2022年6月30日木曜日

紀勢本線各駅停車 (26) 「田並」

田子を出発して、紀勢本線は海沿いの高台を東に向かいます。「海沿いの高台」というのは国鉄路線の定番の一つですよね(海岸線スレスレを走っていた日高本線には違和感があったのですが、元は私鉄だったと聞いて納得したものです)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

串本町江田にやってきました。このあたりの海は湾状になっていますが、川が流れ込んでいるために砂浜が形成されています。漁港は河口から少し離れた、砂の少なそうな場所に設けられているようです。

2022年6月29日水曜日

紀勢本線各駅停車 (25) 「和深・田子」

江住を出発して、短いトンネルを 3 つほど抜けると「本州最南端」の串本町に入ります。和歌山を出発してから 4 時間と 10 分ほどが経過していますが、新宮まではまだ 2 時間ほどかかる予定です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

再び海沿いに戻ってきました。このあたりの海岸線は荒磯が多いようですが……

2022年6月28日火曜日

紀勢本線各駅停車 (24) 「見老津・江住」

双子山信号場を通過後、「双子山トンネル」を含む長短合わせて 5 つほどのトンネルを抜けると、再び海が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

見老津駅

更にトンネルを 1 つ抜けると見老津みろづ駅に到着です。1 面 2 線の島式ホームで、跨線橋や地下道が無いため駅舎との行き来は構内踏切を経由する形です。

2022年6月27日月曜日

紀勢本線各駅停車 (23) 「周参見・双子山信号場」

紀伊日置を出発すると「安宅坂トンネル」を抜けて「すさみ町」に入ります。駅名は漢字で「周参見すさみ」ですが、町名がひらがなと言うのは「平成の大合併」で良くあるパターンですよね。

ところが、「すさみ町」という町名になったのは 1955 年(昭和 30 年)とのこと。周参見町すさみちょう大都河村おおつがわむら佐本村さもとむらが新設合併するにあたり、「周参見町」の名前を引き継ぐのは吸収合併のような印象を与えるため、せめてもの抵抗でひらがなにした……というのが理由の半分くらいを占めているような予感がします。

残りの半分は「周参見」がちょいと難読だったから……ではないかなぁと。

「安宅坂トンネル」を抜けると、列車は「太間川たいまがわ」沿いを南に向かいます。途中で紀勢自動車道が紀勢本線をオーバークロスしています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

紀勢自動車道・阪和自動車道を経由した場合、すさみから和歌山までは 100 km ほどとのこと。これを近いと見るか遠いと見るかは意見が分かれるところかも知れませんが、以前は完成 2 車線で恒常的に渋滞していた区間が 2021 年 12 月に 4 車線化されたこともあり、今ではすさみから和歌山までは(渋滞が無ければ)1 時間 35 分ほどで走破できるとのこと。

2022年6月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (947) 「糠真布川・知布泊・オライネコタン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

糠真布川(ぬかまっぷ──)

not-ka-oma-p?
岬・上・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
斜里町峰浜の北東を流れる川で、国道 334 号は「糠真布橋」でこの川を渡っています。扇状地のように見えますが、河口のあたりは標高 20 m 以上の台地になっていて、結果的にちょっとした岬のような地形になっています。これは糠真布川によって形成された土地が沿岸流に削られた……ということでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には何故かそれらしき川が描かれていませんが、戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

また石原の処十七八丁過て
     ノツカマフ
小川有。小石原。本名ノツカヲマフと云よし。此岬第一番に出たるによつての由也。又一説には第一番手前の岬なるによつてとも云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.71 より引用)※ 原文ママ
永田地名解には次のように記されていました。

Notkamap   ノッカ マㇷ゚   岬上
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.488 より引用)
いかにも永田地名解らしいざっくりした解ですね。not-ka-oma-p で「岬・上・そこにある・もの(川)」と見て良さそうでしょうか。

これで決まりか……と思ったのですが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には異なる解が記されていました。

 ノッカマㇷ゚(nup-ka-oma-p 野・の上・にある・川)
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
えっ。ということで山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみたところ……

斜里町史地名解は「ヌㇷ゚・カ・オマ・ㇷ゚ 野の・上に・ある・川」と書いた。ヌㇷ゚カ(nupka)をただ野と訳した方が実際的か。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
えっ、えっ。nupka-oma-p で「原野・上・そこにある・もの(川)」ではないかと言うのですね?

改めて考え直してみたのですが、明治時代の地形図にはいずれも「ノッカマㇷ゚」とあり、nupka では無さそうに見えます。知里さんが何故永田地名解の not-ka 説を捨てたのかは理由が不明ですが、地形と記録からは not-ka-oma-p と考えるのが自然に思えます。

なお not-ka は「仕掛け弓の触り糸」という意味もあるとのこと。エゾシカなどの猟場だったと解釈することも一応は可能ですが、そういった記録は見当たらないので、今回は無視して良いかと思っています。

知布泊(ちっぷどまり)

chip-tomari
舟・泊地
(典拠あり、類型あり)
糠真布川の北西を流れる「オライネコタン川」の河口付近の地名で、集落と漁港があります。この地名も「東西蝦夷山川地理取調図」には見当たらない上に、永田地名解にもそれらしき解が見当たりません(「ポロ トマリ」は知布泊の南西あたりの地名のようです)。

幸いなことに「斜里郡内アイヌ語地名解」に記載がありました。

 チㇷ゚トマリ(chip-tomari 舟・泊)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
あー。chip-tomari で「舟・泊地」と考えて良さそうですね。地形を見た限り「天然の良港」という感じでは無さそうですが、オライネコタン川と糠真布川の間は少し海岸線がくぼんでいるので、沿岸流の影響が比較的少ないのかもしれません。

オライネコタン川

orawne(-nay)-kotan?
深い(・川)・村落
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
漁港のある知布泊の北で海に注ぐ川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲライ子コタン」と描かれていて、戊午日誌「西部志礼登古誌」にも「ヲライ子コタン」と記されています。

永田地名解には次のように記されていました。

Oraune kotan  オラウネ コタン  谷村 「ラウネ」ハ深キノ意ニシテ兩岸高ク底深キヲ云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.489 より引用)
「ライネ」とは何だろう……と思っていたのですが、rawne だったのですね。オライネコタン川は糠真布川などと比べると随分と「深い谷」を刻んでいるので、それを指した川名……ということでしょう。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には、この川名についてもう少し掘り下げた解釈が記されていました。

 オライネコタン 詳しく云えばオラウネナイコタン(orawnenay-kotan オライウネナイ・村落)。オラウネ(深い),ナイ(谷川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
ふむふむ。rawne ではなくて orawne なのですね。orawne も「深い」を意味するようですが、o-rawne で「尻・深い」となり、「(入れ物が)深い」と解釈できるとのこと。o-rawne-nay を「河口・深い・川」と読み解くことも可能かも知れませんが、「河口が深い」というのはどうにも変な感じがするので、やはり orawne-nay で「深い・川」と解釈するほうが適切っぽいですね。

「オライネコタン」は orawne-nay にある kotan と考えられるので、orawne(-nay)-kotan で「深い(・川)・村落」と言ったところでしょうか。

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2022年6月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (946) 「海別川・シマトツカリ川・マクシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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海別川(うなべつ──)

una-pet?
灰・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
斜里町には「天に続く道」という名の、錯視を応用したビュースポットがあるのですが、「天に続く道」スタート地点の近く(1 区画西)を流れる川の名前です。現在は「奥蘂別おくしべつ」の支流という扱いですが、海別川が本流と目されていた時期もあったようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウナヘツ」という名前の川が本流として描かれていました。戦前の「陸軍図」でも河口には「海別川」と描かれていて、河口周辺の地名として「海別」と描かれています。

