【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。
紀伊勝浦駅
いきなり市街地に入ったと思ったら、今度はいきなり紀伊勝浦駅に到着です。町名が「那智勝浦」で駅名は「紀伊勝浦」ですが、1912 年(大正元年)に新宮鉄道が「勝浦駅」を開業した時点での自治体名が「勝浦町」で、1934 年に新宮鉄道が国有化された際に「紀伊勝浦駅」に改称したとのこと。その後 1955 年に「勝浦町」「那智町」「色川村」「宇久井村」が合併して「那智勝浦町」が発足した……ということのようです。そろそろ「勝浦」の字がゲシュタルト崩壊を起こしつつあるので、本題に戻りましょう。紀伊勝浦駅は 1 面 2 線の「国鉄型配線」の駅……のように見えますが、実は 1 番線から串本方面に出られない構造になっているとのこと。紀伊勝浦までは JR 東海の特急「南紀」が乗り入れていて、1 番線は特急「南紀」の折り返しに使われているようです。
そして、よく見ると後ろの方に蒸気機関車のシルエットが……。C58 353 号機が保存されているとのことですが、Wikipedia によると「塩害で痛みが激しい」とあります。
勝浦の壁?
新宮行き 2333M は 3 番線に入線しました。特急停車駅ですが、ホームはお隣の湯川駅のほうが広いかもしれませんね……。2 番のりばと 3 番のりばの間には何故か鉄柵が設置されていました。JR と他の鉄道事業者がホームを共有している際に良く見られる設備ですが、紀伊勝浦駅は(JR 東海の乗り入れがあるとは言え)JR 西日本の単独駅で、のりばの間に鉄柵を設ける意味が良くわかりません。何故なんでしょう?
跨線橋(に接続する階段)の下には自販機があり、このあたりには鉄柵はありません(ピンボケですいません)。
貨物側線の跡
紀伊勝浦駅を上空から眺めると跨線橋が 3 つあるように見えるのですが、北から順に東西の自由通路、エレベーター用跨線橋、階段用跨線橋のように見えます。下の写真に見えるのは東西の自由通路っぽいものです。きのくに(紀勢)線の時刻表が見えます。新宮・松阪・名古屋方面に限定したものなので、随分と列車の少なさが目立ちますね。9 時台と 14 時台、16 時台と 20 時台が列車のない時間帯のようです。
ホームには木製のベンチが置かれていました。線路の向こう側に歩道が見えますが、これは勝浦港の桟橋に向かう線路の跡でしょうか。
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紀伊勝浦駅のホームは 2 番のりばよりも 3 番のりばのほうが 1 両分だけ長くなっているように見えます(理由は不明です)。ちょっと感心したのがこちらのアイコンで、これは津波が発生した際の避難場所を示したものでしょうか(違っていたらすいません)。シンプルな色合いですが、きちんとメッセージが伝わっている印象があります(もちろん程度は人によると思いますが)。
矢印のデザインが「非常口」と同じだ……というのは、外国から来た人が理解できるかどうかは微妙なところかもしれませんが……。
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2 件のコメント:
40年昔は東京からの夜行寝台列車の終点でしたからね。
それなりの拠点性はあったのでしょう。
ねこあたま さん:
寝台特急「紀伊」の終点が紀伊勝浦でしたよね。「40年昔」と言われて「??」と思ったのですが、特急「紀伊」が廃止されたのが 1984 年でしたか……。
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