2022年8月31日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(お部屋編)

「いしかり」の 6 甲板左側最前部にある「スイート」にやってきました。ドアを開けて右(船首方向)を見ると……おおおっ。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

丸テーブルとチェアがあり、その横にはベッドとしても使えそうな長いソファーがあります。この手のソファーは気分転換に良いんですよね。

2022年8月30日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(客室までエスコート編)

2 甲板の「客室入口」に向かいます。入口横のスロープにはじゃんじゃん車が下りてきていますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

エレベーターもご利用ください

「客室入口」のドアが見えてきました。車輌甲板なので当然ながら車が駐車しているのですが、間隔はそれほどカツカツでは無いですね。入口の前だからかもしれませんが……。

2022年8月29日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(車輌甲板編)

航送車待機列の先頭で 2 分ほど待機したので「前の車についていって下さい」という誘導方法が使えなくなりました。その代わりに……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

誘導員さんの駆る「ケッタ」の後をついていくという画期的なスタイルで案内が行われた……というのは前回お伝えした通りです。第二バースの手前には大型車の待機列が 3 列あるのですが、この待機列に入れば良いのですね?

2022年8月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (965) 「ペーメン川・オサウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペーメン川

pe-wen-mem??
水・悪い・泉池
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
札弦駅の北東で斜里川に合流する東支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘーメンテ」と言う名前の川が描かれていました。

明治時代の地形図には「ーメム」と描かれていました。永田地名解にも次のように記されていました。

Pe mem   ペー メㇺ   泉池
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.497 より引用)
うーん。mem 自体に「泉池」という意味があるのですが、果たしてペーさんの行方は……。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペーウェンメム(斜里川左枝川) 語原「ペー・ウェン・メム」(pe-wen-mem 水の・悪い・湧き水の池)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)
あーなるほど。元の形は pe-wen-mem で、何故か wen- が省かれてしまって現在に至る……ということですね。pe-wen-mem は「水・悪い・泉池」と考えて良さそうですが、これだと川を意味しないので、更にその後ろに -nay がついていた……とかでしょうか。

気になるのが、「東西蝦夷──」や「辰手控」、明治時代の地形図など、どれを見ても wen- の存在を示唆するものが見当たらない……というところでしょうか。唯一「おやっ」と思ったのが「北海道地名誌」で……

 ペウメム川 札弦市街の下流で斜里川の右に入る川。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.461 より引用)
「意味不明」なのはさておき、「ペーメン川」ではなく「ペウメム川」なのが興味深いところです。改めて考えてみると pe-wen-mem を「ペウンメム」と読めないことも無いわけですが……。

オサウシ川

o-sa-us-i?
(山)尻・浜・ついている・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 釧網本線の緑駅の北西、国道 391 号と釧網本線の間を流れる川です。この川は最終的に道道 1115 号「摩周湖斜里線」の「オサウシ橋」の東で斜里川に合流します(斜里川の西支流、ということになりますね)。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が描かれているものの、残念ながら川名の記載がありません。ただ明治時代の地形図には「オサウシ」と描かれていました。

「ノリウツギ」説

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

十二三町行き
     ヲサウシ
小流有。元は此地名ヲフサウシなる由。ヲフサは人間語さびたと(云)木也。ウシは多しと云事なり。扨其ヲフサと云木モンベツにてはまたラスハ(夷言)とも云よし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.397 より引用)
「さびた」には「中空の櫂木で蝦夷きせるを作る」との註がつけられていました。知里さんの「植物編」の索引には「サビタ(方言,ノリウツギ)」とあり、「ノリウツギ」の項には次のように記されていました。

§ 224. ノリウツギ Hydrangea paniculata Sieb.
(1) rasupa-ni(ra-sú-pa-ni)「ラすパニ」[ラスパの木,ラスパを作る木] 莖 《長萬部,幌別,足寄》
(2) rasupa(ra-sú-pa) 「ラすパ」[槍の柄と穂先とを繼ぐ棒] 莖 《膽振,日高,足寄,美幌,斜里,名寄》
  注 1.──アクセントを語頭において rásupa と發音する所もある(虻田郡禮文華)。槍・矛・鈷等の柄と穂先とを繼ぐ尺餘の棒を北海道でわ「ラスパ」,樺太でわ「ラスマ」またわ「オㇹサニㇱ」とゆう。rasúma <rasúpa <rasu (その割木,その木片)pa(頭)。óxsanis <ox(<op 槍柄)-san(前の)-nis(<nit 棒)。この繼ぎ棒わ專らノリウツギの材で作ったので上記 (1)(2) 及び下記 (3) の名稱が生じたのである。
(3) opsa(óp-sa)「おㇷ゚サ」[<op(槍)-sa(前)] 莖 《日高東半〔荻伏・浦河・様似〕,屈斜路,常呂》
  注 2.──たぶん op-san-nit(槍柄の・前の・棒)の下略形。→ 注 1, 参照。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.129 より引用)※ 原文ママ
確かに opsa は「ノリウツギ」らしいのですが、斜里では rasupa だと記録されています。ただ屈斜路では opsa とあり、オサウシ川から屈斜路湖まではそれほど遠くないということもあるので、ノリウツギのことを opsa と呼んだとしてもおかしくは無いでしょうか。

「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 オサウシ(本流右岸) 「オㇷ゚サウシ」(opsa-us-i ノリウツギ・群生する・所)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.255 より引用)
opsa-us-i で「ノリウツギ・多くある・もの(川)」ではないか……ということですね。松浦武四郎の記録を踏襲したもの、とも言えそうです。

「ヌサウシ」説

一方で「北海道地名誌」には異説が記されていました。

 オサウシ沢 斜里川と札鶴川の合流点下流で斜里川の左に入る小川のある沢。「ヌサ・ウㇱ」(祭壇の多い)の訛りか。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.461 より引用)
確かに「ヌサウシ」が「オサウシ」に化けたケースも少なからずあるようで、それはそれで結構な謎なのですが……。ただ全てが全てそうだとは断言できませんし、他に傍証が無いと、この考え方は厳しそうに思えます。

「岬」説

この「オサウシ川」から遠く離れた稚内に「オサウシ」という場所がありました(オホーツク海側の「泊内橋」と「目梨泊橋」の間あたりの地名です)。この「オサウシ」について、山田秀三さんは次のように記していました。

 宗谷岬から東の海岸(太平洋岸)を僅か南下した処にオサウシという地名がある。オサウシは岬。処が地図の海岸線はのっぺらぼうだ。その処で僅か出ている程度である。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.74 より引用)
山田さんは「オサウシは岬」としていますが、この「オサウシ」については永田地名解でも「岬」と記されています(p.430)。

改めて言葉を考えると、o-sa-ushi-i 「(山が)尻を・浜に・つけている・処」で語義通りの処なのである。
(山田秀三「アイヌ語地名の輪郭」草風館 p.74 より引用)
十勝の豊頃町にも「長臼オサウス」という地名がかつて存在していて、これも o-sa-us-i ではないかとされています。これは o-sa-us-i という地名の存在が必ずしも海岸部にとどまらないことを示していると言えるでしょうか。

改めて今回の「オサウシ川」の地形を見てみると、「緑スキー場」のある尾根がかなり北に向かって伸びていることがわかります(本当に「かなり長い」んですよね)。

松浦武四郎の記録を知里さんが追認したことのインパクトは大きいですが、この尾根の伸び方も相当なものなので、「オサウシは岬」説をプッシュしたくなるんですよね……。o-sa-us-i で「(山)尻・浜・ついている・もの」と考えたいです。

2022年8月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (964) 「江鳶川・チエサクエトンビ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

江鳶川(エトンビ川)

etu-un-pet?
鼻(岬)・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
清里町の市街地付近で斜里川に合流する東支流です。地理院地図では「エトンビ川」ですが、国土数値情報では「江鳶川」となっているようです。読めなくは無いですが、そこそこ難読なのでカタカナに回帰しつつあるのでしょうか。

「辰手控」には「イトンヒ」と記録されていますが、「午手控」や「東西蝦夷山川地理取調図」には「エトンヒ」とあります。明治時代の地形図には「エトンピ」と描かれていて、永田地名解では次のように進化?していました。

Etunpi   エト゚ンピ   岬ニアル川「エト゚ウンペツ」ノ訛リナリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.497 より引用)
ふむふむ。どうやら etu-un-pet で「岬・そこにある・川」と考えたようですね。ところが「斜里郡内アイヌ語地名解」には少々異なる解が記されていました。

 エトンビ 江鳶川。語原「エ・ト゚・ウン・ペッ」(e-tu-un-pet 頭が・山・へ・入りこんでいる・川)。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)
むー。e-tu-un-pet で「頭(水源)・峰・そこに入る・川」と考えたのですね。etu- は「岬」ですが、この「岬」は必ずしも海に面しているとは限らないのがポイントで、尾根の先端も etu と呼ばれることがあります。

