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2022年9月30日金曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(「いしかり」の模型編)
2022年9月29日木曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港 FT 一周編)
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バス停の先は納品車輌用の駐車スペースとなっていて、一般車は駐停車禁止となっています。
2022年9月28日水曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(謎の「泉中央駅」行き編)
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どこへ行くのも 1.6 km
フェリーターミナルの十字路の手前には「みやぎ観光マップ」が置かれていました。2022年9月27日火曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(一時上陸編)
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心ゆったり船の旅
フェリーターミナルの 1 階では乗船手続きが行われていました。連休の初日だけあって、それなりに列ができていますね。2022年9月26日月曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ボーディングブリッジ編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
ボーディングブリッジの窓から「いしかり」の船体を眺めます。このアングルだとますます「のぞみ」っぽく見えるような……(汗)。
2022年9月25日日曜日
北海道のアイヌ語地名 (973) 「ニタトルシュケ山・キナチャン沢川・トーパオマプ川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ニタトルシュケ山
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
此源に
ニタトルシベ
といへる高山有。此峯つゞきシャリ領のヤンヘツ岳なり。東え落るはワッカヲイのサツルヱの源となる。此辺数十里の平地茅原のよし也。
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。
ニタトルシペ
川湯市街の北東に位置する、標高380.4㍍の山。
ニタッ・オロ・ウㇱ・ペ「nitat-oro-us-pe 湿地・の所・にいる・もの(山)」の意で、湖からこの山裾までは広い湿地帯である。
nitat-oro-us-pe で「湿地・その中・そこにある・もの(山)」との解釈で良さそうな感じですね。何故「シペ」あるいは「シュペ」が「シュケ」に化けたのかは……謎です。
キナチャン沢川
明治時代の地形図には「キナチヤウシ」という名前の川が描かれているのですが……何故か「ニタトルシユペ」の *南側* を流れていることになっています。
また、現在の「アメマス川」の下流部には「キナ
Kina cha oro キナ チャ オロ 蒲ヲ刈ル處 安政帳ニ中川トアルハ是レナリただ、「キナチャオロ」と「キナチャン沢川」では少し違いがあるように思えますし、上流部(ニタトルシュケ山の北か南かという大きな問題はありますが)には「キナチヤウシ」という川名が描かれているので、「キナチャン沢川」は「キナチャウシ」だったか、あるいはそれに類する別名だったと考えたいです。
「キナチャン沢川」が「キナチヤウシ」だったのであれば、kina-cha-us(-nay?) で「草・刈る・いつもする(・川)」ということになりますね。ただ、「キナチヤウシ」が本当に「ニタトルシュケ山」の南東側の川だったとすると、「キナチャン沢川」は kina-cha-an-nay で「草・刈る・反対側の・川」とかでしょうか。
この場合の an- は ar- の音韻変化形なのですが、こういった用法はこれまで見た記憶が無いので、ちょっと無理がありそうな予感もするのですが……。
トーパオマプ川
明治時代の地形図では、この「トーパオマプ川」のことと思しき「トーバオマ」という川が、ニタトルシュケ山の北、野上峠の南のあたりから西に向かって屈斜路湖に注ぐように描かれていました。
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
またセヽキベツより並びて
トマヲマフ
此川端延胡索多きによって号。トマは延胡索、ヲは多し、マフは有る儀也。是沼の内第一番の大川也。此源に
ニタトルシベ
といへる高山有。
改めて明治時代の地形図を眺めてみると、「セセㇰペッ」(=湯川)と「キナチャオロ」(=アメマス川)の北に「トーパオマ」という川が描かれていました(「マ」の後ろに別の文字がついているかもしれませんが判読できず)。陸軍図では川湯温泉の北に湿地が広がっているように描かれているので、現在「アメマス川」として注ぐ水の多くが、当時は北側の「トーパオマ」を流れていた可能性もありそうです。
「トーパオマ」であれば to-pa-oma で「湖・かみて・そこにある」と考えられますが、「東部久須利誌」では「トマヲマフ」とあり、これだと toma-oma-p で「エゾエンゴサクの根・そこにある・もの(川)」と解釈できます。
これはちょっと悩みどころですが、幸いなことに永田地名解にも記載がありました。
Tō pa omap トー パ オマㇷ゚ 沼頭ニ在ル川 安静帳大川トアリ
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2022年9月24日土曜日
北海道のアイヌ語地名 (972) 「アトサヌプリ・湯川・オンシエシッペ川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
アトサヌプリ
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。興味深い内容なので前後を含めて引用します。
セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシャフ、また其前にマツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
アトサシリ
といへる高山有。其高山マシウの西の方につヾく。山皆岩山にして草も木もなく皆硫黄山也。其山のもえさし沢より流れ来る川なるが故に、常に湯の如く涌立有るが故に此セヽキヘツの名有りと思わる。水至て酸し。
永田地名解には次のように記されていました。
Atusa nupuri アト゚サ ヌプリ 裸山 一名硫黄山atusa-nupuri で「裸である・山」ということになりますね。