永田地名解には次のように記されていました。

Una pet   ウナ ペッ   灰川 古ヘ噴火セシトキ全川灰ヲ以テ埋メタリシガ今ハ灰ナシ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.488 より引用)
「昔(海別岳が)噴火した時に川が灰で埋まったので」ということのようですが、「今は灰は無い」と証拠隠滅(© 知里さん)するあたりは流石でしょうか。

ただ「斜里郡内アイヌ語地名解」を見てみると……

 ウナペッ 海別川。「ウナ・ペッ」(una-pet 灰・川)。昔噴火した時全川火山灰で埋まったという。「ウナ・オ・ペッ」(una-o-pet 灰の・入つた・川)とも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)※ 原文ママ
知里さんは、ここでは永田地名解を全肯定だったようです。「『ウナ・オ・ペッ』とも云う」とありますが、手元の資料を見た限りでは大半が「ウナペツ」で、「ウナオペッ」という呼称の存在を窺わせるものは確認できませんでした(文法的に、かつてそう呼ばれていた可能性はあると思われます)。

ということで、現時点では una-o-pet ではなく una-pet で「灰・川」としておくのが妥当かなぁと思われます。https://www.bojan.net/2015/05/30.html では una-o-pet にしていましたが、まぁいいですよね……?

シマトツカリ川

suma-tukari-pet
石・手前・川
(典拠あり、類型あり)
「天に続く道」スタート地点から東十線で北に向かうと、途中から「シマトツカリ川」が道沿いを北に向かって流れています。現在のシマトツカリ川は旧・峰浜小学校の西側を通って海に流出していますが、小学校のあった「峰浜」地区はかつて「島戸狩」という地名でした。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「カモイヘツ」と「シユマトマリ」が並んで記されていました。これは「カモイヘツ」という川と「シユマトマリ」という地名?が共に存在していた可能性を考えたくなりますが、永田地名解には次のように記されていました。

Shuma tukara pet  シュマ ト゚カラ(ペッ)  石ノ此方ナル川 朱圓村ト稱ス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.488 より引用)
あ。やはり「シユマトリ」も川の名前でしたか。「シユマトリ」が「シユマトリ」の間違いだとしたら解釈がコロっと変わってしまうのですが、どうやら「シユマトマリ」のほうが間違いっぽい感じでしょうか。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

     シユマトカリヘツ
小川有。此処よりシヤリの方小石一ツもなし。よつて一人が出てはだしにて舟を引行。(石なきに)よつて号るよし也。また少しの湾に成る也。右のかたノツカマフ、左りの方カモイヲヘツの川口の岬と峙す。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.71 より引用)※ 原文ママ
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 シュマト゚カリペッ(suma-tukari-pet 石・の・こちらの・川) この川を境にして斜里方面は砂浜,東の方は石原なのでそう名づけた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
これは suma-tukari-pet で「石・手前・川」と考えて良さそうですね。この地名(川名)については、山田秀三さんの「北海道の地名」で次のように解説されていました。

 この辺の海岸は斜里からずっと砂浜続きで浜伝いに歩いて来れるのであるが,この川を越えるといきなり大きなごろた石だけの岸である。地名で tukari(手前)という言葉を使うのは,この種の特殊な地形の場合である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.220 より引用)
この「シユマツカリ」(島戸狩)が「しゅまどかり」となり、朱円は一帯の村名となります。村名の名残で現在の「朱円」は奥蘂別川のあたりの地名という扱いですが、元となったのは「シユマトカリ川」で、本来の「シユマトカリ」は現在「峰浜」と呼ばれている……というのは広義の移転地名と呼べるのかもしれません。

マクシベツ川

mak-kus-pet?
奥(山手)・通る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「シマトツカリ川」の河口付近にある「斜里町峰浜」で東から合流する支流の名前です。明治時代の地形図には「ポンシユマト゚カラペツ」と描かれていて、これは「シユマト゚カラペツ」(=シマトツカリ川)の支流と読めるでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンシヤリヲマナイ」という名前の川が描かれています。現在の「シマトツカリ川」に相当する川が「シヤリヲマナイ」という名前で描かれていて、これは sar-oma-nay で「葦原・そこにある・川」と読めるでしょうか。ただ戊午日誌「西部志礼登古誌」や「午手控」にはそれらしい記録が見当たらないので、何らかの勘違いか、あるいは手違いがありそうな気がします。

現在の川名は「マクシベツ川」ですが、「午手控」には何故か「ウナヘツ川すじ」(=海別川筋)に次のように記されていました。

○ ウナヘツ川すじ
 マツクシヘツ 左中川
 ライヘツ 左小川
 ウシシュンナイ 左小川
 ヲブツシャスナイ 左小川
 ケナシハヲマナイ
 ヲ(ク)シヘツ  此処より右ヲクシヘツ 左ウナヘツ
 アツカンヘツ ヲクシヘツ枝
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.177 より引用)
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

【海別川筋】
 サクㇱペッ(右支流)「サ・クㇱ・ペッ」(sa-kus-pet 浜側を・通つている・川)。
 マックㇱペッ(左支流)「マㇰ・クㇱ・ペッ」(mak-kus-pet 奥を・通る・川)。
 オクシュンペッ 奥蘂別川。「オ・クㇱ・ウン・ペッ」(o-kus-un-pet 川向うにある川)。一番浜側にサクㇱペッがあり,その奥にマクㇱペッがあり,更にその川の彼方にこの川が流れていたのでそう名づけた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)※ 原文ママ
なお「斜里郡内アイヌ語地名解」には「シュマト゚カリペッ」の支流として「ポンシュマト゚カリペッ」が記されていました(これは明治時代の地形図での描かれ方と一致しています)。

「マツクシヘツ」は何処に

現在の奥蘂別川は海別川が合流した後、そのまままっすぐ海に向かって流出していますが、かつては浜堤の間を東に向かって流れていました。海別川として見た場合は、東七線のあたりで西に向きを変えて、東三線のあたりで奥蘂別川が合流した後、今度は東に向きを変えて東七線の手前で海に注ぐという、おそろしく蛇行した川でした。

結果として、海別川の河口付近では浜堤が二段構えになってしまっていて、浜堤の南側を二段構えで川が流れるという状態になっていました。海からこれらの川を見た場合、南北を浜堤に挟まれて東に向かって海に注ぐ川が「サクㇱペッ」で、浜堤の南側で西に向かって流れる川が「マㇰクㇱペッ」だった……と考えたくなります。

もっともそう考えた場合、「サㇰシペッ」は本流の別名ということになり、「右支流」とする「斜里郡内アイヌ語地名解」の記載と不整合が生じるのですが。

余談が過ぎましたが、ここまでの記録を見た限り、「マクシベツ川」は「シマトツカリ川」の支流ではなく「海別川」(あるいは「奥蘂別川」)の支流だった可能性がありそうです。

ただ「マクシベツ川」は mak-kus-pet で「奥(山手)・通る・川」だと考えられるのですが、現在の「マクシベツ川」も「ウナベツスキー場」の後ろの山地を横切っているとも言えるので、一概に間違いとは言えないのが難しいところです。

海別川の支流と目される「マックㇱペッ」の存在が失われ、少し離れたところを流れる「ポンシユマト゚カラペツ」が「マクシベツ川」に改められた……というのは、状況証拠としてはかなり黒に近いグレーではあるのですけどね。

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2022年6月24日金曜日

紀勢本線各駅停車 (22) 「椿・紀伊日置」

椿駅

紀伊富田を出発して走ること 5 分ほど、長短合わせて 5 つのトンネルを抜けると「椿駅」に到着です。赤い屋根の建物が駅舎のようです。途中で瓦の種類が違っているのは……何故なんでしょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

