところに描かれているので、どちらの川を「ヲロカサラ」と認識していたのかは不明です。

「午手控」には次のように記されていました。

 ヲロカサラ
 此水源子モロのチウルイ岳シャリ岳との間に行て、又チウルイの水はチウルイ岳より向ふえ落る也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 三」北海道出版企画センター p.176 より引用)
「チウルイ岳」の位置が不明ですが、「チウルイ」は現在の「忠類川」のことと考えて良さそうに思えます。となるとこの文章は「ホロカサル川」ではなく現在の「斜里川」のことを指しているように読めますが……

ただ、明治時代の地形図では現在と同じ位置に「ホロカサル」と描かれていました。川の水源は斜里岳と江鳶山の間にあり、水源から斜里川まで南に向かって流れた後、斜里川に合流してからは北に向かうため、まさに horka(U ターンする)川と言えそうですね。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ホルカサル(斜里川左支流) 「ホルカ・サル」(horka-Sar 後戻りする・斜里川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257-258 より引用)
はい。horka-{sar} で「U ターンする・{斜里川}」と見て間違いないかと思われます。

「斜里」と「沙流」は、本来はどちらも同音の sar で、両者を区別するために「斜里」を pinne-sar(男の sar)、「沙流」を matne-sar(女の sar)と呼び分けていたと聞きます。「ホロカ斜里川」ではなく「ホルカサル」なのが、「斜里川」の本来のネーミングを残していて面白いですね。

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2022年9月16日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(僚船「きそ」編)

部屋に戻ってきました。今回の部屋は 6 甲板左舷側最前部にあるので、前方と左側の景色を眺めることができます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

これは 12:30 頃だったと思いますが、陸地が見えていますね。いわき市の沖にやってきたようです。

2022年9月15日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(昼食編)

太平洋フェリー「いしかり」は、太平洋を順調に北上中です(太平洋フェリーだからね)。おや、右前方に船影らしきものが見えますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

内航船「神明丸」

右前方に見えた船影は、どうやら貨物船のようですね。太平洋フェリーは太平洋側の沿岸からそれほど離れない航路を通ることもあってか、他の船舶もちょくちょく見かける印象があります。というか他の船をあまり見かけない新日本海フェリーのほうが特殊なんでしょうけど……。

2022年9月14日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(朝風呂編)

まだ朝の 8:30 過ぎですが、ちゃちゃっと朝風呂をキメることにしました。バスルームは引き戸の向こう側にあります。
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タオルを探せ!

風呂に入る前にタオルの在り処を確認します。バスルームの向かいには洗面所があるのですが……

2022年9月13日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(お部屋編・その2)

部屋に戻ってきました。太平洋フェリー「いしかり」は順調に太平洋を北上中です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

午前中は特にイベントは無いので(というか午後からが色々とありすぎるという話も)、改めてここまでご紹介できていなかった部屋の話を。本当は「バス・トイレ編」に続けておけば良かったのですが、構成がグダグダですいませんとしか……。

2022年9月12日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(朝の船内ウロウロ編)

朝食を食べ終えたので、改めて船内をウロウロしてみましょう。6 甲板の左舷側、「ピアノステージ」の近くには喫茶・軽食の「ヨットクラブ」があるのですが、「ヨットクラブ」の横のイートインスペースにはヨットの模型?が飾ってあった……のですね(今頃気づいたらしい)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

展覧会の絵

「ヨットの模型」のところから船尾方向に歩いていくと、「プロムナード」の手前に「スモーキングルーム」がありました。オープンスペースのスモーキングルームは各階ごとに一箇所ずつ設けられているようですね。

2022年9月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (969) 「アタックチャ川・タテクンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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アタックチャ川

acha-kucha?
伯父(叔父)・山小屋
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
日曜のクイズ番組と言えばやっぱり児玉清ですよね(いつの時代だ)。「アタックチャ川」は斜里川の西支流(南支流)で、上流部には「緑ダム」があります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「アタツクシヤ」という名前の川が描かれています。明治時代の地形図には「アタツクチヤ」と描かれているので、ほぼ同じ形で現在まで残っていると言えそうでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Atat kucha   アタッ クチャ   魚肉ヲ背割シテ乾ス小屋 「アタッ」トハ魚肉ヲ二ツニ縦切スルヲ云フ細切スルニアラズ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.497 より引用)
atat という語は今まで見聞きした記憶が無いのですが、「アイヌ語千歳方言辞典」には次のように記されていました。