知里さんの「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。
atusa [複 atus-pa] アと゜サ 《完》裸デアル(ニナル)。──山について云えば木も草もなく赤く地肌の荒れている状態を云う。[<at-tus-sak<ar-rus-sak(全く・衣を・欠く)]
「──小辞典」には atusa の次に atusa-nupuri が立項されていました。
atusa-nupuri アと゜サヌプリ 【H 北】もと‘裸の山’の義。東北海道・南千島で溶岩や硫黄に蔽われた火山を云う。
湯川(ゆかわ)
永田地名解にも次のように記されていました。
Sesek pet セセㇰ ペッ 湯川
sesek-pet を直訳すれば「熱い・川」になるのかもしれませんが、「川が熱い」ことを「湯の川」と言い換えるのは想像の範囲内ですよね。そもそも「温泉」を意味する sesek-i 自体が「熱い・もの(ところ)」ですし……。
更に言ってしまえば、現在の「湯川」という川名が sesek-pet の「和訳」であるかどうかも疑わしいかもしれません。仮に sesek-pet という名前が無かったとしても、ぬるま湯が流れる川のことを「湯川」と呼んでいた可能性も十分ありそうなので。
2022年9月23日金曜日
「日本奥地紀行」を読む (138) 久保田(秋田市) (1878/7/24)
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。
伊藤の欠点
「伊藤の優秀性」を列挙したイザベラでしたが、やはりと言うべきか、「伊藤の欠点」についてもちゃんと言及しています。彼は同じことを如才なく繰り返し、すべて自分自身の利益にしようという意図を隠さない。
彼は給料の大部分を、未亡人である母に送る。「この国の習慣です」と言う。残りは菓子や煙草に使ったり、しばしば按摩にかかるのを楽しみにしているようである。
彼が、自分の目的をかなえるためなら嘘もつくし、私に見られないならとことんまで上前をはねていることは、疑いない。
彼は、悪徳の楽しみ以外には、やる気もないし知ってもいないようだ。
彼の率直な言葉は、人を驚かせるものがある。どんな話題についても、彼は遠慮というのを知らない。
ただ、イザベラは伊藤の「炎上覚悟でぶっちゃける」性格について「わかりやすい」と捉えていた節もあります。イザベラが伊藤のことを「抜け目のない野心家で自分の利益になることなら何でもする」と見抜いていたのも、伊藤の「わかりやすい」性質によるものとも言えそうです。
彼の前の主人のことは別として、彼は男や女の美徳をほとんど信じない。
日本の将来の予言
イザベラは、伊藤が自らの国についてどう考えていたかについても詳らかに記していました。伊藤は日本が海外からあらゆるものを貪欲に取り入れるべきだと思っていて、同時に日本の優れたものを海外に広めるべきだと考えていたようです。日本が数百年に亘った「鎖国」を解いたことに好意的だったと見られますが、「通訳」を生業にしているくらいですから、これはまぁ当然のことでしょうか。外国もそれと同じほど日本から学ぶべきものがあるし、やがて日本は外国との競争に打ち勝つであろう、と信じている。なぜなら、日本は価値あるものをすべて採用しキリスト教による圧迫を退けているからだという。
また「やがて外国との競争に打ち勝つだろう」という考え方……というかメンタリティは、どことなく「改革開放」以降の中国のイメージとも重なるものがありますね。
愛国心が彼のもっとも強い感情であると思われる。スコットランド人やアメリカ人は別として、こんなに自分の国を自慢する人間に会ったことがない。
彼は片仮名も平仮名も読み書きできるので、無教育者を軽蔑する。
彼は外国人の地位や身分に対して、少しも尊敬も払わないし価値を認めないが、日本の役人の地位身分に対しては非常に重きを置く。
彼は女性の知能を軽蔑するが、素朴な茶屋の女に対しては町育ちらしくふざける。
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2022年9月22日木曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港接岸編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
減速しながら横滑り
ここから岸壁に横付けするのですが、先頭部(バウランプ)のドア(バウバイザー)をオレンジ色のゲートの間にピッタリ寄せる必要があります。2022年9月21日水曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(仙台港入港編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
前方の窓からは船首部の甲板が見えるのですが、早くも(係留用の)ロープが引っ張られているということは、巻き上げの動作確認とかでしょうか。
2022年9月20日火曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ピアノ生演奏編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
15 分後の 14:45 からは「ピアノステージ」でピアノの生演奏があるとのこと(!)。前夜の「ラウンジショー」ではノリノリの演奏で聴衆を大いに楽しませてくれた「ザ・サウンドスピリッツ」さんの写真が出ていますが、あれ、ピアノを担当する人はいましたっけ……?
2022年9月19日月曜日
「日本奥地紀行」を読む (137) 久保田(秋田市) (1878/7/24)
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。
長雨
イザベラは久保田(秋田)で病院や師範学校、工場の見学に二日ほど費やした後も、止むこと無く降り続く雨のために出発できずにいました。次々と旅行者が来て、道路が通れなくなったとか、橋が流されたという話をする。
信頼できる召使い
ネタが尽きたから、というわけでも無いとは思いますが、ここで何故か召使い兼通訳である伊藤(伊藤鶴吉)の話題に移ります。伊藤はよくおもしろいことを言って私を笑わせる。
そこで彼はいつもほらを吹く。学生たちはすべて教育ある人間や東京の住民のように、口を閉めているが、いなかの人間はみな口を開けたままであることに気がついたか、と私にたずねた。
伊藤がイザベラの前に現れた時から、イザベラは伊藤のことをあからさまに不審に思っていたものの、二ヶ月ほど旅を続けたことでイザベラにも心境の変化があったようです。
私は近ごろ伊藤についてほとんど何も言っていないが、日毎に彼を頼りにしているように思う。
I have said little about him for some time, but I daily feel more dependent on him, not only for all information, but actually for getting on.