駅名は「白浜町椿」という地名に由来するようで、駅の入口にも椿のイラストが。


椿駅は 2 面 3 線の国鉄型配線の駅だったと思われますが、上り本線を 3 番線から 2 番線に移設して、かつての 3 番線は保線用車輌の留置線になっているようです(架線も残っているようですが)。

2022年6月23日木曜日

紀勢本線各駅停車 (21) 「白浜・紀伊富田」

白浜駅

新宮行き 2333M は白浜駅に到着しました。白浜駅もお馴染みの 2 面 3 線の国鉄型配線のように見えますが、実は 1 番線の隣に頭端式ホームの 0 番線が存在していて、特急列車の折り返しに使用されているとのこと。
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0 番線を抜きにして「国鉄型配線」の駅だと考えた場合、新宮方面に向かう列車は 2 番線か 3 番線に入るのがセオリーですが、2333M は何故か 1 番線に入線してしまいました。1 番線は跨線橋を渡らずに改札に向かうことができるので、列車本数の少ない駅では JR 側が「気を利かせて」1 番線に入ってくれるケースもあるのですが……

ちょんまげピースサインのおっちゃん

1 番線に入ってしまったので 2・3 番のりばのホームが良く見えます。ホーム上屋が木製なのは驚きですが、スカイブルーと白のツートーンで塗装された上屋はハイカラな感じでなかなか良いですね。

2022年6月22日水曜日

紀勢本線各駅停車 (20) 「紀伊田辺・紀伊新庄・朝来」

紀伊田辺駅からは新宮行き 2333M に乗車します。昼間の時間帯は 3 時間に 1 本しか無い貴重な各駅停車です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

13:11 に出発する 2333M(2 両編成)は 3 番線に入線済みです。ちなみに新宮からやってきた 2328M の紀伊田辺着が 11:59 なんですが、もしかしてずーっと 3 番線に停車したままなんでしょうか……?

2022年6月21日火曜日

紀勢本線各駅停車 (19) 「紀伊田辺」

紀伊田辺行きの 2353M は芳養はや駅を出発しました。次は終点の紀伊田辺です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

御坊から紀伊田辺までは各駅停車で 42 分ほどで、2353M は特急の通過待ちがあったので 47 分かけて走っています。和歌山から御坊まではちょうど 60 分だったのですが、駅の数が少ないこともあってか、御坊から紀伊田辺までは割とすんなりと来てしまった感がありますね。

田辺市の市街地に入りました。家屋が密集しているように見えますが、これでもところどころに農地のあるエリアです。紀勢本線の線路はこの先大きく右にカーブしていて、紀伊田辺駅はこの写真の右側奥のほうにあります。

2022年6月20日月曜日

紀勢本線各駅停車 (18) 「南部・芳養」

岩代を出発すると、右手には再び海が見えてきました。浅い海の底に石が転がっているのが見えます。
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そして今度は綺麗な砂浜が見えてきました。Google Map によると、この海岸は「千里海岸」と言うとのこと。海岸の奥には岬が見えますが、これは「目津崎」というのだそうです。

2022年6月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (945) 「飽寒別・奥蘂別川・オオナイ川」

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飽寒別(あつかんべつ)

apkas-nay??
歩く・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
国道 334 号の「朱円橋」の北、東二線と南一号の交点から 80 m ほど北に位置する四等三角点の名前です。かつての川名に由来する名前と思われますが、設置されたのは 1978 年とのこと。1978 年の時点では「飽寒別」という川名?は現役だったのでしょうか……。

明治時代の地形図には「ウナペッ」の支流として「アッカンペッ」が描かれています。越川神社のあたり(国道 244 号の近く)を流れる無名の川がありますが、これがおそらく「アッカンペッ」だったと思われます。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川が描かれていませんが、「午手控」には「アツカンヘツ ヲクシヘツ枝」と記されていました。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 アッカンペッ 語原不明。
知里真志保知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)
うっ、これは痛い……。

「アッカンペッ」という音からは at-kar-pet で「オヒョウニレの樹皮・取る・川」あたりの解釈が想像されますが、これだと「アッカㇽペッ」なんですよね。at-kan-nay であれば「オヒョウニレの樹皮・取る・川」と解釈できますし、あるいは at-kan-ray-pet で「オヒョウニレの樹皮・取る・流れの遅い・川」あたりの可能性もあるかもしれません。

「アッカンペッ」=「アフカシナイ」?

ただ気になるのが、「東西蝦夷山川地理取調図」に「アフカシナイ」という川が描かれている点です。「アッカンペッ」よりも随分と山手に描かれていますが、「ウナヘツ」(海別川?)と「ヲフシヘツ」(奥蘂別川?)の近くに描かれているので、位置認識を誤った可能性も考えられます。

仮に「アッカンペッ」が「アフカシナイ」だったとすると、apkas-nay で「歩く・川」あたりでしょうか。

奥蘂別川(おくしべつ──)

o-kus-pet?
河口・横切る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
斜里町朱円しゅえんのあたりを流れる川です。現在は直接海に注いでいますが、かつては海別川に合流して東に向きを変えて、斜里町峰浜の西(東六線と東七線の間あたり)で海に注いでいました。

元々は海別川の支流という扱いでしたが、海別川よりも規模が大きく、また河口部の流路改修もあってか、現在は奥蘂別川が本流で海別川が支流という扱いのようです。

明治時代の地形図には「ウナペッ」の支流として「オクシュペッ」が描かれていました。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲフシヘツ」と描かれていますが、実際よりも随分と山奥に描かれています。

「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オクシュンペッ 奥蘂別川。「オ・クㇱ・ウン・ペッ」(o-kus-un-pet 川向うにある川)。一番浜側にサクㇱペッがあり,その奥にマクㇱペッがあり,更にその川の彼方にこの川が流れていたのでそう名づけた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)
むむ……。尤もらしい解に思えますが、松浦武四郎の記録では「ヲ(ク)シヘツ」で、明治時代の地形図でも「オクシュペッ」でした。現在の川名も「おくしべつ──」で、いずれも -un が含まれていないのですね。

改めて「斜里郡内アイヌ語地名解」を見てみると、「オクシュンペッ」の前にこれらの川が並んでいました。

 サクㇱペッ(右支流)「サ・クㇱ・ペッ」(sa-kus-pet 浜側を・通つている・川)。
 マックㇱペッ(左支流)「マㇰ・クㇱ・ペッ」(mak-kus-pet 奥を・通る・川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)※ 原文ママ
「奥蘂別川」ですが、o-kus-un-pet ではなく素直に o-kus-pet と考えて、「河口・横切る・川」と解釈できないでしょうか(最近 kus を「横切る」と考えるのが癖になりつつありますが)。現在は浜堤を真っ直ぐ突っ切って海に出ていますが、本来は東に向きを変えてから海に出ていたので、そのことを指して河口が「横切る」(あるいは「横断する?」)川と呼んだのではないかな、と思われるのですが……。

オオナイ川

oo-nay?
(水かさが)深い・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
奥蘂別川の最も上流部で合流する支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」や古い地形図にはそれらしい川名が見当たりませんが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 オオナイ(マクㇱペッ枝川)「オオ・ナイ」(oo-nay 深い・川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
「マクㇱペッ枝川」とありますが、これは「オクㇱペッ枝川」の間違いでしょうか。ウナベツスキー場の北東に「マクシベツ川」という川があるのですが、この川には支流らしい支流が見当たりません。

oo- というのは少々耳慣れない感がありますが、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

oo オお 【H 北】《完》深い(深くある);深くなる。(同→oho:対→hak)
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.78 より引用)
ああ、ooho と同じ意味なんですね。地名で頻出する「深い」を意味する語は oohorawne があって、前者は「水かさが深い」、後者は「深く切り立った地形」を意味するとされます。