アタッ atat 【名】 魚を川の流れに何日かさらしてから三枚におろし、 さらにそれを縦四つに細く切り裂いて干したもの。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.9 より引用)
もしかして「鮭とば」みたいなものなんでしょうか。そういや「鮭とばイチロー」は今も絶賛販売中みたいですね。

それにしても、魚肉の干物であれば何もこんな山の中で……というか、そんなに場所を選ばないような気もする(=地名となる必然性に欠ける)のですが……。「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 アチャクチャ(acha-kucha 伯父の・山小屋)或は「アタックチャ」(atat-kucha 鮭を背割にして乾すものを造つた小屋)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)※ 原文ママ
そう言えば「アチャパチャノチャ」という童謡があったな……と思ったのですが、あれは北欧ラップランドの民謡なのだとか。「ラップランド」という呼称も実は蔑称であるらしく、使用にあたっては慎重になるべきとのこと。

本題に戻りますが、やはり知里さんも「鮭の干物をつくる小屋」は変だと感じたのか、acha-kucha で「伯父(叔父)・山小屋」ではないかと考えたようですね。「伯父さんの山小屋」というのもちょっと変な感じがしますが、「ナンバー 2 の山小屋」と考えることができるかもしれません。

あるいは aw-ta-kucha で「隣・の・山小屋」あたりの可能性もあるかな、とも……。ニュアンスとしては acha-kucha と同じで、「隣の山小屋」は「第二の山小屋」と言った風に捉えられるかな、と。

タテクンナイ川

kutek-un-nay
仕掛け弓を仕掛ける木・ある・川
(典拠あり、類型あり)
「アタックチャ川」の 0.8 km ほど上流側で斜里川に合流する東支流(北支流)です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たらず、永田地名解にもそれらしい記録が見当たりません。

ただ、明治時代の地形図には「クテクンナイ」とあります。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 クーテクンナイ(斜里川左支流) 「クーテク・ウン・ナイ」(ku-tek-un-nay 仕掛弓の垣のある沢)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)
kutek-un-nay で「仕掛け弓を仕掛ける木・ある・川」と見て良さそうですね。ほぼ同名の「クテクンベツ川」が標津町にあるほか、標茶町の「クニクンナイ川」も同型だと考えられます。あと足寄町の「ウッテキウンナイ川」も同型じゃないかと思うのですが……。

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2022年9月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (968) 「タラタラッペ川・ハトイサッツル川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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タラタラッペ川

taratarak-pe?
(小石などで)でこぼこしている・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
札鶴川の東支流で、ニッパコシキクウシナイ川の 1.8 km ほど南で札鶴川に合流している……と言っても「???」となりそうですが、「『神の子池』の 2 km ほど北で札鶴川に合流している」と言えばなんとなく場所を把握できる方もいらっしゃるかもしれません。

地理院地図にも川名の記載がありますが、意外なことに「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川名が見当たりません。ただ、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

少し行て
     ニシバコレキルシ
川有。橋を架る。此辺にて大古夷人の酋長死せしと云訳なりとかや。又坂道少し行
     ウフンコイ
此辺いよいよ谷地多く、地名は谷地に近よりしと言事也。
     タラタラ
小川有。渉りて谷地え懸る。ダラダラは川下に石有ると云ことなりける。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.398 より引用)
明治時代の地形図には「タラタラペ」という名前の川が描かれていました。すぐ北には「ウヌンゴイ」という地名(だと思われる)が描かれているのですが、これは斜里町の「ウヌコイ川」と同じく ununkoy で「(行き止まりの)断崖」である可能性が高そうに思われます。

タクタクベオベツ川?

