2022年7月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (957) 「ウブシノッタ川・ポンプタ川・ポンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ウブシノッタ川

up-us-not?
トドマツ・多くある・岬
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「硫黄山」から北に向かって流れる川で、知床林道の「硫黄山橋」があります。この川は山をとても深く切り裂いた地形を流れていますが、この地形はどのようにして形成されたのでしょう……?(火砕流とかでしょうか)

このあたりでは規模の大きい川ですが、過小評価されていたのか、明治時代の地形図には川名が見当たりません(「ウツシランゲペ」が実際よりも大きく描かれているため、認識に誤りがあったことが窺えます)。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     フブウシノツ
此処少しの出岬に椴の木多きより号る也。フブは椴の事、ウシは多し、ノツは岬也。此処より廻りて
     シルトカン
少しの小石浜、上高山に成りたり。またしばし過て小浜有
     フブウシナイ
同じく椴木立陰森たる故に号る也。川有。是え硫黄流れ来るが故に其川水白くなりて、石等皆硫黄に染たり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.56 より引用)
この記録を見る限り、「フブウシノツ」という岬と「フブウシナイ」という川が別々に存在するように見えます。両者の間は「またしばし過ぎて」とあり明確ではありませんが、「午手控」には「廻りて二丁計」と明記されています。「二丁計」ということは 200 m ちょいということになるので、まぁ誤差の範囲でしょうか。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウプㇱノッ(up-us-not) ウㇷ゚(トドマツ),ウㇱ(群生している),ノッ(岬)。
 ウプシノッタ川 ウプㇱノッ岬の所に流れ出ている川。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)
ウブシノッタ川が海に注ぐあたりには大きな三角州が形成されていて、この三角州を up-us-not で「トドマツ・多くある・岬」と呼んだと考えられます。不思議なことに川名には「タ」がついているのですが、これは永田地名解の記録がヒントになるでしょうか。

Upush not  ウプㇱュ ノッ  蝦夷松岬 「フプウㇱュノト゚」ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.492 より引用)
あー。up-us-notup-us-{not-etu} で「トドマツ・多くある・岬・鼻(突端)」だったんじゃないかという説ですね。「ウプㇱノテトゥ」が「ウプㇱノッタ」に転訛したというのも、確かにありそうな感じがします。

あるいはもしかしたら up-us-not-an-nay で「トドマツ・多くある・岬・そこにある・川」だったのが、-nay が欠落して up-us-not-an になった……あたりかもしれません。

ポンプタ川

pon-up-us-not?
小さな・トドマツ・多くある・岬
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「ウブシノッタ川」と「ルシャ川」の間には「ポンプタ川」と「ポンベツ川」が流れています。「ポンプタ川」は地理院地図での表記で、国土数値情報では「ボンブタ川」となっているようです。

このあたりは妙に似通った地名が多くて訳が分からなくなるので、表にまとめてみました。

戊午日誌
「西部志礼登古誌」
東西蝦夷
山川地理取調図
明治時代の地形図斜里郡内
アイヌ語地名解
地理院地図
フブウシナイ(川)フフウシナイ?ウプシノッタ川ウブシノッタ川
シルトカン(小石浜)???
フブウシノツ(出岬)??ウプㇱノッ?
?ホンフフウシポウプシポヌプㇱノッポンプタ川?
シユフニウシ(小川)シユフンウシ?ポンシュプヌニポンプタ川?
シラリヤ(大岩磯)?シラリヤケ?
ホンベツ(川)ホンヘツ?ポン・ペッポンベツ川
シヨシヨ(小石浜)???
ルシヤ(小川)ルサ川ルシャ川

あー、やはり……。戊午日誌「西部志礼登古誌」の記録と「斜里郡内アイヌ語地名解」を突き合わせてみたのですが、「ポンプタ川」のところだけ少しモヤッとするんですよね。最も謎なのが「東西蝦夷──」に描かれている「ホンフフウシ」が「西部志礼登古誌」に出てこないところで、これは「午手控」でも同様です。

もっとも、この問題は「ホンフフウシ」と「シユフンウシ」が同一の地点を指していると考えれば全て解決するという話もあります。supun-us-i と呼ばれる川のすぐ近くに pon-up-us-not と呼ばれる岬があったのではないか……という考え方です。

別の言い方をすれば、「ポンプタ川」に相当する川は supun-us-i で「ウグイ・多くいる・もの(川)」ですが、近くに pon-up-us-not で「小さな・トドマツ・多くある・岬」があり、「ポヌプㇱノッ」が「ポンプタ」に誤記されてしまった……となるでしょうか。

問題の「ポヌプㇱノッ」と「ポンシュプヌニ」について、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ポヌプㇱノッ(pon Upusnot) ポン(子の,小さい)。ウプㇱノッ岬を親岬と考え,それに対してこれをその子岬と名づけたのである。
 ポンシュプヌニ(pon-supun-un-i) ポン(小さい),シュプン(ウグイ),ウン(いる),イ(所)。「シュプン・ペッ」(supun-pet) 「ウグイ・川」(『知床日誌』)。小川なのでポンを冠したのであろう。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265-266 より引用)
あー。supun-us-i が「ポンプタ川」に化ける途中で pon-supun-un-i を経由していたということですね。知里さんは「小川なのでポンを冠したのであろう」と推察していますが、pon-up-us-not とミックスしたとも考えられそうです。

ポンベツ川

pon-pet
小さい・川
(典拠あり、類型多数)
謎の「ポンプタ川」と「ルシャ川」の間を流れる川です。途中で二手に分かれていて、東側の支流は「大岩川」とのこと。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンヘツ」とあり、戊午日誌「西部志礼登古誌」には「ホンベツ」と記録されています。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 ポン・ペッ(pon-pet) 「小さい・川」の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265-266 より引用)
どうやら素直に pon-pet で「小さい・川」と見て良さそうですね。pon-pet があるということは poro-pet あたりがあっても良い筈ですが、近くにそれらしい川は見当たりません。憶測ですが、supun-us-iporo-pet で、似た特徴(=ウグイが多い)を持つために pon-pet と呼ばれた……あたりかもしれません。

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2022年7月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (956) 「カムイワッカの滝・ウンメーン岩・ウソシオクベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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カムイワッカの滝

kamuy-wakka
神・水
(典拠あり、類型あり)
硫黄山の北西を流れる「カムイワッカ川」の河口部にある滝の名前です。道道 93 号「知床公園線」は「カムイワッカ橋」で「カムイワッカ川」を渡っていますが、「カムイワッカ橋」の近くには「カムイワッカ湯の滝」があるとのこと。「カムイワッカの滝」と「カムイワッカ湯の滝」はどちらも「カムイワッカ川」に存在する滝ですが、両者は別物なんですね……(ややこしい)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「カモイワツカ」という地名(川名?)が描かれています。北隣には「タツコフソウ」という地名(おそらく滝の名前)が描かれていて、更にその隣には「タツコフノツ」という地名が描かれています。「タツコフノツ」は滝の北に位置する「小山のような形の岬」のことだと考えられそうですね。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

並びて
     カモイワツカ
峨々たる大岩壁に瀑布一すじ懸る。是も硫黄也。よつて神の水と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.57-58 より引用)※ 原文ママ
kamuy-wakka は「神・水」と見て間違い無さそうですね。カムイワッカ川は硫黄山の北西を流れていますが、「是も硫黄也」とあることから、このあたりは硫黄分を多く含む川がいくつも存在していたことが窺えます。

硫黄分を多く含む川が何故「神の水」なのかについては、「斜里郡内アイヌ語地名解」に次のように記されていました。

 カムイ・ワッカ(kamuy-wakka) 「魔の水」。ここに滝があり,その水は毒気を含み飲用にならないのでこの名がある。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)※ 原文ママ
さすが知里さん、しっかりと意訳していましたね。「神の水」とは「人が近づくべきでは無い水」と捉えるべきものだったようです。もちろん温泉としての利用価値はあるのですが、飲用してはならない水なので、「畏敬して遠ざけるべき」という意味で「神の水」とした、ということなのでしょう。

ちなみに、カムイワッカの滝の東を流れる「ウンメーン川」の北東に「神恵水」という名前の三等三角点があるのですが、「三角点の記」によると「カムワツカ」と読むとのこと。「温根沼おんねとう」のように「沼」を「とう」と読むケースは見たことがありますが、「水」を「わっか」と読むケースは初めてかも……?

「神の水」に「神恵水」という字を当てたセンスは中々のものですが、「恵」という字は本来の含意の逆を行くものとも言えるわけで、どうせだったら「畏」の字のほうが良かったんじゃないかな……と思ったりもします。

ウンメーン岩

onne-iso?
大きい・岩
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「カムイワッカの滝」の北東 1.7 km あたりに位置する洋上の岩礁の名前です。「ウンメーン岩」と「カムイワッカの滝」の中間あたりには「ウンメーン川」も流れていますが、この川名は地理院地図には記載されていません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には(川の名前も含めて)それらしい名前が見当たりません。「午手控」や戊午日誌「西部志礼登古誌」にもそれらしい記録は見当たらず、明治時代の地形図にも見当たりません。

手元の資料で唯一言及があったのが「北海道地名誌」で、次のように記されていました。

 ウンメーン岩 硫黄山の麓,海に突き出た岩。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.458 より引用)
まぁ、そんなところでしょうね……。

手詰まり感が漂う中、陸軍図を見ていたところ……、あっ。これは「ウンメーン岩」ではなく「ウンメー岩」と描かれているように見えますね。「ン」ではなく「ソ」となると、-iso で「水中の波かぶり岩」である可能性が出てきます。

となると「ウンメー」が何を意味するかが焦点となるのですが……そうですね。無理やりそれらしい解をひねり出すとすれば rep-un-mo-iso で「沖・にある・小さな・岩」で rep- が省略されたとかでしょうか。「ウンモイソ」が「ウンメーソ」となり、「ウンメーン」に誤記されたのでは……というシナリオです。