奥蘂別川の支流の「オオナイ川」は海別岳の南麓を深く刻むように流れています。どう考えても ooho ではなく rawne のほうが適切に思えるのですが、「北海道地名誌」を見てみると……

 オオナイ川 奥蘂別川上流の支流。水の深い川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.456 より引用)
はっきりと、言い逃れできないレベルで「水の深い川」と書いてありますね……。大きな間違いが含まれている予感がしてならないですが、他に解釈の余地も無く……。今日のところは oo-nay で「(水かさが)深い・川」とするしか無さそうです。

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2022年6月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (944) 「幾品川・シュクンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幾品川(いくしな──)

e-kusna-pet?
頭(=山)・横切る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
猿間川の東支流で、事実上の本流と目される川です(猿間川よりも遥かに長いため)。川の北側の地名は「以久科」で、中流部には優美なコンクリートアーチ橋として知られる「越川橋梁」(正式名称は「第一幾品川橋梁」)があります。

知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 イクㇱナペッ(左枝川)幾品川。「エ・クㇱナ・ペッ」(e-kusna-pet そこを・突き抜けている・川)。山の際まで突き抜けている川の義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.258 より引用)
また、永田地名解には次のように記されていました。

Ikush pet  イクㇱュ ペッ  彼方ノ處 ヤチ川ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.496 より引用)
改めて見てみると……両者は全然違うことを書いているように見えますね。ちなみに「東西蝦夷山川地理取調図」には「イ?シヘツ」という川が描かれていますが、単なる猿間川の一支流という扱いで、実際よりも遥かに小規模な川として描かれています。

ここまで見た限りでは、「イクシヘツ」がいつの間にか「イクㇱナペッ」に化けたように思えますが、「辰手控」には「イクシナベツ」とあり、「竹四郎廻浦日記」にも「イシナヘツ」とあります。明治時代の地形図はいずれも「イクシナペッ」となっているため、「イクシヘツ」と呼ぶ流儀は廃れつつあったと言えるかもしれません。

"kusna" は「横切る」?

kusna という語は「地名アイヌ語小辞典」には出てこないので「???」となったのですが、何のことは無く e-kusna-pet という項がありました。

e-kusna-pet, -i エくㇱナペッ 【ビホロ】山に沿うて流れて来てその山の出止りでそこを横ぎっている川。 [そこを・横ぎっている・川]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.25 より引用)
知里さんは e-kusna-pet を「そこを・横切っている・川」としましたが、「頭・横切っている・川」と解釈したほうが良さそうにも思えてきました。

美幌町に「登栄といえ」という川があるのですが、知里さんはこの川が tu-etok-kus-nay で「山の走り根・その先・通る・川」だとして、「奥から出てくる山の走り根を横切る川」と読み下していました。これは「エ・クㇱナ・ペッ」の意味するところを理解するヒントになりそうです。

幾品川を地形図で見てみると、越川集落(国鉄根北線の「越川駅」のあったあたり)では左右に山が聳えているものの、その上流側にある「越川橋梁」の南西側は平原状の地形になっていて、分水嶺らしき山が見当たりません。

別の言い方をすれば斜里町と羅臼町の境界に聳える「きり山」から北西に伸びる山が越川橋梁の南で *切られている* ようにも見えます。このことを指して e-kusna-pet で「頭(=山)・横切る・川」と呼んだのではないか……と思えてきました。

更に言えば、e-(頭)ではなく etu-(鼻)のほうが、より地名(川名)として適切なような気もします。etu- が略されて e- と言い換えられるようになった……などと考えたくもなりますね。陸軍図には「越川橋梁」の西に川が描かれていて、古い地図では「エツ?エトイナイ」と描かれているように見えます。これは etu-e-tuye-nay で「鼻・そこで・切る・川」と読めそうな気がします。

越川(こしかわ)

国鉄根北線の「下越川駅」のあたり、あるいはその先の「越川駅」のあたりの地名です。「角川──」には次のように記されていました。

地名は,根室方面に向かうとき以久科川を越すということで越川と命名した(斜里町史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.549 より引用)※ 原文ママ
また「北海道駅名の起源」にも次のように記されていました。

  越 川(こしかわ)
所在地 (北見国)斜里郡斜里町
開 駅 昭和 32 年 11 月 10 日
廃 止 昭和 45 年 12 月 1 日
起 源 もと「越川駅逓」のあったところで、以久科川を越えて根室に行くところの道すじから「越川」と名づけたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.224 より引用)※ 原文ママ
確かにその通りだと思われるのですが、e-kusna-pet が「頭(山)を横切る川」ではないかとなると、「山を越す川」という含意もあったのではないか……などと考えたくなってしまいます。kusnakus と「越」も似てますし……。

シュクンベツ川

sum-kus-pet
西・横切る・川
(典拠あり、類型あり)
「越川橋梁」の南で幾品川に合流する西支流です(地理院地図では「シュンクンベツ川」)。「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい川が見当たりませんが(「イクシヘツ」が不当に短く描かれているため)、明治時代の地形図には「シュンクㇱュペツ」と描かれていました。

sunku-us-pet で「エゾマツ・多くある・川」とかかな……? と思ったのですが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 シュムクㇱペッ(幾品川右支流)「シュム・クㇱ・ペッ」(sum-kus-pet 西・を通る・川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.259 より引用)
ふむふむ。言われてみればこの川も幾品川との間の山の鼻先を *横切っている* とも言えるので、「西のクㇱペッ」というのもなんとなく理解できる気がします。sum-kus-pet で「西・横切る・川」と見て良さそうでしょうか。

「シュクンベツ川」(シュンクンベツ川)も幾品川と同様に、尾根を横切っている川と言えなくもないので、あるいは「ポンイクシナベツ」というネーミングでも良かったのかもしれませんが、「ポンイクシナベツ」は「越川橋梁」のすぐ上流側で東から合流する支流の名前として既に使用済みだったので、若干アレンジしてみた……とかだったりして。

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2022年6月17日金曜日

紀勢本線各駅停車 (17) 「切目・岩代」

印南駅を出発するとトンネルを 2 本通り抜けますが、これらのトンネルは複線化工事の際に新設されたようで、元々は海側を連続カーブで通過していました。線路跡は道路に転用されていて、一般車も通行可能のようです。


かつてはここに線路が通っていて、蒸気機関車が煙を吐いて疾走していた……ということになるんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

切目駅

トンネルの先の右カーブを抜けると、脇に保線用資材が置かれた線路が見えてきました。かつては貨物ホーム用の線路だったのでしょうか。
切目駅に到着しました。今は日高郡印南町ですが、かつては「日高郡切目村」だったとのこと。町内に 3 つも駅があるのは多いなぁと思ったのですが、かつての村ごとに設置されていたのですね。

2022年6月16日木曜日

紀勢本線各駅停車 (16) 「稲原・印南」

和佐駅を出発して、「新柿ノ木トンネル」とそれに続く 2 本のトンネルを抜けて日高郡印南町に入りました。駅でもないところに歩道橋があるというのは珍しいような、そうでも無いような……(どっちだ)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

稲原駅

駅でもないところに歩道橋が……と思っていると、50 m ほど先にまたしても歩道橋が。こちらは駅の歩道橋で間違いなさそうですね。これだけ隣接して歩道橋が続くというのも、色々と大人の事情もあるのだと思いますが、なんか勿体ない感じがしますね。