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 タッタッペオペッ(札鶴川左岸支流) 「タッタッペ・オ・ペッ」(taktakpe-o-pet 玉石・ごろごろしている・川)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
白糠町の奥の方、国道 274 号沿いを「タクタクベオベツ川」という名前の川が流れていますが、それと同じではないか……という説ですね。taktakpe という語は手元の辞書類には見当たらないのですが、tak あるいは taktak であればいくつも確認できます。

一例として、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

tak-tak, -i/-u たㇰタㇰ 球;玉石;ごろた石。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.128 より引用)
また taktakse でも「球」を意味するとのこと。taktakpetaktak-pe と考えて「球・もの」と解釈することも可能かもしれませんが、「球」自体が「球形のもの」なので「球形のもの・もの」というのも収まりが悪い感があります。

また「タㇰタㇰ」が「タラタラ」に化けたというのも疑問が残ります。tararke で「(石などがごろごろころがって)でこぼこしている」という自動詞がありますが、tararke と同じ意味の taratarak という自動詞があるので、「タラタラッペ川」は taratarak-pe で「(小石などで)でこぼこしている・もの(川)」と見て良いのではないかと思うのですが……。

ハトイサッツル川

to-e-{sak-ru}??
池・頭(水源)・{札鶴川}
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
札鶴川の西支流で、上流部に「神の子池」がある川です。道道 1115 号「摩周湖斜里線」から「神の子池」に向かうダート路は「ハトイ札弦川林道」という名前で、「札鶴川」と「ハトイ札弦川」でびみょうに字が違うのも面白いですね。

明治時代の地形図には「トイサックー」と描かれていました。また「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

少し行き
     トイシヤル
トイシヤツルなるよし。今迄の川より少し大し。歩行渉り。此川にも秋味多と。地名は川源に沼有ると云事也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.398-399 より引用)
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていたのですが……

 トイサッル(札鶴川右岸の枝川)「トイ・サッル」(toy-Satru 土の流れるサッツル川)。ポン・オニセㇷ゚(Pon Onisep オニセブの子川)とも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
よく見ると、「ポン・オニセㇷ゚とも云う」とあるのですが、「ポンオニセップ沢川」は随分と離れた場所(JR 釧網本線の西側)を流れています。また「トイサッル」は「オニセプ」の直前に立項されているので、やはり「ポンオニセップ川」が「トイサッル」であると認識されているように見えます。

「トイシヤツル」と「トウサツル」

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、ここでは「ヲニセツフ」の上流側に「トイサツル」と描かれています。該当しそうな川も存在していて、この川の名前は不明ですが、川の西側を「クルミの沢林道」が通っています。

ただ「東西蝦夷山川地理取調図」における「札鶴川」の描かれ方には大きな疑義がある(「札鶴川」に相当する川が二つ描かれている)ため、この川については一旦無視しても良さそうに思えます。

「辰手控」には「トウサツル」という記録もあるのですが、これもよく見るとかなり混乱が……。前後関係を把握するために長い目に引用しますと……

○サツルエヒラ 小休
 サツは夏、ルは道、夏にても冬にても此道を通ると云こと也
 ○サツル
  ヲニセツフ 小川右
  トウサツル 小川 此川ワツカウイの下也。
  タラツタラッヘ東へ入小川 此川はこゆる也
  下にニシハコシキルシ
○ヘツウトルクシナイブト
 シヤリ川とサツル川との間を通ると云こと。ブトは口也。小川有
○シヤリルエランニ
 川端へ道より下ると云こと也。五六丁行、昼休所也。むかしは此処になし。是よりシヤリ川端を通りし由、よって此名有
 坂道下り
○ニシハコシキルシ 川有橋 坂下り
○ウヌンコイ
 坂を下り此辺より谷地多く難所
 タラタラ 小川有
トイシヤツル 中川
 此川秋味入込也、道わろし
○ワッカウイ 川、はし三ケ所有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 三」北海道出版企画センター p.339 より引用)
……こんな感じでして、「トウサツル」と「トイシヤツル」が存在していたりします。ただよく見ると、あの「ニシハコシキルシ」が複数回登場していて、明らかに記録が重複しているように見受けられます。

更によく見ると、知里さんが「トイサッル」とした川の近くに「トウサツル」があり、現在の「ハトイサックル川」に相当する川として「トイシヤツル」とあります。もう何がなんだか……という感じですね。

とりあえず、「ハトイサックル川」については矛盾する記録がいくつもあり、何がなんだかワケがわからん、ということがわかりました(ぉぃ)。しかも「ハトイサックル川」の「ハ」については影も形も見当たらないという話もあります。