あるいは「馬」を意味する unma あるいは umma という語(おそらく移入語)が道内のあちこちで記録されているので、unma-iso で「馬・岩」という可能性もある……かもしれません。岩の形を動物に見立てるのは現在でも良く見られるやり方で、もしかしたら明治以降にそういった呼び方が広まった(故に「戊午日誌」等には記録が無い)という可能性もあるかもしれません。

……などと想像を巡らせていたのですが、改めて「斜里郡内アイヌ語地名解」を眺めてみると、「カムイ・ワッカ」と「ウプシノッタ川」の間にこんな記載がありました。

 イワウ・ヌプリ(iwaw-nupuri) イワウ(硫黄),ヌプリ(山)。硫黄山の原名。
 夕ㇷ゚コㇷ゚・ノッ(tapkop-not) タプコプ(小山),ノッ(岬)。硫黄山の岬。
 ヨコㇱペッ ヨコ・ウㇱ・ペッ(yoko-us-pet)。ヨコ(狙う),ウㇱ(いつも……する),ペッ(川)。「いつもそこで鮭を狙い突きする川」の義。
 オンネ・イソ(onne-iso) 「大きい・岩」。
 ウプシノッ (up-us-not) ウㇷ゚(トドマツ),ウㇱ(群生している),ノッ(岬)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)
あっ……! 「オンネ・イソ」が「ウンメーン岩」である可能性が出てきましたね。「オンネイソ」が「ウンメーソ」に化けたと考えるのも、決して不可能では無いような気が……。

onne-iso は「大きい・岩」と考えられますが、前後関係を考えても「ウンメーン岩」よりも適切な岩が見当たらないような気がするので、「ウンメーン岩」のことを指していると考えても良さそうな気がしてきました。

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみると「ユンヘツシヨ」と描かれた場所があり、位置的にはこれが「ウンメーン岩」のことかも知れません。yu-un-pet-so で「湯・ある・川・岩」と読めそうですが、これが yu-un-nay-iso となり、「ユンナーソ」が「ウンメーン」に化けた(誤読された)可能性も無いとは言えない……かも。

ウソシオクベ川

upas-{ran-ke}-pet??
雪・{下ろす}・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
「ウンメーン岩」と「ウブシノッタ川」の間を流れる川の名前です。明治時代の地形図には「ウツシランゲペ」という川(あるいは地名)が描かれているのですが……いい感じにズレまくっていますね(汗)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルウサンヘツ」という川が描かれていて、戊午日誌「西部志礼登古誌」では「ルウサンケベツ」と記録されています。ただ前後関係を考えると、この「ルウサンケベツ」は現在の「ウンメーン川」のことかもしれません。

「ウツシ」と「ウソシ」のどっちが元の形に近いのか考えてみたのですが、どちらも違和感が残ります。近くを流れる「ウブシノッタ川」は hup-us だと考えられるので、「ウツシ」あるいは「ウソシ」も「ウブシ」の誤記ではないかと考えてみたくなります。

ただ hup-us-ranke-pet で「トドマツ・群生する・下方にある・川」というのも……ちょっと違和感が残ります。「知床林道」を起点に考えると確かに「下方にある川」なんですが、アイヌは海側からこの川を眺めていた筈なので。

ranke ではなく {ran-ke} で「下ろす」と考えることもできそうですが、hup-us-{ran-ke}-pet で「トドマツ・群生する・{下ろす}・川」というのも意味不明です。となると hup-us- という仮定がやはり間違っているのでしょうか。

ここで思い出されたのが「斜里郡内アイヌ語地名解」のこの部分です。

 キキロペッ(kikir-o-pet) 「虫・群居する・川」。
 カムイ・ウパㇱ(kamuy-upas) 「神・雪」の義。ここに氷穴があつて, そこには年中雪があり,そこから夏でも雪を取つたという。
 イヤッテ・モイ(iyatte-moy) イヤッテ(物を舟から陸揚げする),モイ(湾)。
 カムイ・ワッカ(kamuy-wakka) 「魔の水」。ここに滝があり,その水は毒気を含み飲用にならないのでこの名がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)※ 原文ママ
これは「キキロペッ」(→「イロイロ川」)と「カムイ・ワッカ」(→「カムイワッカ川」)の間に「カムイ・ウパㇱ」という地名があったと読めます。氷穴の存在を示唆するものですが、「ウソシオクベ川」のあたりにも氷穴があり、そこから雪を下ろしていたのではないか……と考えてみました。つまり upas-{ran-ke}-pet で「雪・{下ろす}・川」だったのではないか……と思ったのですが……。

よく考えてみれば rup で「氷」を意味するので、「ルウサンケベツ」も rup-sanke-pet で「氷を出す川」と読めそうな気がします。となるとやはり「ルウサンケベツ」=「ウソシオクベ川」なんでしょうか。

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2022年7月29日金曜日

紀勢本線特急列車 (46) 「熊野市~二木島」

「紀勢本線各駅停車」と銘打ちながら「紀和駅」の存在をすっかり失念するなど、いつも以上(当社比)のボンクラぶりが目立っていましたが、挙句の果てには「腹が減った」という理由で途中下車をキメる羽目に。そしてその結果、気がつけば何故かこんなところに……(汗)。
いや~、やっぱ特急列車は快適ですわぁ(ぉぃ)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

大泊駅

「木本トンネル」を抜けて大泊駅にやってきました。熊野市駅からは 2.4 km しか離れていませんが、間の地形が険しいこともあってか、雰囲気がガラっと変わりましたね。

2022年7月28日木曜日

紀勢本線各駅停車 (45) 「熊野市 その5」

熊野市駅の話題をもう少しだけ続けます。いや、続けすぎだと言う自覚はあるんですが……(汗)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

2 番のりばの新宮側から跨線橋を眺めてみると……あ、こちら側にも「JR 熊野市」の文字が。ここは明らかに停車位置よりも手前ですし、出発前のチェック用途には使えそうに無いですね。となるとこれはやはり……深い意味は無いとしか……?(ぉ)

2022年7月27日水曜日

紀勢本線各駅停車 (44) 「熊野市 その4」

熊野市駅の 2 番のりばに向かいます。階段の左側にはカーポートのような屋根が見えますが、その先は……トイレでしょうか?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

「JR 熊野市」の謎

跨線橋の下には 1 番線と 2 番線が通っています。電化されていないので架線などはありません(架線が無いと雰囲気がより良く感じられるのは私だけでしょうか……)。

2022年7月26日火曜日

紀勢本線各駅停車 (43) 「熊野市 その3」

熊野市駅に戻ってきました。この駅舎は国鉄分割民営化の 3 年後に改築されたものとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

「熊野市駅」の文字の上には「ワイドビュー南紀」のパネルが見えます。明らかに何かを消した跡があるのですが、これは一体……?

2022年7月25日月曜日

紀勢本線各駅停車 (42) 「熊野市 その2」

熊野市駅の駅前ロータリーにやってきました。バス停が見えますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

バス停はお馴染みの「三重交通」のものと、「北山村」のものも見えます。

2022年7月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (955) 「エエイシレド岬・イダシュベツ川・イロイロ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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エエイシレド岬

e-ey-siretu
頭・とがった・岬
(典拠あり、類型あり)
知床五湖の北に位置する岬の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「テシレト」という名前の岬が描かれていますが、「エエイシレド」とは随分と違いがあるのが気になるところです。

「テシレト」は「ヲシレト」?

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     ヲシレト
是恐らくは余が浪の音にて聞誤りにて、後聞にウエンシレトと云り。是第四番の岬にてヲシユンクシエンルンと対峙して一湾をなす。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.59 より引用)
ふむふむ。どうやら「テシレト」は「ヲシレト」の誤字のようで、しかも「ヲシレト」は「多分自分の聞き間違い」で本当は「ウエンシレト」らしい……とのこと。誤りを素直に認める姿勢は素晴らしいですよね。

また一説にヲシレトは汐早きによつて号ると云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.59 より引用)※ 原文ママ
おや、これはどう解釈すれば……?

「テシレト」は「エエイシレト゚」の間違い?

永田地名解には次のように記されていました。

Eei shiretu   エエイ シレト゚   尖岬 「エエイ」ハ尖リタルノ義日高膽振國「アイヌ」ガ「エエン」ト云フニ同ジ「ウエン」ヲ「ウエイ」ト云ヒ「ポン」ヲ「ポイ」ト云フガ如シ、松浦日誌ニ「テシレト」トアリテ沙急ナル岬ト説キタルハ甚ダ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.491 より引用)
ドヤ顔の永田さんが登場ですが、内容は割とマトモな感じがします(「汐」が「沙」に化けているような気がしますが、そこはスルーの方向で)。

e-en-{sir-etu} で「頭・とがった・{岬}」ですが、s の前に来た ny に変化するため、e-ey-siretu で「エエイシレトゥ」となる、ということですね。wen-wey- になったり pon-poy- になるのも同じ考え方です。

ちなみに「岬」を意味する sir-etu は「大地・鼻」に分解できるとのこと。

「ウェイシレト゚」の別名が「エエイシレト゚」?