2022年6月15日水曜日

紀勢本線各駅停車 (15) 「道成寺・和佐」

紀伊田辺行き 2353M は 2 分遅れで御坊を出発しました。この駐車場も月極のようですが、JR で通勤する人も多いのでしょうか。御坊駅が敷地を切り売りするのも納得ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

道成寺駅

3 分ほどで次の道成寺どうじょうじ駅に到着です。相対式ホーム 2 面 2 線というシンプルな構造ですが、航空写真を見る限りでは上り線の紀伊田辺側に貨物ホームがあったように見えます(写真とは反対側)。

2022年6月14日火曜日

紀勢本線各駅停車 (14) 「御坊・その5」

3 番線に 2 両編成の電車が入線してきました。紀伊田辺からやってきた御坊止まりの 2354M で、折り返しで紀伊田辺行き 2353M となります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。
この見慣れない車輌、国鉄時代から大阪近郊を走っていた通勤電車に似ていますが、よく見ると横幅がちょっと広いんですよね。

2022年6月13日月曜日

紀勢本線各駅停車 (13) 「御坊・その4」

次に乗車する紀伊田辺行き 2353M の入線を見届けるべく、ささっと駅構内に戻ります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する番線などが現在とは異なる可能性があります。
改札から再入場すると……あ。目の前で和歌山行き 358M が行ってしまいました。

2022年6月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (943) 「ペケレイ川・秋の川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペケレイ川

peker-i?
明るく清い・ところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 釧網本線・中斜里駅の南東で猿間川に合流する東支流(南支流)です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘケレイ」という名前の川が描かれていて、明治時代の地形図にも「ペケレイ川」と描かれていました。明治時代の地形図では殆どの川が「ペツ」または「ナイ」で終わっているにもかかわらず、「ペケレイ川」だけは何故か「川」つきで描かれていました。

永田地名解には次のように記されていました。

Pekere-i   ペケレイ   水明ノ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.497 より引用)
peker は「澄んだ」「明るい」「清い」と言った意味で、転じて「白い」を意味する場合もあるとのこと(「白い」は retar のほうが一般的かもしれませんが)。ちなみに「割れる」や「破れる」を意味する perke という語があるので、pekerperke を間違えないように注意が必要です。

知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペケレイ(猿間川左支流) 「ペケレ・イ」(peker-i 明るい清い・所)。詳しく云えば「ペ・ペケン・ナイ」。ペは「水」,ペケンはペケレの変化で「清い」,ナイは「川」,水のいい川,清水川,の意。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.259 より引用)
peker-i で「明るく清い・ところ」ではないか、ということですね。かつてこの川が pe-peken-nay と呼ばれていた……ということが確認できれば「証明終わり」となるのですが、少なくとも松浦武四郎の時代から「ペケレイ」と記録されているんですよね。

peker と pekere

ちょっと気になったのですが、「地名アイヌ語小辞典」には、peker の次に pekere という語が記されていました。

pekere ペけレ 【K】川ばたの湿地
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.88 より引用)
これは【K】とあるので樺太での用例ということになりますが、peker-i よりも pekere-i のほうが「ペケレイ」に近いわけで……。「川沿いの湿地」があっても不思議はない場所であることも気になるところです。

ただ、現時点では他に pekere という語の使用例を知らないということもあり、とても pekere-i をゴリ押しするのは無理があるかな、と感じています。樺太での pekere の用例の有無を確認後に、改めて検討してみたいところです(忘れてなければ)。

秋の川(あきの──)

aki??

a-ku-i???
我ら・飲む・もの
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??? = 典拠なし、類型未確認)
JR 釧網本線・中斜里駅の東で猿間川に合流する東支流(南支流)です。どう見ても和名じゃないか……と思われるかもしれませんが、明治時代の地形図には「アキペッ」という名前の川が描かれていて、しかも「東西蝦夷山川地理取調図」にも「アキ」という地名?が描かれていました。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     シ ヤ リ
 川巾五十間斗、本名シベシと云也。船渡し。此川筋の事は山越の所に多く書(たれ)十二日(志る)さず。然れども其順次はウエンヘツ、サヌル、トイサ(ヌ)ル、ヲサウシ、ワツカウイ、アタクチヤ、シヤリバ、アキシユイ、ライノロナイ、イタシナヘツ等。其源はシヤリ岳より落る也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.391 より引用)
これは斜里川とその支流について記しているように見えるのですが、「イクシナヘツ」と思しき川が「イシナヘツ」になっていますし、「ライノロナイ」はもしかしたら「ライクンナイ」のことでしょうか。

川の順序も滅茶苦茶に見えたのですが、これは最大の支流である「猿間川」のことだと思われる「シヤリバ」を意図的に後回しにした、とすれば理解できます(「シヤリバ」以降は猿間川の支流と考えられる)。もっとも、仮にそうだとしても「イタシナヘツ」」が最後に出てくるのはおかしい……とも言えるのですが。

「アキ」は「弟」?

問題の「秋の川」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「アキ」であり、「竹四郎廻浦日記」では「アキシユイ」と記されているように見えます。ただ「午手控」には「シャリバ川すじ」の情報として「ヲツホコマフ 右小川」「イクシ(ナ)ヘツ 左小川」「カモイハケヘシ 左小川」「アキ 左小川」「ヘケレイ 左小川」とあるため、「アキシユイ」は何らかの間違いが含まれている可能性がありそうです。

謎の「アキ」ですが、「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 アキペッ(左支流)。語原不明。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.259 より引用)
なんということでしょう~®。いやー参りましたね。……ということでここで隠し玉の登場ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Aki  アキ  ? 弟ノ義ナレドモ意義傳ハラズト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.496 より引用)
おや、aki に「弟」なんて意味があったかな……と思って「──小辞典」を確かめたところ……

ak, -i あㇰ 弟。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.5 より引用)
この「地名アイヌ語小辞典」は文庫版で本文が 146 ページしか無く、現在公刊されているアイヌ語辞書類と比べると収録語数がかなり少ないのですが、地名に特化した頻出語彙と要注意語彙がピックアップされていて、随分とお役立ち度の高い本だったりします。

知里さんは「永田地名解」を盛大に貶したことでも有名ですが、地名調査の際にはいつも永田地名解を持参していたというエピソードもあり、全文に目を通していた可能性も高そうです。「──小辞典」に ak, -i の項があるのは永田地名解のおかげ……かどうかは不明ですが、何らかの因果関係があったとしても不思議では無さそうです。

釧路市阿寒町飽別

「アキペッ」と似た地名として、釧路市(旧・阿寒町)に「飽別あくべつ」という場所があります。「飽別」は hak-pet で「浅い・川」だとする説のほかに、ak-pet で「射る・川」としたり、akpe で「」ではないかという説もあるようですが、山田秀三さんは a-ku-pet で「我ら・飲む・川」とも読める……としていました。

山田さんの a-ku-pet 説の元ネタは、知里真志保・山田秀三共著の「幌別町のアイヌ語地名」でしょうか(当該書 p.22 の脚註に a-ku-nay の記載あり)。「秋の川」の「アキ」も a-ku が変化したもの……と見ることも可能かもしれません。

「秋の川」からそれほど遠くないところに「ペケレイ川」が流れていますが、「ペケレイ川」は「秋の川」と比べると随分と小規模な川で、常に一定の水量を保つことは容易では無さそうに見えます。また「ペケレイ川」の近くには「水無川」や「水無沢川」という川があり、このあたりは「涸れ川」が多そうな印象も受けます。

「弟」説の再検討

明治時代の地形図には「アキペッ」と描かれていましたが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「アキ」とだけ描かれていて、左右には川が描かれていません。これはもしかして a-ku-i で「我ら・飲む・もの」という認識で、実態は湧き水のような場所だったのか……と想像したくなります。ただ、この手の湧き水は mem と表現するのが一般的なんですよね。