エトンビ川は上流部でいくつも枝分かれしているのですが、その中の一つを遡ると江鳶山の山頂の西側にたどり着きます。このことを指して e-tu-un- と呼んだ……というのが知里さんの考え方のように思えます。

山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」では、次のように補足されていました。

《山田註。少し詳しくいえば、tu は「山の先が長くのびた処、走り根」。この川をのぼると、その走り根の中に、峡谷のような形で入って行くので、そう呼ばれたのであろう。上記の形の名が、和人に継承されてエトンベになり、鳶(とんび)に近い音なのでエトンビとなったのではあるまいか》。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.100 より引用)

「エトンハナヒラ」

ただ厄介なのが、「東西蝦夷──」では「エトンヒ」の隣(海側)に「エトンハナヒラ」という地名?が描かれている点です。知里さんはこの地名について次のように記していました。

 エトンパナピラ 語原「エ・ト゚・ウン・ペッ・パ・ナ・ピラ」(e-tu-un-pet-pa-na-pira 頭が・山・ヘ入りこんでいる・川の・下・方の・崖)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)
「江鳶川の川下側(海側)にある崖」と考えたようですが、このあたりでそれらしい地形と言えば四等三角点「向陽」のあたりでしょうか。三角点の北を「向陽川」という川が流れているのですが、よく見るとその北隣を流れる「新向陽川」のあたりもそこそこ険しい斜面があり、しかも「岬」のような地形もあります。

「岬」か「鼻」か

もしかして本来の「エトンビ川」は現在の「新向陽川」のことじゃないか……という大胆な仮説も頭をよぎりますが、流石に色々と無理がありそうなので一旦捨てるとして……。エトンビ川の西側に「町牧場」という四等三角点があり、これは「岬」と言う以上に「鼻」っぽい形をしているんですよね。

etu は「岬」だとしましたが、本来は「鼻」を意味する語でもあります。エトンビ川はこの巨大な「鼻」のすぐ東側を流れているので、etu-un-pet で「鼻(岬)・そこにある・川」と考えたくなりますね。

問題の「エトンパナピラ」も、もっと単純に etu-un-pana-pira で「鼻(岬)・そこにある・海側の・崖」と考えていいんじゃないかと……。

チエサクエトンビ川

chep-sak-{etunpi}
魚・持たない・{江鳶川}
(典拠あり、類型あり)
江鳶川(エトンビ川)の東支流です。江鳶川の支流の中ではもっとも長いもので、水源は江鳶山ではなく東に聳える「平岳」の北側にあります。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき支流が描かれているものの、残念ながら川名の記入がありません。明治時代の地形図には「チェプサㇰエトンピ」という名前で描かれていました。

「午手控」には「エトンヒ」の枝川(支流)として「シュマルクシナイ、トウ子トンヒ、チフサケトンヒ、チフイサムエトン」がリストアップされていました。

なお余談ですが、明治時代の地形図では、現在の「エトンビ川」が「トーエトンピ」として描かれていて、現在「カクレノ沢川」と呼ばれる川が本流(=エトンビ川)として描かれていました。

永田地名解には次のように記されていました。

Chiep sak etunpi  チェプ サㇰ エト゚ンピ  魚無シノ岬川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.497 より引用)
概ね妥当な解釈に思えます。また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 チェプサㇰエト゚ンピ(江鳶川左枝川) 語原「チェプ・サㇰ・エト゚ンピ」(chep-sak-Etumpi 魚の・無い・江鳶川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)
ということで、chep-sak-{etumpi} で「魚・持たない・{江鳶川}」と見て良さそうですね。

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2022年8月26日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ケッタ編)

フェリーターミナルビルの外にはバス停があるのですが、ちょうど「名古屋港行き」のバスが待機中でした。フェリーの発着とは関係なく定期的に路線バスが来るというのはありがたい限りですよね。
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あ、このバスは東海通で見かけたバスとは営業所が違うんですね。

2022年8月25日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(ターミナルビル 2F 編)

まさかの大混雑で、なんと 30 分も待たされてしまったのですが、なんとか乗船手続きを終えたので……
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駐車場に戻る前にちょっとだけ 2F の待合室へ。こんなチラシが貼ってあったので気になったんですよね。

2022年8月24日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(乗船手続き編)

名古屋港フェリーターミナルにやってきました。仙台経由で苫小牧に向かう「太平洋フェリー」が二日に一回寄港するフェリーターミナルです。
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ボーディングブリッジの下をくぐると乗船車待機場ですが、その前に乗船手続きが必要なので、右折して駐車場に向かいます。

2022年8月23日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 14) 「名古屋市道金城埠頭線」

「名古屋市道金城埠頭線」を南に向かいます。それにしても「埠頭」の「埠」の字が当用漢字外だからか、「ふ頭」と表記されるのは……なんとかならないものですかね。
道路の右側に立派なタワマンが見えてきました。実はこの建物、「市営みなと荘 1棟」という名前で、その名の通り「市営住宅」なのだとか。

2022年8月22日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 13) 「そこに『一蘭』があった頃」

「環状 2 号」こと国道 302 号を南に向かいます。このあたりは「名二環」の橋脚がほぼ完成しているようですね。
「東海通」との交叉点が近づいてきました。地図をよく見ると、すぐ近くに「東海道」が通っているのですが、この「東海通」って「東海道」インスパイア系のネーミングだったりするのでしょうか……?

2022年8月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (963) 「ポロモイ・ピヤラオマイ・エタシペ岩」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポロモイ

poro-moy
大きな・湾
poro-muy?
大きな・箕
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
知床半島の北部、ウイーヌプリの北西に「ポロモイ」と呼ばれる湾状の海岸があります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロムイ」と描かれていました。また戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

扨此下崖の下しばし過て
     ホロムイ
此処大湾に成イマエヘウシとヒヤルマイと相対す。其巾凡廿丁も有るべし。皆峨々たる岩壁中々筆の及ぶ処にあらず。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.46-47 より引用)
「イマエヘウシ」は「アウンモイ」の北の岩岬のことで、「ヒヤルマイ」は「ピヤラオマイ」のことと見られるため、「ホロムイ」は現在の「ホロモイ」のことと考えて間違い無さそうです。

また「午手控」には次のように記されていました。

しばしにて
   ホロムイ
此処大湾也。此処キャルマイとイマイヘウシの間の澗也。小石浜凡廿丁計、上は高山也。上に
   ホロムイノホリ
と云高山有。椴并に雑木原なり。中程に少し
   無名瀧
一条有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.285 より引用)
この「無名瀧」が現在の「ポロモイ川」である可能性がありそうです。ただ、現在の「ポロモイ」と「ポロモイ岳」は少し離れている(「ポロモイ岳」は「オキッチウシ川」の源流部にある)ため、要注意かもしれません。

本題に戻りますが、永田地名解には次のように記されていました。

Poro moi   ポロ モイ   大灣
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.493 より引用)
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 ポロ・モイ (poro-moy) 「大きな・湾」。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)
poro-moy で「大きな・湾」ではないかとのこと。確かにそう考えるしか無さそうな感じでしょうか。

ただ、この「ポロモイ」の形がすごく「箕」に似ているんですよね。「箕」は muy なので poro-muy で「大きな・箕」なんじゃないかと考えたくなります。松浦武四郎も「ポロムイ」と記録していますし、また「此処大湾也」と記したものの「大湾という意味」とは記していませんし……。

羅臼町の「春刈古丹」の南に「幌萌町」という所があるのですが、それと同型の地名なんじゃないかなぁ……と。

ピヤラオマイ

puyar-oma-i
窓・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)
「ポロモイ」の南西に、現在「アウンモイ」と呼ばれる湾状の地形がありますが、ここは戊午日誌「西部志礼登古誌」によると「ホンムイ」という別名?もあったようです。

「ピヤラオマイ」は「ポロモイ」の北にあり、「アウンモイ」(=ホンムイ)を更に小さくしたような湾状の地形です。戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

また此処の岬を廻りて少しの湾有。其処をこして
     キヤルマイ
本名はヒヤリマイなるよし。少しの岬に成て其岬に大穴有。是行貫いきとうしになる也。其訳は昔弁慶蝮蛇を踏潰す時、(弁慶の妹が)此穴の中より見て居られしと云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.45-46 より引用)
弁慶の妹……ですか。いきなりの新キャラの登場に動揺を隠せませんが……。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ピヤラモイ(piyar-oma-i) ピヤㇽ(窓),オマ(ある),イ(所)。立岩に穴があいていて、和人はそれを「窓岩」と呼んだ。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)
「窓」を意味する puyar という語がありますが、このあたりでは piyar と発音されていたということでしょうか(「地名アイヌ語小辞典」に「piyar, -i 【シャリ】窓」との記載あり)。puyar-oma-i で「窓・ある・ところ」と考えて良いかと思います。