このところ伊藤についてはあまり手紙に書いていませんが、情報収集という点ばかりでなく、実際に旅を続けていく上において、彼を頼る気持ちが日に日に強くなってきています。
伊藤は宿泊の際にイザベラの「時計・旅券・所持金の半分」を預かるとのこと。これはイザベラにとって随分と分の悪い取引に思えるのですが、伊藤はどのようにしてイザベラからこれらの「条件」を引き出したのでしょうか。
もし彼が夜中に逃亡したら私はどうなることだろうかと、ときどき考える。
まぁイザベラが所持金を手元に置いたならば、それはそれで盗賊の格好の餌食になりそうですし、所持金の半分をイザベラの枕元に残すというのは伊藤の良心なのかもしれませんが……。
伊藤の格付けを「信頼できるパートナー」に上げたイザベラですが、その一方で次のようにも記しています。
彼は決して良い少年ではない。彼は私たちの考えるような道徳観念を持っていない。
彼は外国人を嫌っている。彼の態度は実に不愉快なときが多い。
東京を出発するとき、彼はかなりうまい英語を話した。しかし練習と熱心な勉強によって、今では私が見たどの通訳官よりもうまく話せるようになっている。彼の語彙は日毎に増している。彼は単語の意味を覚えると、決して不正確に使用しない。彼の記憶力はたしかである。
伊藤の日記
イザベラの「伊藤ネタ」が続きます。彼は日記をつけ、英語と日本語と両方を書きこむ。
それを見ると、非常に苦労して物事を観察していることが分かる。彼はときどき日記を私に読んで聞かせる。彼のように旅行の経験の多い青年から、この北国で新奇に感じたことを聞くのはおもしろい。
ここまで見ると、伊藤は凄まじい向学心の持ち主であることがわかりますが、その上に実務面でも優秀だったようで……
彼は宿泊帳と運送帳をもっていて、請求書と受取書をすべて書きこんである。彼は毎日あらゆる地名を英語の文字に直し、距離や、輸送と宿泊に払った金額を書きこむ。
伊藤の優秀性
イザベラは、伊藤がどのような点で優秀なのか、次のように具体例を挙げていました。彼は各地で、警察や駅逓係からその土地の戸数や、その町の特殊の商業をたずねて、私のためにノートに記しておく。彼は非常な努力を払って正確に記録しようとする。不正確な情報のときには、「確かでないなら書きこむ必要はありません」と言う。
彼は決して遅くならず、怠ることもなく、私の用事以外は夕方に外出することもない。酒には手を触れず、言うことに従わぬことは一度もない。同じことを二度言ってやる必要もなく、いつも私の声の聞こえるところにいる。
- 腹黒
- 態度が悪い
- 向学心が強い
- 実務能力が高い
- 職務に忠実
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2022年9月18日日曜日
北海道のアイヌ語地名 (971) 「和骨・サワンチサップ・マクワンチサップ」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
和骨(わこつ)
「オヤコッ」説
明治時代の地形図には「オヤコツ」と描かれています。また鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。オヤコツ
和骨(営林署図、図根点名)
仁伏温泉の西側で、半島のように突き出ている所の地名。
和琴半島と同じ地名でオ・ヤ・コッ(o-ya-kot 尻が・陸岸・についている」の意である。このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか。
また並びて艮 のかた
ヘナワーコチ
此処一ツの出岬に成り、其岬の鼻また山に成居るとかや。また其並びに
ハナワーコチ
と云て同じき様成岬に成るよし、並びて
ニベシ
ニブシなるべし。是土人の庫の事也。木を組上て立しもの。此辺え土人等鹿のアマホを懸に来り、其取りし肉を其庫え入置為に作りしもの也。其盾多きか故に号る也。
「ワーコチ」説
「ワーコチ」が wa-kot-i であれば「岸・ついている・もの」と読めそうでしょうか。ただ「ヘナ」と「ハナ」とあり、これらは pena- と pana- で「川上のほう」と「川下のほう」を意味します。要は似たような地形が二つ並んでいる……ということになるのですが、このあたりでは「和骨」三角点以外にそれらしい地形(出岬)が見当たりません。ただ、これは kot を本来の「凹み」という意味で捉えれば良いということかもしれません。小さな山状の岬があるということは、その東西に「谷」がある、ということになるので、pena-wa-kot で「川上のほう・岸・凹み」あるいは pena-wa-an-wa-kot で「川上のほう・に・ある・岸・凹み」と考えて良いかと思われます。
改めて考えてみると、鎌田さんが「このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか」と記したのは全くその通りで、実際に o-ya-kot と呼ばれていたと考えられます。ただ「和骨」という三角点の名前を半島の東西にある「凹み」から取ってしまったので、ちょいと妙なことになった……と言えそうです。
サワンチサップ
「手前の岩山」説
更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。サワンチサプ山
川湯の裏山。手前(湖寄り)の岩山の意、俗にシャッポ山という。
問題は「チサップ」で、更科さんはこれを「岩山」としましたが、果たしてそんな意味があるのかどうか……?