永田方正は松浦武四郎の記録を「甚だ誤る(ドヤ)」としていましたが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウェイ・シレト゚(wey-siretu) 「けわしい・岬」の義。或は「エエイ・シレト゚」(eey-siretu) 「尖つている・岬」であるともいう。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)※ 原文ママ
意外なことに「ウェイシレト゚」を正として両論併記していました。明治時代の地形図などを見た限りでは何れも「エエイシレト゚」となっていただけに、これは意外と言うしか無いような……。

「とんがり岬」

「午手控」には次のような注釈が追記されていました。

 エエイシレト岬。ウエンシリエト 悪い岬(この岬を境に潮流が変わるので)。エエイシリエト 尖っている岬。の二説があるが「尖り岬」が採られている
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.290 より引用)
ここまで出てきた説が綺麗に整理されていますね。wey-siretu については「険しい岬」と解釈できますが、潮の流れが変化することに注意が必要な「悪い岬」だったのでは……とのことですね。これは戊午日誌の「汐早き」説をうまく回収した解釈とも言えそうです。

この wey-siretu の別名が e-en-siretu ですが、より具体的に地理的形状を言い表している e-en-siretu が多く使われるようになり現在に至る……ということでしょうか。

イダシュベツ川

etaspe-un-i
トド・居る・ところ
(典拠あり、類型あり)
知床五湖の北東を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「イタシヘウニ」という地名?が描かれています。

明治時代の地形図にも「イタㇱュペウニ」とありますが、陸軍図の時点で「イタシュベツ川」に名前が微妙に変化してしまったようです。そして「ㇱュ」という謎な表記があったということは、永田地名解にも記載があったということで……

Itashbe uni   イタㇱュベ ウニ   海馬居ル處 今ハ沖ニ居リテ此處ニ來ラズ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.491 より引用)
どうやら etaspe で「トド」を意味するとのこと。etaspe-un-i で「トド・居る・ところ」となるようですね。etaspe-un-i の近くを流れる川を etaspe-pet と呼ぶようになり、「エタシュペペッ」が「イダシュベツ」に化けた……と言ったところでしょうか。

なお「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 エタㇱペ・ワタラ(etaspe-watara) 「海馬・岩」の義。「エタㇱペウニ」(etaspe-un-i)「海馬・いる・所」の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)※ 原文ママ
どうやら etaspe-us-ietaspe-wátara と呼ぶ流儀もあったようですね。wátara は「岩」を意味する雅語とのことで、「アイヌ語沙流方言辞典」によると「角の立った大きなゴロゴロした石」とのこと。

なお余談ですが、知床五湖の「四湖」の北、エエイシレド岬の東に「板止別」という三等三角点があります(標高 234.5 m)。やはりと言うべきか、これは「イタシベツ」と読むとのことです。

イロイロ川

kikir-o-pet?
虫・多くいる・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
イダシュベツ川とカムイワッカ川の間を流れる川で、上流部に道道 93 号「知床公園線」の「霧双橋むそうばし」があります。

比較的小さな川だからか、明治時代の地形図や陸軍図には川名が見当たりません。「東西蝦夷山川地理取調図」には「イタシヘウニ」(=イダシュベツ川)と「カモイワツカ」(=カムイワッカ川)の間に「ヲキシカルシヘ」と「エヤラムイ」という地名?が描かれていました。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には、「イタシュベツ川」と「カムイワッカ川」の間について、次のように記されていました。前後関係を把握するため、ちょいと長めに引用します。

 エタㇱペ・ワタラ(etaspe-watara) 「海馬・岩」の義。「エタㇱペウニ」(etaspe-un-i)「海馬・いる・所」の義。
 ペセパキ(pes-epaki) ぺㇱ(絶壁),エパキ(突端)。「絶壁の突端」の義。
 キキロペッ(kikir-o-pet) 「虫・群居する・川」。
 カムイ・ウパㇱ(kamuy-upas) 「神・雪」の義。ここに氷穴があつて, そこには年中雪があり,そこから夏でも雪を取つたという。
 イヤッテ・モイ(iyatte-moy) イヤッテ(物を舟から陸揚げする),モイ(湾)。
 カムイ・ワッカ(kamuy-wakka) 「魔の水」。ここに滝があり,その水は毒気を含み飲用にならないのでこの名がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.265 より引用)※ 原文ママ
ではここで問題です。この中で「イロイロ川」はどれでしょう?

イロイロあるように見えますが(ぉぃ)、よーく見ると「川」は一つしかありません。どうやら「イロイロ川」の正体は「キキロペッ」のようですね。

こんな調子で「キキロペッ」=「イロイロ川」と推定していいのか……と思われるかもしれませんが、幸いなことに「北海道地名誌」にも次のように記されていました。

 イロイロ川 カムイワッカ川より斜里寄りの小川。アイヌ語「キキロペッ」(虫の多い川)の訛かと思われるが不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.456 より引用)
もしかしたら同じやり方で推定しただけかもしれませんが……(汗)。とりあえず「イロイロ川」は kikir-o-pet で「虫・多くいる・川」と見て良い……でしょうか?(誰に聞いている

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2022年7月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (954) 「岩尾別・赤イ川・ピリカベツ川」

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岩尾別(いわおべつ)

iwaw-pet
硫黄・川
(典拠あり、類型あり)
「知床自然センター」と「知床五湖」の間のエリアに「イワウベツ川」が流れていて、イワウベツ川を遡った先には「岩尾別温泉」があります。以前は川の名前も「岩尾別川」だったのですが、いつの間にかカタカナ表記の「イワウベツ川」になったようですね。

陸軍図では「岩尾別温泉」ではなく「岩宇別温泉」と描かれているように見えます。どうやら「岩尾別」になる前に「岩宇別」の字を当てていた時代もあったようです。

このイワウベツ川ですが、不思議なことに「東西蝦夷山川地理取調図」では「ユウナイ」と描かれているように見えます。明治時代の地形図には「イワウペツ」と描かれていて、現在の「岩尾別橋」のあたりに「ニオトフシナイ」という西支流が描かれています。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

廻りて少しの浜有
     イワヲヘツ
と云り。川巾五六間、滝川に成りて落る。其水硫黄の気有る也、よつて号。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.59 より引用)※ 原文ママ
また永田地名解にも次のように記されていました。

Iwau pet   イワウ ペッ   硫黄川 白濁ノ水僅ニ流ル、未ダ温泉アルヲ見ズト云
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.491 より引用)
「未だ温泉あるを見ずと言う」は「どこかにあるユートピア」感がありますが、これは現在の「岩尾別温泉」のことなんでしょうね。「岩尾別」は iwaw-pet で「硫黄・川」だと見て良さそうです。

興味深いのが明治 20 年の「北海道地形図」には「イウウペツ」と描かれていることで、これはおそらく誤字だと思われますが、もし本当に「イウウペツ」だったら「ユウナイ」が「イワウペツ」に変化する過程を示しているようで面白いですよね。

赤イ川(あかい──)

hure-pet?
赤い・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
イワウベツ川(岩尾別川)の南支流で、知床峠に向かう国道 334 号がこの川沿いを通っています。「赤川」でも「赤井川」でもなく「赤イ川」というのが面白いですね。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 赤ノ川 (あかのかわ) 羅臼へ越える山道に沿うイワウベツ川の支流。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.456 より引用)
あ……。実は陸軍図には「赤 川」と描かれているように見えるなぁ……と思っていたのですが、やはりそうだったのですね。「赤イ川」とは妙な名前だと思っていたのですが、なるほど「赤ノ川」だったのですね。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ──フレペッ(hure-pet)「赤い・川」。イワウペッ川の支流。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.264 より引用)
「イワウペッ川の支流」とあるので、この川が現在の「赤イ川」のことであると考えて良いかと思われます。このあたりに「フレペッ」という川が流れていたという確たる記録は見つけられていないのですが、おそらく流れていたのだろう、ということで……。hure-pet は「赤い・川」で、それが和訳されて「赤ノ川」となり、うっかり勢いで(?)「赤イ川」になった、と言ったところでしょうか。

フレペの滝」という観光名所がありますが、この滝は「知床自然センター」の北西の海沿いにあり、「赤イ川」や「イワウベツ川」とは位置が異なります。

ピリカベツ川

pirka-pet
(水が)良い・川
(典拠あり、類型あり)
岩尾別温泉の 1.5 km ほど手前(海側)で南から合流する支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川名が見当たらず、陸軍図でも川名の記入が見当たりませんが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ──ピリカペッ(pirka-pet) ピリカ(よい,水のよい),ペッ(川)。イワウペッ川の支流。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.264 より引用)
やはり素直に pirka-pet で「良い・川」と考えられそうですね。そして「良い」はおそらく「水が良い」なのでしょう。イワウベツ川は「硫黄川」なので飲用には不適だったと思われますし、支流も「赤イ川」や「白イ川」など各種ラインナップが勢ぞろいです。そんな中で「水の良い川」は貴重な存在だったのではないかと……。

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2022年7月22日金曜日

紀勢本線各駅停車 (41) 「熊野市 その1」

熊野市で途中下車することにしたので、跨線橋を渡って改札口に向かいます。壁の上部から風が入る構造になっていますが、屋根の庇が垂れ下がるように曲がっていて、側面から雨が吹き込まないようにしているんですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

ポスターは大半が JR のプロモーションのようですが、中にはこんなものも(ピントと解像度がアレですいません)。

2022年7月21日木曜日

紀勢本線各駅停車 (40) 「新宮~熊野市」

新宮駅の 2 番線に停車中の多気行き 336C に乗り換えます。336C は 2333M の到着の 4 分後(16:13)に出発です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

ここからは JR 東海エリアということで、車輌も JR 東海のものです。乗務員室の後ろには運賃表が表示されていますが、液晶ディスプレイに表示されるタイプです(JR 西日本エリアからの通し運賃は表示されないのでしょうか)。

2022年7月20日水曜日

紀勢本線各駅停車 (39) 「新宮」

三輪崎を出発し、かつて「広角ひろつの駅」のあったあたりからは砂浜が続きます。この砂浜は「王子ヶ浜」という名前のようですが、近くにある「浜王子」に由来するネーミングでしょうか(「浜王子」は「九十九王子」に含まれるとされています)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

紀勢本線は「浜王子」の手前で左に向きを変え、まっすぐ新宮駅を目指します。新宮鉄道が建設した路線は「新宮市立総合体育館」や「あけぼの公園」の近くを経由して新宮駅に向かっていましたが、国有化後の 1938 年に現在のルートに改められています(新宮駅と広角駅の間にあった「熊野地駅」は貨物駅となり、新宮と熊野地の間は貨物線として 1982 年まで残っていたとのこと)。

2022年7月19日火曜日

紀勢本線各駅停車 (38) 「三輪崎」

紀伊佐野から、市街地の中を北東に向かいます。新宮市の市街地は新宮駅のあるあたり(北側)と紀伊佐野駅のあるあたり(南側)に綺麗に分かれているのですが、「新宮町」と「三輪崎みわさき」が合併したのが 1933 年とのこと。満州事変の二年後に合併していたんですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