それにしても、「弁慶がマムシ・ヘビを踏み潰す時」という話はどこから出てきたのでしょう……(汗)。流石にゼロからの創作ということではなく、「サマイクル」あたりの話からの借用だと思いますが……。

エタシペ岩

etaspe?
トド
(? = 典拠未確認、類型多数)
知床岬の北の沖合にある岩の名前で、地理院地図に名称が記載されています。……他には見事なまでに情報が手元に無いのですが、これまでの例から考えても「エタシペ」は etaspe で「トド」を意味すると考えて良いかと思われます。

岬の先の岩礁で、良くトドが寛いでいた……と言ったところなのでしょうね。

2022年8月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (962) 「レタラワタラ・イタシュベワタラ・アウンモイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

レタラワタラ

retar-watara
白い・岩
(典拠あり、類型あり)
オキッチウシ川河口の北の沖合にある岩です。地理院地図には「レタラワタラ」と明記されていますが、陸軍図には名称の記載が無く、明治時代の地形図にも見当たりません。また「東西蝦夷山川地理取調図」には「チヤラセワタラ」と描かれていました。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

並びて赤兀山(禿山)つゞき、過て
     ウ チ セ
此処大岩岬也。前に一ツの小島有。名義何故かしらず。また二丁計も過て
     チセワタラ
此処海中に大岩一ツ有。其岩に洞有。是に土人等漁業に出たる時宿するとかや。よって此名有り。チセとは家也。ワタラ前に云如く大岩の峨々たるものを云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.49-50 より引用)
「前に一ツの小島」と「海中に大岩」をどう読んだものかという話ですが、ここは「一つの小島」が「レタラワタラ」と解釈すべきでしょうか。また「チセワタラ」と「東西蝦夷──」の「チヤラセワタラ」は同一のものを指しているのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Retara pesh   レタラ ペㇱュ   白キ絶壁
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
ようやく「レタラ」の登場ですが、「ワタラ」ではなく「ペㇱュ」となっています。retar-pes で「白い・岩崖」と読めそうですね。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 レタラ・ワタラ (retar-watara) 「白い・岩」。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)
どうやら戦後の頃には「レタラ・ワタラ」という地名として認識されていたようですね。この「レタラワタラ」は航空写真で見ても見事に白っぽく見えていて、名実ともに retar-watara で「白い・岩」と言えそうです。

イタシュベワタラ

etaspe-watara
トド・岩
(典拠あり、類型あり)
「レタラワタラ」の北東 1.3 km ほどの沖合にある岩です。「レタラワタラ」よりも若干小さそうですが、地理院地図には標高が掲載されています(42 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「イタシヘワタラ」と描かれていて、明治時代の地形図にも「イタシュベワタラ」と描かれています。陸軍図には名前は記載されていませんが、岩礁ではなく島相当として描かれています。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

過て
     イタシベワタラ
此処材木石の小口塩苞を積重ねし如く重ねて一ツの大岬をなす。イタシベは海獱とどのこと也。ワタラは大岩の下の少しの磯有る処を云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.49 より引用)
また永田地名解にも次のように記されていました。

Itashbe watara   イタㇱュベ ワタラ   海馬岩
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
これはどう考えても etaspe-watara で「トド・岩」と見るしか無さそうですね。

なお「トド」という名前もアイヌ語に由来するという説があるようですが、知里さんの「動物編」によると叙事詩の中でトドが tonto と呼ばれたとのこと。これは「タラントマリ」(樺太西海岸)での記録で、実際には tondo と発音されることが多かったそうです。tonto あるいは tondo は雅語(古い言い回し)だった可能性がありそうですね。

アウンモイ川(アウンルイ川)

ahun-ruy?
入り込む・甚だしい
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「イタシュベワタラ」の 0.9 km ほど北東を「アウンモイ川」が流れています。河口のあたりは南北を岬に挟まれていることもあり、小石が広がる海岸となっています。地理院地図には、岬に挟まれた海域に「アウンモイ」との表示が見られます。

「アウンモイ」? それとも「アウンルイ」?

国土数値情報では「アウンルイ川」となっていて、地理院地図の「アウンモイ川」との異同が見られます。明治時代の地形図には「アプンル」という名前の川(地名かも)が描かれていて、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子アフンルイ」と「ホンアフンルイ」と描かれていることが確認できます。

どうやら本来は「アフンルイ」だった可能性が高くなってきたようで、ちょっと困惑を隠せないのですが、戊午日誌「西部志礼登古誌」の内容を確認したところ、更に頭を抱える事態に……。ちょっと長い目の引用をご容赦ください。

過て
     イマイベウシ
此処東ヒヤルヲマイと対し、西ヲキツチウシと対してまた少しの湾をなす也。此岬三ツに成りて峨々と聳えて突出す。其中なるは材木石のみ畳々重りて一岬をなす。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.48 より引用)
この「イマイベウシ」は、ポロモイ海岸の西にある岬のことだと考えられます(ちょうど象形文字の「山」のような形をした岬ですね)。そして問題の「アフンルイ」ですが……

扨是より五六丁崖の下を行
     アフンテエンルン
是アフンテの第一番出たる処なる故に号く。峨々たる岬に大岩洞有。此穴を舟か通る也。また是より内え入る哉
     ホンアフンルイ
     ヲン子アフンルイ
小さき澗なれども奥深く入るか故に号るよし。土人ども通行の節此奥に穴有るに必宿するよし也。此湾小さけれども至極に宜し。また並びて三四丁にて小洞二ツ有。是に皆石燕多し。また水鳥も見なれざるもの多し。此辺より山皆椴に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.48 より引用)
「エンルン」は enrum だとして、「アフンテ」が何を意味するのか……というところですが、これは {ahun-te} で「{入りこませる}」でしょうか。

入江の名前だった「アフンルイ」

そして本題の筈の「アフンルイ」については、永田地名解に次のように記されていました。

Ahun rui   アフン ルイ   深ク入ル處 細キ岩間アリテ海濱ヨリ凡ソ二十間許リ入レ込ム處ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.493 より引用)
どうやら ahun-ruy で「入り込む・甚だしい」と解釈できそうな感じでしょうか。そして察しの良い方は既にお気づきかもしれませんが、これはどう考えても今の「アウンモイ」のことでは無くて、アウンモイの北にある岬とその間の入江のこと……ですよね。

答え合わせの意味も兼ねて、もう少し「戊午日誌」を見ておきましょう。

少し行
     ホンムイ
少しの湾也。廻り皆岩壁、中程に一ツの小滝有。シレトコより此辺まで皆岩黒く、是より西のかた皆赤くなるなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.48-49 より引用)
あー、やはり……。実は「アウンモイ」の北東に「ポロモイ」があり、両者はどちらも似たような地形なのですね(そして「ポロモイ」のほうが 3 倍近く大きい)。

たまたま現在「アウンモイ」と呼ばれる湾の北に「アフンルイ」があり、その名前がうっかり湾の名前に転用されてしまい、そして「ルイ」は「モイ」の間違いだとして「アフンモイ」という謎な地名が「創作」されてしまった、と考えられそうです。

それにしても、誰が「アウンモイ」という地名を創作したのか気になるところです。「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のようにあったのですが……

 アウンモイ 「アウン・モイ」(aun-moy)。アウン(入りこんでいる。ずつと奥へ入りこんでいる),モイ(湾)。「オンネ・アウンモイ」(onne Aunmoy)とも云う。オンネ(老いたる,親の)。「アウンモイの親湾」の義。
 ポン・アウンモイ (pon Aunmoy) ポン(若い,子の)。「アウンモイの子湾」の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)※ 原文ママ
陸軍図では「アウンルイ川」となっていたので、これだと知里さんが「アウンモイ」という地名を創作した可能性も出てきてしまいますね。知里さんは永田地名解をチェックしていた筈ですが、「アウンルイ川」の位置が移転していたということに気づかなかったとしたら、「この『ルイ』は『モイ』の間違いだ」と判断した可能性も出てくるわけで……。

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2022年8月19日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 12) 「Let's Go!! 建設業」

国道 302 号の「かの里一丁目」交叉点にやってきました。近鉄の線路から 200 m ほどの場所ですが、戸田駅と伏屋駅の間なので、駅までは少し距離があります。
ここでも名二環が絶賛工事中なのですが、工事を担当する会社の名前が明記されているのですね。

2022年8月18日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 11) 「P52 橋脚を作っています」

「名古屋西 IC」で東名阪自動車道から流出して一般道に向かいます。
早速赤信号に引っかかってしまいましたが……、えっ?