「手前の『前に出るもの』」説
鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」にて次のように記していました。サワンチサプ
サワンチサップ(地理院図)
川湯温泉市街の西方標高520㍍の山。山麓にはスキー場が設けられており、地元では帽子山と呼んでいる。
サ・ワ・アン・チ・サンケ・ㇷ゚(sa-wa-an-chi-sanke-p 前・に・いて・浜に出て来る・もの(山)」の意である。これは屈斜路湖の沖(北東)から舟で仁伏方面に帰る時に、だんだん舟が進むと手前にあるこの山が、湖岸に迎えに出て来るように感じとったのであった。
並びて
セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシヤフ、また其前に、マツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
アトサシリ
といへる高山有。
本題はここからで、「サワンチサップ」のことを松浦武四郎は「サワンチシヤフ」と記録していたと見られます。これが「サワアンチサンケㇷ゚」に化けて、現在は「サワンチサップ」に戻った……というのも、ちょっと考えづらいように思えるのですね。
「手前にある『泣くもの』」説
結局のところ「チサップ」をどう読み解くか……という話に戻るのですが、久保寺逸彦さんの「アイヌ語・日本語辞典稿」によると {chisa-chisa} で「泣きに泣く」を意味するとのこと(動作的反復形)。chis も「泣く」という意味ですが、chisa もほぼ同じような意味で使われる、のかもしれません。となると sa-wa-an-chisa-p で「手前・に・ある・泣く・もの(山)」ということになりますが、もしかしたら山から噴煙を上げる様を「泣く」と表現したんじゃないかな……と。
現在も噴煙を上げているのは「アトサヌプリ」だけだと思いますが、戊午日誌「東部久須利誌」の記述を見ると「アトサシリ」の下部を「チシヤフノホリ」と呼んでいたようにも見えます。
「マクワンチサップ」と「サワンチサップ」も「アトサヌプリ」と同様の溶岩ドームのため、あるいは火口から溶岩が流れ出る様を「泣く」と表現した可能性も……あったら面白そうですよね(少なくとも「アトサヌプリ」の活発な火山活動を目撃したアイヌは存在していたような感じが)。
マクワンチサップ
戊午日誌「東部久須利誌」に「マツカンチシヤフ」とあるのは前述の通りで、明治時代の地形図には「マクワンチサㇷ゚」と描かれていました。
「マクワンチサップ」は「サワンチサップ」と対になる山……という認識でほぼ間違いないでしょう。mak-wa-an-chisa-p で「奥・に・ある・泣く・もの(山)」と考えてみたいです。
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2022年9月17日土曜日
北海道のアイヌ語地名 (970) 「ユクリイオロマナイ沢川・ホロカサル川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ユクリイオロマナイ沢川
ユコロマナイ(斜里川左支流) 「ユク・オロ・オマ・ナイ」(yuk-oro-oma-nay 鹿が・そこに・入る・沢)。
同じ考え方で「ユコロマナイ」を読み解くと「鹿・その中・にある」あるいは「鹿・の所・にある」となるのですね。故に知里さんは「鹿が・そこに・入る」としたのでしょうが、それだったら yuk-oma で「鹿・そこに入る」と解釈できるので、あえて oro を加える余地は無さそうにも思えるのです。
鹿が死ぬ川?
実は oro-oma で「病死する」あるいは「それがために死ぬ」とも解釈できるのだとか。たとえば知里さんの「人間編」には次のように記されています。(32) 病死する oro oma 〔o-ró|o-má オろ・オま〕[oro(その中)+oma(に入る)]《ホロベツ》
鹿の路のある川?
改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「サツルフト」のすぐ近くに「ユツコロマナイ」という川が描かれています。これは「アタツクシヤ」や「ヲロカサラ」よりも遥かに手前(海側)に描かれているので、どこまで信用できるかという話もあるのですが、知里さんが記録した「ユコロマナイ」とそっくりなんですよね。そして明治時代の地形図を見てみると、現在の川名とほぼ同じ「ユクリイオロマナイ」という名前の川が(現在と同じ位置に)描かれています。さて、これはどう考えたものでしょう。
「北海道地名誌」には次のように記されていました。
ユクリイオロマナイ沢 江鳶山から南に流れ斜里川右に入る小川の沢。意味不明であるが,「ユクルオマナイ」(鹿路にある川)であるという説もある。
yuk-ru-oro-oma-nay と考えれば「鹿・路・その中・そこにある・川」となりそうですが、これもやはり oro の必要性が感じられないというか、むしろ邪魔になりそうな気がします(oro が無いほうが意味が明瞭になるため)。
鹿路のある山の谷あいの川?
どうやら oro を捨てて考えるのが正解のような気がしました。oro ではなく iwor だったらどうかと考えてみたのですが、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。iwor, -i/-o イうォㇽ 神々の住む世界。具体的に云えば狩や漁の場或は生活資料(衣料・食料・燃料・建築資材など)採集場としての山奥または沖合。
iwor イウォㇿ 1 【名】尾根と尾根の間の比較的平らな部分、山の谷間(たにあい)(熊狩りなどをする所、狩場)、山奥。
鹿路のある川沿いの崖の川?