線路が見えてきました。間もなく三輪崎みわさき駅のようです。

2022年7月18日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (135) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十二信」(初版では「第二十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

日本の警察

久保田(秋田)で師範学校と工場、病院などの「社会見学」を楽しんだイザベラですが、一方で更なる北上のための情報収集も進めていました。

 その後に私は中央警察署に出かけ、青森へ至る内陸ルートについてたずねた。たいそう親切なもてなしを受けたが、情報は得られなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
イザベラが「たいそう親切なもてなしを受けた」にも拘わらず「情報は得られなかった」のは、本当に情報が無かったのか、それともイザベラ一行に情報を隠した結果なのか、どっちだったんでしょうか。イギリス大使館のバックアップを受けたイザベラの旅を表立って邪魔することはできないものの、現地の警察が「面倒な旅人だ」と感じていたことも容易に想像できるので……。

イザベラは日本の警察が人々に対して親切である……とした上で、次のような分析を加えていました。

彼らはサムライ階級(士族)に属している。もちろん彼らは生まれつき地位が上であるから、平民ヘイミンたちに尊敬を受ける。彼らの顔つきや、少し尊大な態度があるのは、階級差別をはっきり示している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
イザベラの「日本奥地紀行」が行われた 1878 年は「明治 11 年」で、大政奉還の僅か 11 年後だったことになります。ちょんまげを切り落としたサムライには商才の無いものが多かった……なんて話もありますが、警察官に転身したというのは理にかなった選択だったような気もします。

日本の警察は全部合わせると、働き盛りの教育ある男子二万三千三百人を数える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
気になったのでググってみたのですが、日本の警察官の数は年々増加を続けていて、現在は 25 万人を超えているとのこと。1878 年当時の日本の人口は約 3,600 万人だそうですから、人口比を考えても……警察官、増えていますね。

たとえそのうち三〇パーセントが眼鏡をかけていたとしても、警察の有用性を妨げるものではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
「日本人(観光客)」のシンボルとして「メガネ」「出っ歯」「首からカメラ」が多用されるようになったのはいつ頃からなんでしょうか。流石に「警察官の約 30 % が眼鏡を着用」という統計データがあった訳では無いでしょうが、イザベラにそう思わせる程度には着用率が高かった、ということでしょうか。

そのうち五千六百人が江戸(東京)に駐在し、必要あるときはすぐ各地に派遣される。京都に千四人、大阪に八百十五人、残りの一万人は全国に散らばっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
イザベラは「男子 23,300 人を数える」と記していましたが、そのうち 5,600 人が東京に駐在していて、京都には 1,004 人、大阪には 815 人、残りの 1 万人が全国に散らばっている……とありますね。計算すると 5,500 人ほどの所在が不明なのですが、これは……いかにも日本の統計っぽい感じがしますね(何故だ)。

警察の費用は年に四〇万ポンドを超える。秩序を維持するにはこれで充分である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
それにしても、こういった情報をイザベラはどこで仕入れていたんでしょうね。そして「奥地紀行」を期待する読者に対して「日本の警察の年間予算」の情報が必要だったとは思えないのですが、何故か「普及版」でもこのトピックは削除されずに生き残っています。

日本の役所はどこでも、非常に大量に余計な書類を書くから、警察に行ってみても、いつも警官は書き物をしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
うわ(笑)。「日本の役所はどこでも、非常に大量に余計な書類を書く」ということが、明治 11 年の時点で既にバレていたとは……。

書いてどうなるのか私には分からない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
イザベラ姐さん、調子が上がってきましたね(笑)。

警官はとても知的で、紳士的な風采の青年である。内陸を旅行する外国人はたいへん彼らの世話になる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.259 より引用)
ふむふむ……なるほど。警察に関するトピックが「普及版」でもカットされずに残ったのは、旅行者の助けになると考えたからなんですね。イザベラは日本の警察官について「いくぶん威張った態度をとりたがる」とした上で「きっと助力してくれる」としていますが、

しかし旅行の道筋についてだけは、彼らはいつも、知らない、とはっきり言う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.260 より引用)
最後のオチがそれですか……。これは(繰り返しになりますが)本当にルートを知らなかったのか、それとも知っていてあえて教えなかったのか……という二択になろうかと思われるのですが、後者については「職掌外の事項だったので答えなかった」という可能性もあるのでしょうか。それとも「下手なことを言って責任は取れない」というお役所的なリスクヘッジだったりして……。

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2022年7月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (953) 「ホロベツ川・プユニ岬・チカポイ岬・フレペの滝」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ホロベツ川

poro-pet
大きな・川
(典拠あり、類型多数)
ウトロの市街地から北東に向かうと「幌別橋」のあたりから上り坂になりますが、「幌別橋」の下を「ホロベツ川」が流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロヘツ」という川が描かれていて、その支流として「ホンホロヘツ」「アツホロヘツ」「クウナイ」「シノマンホロヘツ」などが描かれています。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ポロ・ペッ(poro-pet) ポロ(親の,大きい),ペッ(川)。「親川」「大川」。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.264 より引用)
はい。poro-pet で「大きな・川」と見て間違い無さそうです。「オンネベツ川」も「ポロペツ」と呼ぶ流儀があったようですが、「ホロベツ川」と名前が被ったので「オンネベツ川」と呼ばれるようになった……のかもしれません。

プユニ岬

puy-un-i?
穴・ある・もの(ところ)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 334 号の「幌別橋」の北、「知床自然センター」の西北西にある岬の名前です。地理院地図に記載がありますが、明治時代の地形図や「陸軍図」にはそれらしい岬の名前は見当たりません。

ただ「東西蝦夷山川地理取調図」には「フユニ」という名前の断崖が描かれていました。また戊午日誌「西部志礼登古誌」にも次のように記されていました。

並びて
     フ ユ ニ
此処も大岩岬峨々としたり、本名はフウニなるよし。フウはくら也、ニは木なり。庫の如き木むかし此岬の上に有るが故に号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.62 より引用)
pu-ni で「庫・木」だと言うのですが、これだと「プニ」じゃないか……とツッコミを入れたくなりますね。幸いなことに(?)永田地名解には異なる解が記されていました。

Puyuni   プユニ   穴アル處 「フイウニ」ノ急言今ハ崩レテ穴ナシ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.491 より引用)
おっ、これは……! 知里さんが名著「アイヌ語入門」で「アイヌ語地名研究者のアンタイのために,何かうまいテがないものか」として次のように記していたのが思い出されますね。

その一つは,「むかし,そこの所にそういう形の岩があったからそういう名がついたのだ」とか,「そこの崖にそういう形の文様がついていたのでそう名づけられたのだ」とか云つて体をかわすことである。しかし,この際ゼッタイ忘れてならないことが一つある。さきに,チパシリの語原説の中にもあったように,「但シ,コノ岩,崩壊シテ今ハナシ」というような但し書をつけておいて,あらかじめ証拠の方は隠滅しておくのである。
(知里真志保「アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために」北海道出版企画センター p.23 より引用)※ 原文ママ
「プユニ」についても「今は崩れて穴なし」と、見事に証拠隠滅を図っていますね。

さて、このように永田地名解の「証拠隠滅」ぶりを批判していた知里さんですが、この「プユニ岬」について「斜里郡内アイヌ語地名解」では次のように記していました。

 プユニ(puy-un-i) プィ(穴),ウン(ある),イ(穴)。この穴,今は崩れて跡形も無い(永田)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.264 より引用)
……そう来ましたか。「いや、永田方正がそう書いていたんで」という見事なリスクヘッジですね。

実際のところ、「プユニ」を puy-un-i で「穴・ある・もの(ところ)」と読むのは至極妥当に思えます。注意すべき点があるとすれば、puy は「穴」以外にも「エゾノリュウキンカ(の根)」を意味する場合があるということでしょうか。エゾノリュウキンカの球根を採取する場所として puy-un-i と呼ぶことも(理屈の上では)考えられるので……。

チカポイ岬

chikap-o-i
鳥・多い・ところ
(典拠あり、類型あり)
「プユニ岬」の北東に位置する岬の名前です。この岬も「プユニ岬」と同様に、地理院地図には記載がありますが「陸軍図」などには見当たりません。

「東西蝦夷山川地理取調図」にもそれらしき名前が見当たりませんが、戊午日誌「西部志礼登古誌」に次のような記述がありました。

又並びて
     チカポイ
此処少しの湾に成る也。過てまた大岩面此処に岩穴多し。種々の水鳥巣を作り居たり。よつて号るなり。恐らくはチカフホロなるかと思ふ。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.61 より引用)※ 原文ママ
どうやら「チカポイ」を岬の東の湾の名前と認識していたようですね。永田地名解にも次のように記されていました。

Chikapoi   チカポイ   鳥多キ處 諸鳥來リテ棲止スル處ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.491 より引用)
chikap-o-i で「鳥・多い・ところ」と考えて良さそうですね。アイヌ語の地名では岬のことを etunotsapa などの接尾語(いずれも本来は「鼻」や「頭」などを意味する)をつけて表現することが多いのですが、「プユニ」や「チカポイ」ではそれらしい接尾語が見当たらないので、本来は岬の名前では無かったものを借用したのかもしれません。

フレペの滝

hure-pe
赤い・水
(典拠あり、類型あり)
「チカポイ岬」の東隣に位置する滝の名前です。この滝も「陸軍図」などの古い地図には見当たりませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「フレヘ」という名前の断崖?が描かれていました。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

並びて
     フ レ ベ
此処また前に云如く岩間より水滴り出る処也。フレは赤き儀ベは恐らくペの訛にて、ペは水也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.61 より引用)
hure-pe で「赤い・水」ではないかとのこと。この滝は鉄分の多い水が流れ落ちるので水が赤く見える……だったでしょうか(現地で実見した筈なのですが)。