2022年8月17日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 10) 「謎な IC ナンバリング」

長島 IC をスルーしてそのまま直進すると、今度は「木曽川」の橋梁が見えてきました。「揖斐・長良川」の橋梁と同じく、立派なワーレントラス橋です。
橋の途中ですが、ここから「80 km/h 規制」が開始とのこと。あれ、今まで何 km/h 規制だったんだろう……?

2022年8月16日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 9) 「大山田 PA」

桑名市に入りました。このあたりの東名阪道は小高い丘の中を抜ける区間が多いのが特徴でしょうか。
桑名 IC まで 2 km の案内標識がありました。公団ゴシックでは無い、新しいタイプのものに置き換えられているようですね。

2022年8月15日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 8) 「暴走族等対策にご協力を」

鈴鹿市に入りました。3 車線区間のように見えますが、一番左は新名神(連絡路)の亀山 JCT からの流入車線です。
この流入車線ですが、実は 2.2 km ほどあります。ここはかつての「鈴鹿本線料金所」の跡地ですが、ここまで流入車線が続いていたんですね。そして「お、もしかしてこのまま 3 車線になるのか?」という期待を抱かせたところで……

2022年8月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (961) 「カパルワタラ・ポトピラベツ川・オキッチウシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カパルワタラ

kapar-watara
平たい・(海中の)岩
(典拠あり、類型あり)
カシュニの滝」の 1 km ほど北北東に位置する岩礁の名前です。地図では独立した島として描かれているように見えますが、潮が引いた際には知床半島と繋がったりするのでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「カハラヲワタラ」という地名(と思われる)が描かれています。また戊午日誌「西部志礼登古誌」にも次のように記されていました。

またしばし過て
     カハラヲワタラ
大岩峨々と聳え海え突出す。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.51 より引用)
明治時代の地形図にも「カパルワタラ」という名前の島が描かれていました。「東西蝦夷──」の地名とその後の地名の照合に大活躍した「カパルワタラ」ですが、意外なことに「午手控」や「永田地名解」に言及がないほか、実は「斜里郡内アイヌ語地名解」にも記録が見当たりません。

「カパルワタラ」の意味ですが、kapar-watara で「平たい・(海中の)岩」と見て良いかと思われます。「カパルワタラ」の記録が見当たらない「斜里郡内アイヌ語地名解」ですが、「レタラ・ワタラ」や「エタㇱペ・ワタラ」などの記録があり、どちらも「ワタラ」は「岩」としていますので、「カパル・ワタラ」も同様に解釈して良さそうです。

ポトピラベツ川

putu-para-pet
河口・広い・川
(典拠あり、類型あり)
「カパルワタラ」の 2 km ほど北東で海に注ぐ川で、「タキミ川」という北支流を持ちます。明治時代の地形図にも「ポトピラペッ」という名前の川が描かれていて、「東西蝦夷山川地理取調図」には「フトヒラウシヘツ」という名前の川が描かれていました。

戊午日誌「西部志礼登古誌」の記録は現況と矛盾のある状態のように見えます。度々で申し訳ありませんが、表にまとめてみます。

「午手控」戊午日誌「西部志礼登古誌」東西蝦夷山川地理取調図明治時代の地形図斜里郡内アイヌ語地名解地理院地図
?カハラヲワタラ(大岩)カパルワタラ?カパルワタラ
ブイ(大黒岩岬)ブイ(大きな黒い岩)フイ?オラップイ?
シュランベツ(滝)シヨウランベツ(ブトソウウシベツ)ソウランヘツ??知床川?
ワニロ(滝)?ワンロ(滝)???
?アツトヒラウシヘツフトヒラウシヘツ?ポトピラペツボトビラベツ川ポトピラベツ川
ワニロ?????マムシの川
?フプウシリエト(岬)フフウシシリエト?ウプㇱノッ?
ヲキツ石(立岩)ヲキツ石(出岬)ヲキツテウシオケッチウㇱペツオキッチウシオキッチウシ川

このあたりの記録で謎なのが「ワニロ(滝)」と「マムシの川」なのですが、両者が同一のものを指していると考えるとかなり矛盾点は解消されます。

別の解法?としては「ポトピラベツ川」と「マムシの川」の位置を入れ替えるというものもあり、「マムシの川」の東に三等三角点「ホトピラベツ」があることもこの仮説を補強していると言えるでしょうか。ただ「ポトピラベツ川」の位置は明治時代以降一貫して現在の位置とされていることもあり、この考え方は実際には厳しいと思われます。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ボトビラベツ川 「プト゚・パラ・ペッ」(putu-para-pet),「川口が・巾広い・川」の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)
このあたりの川は細い谷のまま海に落ちるものが多い中で、ポトピラベツ川は河口の手前がちょっとした盆地のようになっているのが目を引きます。この解を見る限りは、「ポトピラベツ川」は現在の位置以外に考えられないような……。putu-para-pet で「河口・広い・川」と見て良いかと思われます。

オキッチウシ川(オケツチウシ川)

o-kicitce-us-i???
そこで・うめく・いつもする・ところ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
ポトピラベツ川の 2 km ほど北東を流れる川です。地理院地図では「オキッチウシ川」ですが、国土数値情報では「オケツチウシ川」とのこと。ちなみに陸軍図では「オケッチウシ川」となっていたので、要はその辺だということですね(どの辺だ)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲキツテウシ」という地名?が描かれていました。また明治時代の地形図には「オケッチウㇱペッ」とあります。ここまで見事にどれ一つとして同じ名前の記録が見当たりませんが、逆に全て「ほぼ同じ」レベルに収まっているというのも凄いですよね。

松茸のような形の岩

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

其より少し廻る哉
     ヲキツ石
此処一ツの出岬也。其前に高弐丈計根細く末太きもの一本海中に突出する故に号。其訳は常に風強き時は此処動くと云、よつて号るとかや。また一説土人等水流ナガシ(原注)ふち様成ものを作りて置しによつて号るとか云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.50 より引用)※ 原文ママ
「高弐丈計」と言うことは約 6 m ほどの高さの「もの」(岩でしょうね)が海中に突出していたということになりますね。沖合にある「レタラワタラ」のことかと考えたくなりますが、この大きさで高さが約 6 m とすると、形状から「海中に突出」とは言いづらいので、別に細長い(おそらく海水面に近い位置が削られてくびれた形状の)岩があった……と考えるべきでしょうか。

この奇岩については永田地名解にも次のように記されていました。

Okechi ushi   オケッチ ウシ  鳴ル處 高サ一丈許リノ岩アリテ頭太ク幹根細ク殆ンド松茸ノ如シ風之ヲ吹ケバ鳴ル故ニ名ク二十年前崩壊シテ今ヤ無シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
おっ。伝家の宝刀「崩壊して今は無し」が久々に炸裂しましたね! 「頭でっかちの松茸のような岩」があったという話は松浦武四郎の記録とも符合しますが、高さが「一丈ばかり」(約 3 m)と半減しているのが気になるところです。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オキッチウシ(o-kitche-us-i) オ(そこで),キッチェ(キチキチ鳴る),ウㇱ(いつも……する),イ(所)。「そこでいつもキチキチ鳴る所」の義。ここに頭が太く体から根もとへかけて細くて恰も松茸のような恰好の岩が立つていて,風が吹くたびにキチキチ鳴つていたという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)※ 原文ママ
これは……永田地名解の解釈を全面的に踏襲したものみたいですね。問題は「キッチェ」という擬音が果たして実在したのか……という点ですが、「萱野茂のアイヌ語時点」に次のような語が採録されていました。

キチッチェ【kicitce】
 赤子が泣き出す前にうめき声を出す.
(萱野茂「萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.207 より引用)
知里さんは「キチキチ鳴る」としていたことを考えると、流石にこれは違うでしょうか。ただ永田地名解には「鳴る」としか記されておらず、風が吹いた際に赤子のうめき声のような音が鳴ったと考えることは可能かもしれません。o-kicitce-us-i で「そこで・うめく・いつもする・ところ」ではないか、と。

他にいくつも可能性が

ただ「松茸のような形の岩」が「キチキチ鳴る」あるいは「うなる」という考え方も、なんかしっくり来ないんですよね……。「小辞典」には katchiw で「槍を投げてさす」という語が採録されているので、たとえば o-katchiw-us-i で「そこで・槍を投げてさす・いつもする・ところ」と解釈できたりしないでしょうか。「松茸のような形の岩」を「槍」に見立てたのではないかという考え方です。

あるいは、案外 o-niti-us-i で「河口に・あの串・ある・ところ」だったりしないでしょうか。「松茸のような形の岩」を「あの串」と見立てたのではないかと……。

