2022年6月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (946) 「海別川・シマトツカリ川・マクシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

海別川(うなべつ──)

una-pet?
灰・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
斜里町には「天に続く道」という名の、錯視を応用したビュースポットがあるのですが、「天に続く道」スタート地点の近く(1 区画西)を流れる川の名前です。現在は「奥蘂別おくしべつ」の支流という扱いですが、海別川が本流と目されていた時期もあったようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウナヘツ」という名前の川が本流として描かれていました。戦前の「陸軍図」でも河口には「海別川」と描かれていて、河口周辺の地名として「海別」と描かれています。

永田地名解には次のように記されていました。

Una pet   ウナ ペッ   灰川 古ヘ噴火セシトキ全川灰ヲ以テ埋メタリシガ今ハ灰ナシ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.488 より引用)
「昔(海別岳が)噴火した時に川が灰で埋まったので」ということのようですが、「今は灰は無い」と証拠隠滅(© 知里さん)するあたりは流石でしょうか。

ただ「斜里郡内アイヌ語地名解」を見てみると……

 ウナペッ 海別川。「ウナ・ペッ」(una-pet 灰・川)。昔噴火した時全川火山灰で埋まったという。「ウナ・オ・ペッ」(una-o-pet 灰の・入つた・川)とも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)※ 原文ママ
知里さんは、ここでは永田地名解を全肯定だったようです。「『ウナ・オ・ペッ』とも云う」とありますが、手元の資料を見た限りでは大半が「ウナペツ」で、「ウナオペッ」という呼称の存在を窺わせるものは確認できませんでした(文法的に、かつてそう呼ばれていた可能性はあると思われます)。

ということで、現時点では una-o-pet ではなく una-pet で「灰・川」としておくのが妥当かなぁと思われます。https://www.bojan.net/2015/05/30.html では una-o-pet にしていましたが、まぁいいですよね……?

シマトツカリ川

suma-tukari-pet
石・手前・川
(典拠あり、類型あり)
「天に続く道」スタート地点から東十線で北に向かうと、途中から「シマトツカリ川」が道沿いを北に向かって流れています。現在のシマトツカリ川は旧・峰浜小学校の西側を通って海に流出していますが、小学校のあった「峰浜」地区はかつて「島戸狩」という地名でした。

「東西蝦夷山川地理取調図」では「カモイヘツ」と「シユマトマリ」が並んで記されていました。これは「カモイヘツ」という川と「シユマトマリ」という地名?が共に存在していた可能性を考えたくなりますが、永田地名解には次のように記されていました。

Shuma tukara pet  シュマ ト゚カラ(ペッ)  石ノ此方ナル川 朱圓村ト稱ス
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.488 より引用)
あ。やはり「シユマトリ」も川の名前でしたか。「シユマトリ」が「シユマトリ」の間違いだとしたら解釈がコロっと変わってしまうのですが、どうやら「シユマトマリ」のほうが間違いっぽい感じでしょうか。

戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。

     シユマトカリヘツ
小川有。此処よりシヤリの方小石一ツもなし。よつて一人が出てはだしにて舟を引行。(石なきに)よつて号るよし也。また少しの湾に成る也。右のかたノツカマフ、左りの方カモイヲヘツの川口の岬と峙す。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.71 より引用)※ 原文ママ
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 シュマト゚カリペッ(suma-tukari-pet 石・の・こちらの・川) この川を境にして斜里方面は砂浜,東の方は石原なのでそう名づけた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.261 より引用)
これは suma-tukari-pet で「石・手前・川」と考えて良さそうですね。この地名(川名)については、山田秀三さんの「北海道の地名」で次のように解説されていました。

 この辺の海岸は斜里からずっと砂浜続きで浜伝いに歩いて来れるのであるが,この川を越えるといきなり大きなごろた石だけの岸である。地名で tukari(手前)という言葉を使うのは,この種の特殊な地形の場合である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.220 より引用)
この「シユマツカリ」(島戸狩)が「しゅまどかり」となり、朱円は一帯の村名となります。村名の名残で現在の「朱円」は奥蘂別川のあたりの地名という扱いですが、元となったのは「シユマトカリ川」で、本来の「シユマトカリ」は現在「峰浜」と呼ばれている……というのは広義の移転地名と呼べるのかもしれません。

