2022年8月14日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (961) 「カパルワタラ・ポトピラベツ川・オキッチウシ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カパルワタラ

kapar-watara
平たい・(海中の)岩
(典拠あり、類型あり)
カシュニの滝」の 1 km ほど北北東に位置する岩礁の名前です。地図では独立した島として描かれているように見えますが、潮が引いた際には知床半島と繋がったりするのでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「カハラヲワタラ」という地名(と思われる)が描かれています。また戊午日誌「西部志礼登古誌」にも次のように記されていました。

またしばし過て
     カハラヲワタラ
大岩峨々と聳え海え突出す。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.51 より引用)
明治時代の地形図にも「カパルワタラ」という名前の島が描かれていました。「東西蝦夷──」の地名とその後の地名の照合に大活躍した「カパルワタラ」ですが、意外なことに「午手控」や「永田地名解」に言及がないほか、実は「斜里郡内アイヌ語地名解」にも記録が見当たりません。

「カパルワタラ」の意味ですが、kapar-watara で「平たい・(海中の)岩」と見て良いかと思われます。「カパルワタラ」の記録が見当たらない「斜里郡内アイヌ語地名解」ですが、「レタラ・ワタラ」や「エタㇱペ・ワタラ」などの記録があり、どちらも「ワタラ」は「岩」としていますので、「カパル・ワタラ」も同様に解釈して良さそうです。

ポトピラベツ川

putu-para-pet
河口・広い・川
(典拠あり、類型あり)
「カパルワタラ」の 2 km ほど北東で海に注ぐ川で、「タキミ川」という北支流を持ちます。明治時代の地形図にも「ポトピラペッ」という名前の川が描かれていて、「東西蝦夷山川地理取調図」には「フトヒラウシヘツ」という名前の川が描かれていました。

戊午日誌「西部志礼登古誌」の記録は現況と矛盾のある状態のように見えます。度々で申し訳ありませんが、表にまとめてみます。

「午手控」戊午日誌「西部志礼登古誌」東西蝦夷山川地理取調図明治時代の地形図斜里郡内アイヌ語地名解地理院地図
?カハラヲワタラ(大岩)カパルワタラ?カパルワタラ
ブイ(大黒岩岬)ブイ(大きな黒い岩)フイ?オラップイ?
シュランベツ(滝)シヨウランベツ(ブトソウウシベツ)ソウランヘツ??知床川?
ワニロ(滝)?ワンロ(滝)???
?アツトヒラウシヘツフトヒラウシヘツ?ポトピラペツボトビラベツ川ポトピラベツ川
ワニロ?????マムシの川
?フプウシリエト(岬)フフウシシリエト?ウプㇱノッ?
ヲキツ石(立岩)ヲキツ石(出岬)ヲキツテウシオケッチウㇱペツオキッチウシオキッチウシ川

このあたりの記録で謎なのが「ワニロ(滝)」と「マムシの川」なのですが、両者が同一のものを指していると考えるとかなり矛盾点は解消されます。

別の解法?としては「ポトピラベツ川」と「マムシの川」の位置を入れ替えるというものもあり、「マムシの川」の東に三等三角点「ホトピラベツ」があることもこの仮説を補強していると言えるでしょうか。ただ「ポトピラベツ川」の位置は明治時代以降一貫して現在の位置とされていることもあり、この考え方は実際には厳しいと思われます。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ボトビラベツ川 「プト゚・パラ・ペッ」(putu-para-pet),「川口が・巾広い・川」の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)
このあたりの川は細い谷のまま海に落ちるものが多い中で、ポトピラベツ川は河口の手前がちょっとした盆地のようになっているのが目を引きます。この解を見る限りは、「ポトピラベツ川」は現在の位置以外に考えられないような……。putu-para-pet で「河口・広い・川」と見て良いかと思われます。