あと、実は本当に「沖つ石」だったという可能性もあるかもしれません。このあたりは戊午日誌「西部志礼登古誌」でも「無名の小川」が続くということもあり、間宮林蔵あたりが「沖つ石」と名づけたというのも十分あり得る話なので……。

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2022年8月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (960) 「タキノ川・チャラセナイ川・カシュニの滝」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

タキノ川

so-ranke-pet?
滝・落とす・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
チャカババイ川の北で直接海に注いでいる川の名前です。道路は存在しませんが、河口付近には港湾施設と数件の番屋らしきものが見えます(「滝の下の番屋」と呼ばれているとのこと)。

早速ですが、「チャカババイ川」の回で作成した表を一部抜粋して再掲します。

「午手控」戊午日誌「西部志礼登古誌」東西蝦夷山川地理取調図明治時代の地形図斜里郡内アイヌ語地名解地理院地図
ルシャ(小川)ルシヤ(小川)ルシヤルサ川ルシャ川ルシャ川
レッパンヘツ(川)レツハンベツ(中川)??テッパンベツ川テッパンベツ川
?チヤカヲハニ(小川)チヤロカハエサカパパイ川チャカババイ川チャカババイ川
トシトルハウシトントルハウシ?ト゚ㇱト゚ルパウㇱ?
??ヘケ???
チャカヲハニ(小川)チヤカハヽイ*1チカホハニ???
トシトロハウシ?????
テケル(高崖)ヘケル*1(小川)テケル???
チヤラツセナイ(大滝)チヤラセナイ(大滝)ソランケペツチャラセイ?タキノ川
ホンユルシ(崖)ホンユルシ(岬)ホンエヲロシ*2?ウェン・エホルシ?

*1 「ヘケル」の別名が「チヤカハヽイ」とも読める。
*2 「ホンユルシ」の本名が「ホンエヲロウシ」との記載あり。但し「東西蝦夷山川地理取調図」では「チカホハニ」と「テケル」の間に「ホンエヲロシ」と描かれている。

各種の資料を読み合わせた限りでは、「東西蝦夷山川地理取調図」の「チヤラセナイ」が明治時代に「ソランケペツ」と呼ばれるようになり、それが和訳されて「タキノ川」になったと考えられます。so-ranke-pet で「滝・落とす・川」と読めますが、なぜ ran(落ちる)を他動詞化する -ke がついているのか、今ひとつ良くわからないですね……。

そして、そもそも「ソランケペツ」という川名がどこから湧いてきたのか……という点も気になる所ですが、「東西蝦夷──」をよく見ると「カハラヲワタラ」(=カパルワタラ)の東に「ソウランヘツ」という川が描かれていました。精査が必要ですが、現在「知床川」と呼ばれている川に相当する可能性がありそうです。

この「ソウランヘツ」について、戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

また過て
     シヨウランベツ
此処も高山の根転太石ごろたいし浜有。本名はプトソウウシベツと云、其口に滝が有ると云儀なる也。またソウランヘツと云は滝か落ると云儀なり。ソウは滝、ランは落ると云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.51 より引用)
やはり so-ran-pet で「滝・落ちる・川」と見て良さそうな感じですね。「タキノ川」の旧称と思しき「ソランケペツ」が ran ではなく ranke なのは、「滝が落ちる川」ではなく「滝を落とす川」なのだ、と言うことでしょうか。

肝心の「川名がシャッフルされた理由」については皆目不明ですが、松浦武四郎のうっかりミスなのか、それとも明治時代以降にうっかりミスがあったのか、どちらなんでしょう……?

チャラセナイ川

charasse-nay
すべり落ちている・川
(典拠あり、類型あり)
現在「チャラセナイ川」と呼ばれる川は、河口部に「カシュニの滝」を持つ川のことで、明治時代の地形図には「チャラッセナイ」と描かれています。懲りずに前回の表の抜粋から……。

「午手控」戊午日誌「西部志礼登古誌」東西蝦夷山川地理取調図明治時代の地形図斜里郡内アイヌ語地名解地理院地図
チヤラツセナイ(大滝)チヤラセナイ(大滝)ソランケペツチャラセイ?タキノ川
ホンユルシ(崖)ホンユルシ(岬)ホンエヲロシ*1?ウェン・エホルシ?
ウハシムイ(崖)ウハシムイ(岬)ウハシヲマイ?ウパショモイ?
エヘスカケウシ(崖穴)エベスカケウシ(湾)イエヘシニケウエウシ?チャロ・ワタラ・ウㇱ・モイ?
大岩サキホロシユマエンルン*2(大岩)????
?ホロワタラ*2(大岩)ホロワタニ??蛸岩?
チヤラセホロノホリ(高山)チヤラセホロノホリ??知床岳?
大瀧ホロソウ(滝)?チャラッセナイ?チャラッセイ?チャラセナイ川?
チヤラセホロ(洞窟)????
ハシュイワタラ(大岩)カシユニエンルン(大岬)???カシュニの岩
ハシュニ(岬)ハシユニ(岬)ハアシユニカㇱュウニカシュニ?
?カハラヲワタラ(大岩)カハラヲワタラカパルワタラ?カパルワタラ

*1 「ホンユルシ」の本名が「ホンエヲロウシ」との記載あり。但し「東西蝦夷山川地理取調図」では「チカホハニ」と「テケル」の間に「ホンエヲロシ」と描かれている。
*2 秋葉實氏は両者の順序が逆ではないかとしている。

……あ。「チャカババイ川」の回で作成した表には、明治時代の地形図に描かれていた「チャラッセナイ」の情報が抜け落ちていましたね……(すいません)。明治時代の「チャラッセナイ」は現在の「チャラセナイ川」と同じ位置だと見られるのですが、この川は戊午日誌「西部志礼登古誌」の「ホロソウ(滝)」に相当すると考えられます。

どうやら「チャラッセナイ」の名前は現在の「タキノ川」の位置から移転したと考えられるのですが、「ソランケペツ」も現在の「知床川」の位置から移転したと思われるため、3 つの川に跨がって川名がシャッフルされたということになるでしょうか。

改めて「カシュニの滝」の写真を見ているのですが、何と言うか……いかにも「滝を落とす川」と言った雰囲気ですよね……。ただ松浦武四郎は「ホロソウ」(poro-so)と「チヤラセホロ」(charasse-poru)という地名を記録しているため、やはりこの川は charasse-nay で「すべり落ちている・川」と見るのが正解でしょうか。

なお、「地名アイヌ語小辞典」の p.15 に「シャリ郡シレトコ半島」の Charassei の写真がありますが、この Charassei は「チャラセナイ川」の滝である「カシュニの滝」のことです(「斜里郡内アイヌ語地名解」でも「チャラッセイ」とありますね)。

カシュニの滝

kas-un-i-enrum?
仮小屋・ある・ところ・岬
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
ということで「カシュニの滝」ですが、「地名アイヌ語小辞典」には「カシュニの滝」の写真の横に、次のように記されていました。

chárasse ちゃラㇱセ 【H 北】《完》上に同じ。~-i [すべり落ちている・者] 白糸滝(キタミ国シャリ郡内シレトコ半島)。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.15 より引用)
思いっきり「上に同じ」となっちゃってますが、前項には「chár-ar-se ちゃラㇽセ《完》」で「すべっている;すべり降りている」とあります。

これを素直に読み解くと、現在我々が「カシュニの滝」と呼んでいる滝を「白糸滝」と呼ぶ流儀があったように見えます。改めて明治時代の地図を見てみると、現在の「カシュニの滝」の位置に「チャラッセナイ」と描かれていて、「カパルワタラ」の陸側に「カシュウニ」と描かれています。「カパルワタラ」のあたりに「カシュウニ」という地名があった、ということになりますね。

戊午日誌「西部志礼登古誌」によると、「カハラヲワタラ」の至近に「ハシユニ(カアシユニ)」という岬があり、そこから 0.8 km ほど南西に「カシユニエンルン」があり、その先に「チヤラセホロ」(洞穴)があるように読めます(前項の表も参照ください)。

「チヤラセホロ」と「ホロソウ」のどちらが現在の「カシュニの滝」に相当するのか……という点に若干の謎も残りますが、ここでのポイントは
  • 「ハシユニ(カアシユニ)」と「カシユニエンルン」という地点があり、両者は 0.8 km ほど離れていた
  • 「カシュニの滝」は「カシユニエンルン」からそれほど遠くない
の二点でしょうか。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 カシュニ(kas-un-i) カㇱ(丸小屋,狩小屋),ウン(ある),イ(所)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.266 より引用)
「小屋」を意味する語としては kaskucha があり、kas が一時的なものであるのに対し、kucha は恒常的に維持される小屋のことだとされます。ただ上記の解では「一時的な」というニュアンスが削がれているようにも見えますね。