「トイサックル」をどう考えるか

「ハ」については一旦諦めるとして、「トイサックル」をどう解釈するかを考えてみましょうか。「トイ」は toy で「土」と見るべきなのでしょうが、ただ「神の子池」の存在からは、to で「池」と考えたくなります。

となると「トイサックル」の「イ」をどう解釈するか……という問題が浮上するのですが、うーん、e で「頭(水源)」と解釈するしか無さそうでしょうか。仮に e を「食べる」と考えれば「池が食べる札鶴川」という謎な地名ができあがりますが……。我が子を食らうサッツル川でしょうか(違うと思う)。

結局のところ、やはり to-e-{sak-ru} で「池・頭(水源)・{札鶴川}」と考えるべきなんでしょうか。……あ、「竹四郎廻浦日記」にそう書いてあったような(汗)。

あと「ハトイサックル川」の「ハ」についてですが、皆目不明ということで(すいません)。

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2022年9月9日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(二日目の朝食編)

二日目の朝を迎えました! 太平洋フェリー「いしかり」は銚子沖を順調に航行中です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

5 枚綴りの食事券は、まだ 4 枚残っています。左端と右端がどちらも「食事券」なので、「食事日」を確認してからカットします。

2022年9月8日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(船内ウロウロ編)

ラウンジショーが終わった後は、6 甲板の最後部にあるラウンジ「ミコノス」から 6 甲板の最前部にある客室に戻ることになります。あとは特にイベントは無く寝るだけですので、船内をウロウロしてみましょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

自販機コーナー

ということで、用も無いのにフラっと 7 甲板にやってきました。1 号機エレベーターの横には自販機コーナーがあります。

2022年9月7日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(スペシャルゲスト編)

「ザ・サウンドスピリッツ」さんのラウンジショーに、突如スペシャルゲストの方が乱入?したのですが……

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります(2022 年 9 月時点ではラウンジショーは休止中とのこと)。

実はこの方は「大地千春」というお名前(芸名ですよね)とのこと。言わずと知れたあの方の曲をレパートリーに、幅広く活動されているようです。

2022年9月6日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ラウンジショー編)

仙台経由苫小牧行きの太平洋フェリー「いしかり」は予定通りに名古屋港を出港しました。間もなく 20 時になるので、6 甲板の船尾側にあるシアターラウンジ「ミコノス」に足を運んでみました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります(2022 年 9 月時点ではラウンジショーは休止中とのこと)。

この航海での出演者は「ザ・サウンドスピリッツ」さん。2015 年 1 月に「きそ」に乗船した際はピアニストの野々山さんが MC 含め全てお一人で担当されていましたが、今回はなんと 6 人です!(しかもスペシャルゲストまで!)

2022年9月5日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(初日の夕食編)

まだ出港まで 1 時間近くありますが、6 甲板のレストラン「サントリーニ」にやってきました。早めに乗船を開始して船内のレストランで夕食を提供するというのは他の会社でも見られますが、乗客にとってはメリットしか無いですよね!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

レストラン「サントリーニ」のシンボルマークは、「S」の字の形をしたタツノオトシゴのようです。「サントリーニ」はギリシャの「サントリーニ島」に由来すると思われるのですが、「サントリーニ島」が「タツノオトシゴ」の形をしているとして、島の(非公式な?)シンボルになっているとのこと。

2022年9月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (967) 「ニッパコシキクウシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニッパコシキクウシナイ川

nispa-{ko-sikiru}-us-i?
旦那・{ひっくりかえった}・そうである・ところ
(? = 典拠あり、類型未確認)
札鶴川の東支流です。斜里川の南支流(西支流)である「アタックチャ川」と、札鶴川の東支流である「タラタラッペ川」の間あたりを流れていますが、残念ながら地理院地図には川名が記されていません。

このあたりの「東西蝦夷山川地理取調図」は札鶴川(サツル)の認識に誤りがあり、札鶴川の道道 1115 号「摩周湖斜里線」沿いの区間が「サツル」とは別に描かれています(本来は同じ川なのに、異なる川として描かれています)。