オキッチウシ川(オケツチウシ川)

o-kicitce-us-i???
そこで・うめく・いつもする・ところ
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
ポトピラベツ川の 2 km ほど北東を流れる川です。地理院地図では「オキッチウシ川」ですが、国土数値情報では「オケツチウシ川」とのこと。ちなみに陸軍図では「オケッチウシ川」となっていたので、要はその辺だということですね(どの辺だ)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲキツテウシ」という地名?が描かれていました。また明治時代の地形図には「オケッチウㇱペッ」とあります。ここまで見事にどれ一つとして同じ名前の記録が見当たりませんが、逆に全て「ほぼ同じ」レベルに収まっているというのも凄いですよね。

松茸のような形の岩

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

其より少し廻る哉
     ヲキツ石
此処一ツの出岬也。其前に高弐丈計根細く末太きもの一本海中に突出する故に号。其訳は常に風強き時は此処動くと云、よつて号るとかや。また一説土人等水流ナガシ(原注)ふち様成ものを作りて置しによつて号るとか云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.50 より引用)※ 原文ママ
「高弐丈計」と言うことは約 6 m ほどの高さの「もの」(岩でしょうね)が海中に突出していたということになりますね。沖合にある「レタラワタラ」のことかと考えたくなりますが、この大きさで高さが約 6 m とすると、形状から「海中に突出」とは言いづらいので、別に細長い(おそらく海水面に近い位置が削られてくびれた形状の)岩があった……と考えるべきでしょうか。

この奇岩については永田地名解にも次のように記されていました。

Okechi ushi   オケッチ ウシ  鳴ル處 高サ一丈許リノ岩アリテ頭太ク幹根細ク殆ンド松茸ノ如シ風之ヲ吹ケバ鳴ル故ニ名ク二十年前崩壊シテ今ヤ無シ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
おっ。伝家の宝刀「崩壊して今は無し」が久々に炸裂しましたね! 「頭でっかちの松茸のような岩」があったという話は松浦武四郎の記録とも符合しますが、高さが「一丈ばかり」(約 3 m)と半減しているのが気になるところです。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オキッチウシ(o-kitche-us-i) オ(そこで),キッチェ(キチキチ鳴る),ウㇱ(いつも……する),イ(所)。「そこでいつもキチキチ鳴る所」の義。ここに頭が太く体から根もとへかけて細くて恰も松茸のような恰好の岩が立つていて,風が吹くたびにキチキチ鳴つていたという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.267 より引用)※ 原文ママ
これは……永田地名解の解釈を全面的に踏襲したものみたいですね。問題は「キッチェ」という擬音が果たして実在したのか……という点ですが、「萱野茂のアイヌ語時点」に次のような語が採録されていました。

キチッチェ【kicitce】
 赤子が泣き出す前にうめき声を出す.
(萱野茂「萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.207 より引用)
知里さんは「キチキチ鳴る」としていたことを考えると、流石にこれは違うでしょうか。ただ永田地名解には「鳴る」としか記されておらず、風が吹いた際に赤子のうめき声のような音が鳴ったと考えることは可能かもしれません。o-kicitce-us-i で「そこで・うめく・いつもする・ところ」ではないか、と。

他にいくつも可能性が

ただ「松茸のような形の岩」が「キチキチ鳴る」あるいは「うなる」という考え方も、なんかしっくり来ないんですよね……。「小辞典」には katchiw で「槍を投げてさす」という語が採録されているので、たとえば o-katchiw-us-i で「そこで・槍を投げてさす・いつもする・ところ」と解釈できたりしないでしょうか。「松茸のような形の岩」を「槍」に見立てたのではないかという考え方です。

あるいは、案外 o-niti-us-i で「河口に・あの串・ある・ところ」だったりしないでしょうか。「松茸のような形の岩」を「あの串」と見立てたのではないかと……。

あと、実は本当に「沖つ石」だったという可能性もあるかもしれません。このあたりは戊午日誌「西部志礼登古誌」でも「無名の小川」が続くということもあり、間宮林蔵あたりが「沖つ石」と名づけたというのも十分あり得る話なので……。

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