地理院地図によると、「フレペの滝」の西に「チカポイ岬」があり、その南西に「プユニ岬」があることになっていますが、戊午日誌「西部志礼登古誌」では「チカポイ」(湾)、「フレベ」(滝)、「フユニ」(岬)の順で記されていました。やはり「チカポイ」は「フレペの滝」が注ぐ湾の名前だったと見て良さそうですね。

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2022年7月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (952) 「フンベ川・チャシコツ崎・ペレケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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フンベ川

humpe-oma-pet
鯨・そこに入る・川
(典拠あり、類型あり)
ウトロの南西に国道 334 号の「ウトロトンネル」がありますが、「フンベ川」はウトロトンネルの出口から更に 0.5 km ほど南西を流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「フンヘシヤハ」と「ニソマヘツ」が並んで描かれていました。どちらも川として描かれているようにも見えますが、「フンヘシヤハ」の西に「ヲシヨマコエ」(=オショコマナイ川)がある筈なので、「フンヘシヤハ」は川の名前では無いと見たほうが良いでしょうか。

この「フンヘシヤハ」ですが、humpe-sapa で「クジラ・頭(岬)」だと考えられます。「東西蝦夷──」では「ヲシヨマコエ」と「ニソマヘツ」の間に描かれているので、この両者の間にある岬と言えば「弁財岬」ということになるでしょうか。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

廻りて
     フンベヲマベツ
小石浜に小川有。むかし此川口え鯨上りしと云よし。フンベは鯨、ヲマは入る、ベツは川と云儀なり。また過て
     ニソマベツ
並びて有り。一説に此川には名なくしてフンベヲマベツの本名とも云り。如何なるや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65-66 より引用)
このように「戊午日誌」では「フンベヲマベツ」と「ニソマベツ」が併記されています。「フンベヲマベツ」の別名が「ニソマベツ」かもしれない……と断り書きが入っているようにも見えますが、「午手控」では次のように記されていました。

廻りて
   ニソマヘツ
小転太石有。本名フンベヲマベツのよし。鯨(寄)りしより号。此処も少し澗也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.294 より引用)
これを見た限り、「午手控」では「『ニソマヘツ』の本名は『フンベヲマベツ』」と断言していたのが、何故が「戊午日誌」では若干トーンダウンしているように思えます。

ウトロトンネルのある「チャシコツ崎」と「フンベ川」の間には滝らしい地形があるものの、これが「フンベヲマベツ」だったと考えるのはちょっと無理がありそうな気がします。やはり「午手控」にあるように「ニソマヘツ」と「フンベヲマベツ」は同一の川を指していると考えたほうが良いのではないでしょうか。

明治時代の地形図には「フンペオマペツ」と描かれていましたが、陸軍図では「フンベ川」となっていて、流域に「フンベ」という地名も描かれていました。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 フンペ川 「フンペ・オマ・ペッ」(humpe-oma-pet)。フンペ(鯨).オマ(入る),ペッ(川)。昔ここにアイヌの村があつたという。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)※ 原文ママ
元々は humpe-oma-pet で「鯨・そこに入る・川」だったと見て良さそうですね。また別名(本名?)ではないかと目される「ニソマヘツ」ですが、nisey-oma-pet で「断崖・そこにある・川」だったのではないでしょうか。

チャシコツ崎

chasi-kot
岬・跡
(典拠あり、類型多数)
ウトロトンネルの北に位置する岬です。トンネルと岬の間には鞍部があり、ウトロトンネルが開通する前は鞍部を抜けるルートが国道に指定されていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシユンクシエト」という名前の岬が描かれていました。ただこれは「オシンコシン崎」との混同が疑われます。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

又此岸に添て三四丁を過
     チヤシコツヱ卜
赤壁崖峨々として海中に突出し、其に撃する潮勢乱れて玉を飛し、上には緑樹陰森として枝を垂、其眺望実に目を驚かせり。此処むかし土人の城塁有りしと。チヤシは柵塁の事、コツは地面、ヱトは鼻岬の如き処を云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65 より引用)
概ね同意ですが、「コツは地面」というのが若干謎でしょうか。kot について、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

kot, -i こッ 凹み;凹地;凹んだ跡;沢;谷;谷間。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)
なるほど。「地面」という解釈は当たらずとも遠からずなのですね。ただ chasi-kot という項目も設けられていて……

chási-kot, -i ちゃシコッ 砦の跡。──その他に古く山頂にあった古代の祭場の跡,ストーンサークルの跡なども云う。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.15 より引用)
「チャシコツ崎」の「チャシコツ」は素直に chasi-kot で「砦・跡」と考えるべきでしょうね。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 チャシコツ崎 「チャシコッ・エト゚」(chashikot-etu)。チャシコッ(砦の跡),エト゚(岬)。「砦の跡のある岬」の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)
ということで、chasi-kot で「岬・跡」と見て間違い無さそうですね。-etu については地図類で確認できないので今回は省きますが、そのように呼ばれていたと考えても何ら不思議は無さそうです。

ペレケ川

perke-i
裂けている・所
(典拠あり、類型あり)
道の駅「うとろ・シリエトク」の北を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘケレノツ」という地名(おそらく岬の名前)が描かれているのですが、「ペレケ」と「ヘケレ」では意味が変わってきます。perke であれば「割れる」あるいは「破れる」ですが、peker であれば「白い」あるいは「清い」や「明るい」となります。

永田地名解には次のように記されていました。

Perekei   ペレケイ   岩ノ裂レタル處 松浦知床日誌ニ「ヘケレ」トアリ註ニ小岬、明シトノ義トアルハ最誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
久しぶりに「ドヤ顔の永田さん」の登場ですね。確かに「東西蝦夷──」には「ヘケレノツ」とあったのですが、戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

廻りて二三丁過て
     ヘ ケ レ
本名ヘケレ(ペレケイ)のよし。此処小川有。此源に大岩一ツ有て其岩割れ、其中より水涌出るによつて号るとかや。また一説には、此辺そうじて転太浜なるに、此川の両方少しの間白砂有て美しきが故にヘケレと云もすべし。ペケレは明るき義を云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65 より引用)※ 原文ママ
これは……。「ヘケレ」としつつ「岩が割れてそこから水が湧き出たので」というのは、明らかに peker ではなく perke を意識した解釈ですよね。まるで「ヘケレ」は「ペレケ」の間違いだということを知っていたようにも思えますが、「午手控」を見てみると……

此さきを廻りて
   ヘケレ
小石浜十計(丁)もつヾく也。前に磯多し、本名ヘレケのよし。小川有り。此源も大岩一ツ中よりわれ、其中より水出通り来るより号るとかや。此浜の上ヘレケノホリと云山有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.294 より引用)
やはり。「ヘケレ」は本来は「ヘレケ」だったと言うことを承知の上での記録だったのですね。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペレケ川 「ペレケイ」(perke-i)。ペレケ(破れている,裂けている),イ(所)。岩が裂けている所。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)
はい。perke-i で「裂けている・所」と見て良さそうですね。ウトロのあたりは段丘状になっているのですが、「ペレケ川」と支流の「ポンペレケ川」はまるで段丘を切り裂くように流れています。そのことを指した川名だったのかもしれません。

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2022年7月15日金曜日

紀勢本線各駅停車 (37) 「紀伊佐野」

宇久井を出発して北に向かいます。トンネルを抜けて新宮市に入ると、いかにも今風な郊外型ホームセンターが見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

ホームセンターの隣はスーパーマーケットのようです。広大な敷地に巨大な平屋の建物が広がっている……ということのようですが……

2022年7月14日木曜日

紀勢本線各駅停車 (36) 「宇久井」

新宮行き 2333M は、那智を出発してからひたすら海沿いを進みます。この海岸は「狗子の浦」とのことで、間もなく砂浜が終わり断崖絶壁に変わろうとしています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

このあたりは国道 42 号が山側を通っているので、車窓から海の眺めを遮るものはほぼ何もありません。右側の水平線上に見えている平べったい土地は、もしかしたら太地湾のあたりでしょうか?(勝浦のあたりは右側に見切れていると推測)

2022年7月13日水曜日

紀勢本線各駅停車 (35) 「紀伊天満・那智」

紀伊勝浦を出発して 3 分ほどが経過しました。倉庫らしき建物が見えてきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

紀伊天満駅

倉庫の向かい側が紀伊天満駅でした。紀伊勝浦からは 1.2 km しか離れていないのですが、新宮行き 2333M はこの区間を 3 分かけて走るダイヤのようです。

2022年7月12日火曜日

紀勢本線各駅停車 (34) 「紀伊勝浦」

湯川を出発して短いトンネルを 6 本ほど抜けると、いきなり那智勝浦の市街地に突入です。那智勝浦町の総人口は 13,707 人(2022 年 6 月時点の推計人口)とのことで、隣接する串本町よりもやや少ないらしいのですが、いやいやなかなか都会っぽい雰囲気が感じられます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

紀伊勝浦駅

いきなり市街地に入ったと思ったら、今度はいきなり紀伊勝浦駅に到着です。町名が「那智勝浦」で駅名は「紀伊勝浦」ですが、1912 年(大正元年)に新宮鉄道が「勝浦駅」を開業した時点での自治体名が「勝浦町」で、1934 年に新宮鉄道が国有化された際に「紀伊勝浦駅」に改称したとのこと。その後 1955 年に「勝浦町」「那智町」「色川村」「宇久井村」が合併して「那智勝浦町」が発足した……ということのようです。

2022年7月11日月曜日

紀勢本線各駅停車 (33) 「湯川」

太地を出発して北隣にある湯川駅を目指します。眼前に広がるエメラルドグリーンの海は「森浦湾」とのこと。太地駅のある「太地町森浦」に由来する名前でしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

湯川駅

「青信号」の実際の発色が限りなく緑に近いなど、日本では「青」と「緑」の使い分けが曖昧なところがありますが、「紺碧の海」という表現なんかもまさにその典型でしょうか。「紺碧」の色自体はどう見ても青色系ですが「みどり」の字が含まれるあたりに、「みどり」という語の対象範囲の広さが見て取れます。