マクシベツ川

mak-kus-pet?
奥(山手)・通る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「シマトツカリ川」の河口付近にある「斜里町峰浜」で東から合流する支流の名前です。明治時代の地形図には「ポンシユマト゚カラペツ」と描かれていて、これは「シユマト゚カラペツ」(=シマトツカリ川)の支流と読めるでしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンシヤリヲマナイ」という名前の川が描かれています。現在の「シマトツカリ川」に相当する川が「シヤリヲマナイ」という名前で描かれていて、これは sar-oma-nay で「葦原・そこにある・川」と読めるでしょうか。ただ戊午日誌「西部志礼登古誌」や「午手控」にはそれらしい記録が見当たらないので、何らかの勘違いか、あるいは手違いがありそうな気がします。

現在の川名は「マクシベツ川」ですが、「午手控」には何故か「ウナヘツ川すじ」(=海別川筋)に次のように記されていました。

○ ウナヘツ川すじ
 マツクシヘツ 左中川
 ライヘツ 左小川
 ウシシュンナイ 左小川
 ヲブツシャスナイ 左小川
 ケナシハヲマナイ
 ヲ(ク)シヘツ  此処より右ヲクシヘツ 左ウナヘツ
 アツカンヘツ ヲクシヘツ枝
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.177 より引用)
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

【海別川筋】
 サクㇱペッ(右支流)「サ・クㇱ・ペッ」(sa-kus-pet 浜側を・通つている・川)。
 マックㇱペッ(左支流)「マㇰ・クㇱ・ペッ」(mak-kus-pet 奥を・通る・川)。
 オクシュンペッ 奥蘂別川。「オ・クㇱ・ウン・ペッ」(o-kus-un-pet 川向うにある川)。一番浜側にサクㇱペッがあり,その奥にマクㇱペッがあり,更にその川の彼方にこの川が流れていたのでそう名づけた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『斜里郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.260 より引用)※ 原文ママ
なお「斜里郡内アイヌ語地名解」には「シュマト゚カリペッ」の支流として「ポンシュマト゚カリペッ」が記されていました(これは明治時代の地形図での描かれ方と一致しています)。

「マツクシヘツ」は何処に

現在の奥蘂別川は海別川が合流した後、そのまままっすぐ海に向かって流出していますが、かつては浜堤の間を東に向かって流れていました。海別川として見た場合は、東七線のあたりで西に向きを変えて、東三線のあたりで奥蘂別川が合流した後、今度は東に向きを変えて東七線の手前で海に注ぐという、おそろしく蛇行した川でした。

結果として、海別川の河口付近では浜堤が二段構えになってしまっていて、浜堤の南側を二段構えで川が流れるという状態になっていました。海からこれらの川を見た場合、南北を浜堤に挟まれて東に向かって海に注ぐ川が「サクㇱペッ」で、浜堤の南側で西に向かって流れる川が「マㇰクㇱペッ」だった……と考えたくなります。

もっともそう考えた場合、「サㇰシペッ」は本流の別名ということになり、「右支流」とする「斜里郡内アイヌ語地名解」の記載と不整合が生じるのですが。

余談が過ぎましたが、ここまでの記録を見た限り、「マクシベツ川」は「シマトツカリ川」の支流ではなく「海別川」(あるいは「奥蘂別川」)の支流だった可能性がありそうです。

ただ「マクシベツ川」は mak-kus-pet で「奥(山手)・通る・川」だと考えられるのですが、現在の「マクシベツ川」も「ウナベツスキー場」の後ろの山地を横切っているとも言えるので、一概に間違いとは言えないのが難しいところです。

海別川の支流と目される「マックㇱペッ」の存在が失われ、少し離れたところを流れる「ポンシユマト゚カラペツ」が「マクシベツ川」に改められた……というのは、状況証拠としてはかなり黒に近いグレーではあるのですけどね。

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