そして「ハシユニ」と「カシユニエンルン」という似て非なる地点が併存していた(と記録されている)件ですが、「カパルワタラ」のあたりに kas(仮小屋)があり、その近くの岬を kas-un-i-enrum で「仮小屋・ある・ところ・岬」と呼んだと考えれば筋が通るでしょうか。より正確には {kas-un-i}-enrum で「{カシュニ}・岬」とすべきかもしれません。

つまるところ、「カシュニの滝」や「カシュニの岩」のあたりには「仮小屋」は無かったんじゃないか……と思われるのですが……(「仮小屋」は「カパルワタラ」の近くにあったんじゃないか、ということです)。

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2022年8月12日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 7) 「亀山直結線」

関 JCT を通過すると、間もなく名阪国道の起点である「亀山 IC」です。今まで気にしたことは無かったのですが、亀山 IC もいつの間にか出口が二つになっていたんですね。
東名阪道と伊勢自動車道は、名阪国道の亀山 IC と関 JCT を経由する形で結ばれていました。この僅か 1.7 km の無料区間のために二箇所の本線料金所を経由する必要があったのですが、2005 年に「亀山直結線」が開通したことでこの問題は解消されています。前方に言えている高架が「亀山直結線」……と言うんですね(今知った)。

2022年8月11日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (136) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十二信」(初版では「第二十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

城跡

久保田(現在の秋田市)で師範学校と工場、病院を見学したイザベラは、「日本の警察」についての洞察を記した後に「城跡」というトピックを続けていました。このトピックは「普及版」で丸々削除されているのですが、内容に乏しいという判断だったのでしょうか。

 久保田(秋田市)には大名ダイミョーの城砦のための壮大な保塁、三つの築堤があり、高台に三重に堀がめぐらしてあり、素晴らしい木材になる樹木の木立が幾つかあります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.96 より引用)
未だに混乱してしまうのですが、秋田市内には「秋田城跡」と「久保田城跡」があり、秋田駅のすぐ近くにあるのが「久保田城跡」で、フェリーターミナルのある土崎駅の南(海側)にあるのが「秋田城跡」とのこと。

何故近くに複数の城があるのか……という疑問が出てきますが、実は時代が全く異なるようで、「久保田城」が江戸時代の城なのに対して「秋田城」は奈良時代から平安時代にかけての「城柵」だったとのこと。城は城でも「多賀城」と似たような位置づけのものだったんですね。

さすがのイザベラ姐さんも「秋田城」に関しては完全スルーで「久保田城」についての詳細を記していましたが、「打ち捨てられ顧みられることもない木造建物が陥る崩れ落ちそうな種類の廃墟」としていて、見るべきものは殆ど無い……という判断だったようです。

弁護士の増加

「城跡」の後には「弁護士の増加」というトピックが続いていましたが、こちらも「普及版」ではカットされています。まぁ、これは今までのカット基準を考えても順当でしょうか。

 久保田には、その他の県庁所在地におけると同じく、民事事件と刑事事件に対する完全な司法権を有する地方裁判所がありますが、重大な判決(死刑判決)は上級裁判所による承認を受けなければなりません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.97 より引用)※ 原文ママ
「上級裁判所」→「地方裁判所」→「簡易裁判所」というヒエラルキーの存在が記されています。1875 年に「大審院」が設置されている筈ですが、イザベラの言う「上級裁判所」=「大審院」なんでしょうか……?

イザベラは、日本の司法制度の変化(近代化、ですよね)に伴い「弁護士の集団」が生じたとして、次のように記していました。

私はその[弁護士の]しるし[徴章]を学んだのですが、驚いたのは、その数で、久保田にはあまりにたくさんいますので、この地は最も訴訟が好きな所ではないかと考えられるほどです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.97 より引用)
そして弁護士が激増した理由を次のように推察していました。

法律はサムライに好まれる仕事になってきています。というのは、彼らはふつう筆を使うことに長けており、年に 2 ポンドの費用で弁護士免許を維持しますので、私が思うには、それは儲かる仕事の一つにちがいないのでしょう。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.97 より引用)
なるほど、そう言われてみれば確かに……。今の日本は「ほぼ誰もが普通に読み書きできる社会」ですが、当時は必ずしもそうでは無かったということなのでしょう。そして「弁護士」と言えば「士業」なわけで、「サムライの業」なんですよね。

「第二十二信」の終わりに

イザベラは久保田(秋田)について、「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである」と記しています。その理由として「純日本的な町である」ことと「さびれた様子が無い」ことを挙げています。「久保田城」は廃墟同然だったようですが、これはまぁ例外ということで。

イザベラは、第二十二信の最後を次の文で締めていました。

私は、もうヨーロッパ人に会いたくはない。実際に、私は彼らを避けるために遠く離れたところへ行こうとしている。私はすっかり日本人の生活に慣れてきた。このように一人ぼっちの旅を続けた方が、ずっと多く日本人の生活を知ることができるのではないかと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.260 より引用)
厳密には通訳兼アシスタントの伊藤が同行しているとは言え、彼はあくまでイザベラの「従者」としての位置づけなので、まぁ「ぼっち旅」だと言えなくは無いですよね。そしてイザベラのこの考え方については、「ぼっち旅」好きの方にはかなり共感できるものなんじゃ無いでしょうか。

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2022年8月10日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 6) 「公団ゴシックの興亡 2017」

「加太トンネル」を抜けて亀山市に入りました。名古屋と亀山までの距離が表示されていますが、このくたびれ具合がいかにも名阪国道らしくて良い感じです。
名阪国道で最長の「関トンネル」(1,140 m)を通過します。名阪国道にはトンネルは 2 箇所しか無いのですが、どちらも前後に長い勾配があるため、結構なインパクトがあります。

2022年8月9日火曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 5) 「上野 IC のオービスの謎」

三重県に入ります。名阪国道は既存の国道 25 号(いわゆる「非名阪」)の整備を棚上げする代わりに建設された自動車専用道路という位置づけのため、通行料金が無料で IC の数も多くなっています。五月橋 IC と次の「治田はった IC」の間も 1.9 km しか離れていません。
自動車専用道路で、高速道路と同様の緑色の看板が設置されているため勘違いされやすいのですが、「ここは一般国道」です。

2022年8月8日月曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 4) 「五月橋 IC」

名阪国道を東に向かいます。針 IC のあたりの標高は 460 m ほどで、日ポリ化工の本社工場のあたりは標高 510 m ほどでしたが、そこからは下り坂が続きます。
神野口こうのぐち IC を過ぎると「急勾配速度落せ」の看板が。平坦な道に見えますが、ずっと下り坂なんですよね。

2022年8月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (959) 「チャカババイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チャカババイ川

chakpa-nay???
戸を開ける・川
(??? = 典拠なし、類型未確認)
「テッパンベツ川」とその北支流である「コタキ川」の北隣を流れる川の名前です。ルシャ川やテッパンベツ川と比べると随分と短い川で、山中を酷く蛇行しているのが特徴でしょうか。

明治時代の地形図には「ルサ川」の北東に「サカパパイ川」という名前で描かれていました。「テッパンベツ川」の名前は無く、より規模の小さい「チャカババイ川」が描かれているというのも不思議な感じがしますね。

「チャカババイ」を探せ

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルシヤ」と「カハラヲワタラ」という川名・地名が描かれています。「カハラヲワタラ」は現在「カパルワタラ」と呼ばれているあたりのことだと思われるのですが、問題はこの両者の間に膨大な地名・川名らしきものが描かれている点で……これは表の出番ですかね。

「午手控」戊午日誌「西部志礼登古誌」東西蝦夷山川地理取調図明治時代の地形図斜里郡内アイヌ語地名解地理院地図
ルシャ(小川)ルシヤ(小川)ルシヤルサ川ルシャ川ルシャ川
レッパンヘツ(川)レツハンベツ(中川)??テッパンベツ川テッパンベツ川
?チヤカヲハニ(小川)チヤロカハエサカパパイ川チャカババイ川チャカババイ川
トシトルハウシトントルハウシ?ト゚ㇱト゚ルパウㇱ?
??ヘケ???
チャカヲハニ(小川)チヤカハヽイ*1チカホハニ???
トシトロハウシ??*2???
テケル(高崖)ヘケル*1(小川)テケル???
チヤラツセナイ(大滝)チヤラセナイ(大滝)ソランケペツチャラセイタキノ川
ホンユルシ(崖)ホンユルシ(岬)ホンエヲロシ*2?ウェン・エホルシ?
ウハシムイ(崖)ウハシムイ(岬)ウハシヲマイ?ウパショモイ?
エヘスカケウシ(崖穴)エベスカケウシ(湾)イエヘシニケウエウシ?チャロ・ワタラ・ウㇱ・モイ?
大岩サキホロシユマエンルン*3(大岩)????
?ホロワタラ*3(大岩)ホロワタニ??蛸岩?
チヤラセホロノホリ(高山)チヤラセホロノホリ??知床岳?
大瀧ホロソウ(滝)??チャラッセイチャラセナイ川?
チヤラセホロ(洞窟)????
ハシュイワタラ(大岩)カシユニエンルン(大岬)???カシュニの岩
ハシュニ(岬)ハシユニ(岬)ハアシユニカㇱュウニカシュニ?
?カハラヲワタラ(大岩)カハラヲワタラカパルワタラ?カパルワタラ