北側に巨大な葭原(≒湿原)があるということもあり、a-ku で「我ら・飲む」という解釈はとても魅力的に思えますが、現時点では類推でしか無く、永田地名解の「『アキ』は『弟』の意味だけど」という註を無視できるほどのものではありません(なんか今日はこんな感じの展開が続いてしまってすいません)。

「秋の川」は、「幾品川」と比べると規模の小さい川ですが、流れる方角は似通っていて、秋の川を遡ると峠らしい峠も無いまま幾品川の流域に出ることができます。このことから「幾品川の弟」と呼んだ……と考えることも可能ではないかと。

更に言えば「幾品川」も「向こう側の川」である可能性が高いので、川の手前に係累(弟)がいた……というストーリーもあってもいいかも? とか……。

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2022年6月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (942) 「羅萌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

羅萠(らむい)

{rarma-ni}-us-nay?
{イチイの木}・多くある・川
ra(p)-oma-i??
翼・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
JR 釧網本線の「中斜里駅」の西に「南斜里駅」という駅があったのですが(2021 年 3 月に廃止)、地理院地図では駅のあったあたりの南側(川向かい)に「羅むい」と表示されています。これは斜里町の字だと思われるのですが、何故か住所としては使用されていないようで、斜里町の郵便番号一覧には記載がありません。

また、かつて南斜里駅があった所から 0.6 km ほど東、道道 1000 号「富士川上線」(南九号)と西一線の交点付近に「羅萌らむい」という名前の四等三角点が存在します(標高 9.0 m)。ただ、戦前に測図された陸軍図では斜里川の南側に「羅萠」とあり、川の北側には「川上」とあるので、やはり本来の「羅萠」は川の南側だったようにも思われます。

永田地名解にはそれらしい地名(川名)の記載が見当たらないのですが、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ラモイ 不明。カムイ,すなわち熊の訛りだとも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)
むむむ。永田地名解に「?」と言われるのはしょっちゅうですが、知里さんに「不明」と言われるのは滅多にないことのような……。

「ラムイ」? 「タモイ」?

明治時代の地形図には「羅萠」の南の谷の位置に「タモイ」という川が描かれていました。「ラムイ」ではなく「タモイ」が本来の形だとすれば、tam-o-i で「刀・そこにある・もの(川)」と読めるでしょうか。地名に「刀」というのは意味不明な感じもありますが、川(谷)の西側の台地か、あるいは台地を刻む川そのものを「刀」に見立てた……というストーリーを考えたくなります。

逆に「タモイ」が「ラムイ」の訛った形で、「ラムイ」が本来の形に近いとしたならば、ra(p)-oma-i で「翼・そこにある・もの(川)」と読めそうな気がします。これは支笏湖畔の「モラップ」からの類推でもあるのですが、川の両側に高さ 50 m ほどの台地があることを指して「両翼」に見立てたのでは……という考え方です。

「ラルマニウシナイ」

「東西蝦夷山川地理取調図」には、この「ラムイ」あるいは「タモイ」に相当する地名は見当たらないのですが、「ウエンヘツ」(斜里新大橋のあたり?)と「ルウヘツチヤウシナイ」(清里町駅の北あたり)の間の左支流として「ラルマニウシナイ」という川が描かれていました。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ライベツ
此辺谷地多く道甚(悪)し。ライは谷地同様と云訳。ベツは川也。此辺土蘇木(夷言ラルマニ)多し。甚巨大なるは一囲二囲に及ぶもの有。然し囲に合ては長(く)のびざるもの也。土人好で此実を喰する也。此辺平地谷地様の処多し。
 また此処より平川を越て東の方にラルマニノホリと言て土蘇木のみ有る山有と云り。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.395 より引用)
当時の交通路は律儀に斜里川沿いを遡ったのではなかったようで、「ライベツ」の先の「ルウベツチヤウシナイ」(=清里町駅の北あたり)で「此所にて本川端に出たり」とあります。これは斜里の市街地から清里町駅に向かってショートカットしたことを示唆しているように読めますが、ここでのポイントは「東の方にラルマニノホリ」で、これは東のほうに rarma-ni、すなわち「オンコ(イチイ)の木」の繁る「山」がある……ということになります。

この「ラルマニノホリ」は、斜里川の東支流である「ラルマニウシナイ」と関連があると思われるのですが、「斜里川の東支流」と「清里町駅の東側の山」という条件を満たすのは「羅萠の南の谷と台地」しか無い……ということになるでしょうか。

改めて知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」を見てみると、「ラモイ」の上に「ラルマニウㇱナイ」という項がありました。

 ラルマニウㇱナイ 語原「ラルマニ・ウㇱ・ナイ」(rarmani-us-nay アララギ・群生する・沢)。
 ラモイ 不明。カムイ,すなわち熊の訛りだとも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)
「アララギ」=「イチイ」なので、{rarma-ni}-us-nay は「イチイの木・多くある・川」と考えて良さそうですね。

「ラモイ」と「ラルマニウㇱナイ」

ということで、「タモイ」あるいは「ラムイ」の意味は……という本題に戻るのですが、一つは「ラルマニウンナイ」がざっくりと略されたという可能性が考えられるでしょうか。ただ、「斜里郡内アイヌ語地名解」に「ラルマニウㇱナイ」と「ラモイ」が併記されているので、「ラルマニウㇱナイ」と「ラモイ」は別物である可能性も残ります。

「ラルマニウㇱナイ」は川の名前で、「ラモイ」が「ラルマニウㇱナイ」の河口付近の地名だと考えると、「ラモイ」を ra(p)-oma-i で「翼・そこにある・もの(川)」と見ることも一応は可能でしょうか。結局は同じ川の名前じゃないか……というツッコミもあろうかと思われますが……。

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2022年6月10日金曜日

紀勢本線各駅停車 (12) 「御坊・その3」

御坊駅のコンコースですが、改札の左側に「みどりの窓口」を兼ねる「きっぷうりば」があり……
かつての窓口跡を挟んで「みどりの券売機」と自動券売機が並んでいます。

2022年6月9日木曜日

紀勢本線各駅停車 (11) 「御坊・その2」

御坊駅の跨線橋を改札口に向かって歩きます。とても明るく見えますが、左右の壁の上部がフルオープンなんでしょうか。日当たりや風通しが良さそうですね。
「●定期券は 2 週間前からお買い求めいただけます。 ●きっぷは往復でお買い求めください。」との文字が入ったフレームには「新しいが、はじまる。」というポスターが。何が始まるのかと思ったのですが、阪和線に新型車両が入ることをアピールしたものだったんですね。

2022年6月8日水曜日

紀勢本線各駅停車 (10) 「御坊・その1」

御坊行き 341M が和歌山駅を出発して一時間ほどが過ぎました。途中で 15 駅に停車して、次が終点の御坊駅です。
紀伊内原を出発した 341M の車内はご覧の通り。平日の 11 時過ぎなので、まぁこんなものですかね……。

2022年6月7日火曜日

紀勢本線各駅停車 (9) 「紀伊由良・紀伊内原」

ツッコミどころが満載だった「広川ビーチ駅」の先にある「由良トンネル」(1,885 m)を抜けると日高郡由良町に入ります。由良川を渡る鉄橋はそこそこ古そうなものに見えますが、塗装などのメンテナンスはしっかりと行われているようですね。
由良町の脊梁山脈とも言える山の上には「由良風力発電所」の風車が見えます。広川町の発電所はタービンが 1 基だけのように見えましたが、ここは 5 基あるようですね。

