【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。
エメラルドグリーンの海ですが、底のほうも透き通って見えています。このあたりには大きな工場も無さそうなので、海は比較的清浄な状態を保っているようにも見えますが、実際のところはどうなんでしょうか。
砂浜と、海中にせり出した防波堤のようなものが見えてきました。港に砂の流入を防ぐための堤防かと思ったのですが……。
堤防の向こう側にも砂浜が広がっていました。ここは「玉の浦海水浴場」らしく、先程の防波堤は「海水浴場」と「ただの砂浜」を区切るためのものだったのかもしれません。
ちなみにこのあたりは「那智勝浦町
謎の「線路跡のような道路」
ところで、「ぶつぶつ川」の東にはこんな道路があるのですが……一見、何の変哲もない集落内の道のように見えます。ただ、不自然なほど緩やかなカーブが続いているのが気になるんですよね。
現在の紀勢本線は「ぶつぶつ川」のあたりからまっすぐ北東に向かい、トンネルを抜けて下里駅に向かっています。仮にこのトンネルが無かったとしたら、この道路の位置に線路が通っていたとしても不思議はないように思えます。
計画変更で放棄された?
ただ、1947 年に米軍が撮影した航空写真を見ると、紀勢本線は既に現在のルートを通っていたことが確認できます。紀勢本線(当時は紀勢中線)の下里-串本間が開通したのは 1936 年なので、仮にルート変更が行われたのだとすると、戦中の混乱期ということになります。陸軍図では「紀勢中線」の下里以北が「工事中」の扱いで、残念ながら下里以南の予定線は描かれていませんでした。「ぶつぶつ川」と下里の市街地の間には「熊野街道」が描かれているので、古くから道路が通っていたことは間違い無さそうですが、かつての「熊野街道」に相当しそうな道路は「線路跡のような道路」しか見当たりません。
「線路跡のような道路」が本当に線路跡なのであれば、別途「熊野街道」に相当する道路が存在する筈なのですが、そういった道路は見当たりません。一方で「陸軍図」の「熊野街道」は、「線路跡のような道路」と比べるとカーブが急に描かれているようにも見えます。まぁ誤差の範囲と言えばそれまでですが……。
疑い始めると何でも怪しそうに見えてくるもので、たとえばこの石垣も「築堤跡」のように見えたりするんですよね。
当時の「紀勢中線」は「下里小学校」の西側を南に向かい、緩やかなカーブを描いて「ぶつぶつ川」方面に向かおうとしたものの、地盤が軟弱で工事中から土砂災害が多発したので、トンネルを掘削してまっすぐ抜けるように計画を変更した……と言った可能性を考えたくなります。何の根拠も無い単なる想像ではあるのですが……。
「紀勢中線」の紀伊勝浦-下里間の開業が 1935 年 7 月で、下里-串本間の開業が 1936 年 12 月なので、1 年半ほどのタイムラグがあります。このタイムラグは設計変更によるものではないか……と考えたくなりますが、陸軍図には下里までの予定線が描かれているため、単純に建設に着手した時期が違っていただけかもしれません。予定線の位置は割と正確に描かれているように見えますが、よく見ると太地駅のあたりなどは結構な違いがあります。
余談が過ぎましたが、新宮行き 2333M は「太田川」の河口に差し掛かりました。下里駅は太田川の北東側にありますが、古くからの市街地は川の南西側が中心だったようです。「紀勢中線」の開通時期にギャップがあるのは架橋に時間がかかったから……とも考えられますが、より大きな川である古座川の東西では開通時期に違いは見られないので、これまたなんとも言えませんね。
下里駅
下里駅にやってきました。レールを積んだ保線用車輌が見えます。下里駅は 2 面 2 線の相対式ホームの駅ですが、保線用車輌が置かれているところは荷物用ホームだったのでしょうか。また 2 番ホームの向かい側には 3 番線が通っていたようにも見えます。かつては 2 面 3 線 + 荷物ホームという、典型的な「国鉄型配線」の駅だったような感じがします。
駅舎は開業当時のものがそのまま使われているとのことですが、屋根と庇が一体化していて、1 番のりばの上屋を兼ねているというのはこれまで無かったパターンのような気がします。
外壁はほぼ真っ白で、「 につき線路を横断しないで下さい。こ線橋をご利用下さい。」という警告が貼られています。駅舎と 2 番のりばの間の移動は、屋根の無いオープンタイプの跨線橋を利用することになります。
ホームの嵩上げは一度行われただけ……でしょうか。電車のドアとの間には多少の段差がありそうですね。
駅の正面は県道 235 号「南平野下里停車場線」とのこと。駅前の県道なので実延長が数十メートルしか無いんじゃないか……と思ったのですが、実延長は 12 km 近くあるとのこと。一部は「那智勝浦新宮道路」の市屋ランプへの接続路になっているようです。
それでは、次の太地駅に向かいましょう。
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謎の道路ですが、左右にグレーチングが続いている事から暗渠ではないかと思われます。
返信削除排水用だけであれば、これだけ狭い道なら片側で良いはずですし。
という事で、線路跡ではなく水路跡なんじゃないでしょうか?
<セルダン> さん:
返信削除なるほど、ありそうな話ですね。地形を見てみると粉白のあたりは水量の安定した川が無さそうにも見えるので、下里側から水を融通した可能性がありそうです。ただ、この道路は米軍の空中写真でも確認できるので、戦前に水路を暗渠化していたというのも「本当だろうか?」と思ってしまうんですよね……。