あるいは iwor ではなく e-wor で「その頭・水の中」とも考えられるかもしれません。これは東川町の「江卸」と同様の考え方で、yuk-ru-e-wor-oma-nay で「鹿・路・その頭・水の中・そこにある・川」ではないかな……と。ユクリイオロマナイ沢川の河口の東側には標高 419 m の山があり、このことを形容して「頭を水につけているところ」と呼んだのではないか……という考え方です(鹿が頭を水につけているという訳では無いです)。
ホロカサル川
「東西蝦夷山川地理取調図」には「アタツクシヤ」の隣に「ヲロカサラ」と描かれています。ただ川が二手に分かれるところに描かれているので、どちらの川を「ヲロカサラ」と認識していたのかは不明です。
「午手控」には次のように記されていました。
ヲロカサラ「チウルイ岳」の位置が不明ですが、「チウルイ」は現在の「忠類川」のことと考えて良さそうに思えます。となるとこの文章は「ホロカサル川」ではなく現在の「斜里川」のことを指しているように読めますが……
此水源子モロのチウルイ岳シャリ岳との間に行て、又チウルイの水はチウルイ岳より向ふえ落る也
ただ、明治時代の地形図では現在と同じ位置に「ホロカサル」と描かれていました。川の水源は斜里岳と江鳶山の間にあり、水源から斜里川まで南に向かって流れた後、斜里川に合流してからは北に向かうため、まさに horka(U ターンする)川と言えそうですね。
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。
ホルカサル(斜里川左支流) 「ホルカ・サル」(horka-Sar 後戻りする・斜里川)。
「斜里」と「沙流」は、本来はどちらも同音の sar で、両者を区別するために「斜里」を pinne-sar(男の sar)、「沙流」を matne-sar(女の sar)と呼び分けていたと聞きます。「ホロカ斜里川」ではなく「ホルカサル」なのが、「斜里川」の本来のネーミングを残していて面白いですね。
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2022年9月16日金曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(僚船「きそ」編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
これは 12:30 頃だったと思いますが、陸地が見えていますね。いわき市の沖にやってきたようです。
2022年9月15日木曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(昼食編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
内航船「神明丸」
右前方に見えた船影は、どうやら貨物船のようですね。太平洋フェリーは太平洋側の沿岸からそれほど離れない航路を通ることもあってか、他の船舶もちょくちょく見かける印象があります。というか他の船をあまり見かけない新日本海フェリーのほうが特殊なんでしょうけど……。2022年9月14日水曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(朝風呂編)
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タオルを探せ!
風呂に入る前にタオルの在り処を確認します。バスルームの向かいには洗面所があるのですが……2022年9月13日火曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(お部屋編・その2)
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午前中は特にイベントは無いので(というか午後からが色々とありすぎるという話も)、改めてここまでご紹介できていなかった部屋の話を。本当は「バス・トイレ編」に続けておけば良かったのですが、構成がグダグダですいませんとしか……。
2022年9月12日月曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(朝の船内ウロウロ編)
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展覧会の絵
「ヨットの模型」のところから船尾方向に歩いていくと、「プロムナード」の手前に「スモーキングルーム」がありました。オープンスペースのスモーキングルームは各階ごとに一箇所ずつ設けられているようですね。2022年9月11日日曜日
北海道のアイヌ語地名 (969) 「アタックチャ川・タテクンナイ川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
アタックチャ川
「東西蝦夷山川地理取調図」には「アタツクシヤ」という名前の川が描かれています。明治時代の地形図には「アタツクチヤ」と描かれているので、ほぼ同じ形で現在まで残っていると言えそうでしょうか。
永田地名解には次のように記されていました。
Atat kucha アタッ クチャ 魚肉ヲ背割シテ乾ス小屋 「アタッ」トハ魚肉ヲ二ツニ縦切スルヲ云フ細切スルニアラズatat という語は今まで見聞きした記憶が無いのですが、「アイヌ語千歳方言辞典」には次のように記されていました。
アタッ atat 【名】 魚を川の流れに何日かさらしてから三枚におろし、 さらにそれを縦四つに細く切り裂いて干したもの。
それにしても、魚肉の干物であれば何もこんな山の中で……というか、そんなに場所を選ばないような気もする(=地名となる必然性に欠ける)のですが……。「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。
アチャクチャ(acha-kucha 伯父の・山小屋)或は「アタックチャ」(atat-kucha 鮭を背割にして乾すものを造つた小屋)。
本題に戻りますが、やはり知里さんも「鮭の干物をつくる小屋」は変だと感じたのか、acha-kucha で「伯父(叔父)・山小屋」ではないかと考えたようですね。「伯父さんの山小屋」というのもちょっと変な感じがしますが、「ナンバー 2 の山小屋」と考えることができるかもしれません。
あるいは aw-ta-kucha で「隣・の・山小屋」あたりの可能性もあるかな、とも……。ニュアンスとしては acha-kucha と同じで、「隣の山小屋」は「第二の山小屋」と言った風に捉えられるかな、と。
タテクンナイ川
ただ、明治時代の地形図には「クテクンナイ」とあります。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。
クーテクンナイ(斜里川左支流) 「クーテク・ウン・ナイ」(ku-tek-un-nay 仕掛弓の垣のある沢)。
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2022年9月10日土曜日
北海道のアイヌ語地名 (968) 「タラタラッペ川・ハトイサッツル川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
タラタラッペ川
地理院地図にも川名の記載がありますが、意外なことに「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川名が見当たりません。ただ、「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。
少し行て明治時代の地形図には「タラタラペ」という名前の川が描かれていました。すぐ北には「ウヌンゴイ」という地名(だと思われる)が描かれているのですが、これは斜里町の「ウヌコイ川」と同じく ununkoy で「(行き止まりの)断崖」である可能性が高そうに思われます。
ニシバコレキルシ
川有。橋を架る。此辺にて大古夷人の酋長死せしと云訳なりとかや。又坂道少し行
ウフンコイ
此辺いよいよ谷地多く、地名は谷地に近よりしと言事也。
タラタラ
小川有。渉りて谷地え懸る。ダラダラは川下に石有ると云ことなりける。
タクタクベオベツ川?