2022年6月6日月曜日

紀勢本線各駅停車 (8) 「広川ビーチ」

御坊行き 341M は「和歌山県立耐久高校」のお膝元である湯浅駅を出発しました。沿線の水田には田植え体験中のお子さんの姿も。
稜線の先に風力発電のタービンが見えてきました。風力発電は比較的安全なイメージがありますが、爆発的に増えているようにも見えないのは、太陽光パネルを並べるより設置と維持管理にコストがかかる……ということなんでしょうか。

2022年6月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (941) 「宇津内・宇遠別・猿間川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

宇津内(うつない)

ut-nay
肋・川
(典拠あり、類型あり)
斜里町西部、涛釣沼とうつるとうの 2.5 km ほど東の浜堤上にある三等三角点の名前です(標高 30.6 m)。陸軍図では、現在の国道 244 号と「西四線」の交点あたりに「宇津内」と言う地名が描かれています(現在は「斜里町美咲」)。

明治時代の地形図では、涛釣沼から東に向かって「ウツナイ」という川が描かれていて、南からやってきた「ウエンベツ」と合流して斜里川に合流していました。

現在のウエンベツ川は涛釣沼に向かって流れて、沼の東側で北に向きを変えて直接海に注いでいますが、これは人工的に開削された流路のようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」と「辰手控」には「フツナイ」という地名(川名)が記録されていました。この「フツナイ」は書き間違いかと思ったのですが、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウッナイ(ウェンペッの枝川)宇津内。「ウッナイ」(ut-nay 肋・川。本流から肋骨のように横にまつすぐ分れ出ている細い枝川)。フッナイとも云い,またエクシナペッ(e-kusna-pet そこを・横断している〔或は, 突きぬけている〕・川)とも云つた。ウェンペッからトーツル沼に湿原を横ぎつて突きぬけているのでそういう名がついている。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.253 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。とりあえず「書き間違い」の線は無さそうでしょうか。このあたりの ut- は、頭に h を付加して発音する傾向があったのかもしれません。「宇津内」は ut-nay で「肋・川」と見て良さそうですね。

宇遠別(うおんべつ)

wen-pet
悪い・川
(典拠あり、類型あり)
南一号(道道 769 号「斜里停車場美咲線」)と西三線の交点の近くにある四等三角点の名前です(標高 1.8 m)。標高 1.8 m ということは、北側の浜堤との標高差は 30 m 近くあるということになりますね。

明治時代の地形図には「ウエンベツ」または「ウェンペツ」という川が描かれていましたが、この「ウエンベツ」は陸軍図では「宇遠別川」と描かれていました。この川は「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ウエンヘツ」と描かれていて、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 ウェンペッ(右岸支流,宇遠別川)「ウェン・ペッ」(wen-pet 悪い・川)。水の悪い川の義。「フシコペッ」(husko-pet 古い・川) とも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.253 より引用)
ふむふむ。wen-pet の意味は「悪い・川」なのですが、「何で悪かったかは殆どがわからなくなっている」という補足がつくのが半ばお約束になっていました。ただこの「ウェンペッ」は「水が悪かった」ということのようですね。

wen-pet は道内のあちこちにあり、色々な字が当てられているのですが、四等三角点「宇遠別」の読みが「うおんべつ」になってしまったのは何とも残念……というか、不思議な感じすらします。ut-hut- と発音したかもしれないのと同様に、wen-won- と発音する癖があった、とかだったら面白いのですが……。

ただ「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ウエンヘツ」とあるので、その可能性は低そうですね……。

猿間川(さるま──)

{sar-pa}-oma-pet?
{斜里川下流}・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
斜里川の東支流で、斜里川の支流の中では最も規模の大きいものですが、猿間川本流よりも、猿間川の東支流である「幾品川」のほうが圧倒的に長かったりします。出来過ぎた三代目とその親みたいですね。

現在の「猿間川」は中斜里駅の東で「幾品川」と合流してから北西に向かい、国道 244 号の「斜里新大橋」のあたりで斜里川と合流しています。ただこれは人工的に開削された流路のようで、元々は斜里高校の南側のあたりで斜里川と合流していました。

釧網本線の「中斜里駅」は、かつては「猿澗川駅」だったとのこと。「北海道駅名の起源」にも次のように記されていました。

  中斜里(なかしゃり)
所在地 (北見国)斜里郡斜里町
開 駅 昭和 4 年 11 月 14 日
起 源 もと「猿澗川」(さるまがわ)といっていたのを、昭和 25 年 9 月 10 日「中斜里」と改めた。「猿澗川」はアイヌ語の「サル・オマ・ペッ」(ヨシ原にある川)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.164 より引用)
「猿間川」は sar-oma-pet で「葭原・そこにある・川」だった……という説ですね。ただ「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤリハ」と描かれていて、また明治時代の地形図には「サラパ川」と描かれていました。

sar か sar-pa か

この微妙な違いが気になるところですが、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 サルパ(Sar-pa 斜里の・しも)斜里川下流の地。
 サルパ・オマ・ナイ(Sar-pa-oma-nay 斜里の・しも・にある・川) サルパ・ペッ(Sar-pa-pet 斜里の・川しもの・川)。猿間川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.253 より引用)
あれ、pa は「しも」ではなく「かみて」だったのでは……と思ったりもしたのですが、「──小辞典」には次のようにありました。

pa ぱ(ぱー) ①頭;崎。(→pa-ke, sa-pa) 。②かみ;かみて;かみのはずれ。kotan-~ 村のかみ。kenasi-~ 川岸の木原のかみ。pira-~ がけのかみ。(対→kes) 。③かわしも(川下)。(対→pe) 。④【H 南】ふち。pet-~、川岸。ru-~ 路ばた。(=cha) 。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.85 より引用)
すいませんでした(汗)。今回は ② ではなくて ③ の解釈だったんですね。sar-pa-oma-pet で「葭原・川下・そこにある・川」とするよりも、{sar-pa}-oma-pet で「{斜里川下流}・そこにある・川」とするのが適切でしょうか。

山田秀三さんの「北海道の地名」を良く見てみると……

パはふつうは「上手」の意に使うが,知里さんがこのパ pa を「川しも」(川上をぺ pe で呼ぶのに対す)と訳したのは,この川が斜里川下流に入る支流であることを示したものとされたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.218 より引用)
あっ。見事に先を越されていました(汗)。

 北海道駅名の起源は昭和 29 年版から,中斜里駅(前の猿間川駅)の処で「猿間川はサロマペッ即ちサル・オマ・ペッ(葦原・にある・川)から出たものである」としたのは,現在猿間川と呼ばれている音(昔からその音もあったかもしれない) によって解説したものであろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.218 より引用)
「昭和 29 年版から」とあったので「あれっ?」と思ったのですが、「アイヌ語地名資料集成」では昭和 25 年版からの異同は確認できませんでした。山田さんは「サルパ・オマ──」が「サル・オマ──」に化けた、あるいは昔から両方の流儀があったのでは……と見たようですが、全く同感です。

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2022年6月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (940) 「パナクシュベツ川・ペナクシュ別川・シノマンヤンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

パナクシュベツ川

pana-kus-pet
川下のほう・通る・川
(典拠あり、類型あり)
小清水町内を流れる止別やんべつ川の西支流です。支流とは言いながらかなり長い川で、小清水町の南半分をほぼ縦断しています。ややこしいことに、大空町(旧・女満別町)にも全く同名の「パナクシュベツ川」が存在しています。

永田地名解には「ヤㇺ ペッ 川 筋」の川として、次のように記されていました。

Pana kush nai   パナ クㇱュ ナイ   下ノ川
Pena kush nai   ペナ クㇱュ ナイ   上ノ川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.495 より引用)
いかにも永田方正らしいざっくりとした解で、知里さん激おこ案件ですね。ということで知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」を見てみると……