*1 「ヘケル」の別名が「チヤカハヽイ」とも読める。
*2 「ホンユルシ」の本名が「ホンエヲロウシ」との記載あり。但し「東西蝦夷山川地理取調図」では「チカホハニ」と「テケル」の間に「ホンエヲロシ」と描かれている。
*3 秋葉實氏は両者の順序が逆ではないかとしている。

随分と大きな表になってしまいましたが、どうかご容赦を。戊午日誌には「チヤカヲハニ」と「チヤカハヽイ」という似た名前の川?が記録されていますが、「午手控」には「チャカヲハニ」だけが記録されています。

また「午手控」では「トシトルハウシ」と「トシトロハウシ」という似た地名?が記録されているという混乱が見られます。「斜里郡内アイヌ語地名解」では「チャカババイ川」と「ト゚ㇱト゚ルパウㇱ」に統一されているので、似た地名・川名が複数存在するのは記録の重複があったと考えたいです。

「折れそうな岩」説

川の規模の割には何故か記録が良く残っている感のある「チャカババイ川」ですが、永田地名解にも次のように記されていました。

Sa kapapa-i   サ カパパイ   前ヘニ傾キ折レントシタル岩 「」ハ前「カパパ」ハ傾キ折レントスルノ義「」ハ處ノ義、松浦地圖ハ「チヤロカハエ」ニ作リ松浦知床日誌ニハ「チヤカヲハニ」ニ作リ云フ子供ノ喧嘩セシ故事アリトハ誤リナリ松浦氏ノ地圖ト日誌ト相異ナルコト獨リ之ノミナラズ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
解の妥当性についてはさておき、永田方正が松浦武四郎の記録を良く検討していることがわかる一文ですね。永田方正は戊午日誌「西部志礼登古誌」の「チヤカヲハニ」と「東西蝦夷山川地理取調図」の「チヤロカハエ」が「サ カパパイ」であるとしていて、(重複と思われる)「チヤカハヽイ」と「チカホハニ」を切り捨てているようです。

「『カパパ』は傾き折れんとするという意味」というのは意味不明ですが、「アイヌ語千歳方言辞典」によると kapa で「~をペチャンコにする」という意味があるとのこと。なお kapap は「コウモリ」を意味するそうで、「アイヌ語方言辞典」によると宗谷・樺太・千島以外の地点で用例が確認されています。

「喧嘩をした子供が泣いた」説

永田方正がドヤ顔で否定した戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。ちょっと長いですが「チヤラセナイ」(=タキノ川?)から引用しますと……

またしばし過て
     チヤラセナイ
大滝一ツ高岸に有、よつて号るなり。是より先転太浜ごろたはま少しヅヽ有る様に成たり。しばし過
     ペケル
高岩岸の下に少さき川有るなり。其辺木立なり、是をまた
     チヤカハヽイ
と云よし、其訳何なる哉しらず。五六丁も岸の下を行て平浜
     トシトルハウシ
此処むかし判官様縄をば引て干たるか故に号るとかや。此上峨々たる山也。並びて
     チヤカヲハニ
小川有。小石原少し有。上は直にルシヤ岳に成る也。其訳は往昔子供か此処にて喧嘩をしてなきたるよしにて申伝ふ。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.53-54 より引用)※ 原文ママ
「チヤ」で始まる地名のオンパレードで Finzy Kontini もビックリと言ったところですが、「チヤカハヽイ」と「チヤカヲハニ」に重複の可能性があるのは既述の通りです。

「泣く」を意味する自動詞(一項動詞)は cis ですが、ciskar で「~を泣く」を意味する他動詞(二項動詞)になるとのこと。「チヤカヲハニ」あるいは「チヤロカハエ」をどう解釈するかは……ちょっと良くわからないというのが正直なところです。

「擬音」説

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 チャカババイ川 「チャカカパイ」(chakakapa-i)。チャカカパ(ジャアジャアする),イ(所)。水がジャアジャア落ちる所。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.266 より引用)
こ、これは……。またしても新説が飛び出しましたが、少なくとも知里さんは既存の説を捨てた……ということになりますね。

「チャカカパ」という語は辞書類にも見当たりませんが、「アイヌ語沙流方言辞典」には「コイチャカカ」という自動詞が立項されていました。

koycakaka コイチャカカ【自動】[koy-cak-a-ka 波・(擬音の語根)・(他動詞化)・(重複)] (水鳥が)サーッと水を切って行く。
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.353 より引用)
ふむふむ。やはりこちらも擬音なんですね。

また「アイヌ語千歳方言辞典」には「チャカカ」という二項動詞(他動詞)が立項されていました。

チャカカ cakaka  【動2】 (浮んできたあく)をすくって、鍋の中に再びたらたらとたらし、あくの泡をつぶして消す;チャカ caka は「開く」ことであるので、泡を開いて消すことを指しているのかもしれない。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.260-261 より引用)※ 原文ママ
鍋での「あく取り」の専門用語?なんですね。もっとも灰汁を鍋に戻すというのはユニークかもしれませんが……。「チャカババイ川」の意味も「あく取りに行く」とかだったら斬新ですが、流石に無いですよね。

「戸を開ける・川」説

上記の引用文中に「チャカ caka は『開く』ことである」とあるのですが、具体的には「(戸などを)開ける」という意味とのこと。そう言えば「チャカババイ川」は途中で大きく蛇行していて、下流部から上流部を見通すことができない地形を形成していました。

川の規模は異なりますが、道北の中川町に「安平志内あべしない川」という川があります。この川も途中で大きく山がせり出していて、下流部から上流部を見通すことができなくなっている場所があるのですが、apa-us-nay で「戸・ついている・川」である可能性があるんじゃないか……と推測しています。

「安平志内川」からの類推なのですが、「チャカババイ川」も chakpa-nay で「戸を開ける・川」だった可能性があるんじゃないかと……。

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2022年8月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (958) 「ルシャ・テッパンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルシャ

ru-e-san-i
道・そこで・浜に出る・ところ
(典拠あり、類型あり)
ウトロと知床岬の中間あたりの場所で、ルシャ川が流れています。ルシャ川(斜里町)とルサ川(羅臼町)が流れる谷は「硫黄山」と「知床岳」の間の鞍部に相当するもので、最高地点である「ルサ乗り越え」でも標高 278 m ほどしかありません(国道 334 号の「知床峠」の標高は 738 m)。

厳密には「ルシャ」という地名は存在しないのかもしれませんが、知床観光船の折り返し地点として地名に類する使われ方をされている……との認識です。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルシヤ」という名前の川が描かれています。羅臼町の「ルサ川」に相当する位置にも同名の「ルシヤ」という名前の川が描かれている点に注意が必要でしょうか。

明治時代の地形図では、どちらの「ルシヤ」も「ルサ川」と描かれていました。現在は斜里側が「ルシャ」で羅臼側が「ルサ」となっていますが、これは意図的に表記を分けた……とかだったら面白いですね。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

此処少し浜有、凡一丁計にして
     ル シ ヤ
此処小川一すじ。其両方少し浜有。沢目はレツハンヘツの沢と合て有る故に大きし。是より山越子モロ領ルシヤえ氷雪の上三里といへり。又従シレトコ是迄凡三里と云。
ルシヤの名義前に云ごとし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.54 より引用)
「子モロ領ルシヤえ氷雪の上三里」とありますが、ルシャ川河口からルサ川河口まで直線距離で 9 km 弱なので、「三里」(約 11.8 km)という数字はかなり正確なものに思えます。

「ルシヤ」の意味については「前に云ごとし」とありますが、戊午日誌「東部志礼登古誌」には羅臼の「ルサ川」について次のように記されていました。

廻りて
     ル シ ヤ
此処少しの浜有。其中に川一すじ有。是よりシヤリ領のルシヤえ土人共氷雪の上一日にて越るよし、よつて号るとかや。ルシヤは道路越の儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.26 より引用)
永田地名解には、斜里の「ルシャ」について次のように記されていました。