「ニッパコシキクウシナイ川」と思しき「ニシハコシキルランニ」は「サツルフト」で斜里川に合流する川(=サツル)の東側に描かれていました。位置はともかく、松浦武四郎が当地を訪れた際に既に存在していた地名(川名)だということは間違い無さそうです。

「夷人の酋長が死んだ」説

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

少し行て
     ニシバコレキルシ
川有。橋を架る。此辺にて大古夷人の酋長死せしと云訳なりとかや。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.398 より引用)
また、永田地名解には、更に具体的な形で解が記されていました。

Nishipa koshikiru ushi  ニシパ コシキル ウシ  アイヌ仰向キニ倒レテ雪ノ爲メニ死シタル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.496 より引用)
nispa は意外と日本語での表現が難しいのですが、「裕福な男性」あるいは「裕福で身分の高い男性」と解釈するのが一般的でしょうか。ただ中川裕先生は「『特別な資産家』という意味はない」としているので、地元の「名士」あたりと言ったところかもしれません。

kosikiru というのも馴染みの無い語ですが「ふり向く」という意味とのこと。nispa-kosikiru-us-i だと「名士・ふり向く・いつもする・ところ」ということになりそうでしょうか。これだと「酋長が死んだ」とは言えそうにないところに難がありますが……。

「旦那がそこで倒れた」説

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ニㇱパコシキルシ(札鶴川左岸) 「ニㇱパ・コ・シキル・ウシ」(nispa-ko-sikiru-usi 旦那が・そこで・倒れた・所)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
どうにも謎なのが、kosikiru あるいは sikiru を「倒れる」あるいは「ひっくり返る」とする解釈が辞書類に見当たらないところで、たとえば「アイヌ語文法の基礎」にはこんな風に解説されています。

sikiru は si- 「自分を」,kiru 「回す」と分析される。si- は間接再帰の形式(32 課参照)であるから,「あたかも自ら努力してではないかのごとく,くるりと身を翻す」という意味になるであろう。なお,sikiru は人間について用いて,en-ekota sikiru「俺の方へ(くるっと)向け。」のように使われるが,他方,魚のすばしっこい動作を象徴的に表す動作と考えられているようである。
(佐藤知己「アイヌ語文法の基礎」大学書林 p.310 より引用)

「幕府の役人がひっくり返った」説

ただ、「アイヌ語入門」では次のように記されていました。ちょっと長いですが、正確を期すために引用しますと……

 キタミ国シャリ郡にニシパコシキルシという地名があり,蝦夷語地名解には次のように出ている。
  Nishipa koshikiru ushi ; ニシパ コシキル ウシ ; アイヌ仰向キニ倒レテ雪ノタメニ死シタル処(地名解 496)。
 これは,いわゆる斜里山道──もとアイヌが根室領と斜里方面の間を往来するのに利用していた踏み分け路を,享和元年(西暦 1801)蝦夷地御用掛であった松平忠明が通るというので,釧路のシラヌカ(白糠)に屯田として入っていた原半右衛門らがきりひろげたもの──の山中の地名であるが,正しい語形と意味は次のとおりである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.18 より引用)
なんと、めちゃくちゃ具体的な情報が……! もちろん続きがあるのですが……

  Nispakosikirusi. にㇱパコシキルシ。< nispa(だんな〔が〕)+ ko(そこで)+ sikiru(ひっくりかえった)+ usi(所)。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.18 より引用)
知里さんは nispa を「旦那」としています。sikiru を「ひっくりかえった」とするのは永田方正の解を追認しているようですね。

 永田方正氏の解釈では,nispa を「アイヌ」と訳しているが,ただのアイヌをニㇱパなどと呼ぶはずがない。これはおそらく,幕府の役人などが,土地のアイヌどもを人夫にかりだして,威風堂々とここを通りかかったまではよかったのだが,そこのぬかるみに足をとられて引っくりかえった,などというような故事でもあって名づけられたものであろう。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.18-19 より引用)
「ただのアイヌをニㇱパなどと呼ぶはずがない」という点には議論の余地がありますが、知里さんは次のように考えていたようです。