 パナクㇱナイ(右岸支流) パ(下),ナ(方),クㇱ(通る),ナイ(川)。
 ペナクㇱナイ(右岸支流) ペ(上),ナ(方),クㇱ(通る),ナイ(川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.251 より引用)
流石ですね。pana- を「川下のほう」とまとめてしまうことも多いのですが、ここではしっかりと pa-na- に分解されています。どうやら昔は「──ベツ」ではなく「──ナイ」だったようで、pana-kus-nay で「川下のほう・通行する・川」だったようですね。

「ヌッカクシヤンヘツ」と「パナクㇱナイ」

「竹四郎廻浦日記」には「ヤワンベツ」(=止別川)について、次のように記されていました。

 川有巾七八間、橋有。遅流にして深く、上の方に谷地多く、其川筋字はホンヤンベツナイ、メム、ヌツカ、クシヤンベツ、ユイネイ等云有りと。魚類鯇・鮃・チライ・鰔・雑喉多し(小使コタンスヘ申口)。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.390 より引用)
「ホンヤンベツナイ」は現在の「ポン止別川」のことと思われますが、「──ベツナイ」というのがちょっと謎な感じです。-pet-nay も「川」を意味するので、-pet-nay というのは本来ありえない組み合わせです。

ただ、この記録のネタ元と思われる「辰手控」には、「ホンヤンヘツ」と「ナイ」が別の川であるように記されていました。

○ヤンヘツ(止別川すじ)
  ホンヤンヘツ
  ナイ
  メム
  ヌッカクシヤンヘツ
  ヌミ子ヲマナイ
  エヘシュイ子イ
   〆    小使コタンスツ申口也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 三」北海道出版企画センター p.335 より引用)
これを見ると「ホンヤンヘツ」と「ナイ」が分離している一方で、「ヌツカ」と「クシヤンヘツ」が合体してしまっています。「ヌッカクシヤンヘツ」であれば nupka-kus-{ya-wa-an-pet} で「野原・通る・{止別川}」となるでしょうか。上富良野町の「ヌッカクシ富良野川」と同じような川名です。

ということで、小清水町の「パナクシュベツ川」は pana-(nupka-)kus-({ya-wa-an-})pet で「川下のほう・{野原・}通る・{止別}川」かと思ったのですが、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」をよく見ると「パナクㇱナイ」「ペナクㇱナイ」とは別に「ヌㇷ゚カクサンペッ」という川が記録されていました。

 ヌㇷ゚カクサンペッ(左岸支流) 「ヌㇷ゚カ・クㇱ・ヤンペッ」(nupka-kus-Yampet 原野を・通つている・止別川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.251 より引用)※ 原文ママ
この「ヌㇷ゚カクサンペッ」ですが、明治時代の地形図を見てみると、現在の「止別川」の上流部(ほぼ国道 391 号沿い)が「ヌㇷ゚カコサンナイ」であると描かれていました。「コ」が「ク」の誤記だとすると「ヌㇷ゚カクサンナイ」だったことになり、知里さんが記録した「ヌㇷ゚カクサンペッ」のことだ、と言えそうです。

「通る川」は「横切る川」?

ということで、「ヌッカクシヤンヘツ」あるいは「ヌㇷ゚カクサンペッ」と「パナクシュベツ川」は *別の川* だということが確認できた……ような気がします。

何となく振り出しに戻った感もありますが、小清水町の「パナクシュベツ川」は「ハナクシナイパナクㇱナイ」のことだという点は間違い無さそうに思えます。kus- は「通行する」だと理解していましたが、正確には「通る」と見るべきだったかもしれません(「人が通る」ではなく「川が通る」)。

知里さんは美幌町の「登栄川」について、tu-etok-kus-nay を「山の走り根を横切る川」と解釈していました。小清水町の「パナクシュベツ川」(と「ペナクシュベツ川」)もよく似た地形なので、pana-kus-pet は「川下のほう・通る・川」ですが、「川下のほうの横切る川」とも解釈できるかもしれません。

ペナクシュ別川

pena-kus-pet
川上のほう・通る・川
(典拠あり、類型あり)
止別川の西支流で、小清水町の「パナクシュベツ川」の南東を流れています。「パナクシュベツ川」よりも上流側で止別川に合流しているということになりますね。

地理院地図には「ペナクシュベツ川」と表示されていますが、国土数値情報では「ペナクシュ別川」のようです。支流の「ポンペナクシュベツ沢川」は「ベツ」なのに……。

「竹四郎廻浦日記」や「辰手控」にはそれらしい川の記録が見当たりませんが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘナクシナイ」という名前の川が描かれていました。永田地名解に「ペナ クㇱュ ナイ」とあり、知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」に「ペナクㇱナイ」とあるのは「パナクシュベツ川」の項で記したとおりです。

「ペナクシュ別川」(ペナクシュベツ川)は pena-kus-pet で「川上のほう・通る・川」と見て間違いないかと思います。kus- を「横切る」と解釈したほうが良さそうなのも同様です。

シノマンヤンベツ川

sinoman-{ya-wa-an-pet}
本当の・{止別川}
(典拠あり、類型あり)
「シノマンヤンベツ川」は「ペナクシュ別川」と「止別川」の間を流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「シノマンヤンヘツ」という川が描かれていて、明治時代の地形図にも「シノマンヤㇺペッ」と描かれていました。

知里さんの「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 シノマンヤンペッ(本流の上流) シノ(本当に),オマン(奥へ行つた),ヤンペッ(止別川)。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.251 より引用)※ 原文ママ
sino-oman-{ya-wa-an-pet} で「本当に・山の方へ行く・{止別川}」ではないかと言うことですね。ただ「地名アイヌ語小辞典」では sinoman- 自体が sino- と同じ意味とあるので、あるいは sinoman-{ya-wa-an-pet} で「本当の・{止別川}」としても良いかもしれません(意味はほぼ変わらないので)。

現在の「止別川」は野上峠に向かう国道 391 号沿いを流れていますが、明治時代の地形図では「ヌㇷ゚カサンナイ」と描かれていて、「止別川の東支流」という扱いでした。本流として「本当の止別川」という名前の川があったのに、いつの間にか「シノマンヤンベツ川」という「支流」に化けてしまったというのも……困った話ですね。

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2022年6月3日金曜日

紀勢本線各駅停車 (7) 「藤並・湯浅」

有田川を渡ると有田川町に入るのですが、河川敷に学校のような建物が見えてきました。
グラウンドがあり、時計も見えるので「学校かな?」と思ったのですが、学校にしては窓が少ないですし、河川敷のようにも見えます(これは誤解で、この場所は河川敷では無かったのですが)。この建物は「有田周辺広域圏事務組合 環境センター」とのことで、要は焼却処理場のようです。

藤並駅

長い右カーブを抜けて、線路脇に謎の空き地が目立つようになり……

2022年6月2日木曜日

紀勢本線各駅停車 (6) 「紀伊宮原」

箕島駅を出発すると、やがて線路の南側の市街地は姿を消し、代わりに有田川の広い河原が眼前に広がります。対岸に小学校と中学校の校舎も見えますね。
紀勢本線とほぼ全線に亘って並行している国道 42 号ですが、このあたりでは有田川の南側(向こう側)の堤防上を通っています。手前に見えている道路は国道 480 号です。

2022年6月1日水曜日

紀勢本線各駅停車 (5) 「初島・箕島」

下津駅を出発して、500 m ほどのトンネルを抜けると……
有田ありだ市に入りました。これはまた……。異国情緒漂う……じゃなくて何でしたっけ。あ、異世界感溢れる……とかですかね?(それも何か違うような