2022年7月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (952) 「フンベ川・チャシコツ崎・ペレケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

フンベ川

humpe-oma-pet
鯨・そこに入る・川
(典拠あり、類型あり)
ウトロの南西に国道 334 号の「ウトロトンネル」がありますが、「フンベ川」はウトロトンネルの出口から更に 0.5 km ほど南西を流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「フンヘシヤハ」と「ニソマヘツ」が並んで描かれていました。どちらも川として描かれているようにも見えますが、「フンヘシヤハ」の西に「ヲシヨマコエ」(=オショコマナイ川)がある筈なので、「フンヘシヤハ」は川の名前では無いと見たほうが良いでしょうか。

この「フンヘシヤハ」ですが、humpe-sapa で「クジラ・頭(岬)」だと考えられます。「東西蝦夷──」では「ヲシヨマコエ」と「ニソマヘツ」の間に描かれているので、この両者の間にある岬と言えば「弁財岬」ということになるでしょうか。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

廻りて
     フンベヲマベツ
小石浜に小川有。むかし此川口え鯨上りしと云よし。フンベは鯨、ヲマは入る、ベツは川と云儀なり。また過て
     ニソマベツ
並びて有り。一説に此川には名なくしてフンベヲマベツの本名とも云り。如何なるや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65-66 より引用)
このように「戊午日誌」では「フンベヲマベツ」と「ニソマベツ」が併記されています。「フンベヲマベツ」の別名が「ニソマベツ」かもしれない……と断り書きが入っているようにも見えますが、「午手控」では次のように記されていました。

廻りて
   ニソマヘツ
小転太石有。本名フンベヲマベツのよし。鯨(寄)りしより号。此処も少し澗也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.294 より引用)
これを見た限り、「午手控」では「『ニソマヘツ』の本名は『フンベヲマベツ』」と断言していたのが、何故が「戊午日誌」では若干トーンダウンしているように思えます。

ウトロトンネルのある「チャシコツ崎」と「フンベ川」の間には滝らしい地形があるものの、これが「フンベヲマベツ」だったと考えるのはちょっと無理がありそうな気がします。やはり「午手控」にあるように「ニソマヘツ」と「フンベヲマベツ」は同一の川を指していると考えたほうが良いのではないでしょうか。

明治時代の地形図には「フンペオマペツ」と描かれていましたが、陸軍図では「フンベ川」となっていて、流域に「フンベ」という地名も描かれていました。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 フンペ川 「フンペ・オマ・ペッ」(humpe-oma-pet)。フンペ(鯨).オマ(入る),ペッ(川)。昔ここにアイヌの村があつたという。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)※ 原文ママ
元々は humpe-oma-pet で「鯨・そこに入る・川」だったと見て良さそうですね。また別名(本名?)ではないかと目される「ニソマヘツ」ですが、nisey-oma-pet で「断崖・そこにある・川」だったのではないでしょうか。

チャシコツ崎

chasi-kot
岬・跡
(典拠あり、類型多数)
ウトロトンネルの北に位置する岬です。トンネルと岬の間には鞍部があり、ウトロトンネルが開通する前は鞍部を抜けるルートが国道に指定されていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシユンクシエト」という名前の岬が描かれていました。ただこれは「オシンコシン崎」との混同が疑われます。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

又此岸に添て三四丁を過
     チヤシコツヱ卜
赤壁崖峨々として海中に突出し、其に撃する潮勢乱れて玉を飛し、上には緑樹陰森として枝を垂、其眺望実に目を驚かせり。此処むかし土人の城塁有りしと。チヤシは柵塁の事、コツは地面、ヱトは鼻岬の如き処を云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65 より引用)
概ね同意ですが、「コツは地面」というのが若干謎でしょうか。kot について、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

kot, -i こッ 凹み;凹地;凹んだ跡;沢;谷;谷間。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.50 より引用)
なるほど。「地面」という解釈は当たらずとも遠からずなのですね。ただ chasi-kot という項目も設けられていて……

chási-kot, -i ちゃシコッ 砦の跡。──その他に古く山頂にあった古代の祭場の跡,ストーンサークルの跡なども云う。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.15 より引用)
「チャシコツ崎」の「チャシコツ」は素直に chasi-kot で「砦・跡」と考えるべきでしょうね。「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 チャシコツ崎 「チャシコッ・エト゚」(chashikot-etu)。チャシコッ(砦の跡),エト゚(岬)。「砦の跡のある岬」の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)
ということで、chasi-kot で「岬・跡」と見て間違い無さそうですね。-etu については地図類で確認できないので今回は省きますが、そのように呼ばれていたと考えても何ら不思議は無さそうです。

ペレケ川

perke-i
裂けている・所
(典拠あり、類型あり)
道の駅「うとろ・シリエトク」の北を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘケレノツ」という地名(おそらく岬の名前)が描かれているのですが、「ペレケ」と「ヘケレ」では意味が変わってきます。perke であれば「割れる」あるいは「破れる」ですが、peker であれば「白い」あるいは「清い」や「明るい」となります。

永田地名解には次のように記されていました。

Perekei   ペレケイ   岩ノ裂レタル處 松浦知床日誌ニ「ヘケレ」トアリ註ニ小岬、明シトノ義トアルハ最誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.490 より引用)
久しぶりに「ドヤ顔の永田さん」の登場ですね。確かに「東西蝦夷──」には「ヘケレノツ」とあったのですが、戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

廻りて二三丁過て
     ヘ ケ レ
本名ヘケレ(ペレケイ)のよし。此処小川有。此源に大岩一ツ有て其岩割れ、其中より水涌出るによつて号るとかや。また一説には、此辺そうじて転太浜なるに、此川の両方少しの間白砂有て美しきが故にヘケレと云もすべし。ペケレは明るき義を云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.65 より引用)※ 原文ママ
これは……。「ヘケレ」としつつ「岩が割れてそこから水が湧き出たので」というのは、明らかに peker ではなく perke を意識した解釈ですよね。まるで「ヘケレ」は「ペレケ」の間違いだということを知っていたようにも思えますが、「午手控」を見てみると……

此さきを廻りて
   ヘケレ
小石浜十計(丁)もつヾく也。前に磯多し、本名ヘレケのよし。小川有り。此源も大岩一ツ中よりわれ、其中より水出通り来るより号るとかや。此浜の上ヘレケノホリと云山有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.294 より引用)
やはり。「ヘケレ」は本来は「ヘレケ」だったと言うことを承知の上での記録だったのですね。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペレケ川 「ペレケイ」(perke-i)。ペレケ(破れている,裂けている),イ(所)。岩が裂けている所。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.263 より引用)
はい。perke-i で「裂けている・所」と見て良さそうですね。ウトロのあたりは段丘状になっているのですが、「ペレケ川」と支流の「ポンペレケ川」はまるで段丘を切り裂くように流れています。そのことを指した川名だったのかもしれません。

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