2022年7月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (951) 「チャラッセナイ川・オショコマナイ川・ベンザイアサム岩・ウカウプ岩」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

チャラッセナイ川

charasse-nay
すべり落ちる・川
(典拠あり、類型多数)
「オシンコシンの滝」のある川の名前です。現在は川の名前が「チャラッセナイ川」で滝の名前が「オシンコシンの滝」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヲシユンクン」という地名(岬の名前かも)が描かれていて「チャラッセナイ」に相当する名前は見当たりません。

明治時代の地形図は「オシュン?ウイ」(地名?)と描かれているものと、「チヤラッセナイ」という川が描かれているものが確認できます。「ヨコウシ」という地名が描かれた地図も見かけましたが、「北海測量舎五万分一地形図」では岬の位置に「ヨコウシ」と描かれているため、これは現在の「オシンコシン崎」のあたりの地名だったのかもしれません。

陸軍図では「オシンコシン崎」と「チャラッセナイ川」として描かれていました。どうやら川の名前は「チャラッセナイ川」で、「オシンコシン」は岬の名前だったものが滝の名前としても使われるようになった……というのが正解かもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Charatse nai   チャラッセ ナイ   岩山ヨリ落ル水
Chipishikei     チピシケイ      舟積セシ處 破舟板ヲ舟積セシ處今岩トナリシト云フ「チプシケオロ」ト云フモ同義ナリ
Yoko ushi     ヨコ ウシ      槍ヲ以テ魚ヲ覘フ處 「ヨコ」トハ覘フノ義、矢ヲ弓ニ注ギテ覘フモ亦「ヨコ」ト云フ
O shunk ushi    オ シュンㇰ ウシ   蝦夷松多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
なんとまさかの「全部のせ」でした。南から順に地名を拾っているように見えますが、陸軍図では「オペケプ川」と「チャラッセナイ川」の間(=チャラッセナイ川の南)に「チブスケ」という地名?が描かれています。「チピシケイ」は「チブスケ」のことだと思われるので、少々順序がおかしくなっているようにも見えます。

なんだか少しややこしい話になってしまいましたが、「オシンコシンの滝」のある川の名前は「チャラッセナイ川」だという点はほぼ共通しています。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 チャラッセナイ「チャラッセ」(すべり落ちる),「ナイ」(川)。滝をなして流れ下る川。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262-263 より引用)
やはり charasse-nay で「すべり落ちる・川」と見て良さそうです(本題は一瞬で終わるのね)。

オショコマナイ川

o-so-ka-oma-nay
河口・岩盤・の上・にある・川
(典拠あり、類型あり)
「オシンコシン崎」と「弁財崎」の中間あたりで海に注ぐ川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシヨマコエ」と描かれています。明治時代の地形図は「オシヨロマナイ」と描かれているものと「オシヨコマナイ」と描かれているものがあるようです。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

凡十余町にて
     ヱシヨコヲマナイ
むかし土人等敷たるキナ莚を此川え投入れしによつて号るとかや。惣て土人等の号し処、何の訳(有)事の様に思はるれども、恐らく哉其キナを投入れしは名有る豪勇か何かとぞ思はるなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.66 より引用)※ 原文ママ
「(草で編んだ)むしろを川に投げ入れたので」とありますが、e-so-ka-oma-nay で「そこに・敷物・の上・にある・川」とでも考えたのでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Oshokoma nai   オシヨコマ ナイ   瀧ノ川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
いかにも永田地名解らしいざっくりした解釈ですが、「ゴザを投げ入れた川」と比べると随分と現実的な解釈に近づいたような気もします。一方でこういった「ざっくり解釈」を徹底的に批判していた知里さんがどう考えたかと言えば……

 オショコマナイ 「オ」(川尻),「ショ」(岩盤),「カ」(の上),「オマ」(にある),「ナイ」(川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)
o-so-ka-oma-nay で「河口・岩盤・の上・にある・川」ではないかとのこと。so が「滝」ではなく「岩盤」となっていますが、まぁ本質的には同じと見て良さそうですね(「岩盤の上を流れ落ちる」=「滝」と言えるので)。

「カジカ」を意味する esokka という語があるので、esokka-oma-nay で「カジカ・そこにいる・川」と解釈することも可能ではないかとも考えてみました。ただ知床のあたりにはカジカが生息していないようにも思われるので、実際にはあり得ない解釈かもしれません。

ベンザイアサム岩

benzai-asam?
弁財船・底
(? = 典拠あり、類型未確認)
「オショコマナイ川」の北東に「弁財崎」という岬があり、その沖に「ウカウプ岩」と「ベンザイアサム岩」という岩礁があります。「ベンザイアサム岩」は「弁財崎」の西に位置しています。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき岬が見当たらないように思えます。「ヲシユンクシエト」という岬が描かれているものの、これは現在の「チャシコツ崎」に相当する可能性が高く、また「ヲシユンクシエト」という名称は「オシンコシン崎」と混同している可能性が高そうに思えます。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ベンザイアサム 「ベンザイ」(弁財船),「アサム」(底)。アイヌの祖神サマイクルの舟がここで壊れてその舟底(ムダマ)がここに沈んで岩となつたという伝説がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)※ 原文ママ
benzai-asam で「弁財船・底」ではないかということですね。和語とアイヌ語の合成地名と言えそうですが、そういえば永田方正さんが「『間宮林蔵がこのあたりの無名の土地に名前をつけた』と聞いた」というアイヌの伝承を記していたのを思い出しました(参考)。最初は真偽不明だなぁと思っていたのですが、地図で「ベンザイアサム岩」を見かけて「あっ」と思ったんですよね。

なお、文中の「ムダマ」はアイヌ語では無さそうで、「北海道方言辞典」によると「船底の竜骨用木材」を意味する方言とのこと。この地名は本当に間宮林蔵が一枚噛んでいる可能性があるかもしれませんね。

ウカウプ岩

ukaup
岩石が重畳している所
(典拠あり、類型あり)
「弁財崎」の北西、「ベンザイアサム岩」の北東に位置する岩礁の名前です。戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

過て
     ウカヲフ
一ツの岬有。此岬材木石簇々と積重りて一岬をなして海中に突出す。また其浜は黒白の石奇麗に敷たるが故に此名有りと云へり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.66 より引用)
これはどうやら「弁財崎」のことのようで、「弁財崎」の旧名が「ウカヲフ」だった可能性がありそうです。

永田地名解には次のように記されていました。

Ukaup   ウカウㇷ゚   岩石重リタル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
これは妥当な解釈のように思えます。この ukaup は「地名アイヌ語小辞典」によると次のように解釈できるとのこと。

ukaup, -i ウかウㇷ゚ 岩石が重畳している所。 [<u(互)ka(の上)o(に群在する)-p(もの)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.135 より引用)
松浦武四郎は「材木石簇々と積重りて」と記していますが、この「材木石」は「柱状節理」のことなのかもしれません。「ウカウプ岩」の「ウカウプ」は ukaup で「岩石が重畳している所」を意味し、諸々の記述から考えると、「弁財崎」のあたりに柱状節理があり、それが沖合の岩の名前として残った……という可能性もありそうです。

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2022年7月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (950) 「オンネベツ川・シャリキ川・オペケプ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンネベツ川

onne-pet
大きな(親である)・川
(典拠あり、類型多数)
「オンネベツ川」は「オシンコシンの滝」の 3 km ほど南を流れる川で、支流を遡ると羅臼町との境界に「遠音別おんねべつ岳」が聳えています。また斜里町の東北部は、1915 年に合併するまでは「遠音別村」でした(現在は「斜里町大字遠音別村」)。

東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子ヘツ」という名前の川が描かれていました。支流の名前も細かく描かれていますが、「ウヌンコトイ」は金山川の支流である「ウヌコイ川」のことである可能性もあり、注意が必要でしょうか。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ポロナイ オンネナイ。オンネペッ。「ポロ」も「オンネ」も親の意,「ペッ」も「ナイ」も川の義。前項の子川に対してこれを親川と云ったので,古いアイヌの考え方にもとづいた呼称である。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
古い地図をいくつか確認した限りでは、どれも「オン子ペツ」や「遠音別川」となっていて「ポロナイ」とするものは見当たらないのですが、明治時代の地形図で「オン子ペツ」の南西隣の川を「ポンペツ」としたものがありました。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも「ポロナイ」の直前に「ポンペッ」の項があり、次のように記されていました。

 ポンペッ 「ポン」(子である),「ペッ」(川)。ポンナイとも云う。「ポン」(子である),「ナイ」(川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
この「ポンペッ」は「東西蝦夷山川地理取調図」や永田地名解などには見当たらないのですが、戊午日誌「西部志礼登古誌」には「ヲン子ベツ」の次の項として「ホロナイ  マクヲイ」と記されていました。「ホロナイ」と「マクヲイ」の間には何故か改行が無いのですが、これは両者が同一のものを指しているという意味なんでしょうか……?