アイヌが引っくりかえったところで,起きあがればそれですむことで,たいして問題になることでもない。しかし,日本の役人が引っくりかえったとなると,当時としては大変な事件で,後世に地名を残すだけの値打があったと見なければなるまい。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.19 より引用)
確かにそうなんですよね。地名にわざわざ大仰な nispa を冠している時点で特別なエピソードの存在を期待したくなりますし、「幕府の役人がひっくり返った」という「笑い種」が公には「昔のアイヌの酋長が──」という形で伝わっていたという話も、なんとなく「ありそうな感じ」がします。

もちろん「『昔のアイヌの酋長』ですら足を踏み外す危険な場所」だ……ということを後世に伝えるためのネーミングである可能性もあるわけですが、それだったら普通に wen-nay で「悪い・川」とか wen-sir で「悪い・崖」のような地名でも良いわけで、あえて nispa というワードチョイスが見られるところに「幕府の役人」の影を見出したくなるんですよね。

ko-sikiru は「ひっくりかえった」とありますが、これは釣り上げられた魚が身をよじって難を逃れようとする様を示しているのかもしれません。つまり、川に落ちた「ニㇱパ」のリアクションを形容していたんじゃないか……と。

余談「幕府の役人がリアクション芸人顔負けだった説」

ということで、「ニシパコシキルシ」は nispa-{ko-sikiru}-us-i で「旦那・{ひっくりかえった}・そうである・ところ」と考えたいです(もはや願望では)。それにしても、この「ニシパコシキルシ」が現在も「ニッパコシキクウシナイ川」というおかしな名前で現存していたとは……!

更に余談ですが、「アイヌ語入門」には次のような一節が続いていました。

 ところで,わたくしがシラヌカを調査に行ったとき,念のために土地の古老──興行用のでなく真正のアイヌの古老──に,この地名の意味を尋ねてみると,彼はなんの苦もなく,
 「あそこはヤチ(湿地)だから,どっかのニㇱパ(だんな)がコシキリ(腰っきり)ぬかったんだベヨ!」
といってのけたのには,わたくしをはじめ,同行の K, S, W, N など,さすがの‘ニㇱパ’連も,‘ひっくりかえる’ほど驚かされたものである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.19 より引用)
「アイヌの古老」の返答がどこまで冗談でどこからがネタなのかは不明ですが、「川に落ちた『ニㇱパ』の反応がリアクション芸人なみの傑作なものだった」ことに由来するネーミングなのだとしたら、必ずしも間違っていないような気も……。

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2022年9月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (966) 「沙輪・オニセップ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

沙輪(さりん)

{sar}-ru-e-ran-i
{斜里川}・路・そこから・降りる・ところ
(典拠あり、類型あり)
JR 石北本線の「緑駅」(かつての「上札鶴駅」)の 3 km ほど東(ちょい南)の山上、NTT 緑無線中継所の近くにある二等三角点の名前です。

いかにも曰く有りげなネーミングですが、「大日本地名辞書」に次のような記載がありました。

斜里川の上游に根室国標津郡及び釧路国川上郡に通ずる山道あり、専、止別駅より往来す。野川より湧生ワツカオイウヌンコイに至る凡三里、之より東南に山越して、標津郡のケネウオイカの渓谷に入る。サリンウエラニ、ウヌンゴイ等の開墾は、涌生の北に属す。
(吉田東伍・編「大日本地名辞書 第八巻」冨山房 p.212 より引用)※ 原文ママ
「湧生」と「涌生」で字が異なりますが、そこはスルーの方向で。どうやら斜里川の近くに「サリンウエラニ」という開拓地?があるように読めます。

この情報をもとに改めて「竹四郎廻浦日記」を見てみると、次のような記載が見つかりました。

小き小川をこへて坂を上りまた直に下りて、
     シヤリルヱラ(ン)
平地谷地多し。両山蹙りて其間小川を此(方)向方に渉りて行事也。昔は本道此辺に無りしと。やはりシヤリ本川筋の上を通りしと聞。昼休所仮屋有。地名は川端え下しりと云事也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.398 より引用)

「シヤクルエラン」問題

また「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤルエラン」という地名?が描かれていました。これは大きな問題のある記録で、「シヤリルエラニ」であれば「斜里川」関連の地名と考えられるのですが、「シヤクルエラン」であれば「札弦川」関連の地名である可能性が出てきます。また「沙輪」三角点は *斜里川の東* にあるのですが、「シヤクルエラン」は *札弦川の西* に描かれています。