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。タッタッペオペッ(札鶴川左岸支流) 「タッタッペ・オ・ペッ」(taktakpe-o-pet 玉石・ごろごろしている・川)。
一例として、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。
tak-tak, -i/-u たㇰタㇰ 球;玉石;ごろた石。
また「タㇰタㇰ」が「タラタラ」に化けたというのも疑問が残ります。tararke で「(石などがごろごろころがって)でこぼこしている」という自動詞がありますが、tararke と同じ意味の taratarak という自動詞があるので、「タラタラッペ川」は taratarak-pe で「(小石などで)でこぼこしている・もの(川)」と見て良いのではないかと思うのですが……。
ハトイサッツル川
明治時代の地形図には「トイサックー」と描かれていました。また「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。
少し行き
トイシヤル
トイシヤツルなるよし。今迄の川より少し大し。歩行渉り。此川にも秋味多と。地名は川源に沼有ると云事也。
トイサッル(札鶴川右岸の枝川)「トイ・サッル」(toy-Satru 土の流れるサッツル川)。ポン・オニセㇷ゚(Pon Onisep オニセブの子川)とも云う。
「トイシヤツル」と「トウサツル」
改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、ここでは「ヲニセツフ」の上流側に「トイサツル」と描かれています。該当しそうな川も存在していて、この川の名前は不明ですが、川の西側を「クルミの沢林道」が通っています。ただ「東西蝦夷山川地理取調図」における「札鶴川」の描かれ方には大きな疑義がある(「札鶴川」に相当する川が二つ描かれている)ため、この川については一旦無視しても良さそうに思えます。
「辰手控」には「トウサツル」という記録もあるのですが、これもよく見るとかなり混乱が……。前後関係を把握するために長い目に引用しますと……
○サツルエヒラ 小休
サツは夏、ルは道、夏にても冬にても此道を通ると云こと也
○サツル
ヲニセツフ 小川右
トウサツル 小川 此川ワツカウイの下也。
タラツタラッヘ東へ入小川 此川はこゆる也
下にニシハコシキルシ
○ヘツウトルクシナイブト
シヤリ川とサツル川との間を通ると云こと。ブトは口也。小川有
○シヤリルエランニ
川端へ道より下ると云こと也。五六丁行、昼休所也。むかしは此処になし。是よりシヤリ川端を通りし由、よって此名有
坂道下り
○ニシハコシキルシ 川有橋 坂下り
○ウヌンコイ
坂を下り此辺より谷地多く難所
タラタラ 小川有
不知トイシヤツル 中川
此川秋味入込也、道わろし
○ワッカウイ 川、はし三ケ所有。
更によく見ると、知里さんが「トイサッル」とした川の近くに「トウサツル」があり、現在の「ハトイサックル川」に相当する川として「トイシヤツル」とあります。もう何がなんだか……という感じですね。
とりあえず、「ハトイサックル川」については矛盾する記録がいくつもあり、何がなんだかワケがわからん、ということがわかりました(ぉぃ)。しかも「ハトイサックル川」の「ハ」については影も形も見当たらないという話もあります。
「トイサックル」をどう考えるか
「ハ」については一旦諦めるとして、「トイサックル」をどう解釈するかを考えてみましょうか。「トイ」は toy で「土」と見るべきなのでしょうが、ただ「神の子池」の存在からは、to で「池」と考えたくなります。となると「トイサックル」の「イ」をどう解釈するか……という問題が浮上するのですが、うーん、e で「頭(水源)」と解釈するしか無さそうでしょうか。仮に e を「食べる」と考えれば「池が食べる札鶴川」という謎な地名ができあがりますが……。我が子を食らうサッツル川でしょうか(違うと思う)。
結局のところ、やはり to-e-{sak-ru} で「池・頭(水源)・{札鶴川}」と考えるべきなんでしょうか。……あ、「竹四郎廻浦日記」にそう書いてあったような(汗)。
あと「ハトイサックル川」の「ハ」についてですが、皆目不明ということで(すいません)。
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2022年9月9日金曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(二日目の朝食編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
5 枚綴りの食事券は、まだ 4 枚残っています。左端と右端がどちらも「食事券」なので、「食事日」を確認してからカットします。
2022年9月8日木曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(船内ウロウロ編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
自販機コーナー
ということで、用も無いのにフラっと 7 甲板にやってきました。1 号機エレベーターの横には自販機コーナーがあります。2022年9月7日水曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(スペシャルゲスト編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります(2022 年 9 月時点ではラウンジショーは休止中とのこと)。
実はこの方は「大地千春」というお名前(芸名ですよね)とのこと。言わずと知れたあの方の曲をレパートリーに、幅広く活動されているようです。
2022年9月6日火曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ラウンジショー編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります(2022 年 9 月時点ではラウンジショーは休止中とのこと)。
この航海での出演者は「ザ・サウンドスピリッツ」さん。2015 年 1 月に「きそ」に乗船した際はピアニストの野々山さんが MC 含め全てお一人で担当されていましたが、今回はなんと 6 人です!(しかもスペシャルゲストまで!)