このあたりで「ホロベツ」と言えば、ウトロの北にも「ホロベツ川」が流れています。どちらもそこそこ大きな川なので、両者の混同を避けるために「オンネベツ」と呼ぶようにした……とかかもしれませんね。onne-pet で「大きな(親である)・川」と見て良いかと思われます。

シャリキ川

sarki(-us-i)
葦(・多くある・もの)
(典拠あり、類型あり)
「オンネベツ川」の北東を流れる川の名前で、国土数値情報では「シリキ川」となっているようです(今回は地理院地図の表記に合わせています)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「サルクシ」という地名(川名?)が描かれています。また戊午日誌「西部志礼登古誌」にも次のように記されていました。

同じく崖下しばし過ぎて凡十二三丁
     サルクシ
小川有。本名シヤリクシと云よし。此川上に小沼有。其沼の辺湿沢にしててき多きによって号るとかや。シヤリは蘆荻の儀、クシは在ると云訳なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.67-68 より引用)
あー。なんとなく見えてきましたが、答え合わせを兼ねて「斜里郡内アイヌ語地名解」を見ておきましょうか。

 オサルクシ シャリキ川。「オ・サルキ・ウㇱ・イ」(o-sarki-us-i 川口に・葦• 生い茂つている・所)。モセウシとも云う。「モセ・ウㇱ・イ」(mose-us-i いつもそこで葦を刈る所)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)※ 原文ママ
おや、また微妙に新しい地名が……。明治時代の地形図にも「サリキウシ」とあり、頭に「オ」がついた形は他では見かけないのですが……。「モセウシ」という別名があるという情報も他では確認できないものです。

ここまでの情報を見る限り、「シャリキ川」は sarki(-us-i) で「葦(・多くある・もの)'' と見て良さそうですね。

オペケプ川

o-pekep?
河口・垢取り
(? = 典拠あり、類型未確認)
「オシンコシンの滝」と「シャリキ川」の中間あたりを流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲヘケフ」とあり、明治時代の地形図には「オペカプ」または「オペケㇷ゚」と描かれていました。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

また五六丁過て
     ヲヘケプ
川有。昔し判官様此処にてワツカクと申、船の垢水取を流し玉ひしによつて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.67 より引用)
「ここで義経が舟の『垢水取』を落としたので」という伝承のようですが、あからさまに地名説話っぽい感じですね……。「垢水取」というものを知らなかったのですが、どうやら塵取りのような形をしたもので、舟の中に染み出した水を掻き出すためのもののようです(参考)。

永田地名解には次のように記されていました。

Opekep   オペケㇷ゚   舟中ノ水ヲ掬ヒシ處 「ペケプ」ハ水取アカトリノ事ナリ岩ノ形似ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
おや、これは戊午日誌の内容がほぼそのまま踏襲されていますね。「ペケプ」という語は記憶に無く、手元の辞書類にも見当たらない……と思ったのですが、「地名アイヌ語小辞典」にしっかりと記されていました(!)。

pé-ke-p, -i ぺケㇷ゚ 舟のアカをかきだす道具。=wakka-ke-p. ☞これが北海道の漁夫の方言にとりこまれて「ヘイゲ」「セイゲ」などとなっている。[水・かく・もの]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.87 より引用)
いかにも「取ってつけたようなお話」が続いていますが、知里さんがこの川名についてどう考えていたかと言うと……

 オペケㇷ゚「オ」(そこで),「ぺ」(舟にしみこむ水,いわゆるアカ), 「ケ」(かき出した),プ(所)。アイヌの祖神サマイクルがここで難船したという伝説がある。またその時アカをくみ出したアカトリがそのまま岩になつてここに残つているという。またその時アカトリでかき出した水が今オペケプ川になつたのだという。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)※ 原文ママ
なんと、知里さんも地名説話を肯定していましたか。「義経」が「サマイクル」に化けていますが、「サマイクル」の行跡が「義経公」のものに置き換わるケースがよく見られるので、これもその一例でしょうか。

本当に「垢取り」なのかも

この手の伝承にはどうしても疑いの目を向けてしまうのですが、この「オペケプ川」については他に適切な解釈が思いつかないのも事実です。o-peker-p で「河口・明るい・もの」、すなわち「河口に木の無いもの(川)」と考えることは可能かもしれませんが……。

ただ「オペケプ川」の河口部が「塵取り」のような形をしている……と言うのも事実なので、これは本当に「垢取り・川」なのかもしれないなぁ……と思えてきました。o-pekep で「河口・垢取り」と考えて良いのではないでしょうか(後ろに -pet あたりがついていたのかもしれません)。

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2022年7月8日金曜日

紀勢本線各駅停車 (32) 「太地」

下里を出発して、短いトンネルを抜けると太地たいじ町に入ります。捕鯨の町として知られる太地町ですが、漁港のある「太地湾」のあたりは国道も鉄道も通っておらず、どちらも町の西端にある森浦地区を掠めるように通過しています。紀勢本線は国道 42 号をオーバークロスしていますが、国道は急カーブが続くため、注意喚起の意味で舗装がド派手になっていますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

太地駅

実はここが太地駅前で、三階建の建物が見えるのはエレベーターのようです(高架上にホームがあるため、エレベーターを追加したみたいですね)。構内踏切のために 4~50 m ほど歩かされる駅がある一方、エレベーターがある駅もあるというのは面白い……ですよね。

太地駅は高架上にある 1 面 1 線の棒線駅です。「捕鯨の町」の玄関口らしく、壁一面にクジラ……ではなくイルカ(ですよね?)が描かれています。

2022年7月7日木曜日

紀勢本線各駅停車 (31) 「下里」

紀伊浦神を出発すると、列車は再び海沿いを走ります。このあたりは「玉ノ浦」と言うそうで、湾内にはいくつもの「いけす」が見えます。これは……もしかしなくてもマグロの養殖用ですかね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

エメラルドグリーンの海ですが、底のほうも透き通って見えています。このあたりには大きな工場も無さそうなので、海は比較的清浄な状態を保っているようにも見えますが、実際のところはどうなんでしょうか。

2022年7月6日水曜日

紀勢本線各駅停車 (30) 「紀伊田原・紀伊浦神」

紀勢本線は古座川の前後で内陸部を経由していましたが、再び海沿いに戻ってきました。列車からの景色とは思えないほどの低い位置からの写真ですが、このあたりの標高は 5.4 m ほどとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

古座駅からトンネルを 3 本ほど抜けると、国道 42 号が山側を通るようになります。ということは線路は波打ち際を通る……ということになりますね。絶妙なタイミングで信号設備?がフレームインしたので、辛うじて列車からの景色だということがわかるでしょうか。

2022年7月5日火曜日

紀勢本線各駅停車 (29) 「古座」

紀伊姫を出発して走ること数分ほどで、右側に線路が見えてきました。間もなく次の古座駅のようです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

古座駅

古座駅のホームが見えてきました。ホームの端を示す「白線」が飛び飛びの点線ですが、国鉄時代の駅はどこもこんな感じでしたよね。

2022年7月4日月曜日

紀勢本線各駅停車 (28) 「串本・紀伊姫」

袋港のあたりをトンネルで南に向かっていた紀勢本線は、トンネルを抜けると長い左カーブで北東に向きを変えます。踏切の先に見えているのは「串本幼稚園」とのことで、この踏切は本州で二番目に南にある踏切、みたいです(中途半端やなぁ~)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

踏切を抜けると「本州最南端の鉄道トンネル」を抜けて、続いて「本州最南端の踏切」を抜けると、今度は「本州で三番目に南にある踏切」です(何故最南端だけ写真が無い?

2022年7月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (949) 「ウヌコイ川・真鯉・チプラノケナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ウヌコイ川

ununkoy
(行き止まりの)断崖
(典拠あり、類型あり)
オショバオマブ川の北東を「金山川」という川が流れています。この川は元々は「オクルヌシ」という名前で、o-kuruni-us-i で「そこに・ヤマナラシ・群生する・ところ」との説があります(知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』p.262)。この「金山川」は上流部で「大滝沢」と「ウヌコイ川」に分かれていて、南西側が「大滝沢」で北東側が「ウヌコイ川」です。

明治時代の地形図を見てみると、大半が河口部に川の名前が記されているのみなのですが、不思議なことにこの「ウヌコイ川」だけは「ウヌンコイ」として名前が明記されています。余程特別な意味があるのでしょうか……?

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲン子ヘツ」(=オンネベツ川)の支流として「ウヌンコトイ」という川が描かれていました。戊午日誌「西部志礼登古誌」には「ウヌンコイ」あるいは「ウヌンコトイ」についての言及が無いため、これ以上の詳細については不明です。

永田地名解にもそれらしい川の記録が見当たりませんが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウヌンコイ(金山川の奥) 峡谷の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
実にあっさりとした記述ですが、「地名アイヌ語小辞典」の内容がフォローになりそうです。

ununkoy, -e ウぬンコィ ①川の両岸が狭い断崖になっていて,川伝いに登って行った人がそこから先へは通りぬけることができず引きかえさねばならぬような地形。②両方から山が出てきてその間に挟まれた狭い土地。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.136-137 より引用)
あー、これはまさに……。「ウヌコイ川」は「①」の「川伝いに登って行った人が──引きかえさねばならぬような地形」と言えそうです。要は「行き止まり注意」と言ったところで、狭い上に山越えもできない=立ち入る価値が無いとして「気をつけるべき川」だったので、山奥の支流なのに名が知られていた……あたりでしょうか。

ununkoy 自体は u-nun-koy と考えられるようで、逐語的に解釈すると「互い・吸う・波」となるのでしょうか。具体的にどういうことなのか今一つピンとこないですが、地形としては「小辞典」に記載のあるような場所が該当する……ということで、「ウヌコイ川」も ununkoy で「(行き止まりの)断崖」と解釈して良いかと思います。

真鯉(まこい)

mak-oo-i?
奥・深い・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
オチカバケ川の南西にある「日の出大橋」から「オシンコシンの滝」のあたりまでの約 10 km ほどが「斜里町字真鯉」です。「金山川」の 1 km ほど北東に「真鯉沢」という川がありますが、明治時代の地図ではこの川の名前を確認できません(川の名前が描かれていないため)。

戦前の「陸軍図」には現在の「真鯉沢」の位置に「マコイ澤」と描かれていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「マクヲイ」という地名(川名?)が描かれていました。「ヲン子ヘツ」(=オンネベツ川)と「ヲクニウシ」(=金山川)の間に描かれていますが、これは現在の「真鯉沢」も同様です。

和語・アイヌ語折衷説

永田地名解には次のように記されていました。

Maku-o-i   マクオイ   幕ヲ張リタル處 岩アリテ土塁ノ如シ昔義經幕ヲ張リシ其跡土塁ノ形ニナリタリト云ヒ傳フト松浦氏知床日誌ニモ見エタリ「シヤリ」ノアイヌ「ウンマタ」ト云フ者年既ニ八十餘歳、同人云フ余幼年ノ比間宮林蔵ヲ見タリ實父某曾テ云フ地名ナキ處ハ間宮氏自ラ地名ヲ附シ地圖ニ記載シタル事多シト此ノ「マクオイ」等モ間宮氏ノ附シタル名ナリト云フ「マク」ハ和語ニシテ「オイ」ハアイヌ語ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.489 より引用)
自説に確信が持てないと饒舌になる……というのは人のことは言えないのですが(汗)、これも中々のものですね。「ここで義経が幕を張ったので『マクオイ』だ」と言うのですが、確かに戊午日誌「西部志礼登古誌」にも次のように記されていました。