位置が大きく異なることから「シヤリルエラニ」と「シヤクルエラン」がそれぞれ別のものと考えることもできますが、「東西蝦夷──」では「シヤクルエラン」の近くに「ヘツウトルクシ」という川が描かれていました。この川(ヘツウトルクシ)は「竹四郎廻浦日記」の記録や明治時代の地形図から *札弦川の東* を流れていたことがほぼ確実と見られるため、問題の「シヤクルエラン」は「シヤリルエラニ」の誤記で、札弦川の東側の地名だと考えるのが自然に思われます。

「サリンウエラニ」は「シヤリルエランニ」?

「大日本地名辞書」にあった「サリンウエラニ」が、この「シヤリルヱランニ」のことだと考えられるのですが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 シャリルエラニ(札鶴川左岸) 斜里川へ行く路の降り口。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
「シヤリルエラニ」は {sar}-ru-e-ran-i で「{斜里川}・路・そこから・降りる・ところ」と見て良さそうでしょうか。これが訛ったり略されたりで「沙輪」になり、何故か対岸の山上にある三角点の名前として生き残った……ということのようです。

オニセップ沢川(オニセップ川)

onne-sep?
大きな・広い
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 石北本線・緑駅の 2 km ほど南で札弦川に合流する西支流です。すぐ下流側には「ポンオニセップ沢川」も流れています。この川も表記にゆれがあり、地理院地図では「オニセップ沢川」ですが国土数値情報では「オニセップ川」です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には札弦川の西支流として「ヲニセツフ」という川が描かれていました。また明治時代の地形図には「オニセㇷ゚」とあり、現在の「オニセップ」とほぼ変わらないように見えます。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オニセプ(札鶴川右岸の枝川) 「オンネ・チェプ」(onne-chep 老いた・鮭,産卵後の鮭)。ここは昔から鮭の種川であったと云う。前項のポン・オニセプ川に対して,これをオンネ・オニセプ(Onne Onisep オニセブの親川) とも称する。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
うーん……。「オニセプ」が onne-chep だとすると「ポンオニセプ」は pon-onne-chep ということになります。onne は「年老いた」という意味ですが、「年老いた」は「年長である」ということから転じて「親である」とされ、onne- を冠した地名と対となる形で mo-pon- を冠した地名が存在するケースが多いのですね。

つまり pon-onne-chep は「子である・親である・魚」となりかねない危険性があるのですね。もちろん onne-chep を固有名詞と見て pon-{onne-chep} と考えることは可能で、永田地名解にもこのような例は見られるようですが……。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 オニセップ沢 札鶴川上流の左小川の沢。アイヌ語「オンネ・セップ」で,歳老いた広いところであるというが,「オ・ニ・セップ」で川口に木ある広いところともとれる。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.461 より引用)
「年老いた広いところ」というのはちょっと意味不明な感じがしますが、onne の「年老いた」→「親である」という解釈をもう一歩具体的に「大きな」とすることで、onne-sep を「大きな・広い」と解釈できそうな気がします。

sep と呼ばれる川は道内のあちこちにあると思われますが、最も有名?なのが日高地方の「節婦川」でしょうか。この川を遡ると途中で三つに大きく枝分かれしていて、中流部から上流部にかけての流域が「広く」なっているという特徴があります。

川の規模の違いはさておき、この「中流部から上流部にかけての流域が広くなる」という特徴は「オニセップ沢川」にも当てはまるように思われるのですね(地図)。「ポンオニセップ沢川」も上流部で流域がちょいと広くなっているように見えるので、似た特性を持つ兄弟川と捉えられていたのではないかと思うのですが……。

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2022年9月2日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(グリーンステージ編)

太平洋フェリー「いしかり」のルームキーは、ご覧のような磁気カードタイプのものです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

最近は IC カードタイプのルームキーも増えていますが、磁気カードタイプのものは記念に持ち帰ることができるのが最大のメリットでしょうか。

2022年9月1日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(バス・トイレ編)

引き続き「スイート」の室内を見て回りましょう。部屋の右側(丸テーブルの右側あたり)には引き戸があって……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

引き戸の向こうには洗面所とバス・トイレがあります。