Rūsa (ni)   ルーサ   阪 「ルーサニ」ノ短縮語ナリ古ヘ此處ニアイヌ村アリテ東地ノ「ルーサ」ニ路ヲ付ケ互ニ往復セシ處ナリト云フ「ルシヤ」岳ハ此名ヲ取リテ名ケタルナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
ん……? 確かに「知円別岳」の北東に「ルシャ山」が存在しますが、これは明治時代からそう呼ばれていたのでしょうか。

「ルシャ」の語源については、松浦武四郎は「道路越」とし、永田方正は「阪」としていますが、「ルーサニ」は ru-e-san-i で「道・そこで・浜に出る・ところ」と読み解けるので、要はどちらも同じことを言っていたと考えて良さそうですね。

テッパンベツ川

rep-wa-an-pet
沖・に・ある・川
(典拠あり、類型あり)
ルシャ川の北隣を流れる川の名前です。ルシャ川とテッパンベツ川の間は 400 m ほどしか離れていませんが、どちらの川も知床半島の脊梁山脈を水源とする、比較的大きな川です。

何故か「東西蝦夷山川地理取調図」には見当たりませんが、明治時代の地形図には「テツパンペツ」という名前の川が描かれていました。また戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     レツハンベツ
中川也。此川ルシヤと合して一沢に成る也。川巾は凡一二間計、小石急流に成て落る。其訳はシレトコより第三番目の岬と成、其岬の内に有るが故に号るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.54 より引用)
rep-番-pet で「三つ・番・川」ではないか……と読めますが、なんとも豪快な解釈ですね。ただ pan は「下の方の」とも解釈できるので、rep-pan-pet で「三つ・下の方の・川」と解釈することも可能……かもしれません(色々と疑わしいですが)。あるいは re-pan-pet で「三・下の方の・川」とも読める……かも?

沖にある……川?

永田地名解にはそれらしき川の記載が見当たりませんでしたが、「斜里郡内アイヌ語地名解」に記載がありました。

 テッパンベッ川 「レッパンペッ」(rep-wa-an-pet) 。「沖・にある・川」「内地の反対の方にある川」の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.266 より引用)
んー。「テッパンベツ」がどうやら「レッパンベツ」らしいと言うのは戊午日誌の記載からも裏付けられるのですが、「沖にある川」というのは意味が良くわかりませんね。沖にあるのは「島」か「岩」だと思うのですが……。

ただ、「斜里郡内アイヌ語地名解」をよーく読むと、直前の「ルシャ川」の項にこんなことが記されていました。

山を距てて東海岸にも「ルシャ川」があり,東西両海岸のアイヌがそれぞれ山越えして反対側の海岸へ出て来る道筋に当つていたからそう名づけられたのである。この川をアイヌは「ヤワンペッ」(ya-wa-an-pet)とも云つた。「陸の方に・ある・川」「内地の方にある川」の義。次項参照。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.266 より引用)※ 原文ママ
!!!!! なるほど、そういう意味でしたか……。「ルシャ川」の別名が ya-wa-an-pet で、その隣にある川(=テッパンベツ川)が rep-wa-an-pet で「沖・に・ある・川」だと言うことですね。

ya-wa-an-pet は「陸・に・ある・川」で、repya の対義語なので「沖・に・ある・川」ということになります。「陸」と「沖」はそのまま捉えるのではなく、「陸」は「斜里側」で「沖」は「知床岬側」と捉える必要があったというのがポイントだったようです。

「アイヌ語入門」では「止別川」が「テッパンベツ川」と対になる存在として言及されていました。これは……流石に離れすぎているようにも思えるのですが、どうなんでしょう。

仲良く並んだ「兄弟川」

前述の通り、テッパンベツ川は河口付近でルシャ川とほぼ並んで流れています。どちらも似た規模の川のため「兄弟川」と認識されたのでしょうが、どちらも海に直接注いでいるので「ペンケ」「パンケ」(川上側・川下側)と呼び分けるわけにもいかなかった……と言ったところでしょうか。

penke-panke- に似た表現で pe-na-wa-an-(山・のほう・に・ある)と pa-na-wa-an-(海・のほう・に・ある)というものがありますが、rep-wa-an-pa-na-wa-an- とほぼ同義と言って良さそうでしょうか。アイヌの地名は想像以上にスケールの大きいものも少なくないので、ちゃんと意図を理解できるようにしたいものです。

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2022年8月5日金曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 3) 「21 世紀の公団ゴシック」

「針インター」交叉点を直進して IC 入口に向かいます(もちろん青信号に変わってからですよ)。
名阪国道は無料なので料金所はありません。左カーブの先(実際はカーブの途中)で「大阪」と「名古屋」に分岐する旨の案内が出ていますね。

2022年8月4日木曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 2) 「『T・R・S』と書いて『テラス』と読む」

奈良県道 38 号「桜井都祁線」で名阪国道の「針 IC」に向かいます。名阪国道の下にカルバート(ですよね)が見えてきましたが、明らかに狭そうな感じです。
青看板には妙にリアルな「おにぎり」と「ヘキサ」が描かれていますが、県道 38 号の幅が明らかに狭くなっています。これまた妙にリアルな……。

2022年8月3日水曜日

春の道東・船と鉄路とバスの旅 2017 (プロローグ 1) 「なんじゃこりゃああ™」

ある晴れた日のこと(またか)。国道 165 号を東に向かって車を走らせていたのですが……
西」交叉点にやってきました。「総本山長谷寺」の巨大な石碑の左になんだか狭そうな道が見えます。

2022年8月2日火曜日

紀勢本線特急列車 (終) 「尾鷲~松阪」

特急「ワイドビュー南紀 8 号」は尾鷲を出発して、次の停車駅となる紀伊長島に向かいます。これは相賀あいが駅を通過して船津駅に向かう途中ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

駅チカの教習所

船津駅にやってきました(通過ですが……)。船津駅の駅裏には「紀北自動車学校」があるのですが、駅チカの自動車教習所というのは実に理にかなった立地ですよね。

2022年8月1日月曜日

紀勢本線特急列車 (47) 「賀田~尾鷲」

二木島にぎしまを通過すると 2,933 m の「曽根トンネル」を抜けて尾鷲市に入ります。二木島と賀田かたの間は国道 311 号が東に大きく遠回りする形で結んでいますが、この区間が全通したのは 2001 年とのこと。それ以前は、鉄道以外で二木島から賀田に移動するには国道 42 号経由しか無く、かなりの遠回りを強いられていたことになります。

ちなみに Wikipedia によると、紀勢本線も最初は新鹿と賀田の間を直結するルートを想定していた(おそらく現在の「熊野尾鷲道路」のルートに近いと思われる)ところ、地元住民の陳情により今のルートに落ち着いたとのこと。ただ陳情によって掘削が決まった「曽根トンネル」が相当な難工事になったというのは、なんとも皮肉な話ですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

賀田駅

賀田駅は 1 面 2 線の島式ホームの駅ですが、一線スルー構造となっているのが珍しいですね。

紀勢本線はとにかく列車交換できない駅が少ないのが印象的ですが、熊野市と賀田の間には「新鹿」しか列車交換可能な駅が無く、「大泊」「波田須はだす」「二木島にぎしま」の 3 駅が列車交換できない構造です。開通が戦後ということもあり、想定される列車密度が明らかに下がっているように見えますね。

二木島よりもちょっと大きな漁港の町という印象の賀田を通過して、2,839 m の「亥ヶ谷トンネル」に入ります。長いトンネルが続くのもいかにも戦後に開通した区間らしいですが、かなり工事が難航したトンネルも多かったとのこと。

賀田駅については、日本最長路線バスの旅(番外編)#6 「国内精鋭のトンネル職人が集結」もご覧ください。

三木里駅

三木里駅を通過します。1 面 1 線の棒線駅ですが、なぜか駅舎はホームの東端にあります。あ、この駅、2 面 2 線の相対式ホームだったのを 1 面 1 線に縮小したのですね。それで駅舎がホームの端にあったのか……(構内踏切はホームの端に設置するのがセオリーなので)。
三木里駅は 1958 年に「紀勢東線」が九鬼から三木里まで延伸した際に設置された駅で、紀勢東線の最南端の駅にして終着駅でしたが、翌年の 1959 年に三木里と新鹿の間が開通したことにより「紀勢本線」の途中駅となりました。

三木里駅を通過してすぐに、学校らしき建物が見えてきました。かなり古そうな建物ですが、これは「尾鷲市立三木里小学校」のようで、残念ながら 2019 年 3 月で閉校になってしまったとのこと。この校舎、ドラマや映画のロケに使えそうな佇まいですよね……。