     ホロナイ  マクヲイ
小川有。此処近年まで番屋有りし由、今はなし。然し時々鱒漁のよろしき時は出稼するよし也。此処に昔し判官様幕を張しよし、よつて号るとかや。本名マクウヨヱと云よし。是より道よろし。沙浜に成る。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.70 より引用)
永田地名解は「マク」が和語で「オイ」がアイヌ語ではないか……としましたが、この仮説を補強する情報として「『この辺の地名は間宮林蔵が命名したものが多い』とじっちゃんが言ってた」という「アイヌの古老の証言」を追記していました。

間宮林蔵は松浦武四郎よりも前の世代の人物なので、時系列的な整合性は担保されているものの、「義経伝説」自体が虚構だと考えられるので、やはりこの説は疑ってかかるべきでしょうか。

「奥が深い」説

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 マコイ「マㇰ・オオ・イ」(mak-oo-i 奥・深い・所)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
mak-oo-i で「奥・深い・もの(川)」ではないかとのこと。そうなんですよね。何も mak を「幕」と考えなくても、普通に解釈できるわけで……。ただこの説にも疑問点がいくつかあって、「深い」を意味する ooooho と同じく「水かさが深い」意味だとされます。「深く掘れた地形」であれば rawne を使うのが一般的で、このあたりでも「オライネコタン川」という実例があります。

もっとも、oo (ooho)rawne の意味で使うケースも「オオナイ川」という実例がある……とも言えるので、この疑問点は決定的なものでは無いのかもしれません。

ただ、現在の「真鯉沢」(陸軍図では「マコイ澤」)は流長が 2 km に満たない短い川で、そもそも mak(「奥」、あるいは「後背」)に何かがあるような川とは思えないのですよね。「真鯉沢」の北東にある「丸木沢」か、あるいはその隣を流れる川名不詳の川は上流部で流路が若干曲がっているように見えるので、本来の「マコイ」は現在の「真鯉沢」では無かった可能性もありそうです。

チプラノケナイ川

chip-{ran-ke}-nay
舟・{下ろす}・川
(典拠あり、類型あり)
川の名前については「地理院地図」よりも、国土数値情報をプロット済みの「OpenStreetMap」のほうが粒度が細かい印象があるのですが、OpenStreetMap では何故か「金山川」と「オンネベツ川」の間には「チプラノケナイ川」しか描かれていません(「真鯉沢」や「丸木沢」などが見当たりません)。

もっともこれは「真鯉沢」と「丸木沢」を川と同じフォントで表記している地理院地図がおかしいのかもしれませんが……。

明治時代の地形図には、現在の「チプラノケナイ川」と思しき位置に「ポンペツ」という川が描かれていて、南西隣に「チプランケナイ」という川が描かれていました(これは前項で記した「丸木沢」の北東隣を流れる川名不詳の川と同一です)。

「東西蝦夷山川地理取調図」や戊午日誌「西部志礼登古誌」、永田地名解などにはそれらしい川が見当たりませんが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 チㇷ゚タンケナイ チㇷ゚ランケナイ。「チㇷ゚・ランケ・ナイ」(chip-ranke-nay 舟を・下す・所)。この奥で丸木舟をつくりこの川から海へ下げた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
どうやら「ラノケ」は「ランケ」の間違いのようで、chip-{ran-ke}-nay で「舟・{下ろす}・川」と考えて良さそうですね。釧路町の「重蘭窮ちぷらんけうし」とほぼ同じでしょうか。

「チプランケナイ」と「丸木沢」

chip は「舟」ですが、より具体的には「丸木舟」だと思われます。となると「丸木沢」との関係が気になるわけで、明治時代の地形図に描かれた川名と現在の川名の対照表をつくるとこんな感じなのですが……

明治時代の地形図陸軍図地理院地図OpenStreetMap
オクルヌシ金山川金山川金山川
(川名不明)マコイ澤真鯉沢(記入なし)
(記入なし)(記入なし)丸木沢(記入なし)
チプランケナイ(記入なし)(記入なし)(記入なし)
ポンペツ(記入なし)(記入なし)チプラノケナイ川
オン子ペツ遠音別川オンネベツ川オンネベツ川

ただ、明治時代の地形図には「オクルヌシ」と「オン子ペツ」の間に川が 3 つしか描かれていないので、実は次にように解釈することもできてしまうのかもしれません。

明治時代の地形図陸軍図地理院地図OpenStreetMap
オクルヌシ金山川金山川金山川
(川名不明)マコイ澤真鯉沢(記入なし)
チプランケナイ(記入なし)丸木沢(記入なし)
ポンペツ(記入なし)(記入なし)チプラノケナイ川
オン子ペツ遠音別川オンネベツ川オンネベツ川

あくまで仮定の域を出ませんが、もしかしたら「チプランケナイ」は現在の「丸木沢」のことだったのかも……というお話でした。

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2022年7月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (948) 「オチカバケ川・オタモイ川・オショバオマブ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オチカバケ川

o-chikap-ewak-i
そこに・鳥・住んでいる・ところ(川)
(典拠あり、類型あり)
斜里町知布泊の 1.5 km ほど北東を流れる川の名前です。明治時代の地形図には「オチカパケ」という名前の川?が描かれていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲチカヲマイ」という地名?が描かれていました。一方で戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

過て小石原、其(を)こへて
     ヲチカバケ
小川有。上に少しの沼様の処有りと。往昔より鴨必ず年々此処にて卵をなすが故に此名有るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.70 より引用)
ちらっと確かめた限りでは、斜里のオチカバケ川の上流部には、沼あるいは湿原に類する場所は見当たらないように思えます。羅臼にも「オッカバケ川」という川があり、こちらの源流部には湿地らしき場所が描かれているのですが……。

永田地名解には次のように記されていました。

Ochikapake,=Ochikap-ewake  オチカパケ  鷲ノ栖 「チカパケ」ハ「チカプエワケ」ノ短縮語
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.489 より引用)
松浦武四郎は「鴨」と記していて、一方で永田方正は「鷲」と記しています。「斜里郡内アイヌ語地名解」はどう記していたかと言いますと……

 オチカパケ「オチカペワキ」の訛り。「オ・チカㇷ゚・エワㇰ・イ」(o-chikap-ewak-i そこに・鳥が・住んでいる・所)。通称「鷲の巣」。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
一見、永田地名解を全肯定しているようですが、実はちゃんと chikap-ewak がリエゾン(連声)するようにカナ表記を直してあるのが流石ですね。

「オチカバケ川」は o-chikap-ewak-i で「そこに・鳥・住んでいる・ところ(川)」と見て良さそうでしょうか。「東西蝦夷──」の「ヲチカヲマイ」は他の記録と少しニュアンスが異なりますが、o-chikap-oma-i で「そこに・鳥・そこにいる・ところ(川)」と読めるので、意味はほぼ変わらないっぽいですね。

他の資料と異なる形での記録が、結果として本来の解釈を補強するチェックサムのような役割を果たしてくれることがあるのですが、今回もそれに近い感じでしょうか。

オタモイ川

ota-moy?
砂浜・静かな海
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
オチカバケ川の 1.5 km ほど北東を流れる川の名前です(地理院地図では「オタモイ沢」)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲタムイ」という地名?が描かれていました。また戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

並びて
     ヲタムイ
少しの砂(湾)有によつて号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.70 より引用)※ 原文ママ
「岬」に(湾)という注釈がついていますが、これは以下の永田地名解に合わせたものでしょうか。

Ota moi   オタ モイ   沙灣
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.489 より引用)
「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 オタモイ(ota-moy 砂浜の・入江)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.262 より引用)
オタモイ川(沢)の河口付近には砂浜があるので、ota は「砂浜」と見て間違いなさそうに思えます。moy は「湾」あるいは「入江」とされますが、オタモイ川(沢)の付近には「湾」あるいは「入江」と呼べそうな地形は見当たりません。

ただ、moy は本来は mo-i で「静かな・ところ」だとする説もあるので、ota-moy は「砂浜・静かな海」と考えても良いのかもしれません。

余談ですが、もしかしたら moy ではなく muy で「」だった可能性もあるんじゃないかと考えてしまいます。砂の岬が二つあり、それを「箕」に見立てたのではないか……という想像なのですが、岬が二つあればそこに湾ができるので、「やっぱり moy でいいのでは」となりそうな気も(結局どっちなんだ)。

オショバオマブ川

o-so-pa-oma-p
河口・滝・端・そこにある・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
オタモイ川(沢)から 1.4 km ほど北東で海に注ぐ川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシヨマヲマフ」という名前の川が描かれていました。

明治時代の地形図には「オシヨパオマㇷ゚」と描かれていました。これはほぼ現在名と同じと言えそうでしょうか。永田地名解にも次のように記されていました。

Oshopa omap   オシヨパ オマㇷ゚   岩ノ端ノ處 川上ニ兩岸絶壁ノ處アリ此川尻ノ岩端ヲ云フナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.489 より引用)
ちょっと悩んだのですが、これはやはり o-so-pa-oma-p で「河口・滝・端・そこにある・もの(川)」と解釈すべきでしょうか。so は必ずしも「滝」を意味するとは限らず、「水中のかくれ岩」を意味する場合もある……というのが気になっていたのですが、今回は素直に「滝」(あるいは「滝」を構成する「岩」)と見て良さそうです。

この「オショパオマプ川」ですが、何故か「斜里郡内アイヌ語地名解」には記載が見当たりませんでした。うっかり抜け落ちてしまったのでしょうか……。

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