2022年9月5日月曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(初日の夕食編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
レストラン「サントリーニ」のシンボルマークは、「S」の字の形をしたタツノオトシゴのようです。「サントリーニ」はギリシャの「サントリーニ島」に由来すると思われるのですが、「サントリーニ島」が「タツノオトシゴ」の形をしているとして、島の(非公式な?)シンボルになっているとのこと。
2022年9月4日日曜日
北海道のアイヌ語地名 (967) 「ニッパコシキクウシナイ川」
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ニッパコシキクウシナイ川
このあたりの「東西蝦夷山川地理取調図」は札鶴川(サツル)の認識に誤りがあり、札鶴川の道道 1115 号「摩周湖斜里線」沿いの区間が「サツル」とは別に描かれています(本来は同じ川なのに、異なる川として描かれています)。
「ニッパコシキクウシナイ川」と思しき「ニシハコシキルランニ」は「サツルフト」で斜里川に合流する川(=サツル)の東側に描かれていました。位置はともかく、松浦武四郎が当地を訪れた際に既に存在していた地名(川名)だということは間違い無さそうです。
「夷人の酋長が死んだ」説
「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。少し行て
ニシバコレキルシ
川有。橋を架る。此辺にて大古夷人の酋長死せしと云訳なりとかや。
Nishipa koshikiru ushi ニシパ コシキル ウシ アイヌ仰向キニ倒レテ雪ノ爲メニ死シタル處nispa は意外と日本語での表現が難しいのですが、「裕福な男性」あるいは「裕福で身分の高い男性」と解釈するのが一般的でしょうか。ただ中川裕先生は「『特別な資産家』という意味はない」としているので、地元の「名士」あたりと言ったところかもしれません。
kosikiru というのも馴染みの無い語ですが「ふり向く」という意味とのこと。nispa-kosikiru-us-i だと「名士・ふり向く・いつもする・ところ」ということになりそうでしょうか。これだと「酋長が死んだ」とは言えそうにないところに難がありますが……。
「旦那がそこで倒れた」説
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。ニㇱパコシキルシ(札鶴川左岸) 「ニㇱパ・コ・シキル・ウシ」(nispa-ko-sikiru-usi 旦那が・そこで・倒れた・所)。
sikiru は si- 「自分を」,kiru 「回す」と分析される。si- は間接再帰の形式(32 課参照)であるから,「あたかも自ら努力してではないかのごとく,くるりと身を翻す」という意味になるであろう。なお,sikiru は人間について用いて,en-ekota sikiru「俺の方へ(くるっと)向け。」のように使われるが,他方,魚のすばしっこい動作を象徴的に表す動作と考えられているようである。
「幕府の役人がひっくり返った」説
ただ、「アイヌ語入門」では次のように記されていました。ちょっと長いですが、正確を期すために引用しますと……キタミ国シャリ郡にニシパコシキルシという地名があり,蝦夷語地名解には次のように出ている。
Nishipa koshikiru ushi ; ニシパ コシキル ウシ ; アイヌ仰向キニ倒レテ雪ノタメニ死シタル処(地名解 496)。
これは,いわゆる斜里山道──もとアイヌが根室領と斜里方面の間を往来するのに利用していた踏み分け路を,享和元年(西暦 1801)蝦夷地御用掛であった松平忠明が通るというので,釧路のシラヌカ(白糠)に屯田として入っていた原半右衛門らがきりひろげたもの──の山中の地名であるが,正しい語形と意味は次のとおりである。
Nispakosikirusi. にㇱパコシキルシ。< nispa(だんな〔が〕)+ ko(そこで)+ sikiru(ひっくりかえった)+ usi(所)。
永田方正氏の解釈では,nispa を「アイヌ」と訳しているが,ただのアイヌをニㇱパなどと呼ぶはずがない。これはおそらく,幕府の役人などが,土地のアイヌどもを人夫にかりだして,威風堂々とここを通りかかったまではよかったのだが,そこのぬかるみに足をとられて引っくりかえった,などというような故事でもあって名づけられたものであろう。
アイヌが引っくりかえったところで,起きあがればそれですむことで,たいして問題になることでもない。しかし,日本の役人が引っくりかえったとなると,当時としては大変な事件で,後世に地名を残すだけの値打があったと見なければなるまい。
もちろん「『昔のアイヌの酋長』ですら足を踏み外す危険な場所」だ……ということを後世に伝えるためのネーミングである可能性もあるわけですが、それだったら普通に wen-nay で「悪い・川」とか wen-sir で「悪い・崖」のような地名でも良いわけで、あえて nispa というワードチョイスが見られるところに「幕府の役人」の影を見出したくなるんですよね。
ko-sikiru は「ひっくりかえった」とありますが、これは釣り上げられた魚が身をよじって難を逃れようとする様を示しているのかもしれません。つまり、川に落ちた「ニㇱパ」のリアクションを形容していたんじゃないか……と。
余談「幕府の役人がリアクション芸人顔負けだった説」
ということで、「ニシパコシキルシ」は nispa-{ko-sikiru}-us-i で「旦那・{ひっくりかえった}・そうである・ところ」と考えたいです(もはや願望では)。それにしても、この「ニシパコシキルシ」が現在も「ニッパコシキクウシナイ川」というおかしな名前で現存していたとは……!更に余談ですが、「アイヌ語入門」には次のような一節が続いていました。
ところで,わたくしがシラヌカを調査に行ったとき,念のために土地の古老──興行用のでなく真正のアイヌの古老──に,この地名の意味を尋ねてみると,彼はなんの苦もなく,
「あそこはヤチ(湿地)だから,どっかのニㇱパ(だんな)がコシキリ(腰っきり)ぬかったんだベヨ!」
といってのけたのには,わたくしをはじめ,同行の K, S, W, N など,さすがの‘ニㇱパ’連も,‘ひっくりかえる’ほど驚かされたものである。
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2022年9月3日土曜日
北海道のアイヌ語地名 (966) 「沙輪・オニセップ沢川」
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沙輪(さりん)
いかにも曰く有りげなネーミングですが、「大日本地名辞書」に次のような記載がありました。
斜里川の上游に根室国標津郡及び釧路国川上郡に通ずる山道あり、専、止別駅より往来す。野川より湧生 ウヌンコイに至る凡三里、之より東南に山越して、標津郡のケネウオイカの渓谷に入る。サリンウエラニ、ウヌンゴイ等の開墾は、涌生の北に属す。
この情報をもとに改めて「竹四郎廻浦日記」を見てみると、次のような記載が見つかりました。
小き小川をこへて坂を上りまた直に下りて、
シヤリルヱラレ ニ
平地谷地多し。両山蹙りて其間小川を此間 向方に渉りて行事也。昔は本道此辺に無りしと。やはりシヤリ本川筋の上を通りしと聞。昼休所仮屋有。地名は川端え下しりと云事也。
「シヤクルエラン」問題
また「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤ位置が大きく異なることから「シヤリルエラニ」と「シヤクルエラン」がそれぞれ別のものと考えることもできますが、「東西蝦夷──」では「シヤクルエラン」の近くに「ヘツウトルクシ」という川が描かれていました。この川(ヘツウトルクシ)は「竹四郎廻浦日記」の記録や明治時代の地形図から *札弦川の東* を流れていたことがほぼ確実と見られるため、問題の「シヤクルエラン」は「シヤリルエラニ」の誤記で、札弦川の東側の地名だと考えるのが自然に思われます。
「サリンウエラニ」は「シヤリルエランニ」?
「大日本地名辞書」にあった「サリンウエラニ」が、この「シヤリルヱランニ」のことだと考えられるのですが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。シャリルエラニ(札鶴川左岸) 斜里川へ行く路の降り口。
オニセップ沢川(オニセップ川)
「東西蝦夷山川地理取調図」には札弦川の西支流として「ヲニセツフ」という川が描かれていました。また明治時代の地形図には「オニセㇷ゚」とあり、現在の「オニセップ」とほぼ変わらないように見えます。
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。
オニセプ(札鶴川右岸の枝川) 「オンネ・チェプ」(onne-chep 老いた・鮭,産卵後の鮭)。ここは昔から鮭の種川であったと云う。前項のポン・オニセプ川に対して,これをオンネ・オニセプ(Onne Onisep オニセブの親川) とも称する。
つまり pon-onne-chep は「子である・親である・魚」となりかねない危険性があるのですね。もちろん onne-chep を固有名詞と見て pon-{onne-chep} と考えることは可能で、永田地名解にもこのような例は見られるようですが……。
「北海道地名誌」には次のように記されていました。
オニセップ沢 札鶴川上流の左小川の沢。アイヌ語「オンネ・セップ」で,歳老いた広いところであるというが,「オ・ニ・セップ」で川口に木ある広いところともとれる。
sep と呼ばれる川は道内のあちこちにあると思われますが、最も有名?なのが日高地方の「節婦川」でしょうか。この川を遡ると途中で三つに大きく枝分かれしていて、中流部から上流部にかけての流域が「広く」なっているという特徴があります。
川の規模の違いはさておき、この「中流部から上流部にかけての流域が広くなる」という特徴は「オニセップ沢川」にも当てはまるように思われるのですね(地図)。「ポンオニセップ沢川」も上流部で流域がちょいと広くなっているように見えるので、似た特性を持つ兄弟川と捉えられていたのではないかと思うのですが……。
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2022年9月2日金曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(グリーンステージ編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
最近は IC カードタイプのルームキーも増えていますが、磁気カードタイプのものは記念に持ち帰ることができるのが最大のメリットでしょうか。
2022年9月1日木曜日
太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(バス・トイレ編)
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。
引き戸の向こうには洗面所とバス・トイレがあります。