2022年6月3日金曜日

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紀勢本線各駅停車 (7) 「藤並・湯浅」

 

有田川を渡ると有田川町に入るのですが、河川敷に学校のような建物が見えてきました。
グラウンドがあり、時計も見えるので「学校かな?」と思ったのですが、学校にしては窓が少ないですし、河川敷のようにも見えます(これは誤解で、この場所は河川敷では無かったのですが)。この建物は「有田周辺広域圏事務組合 環境センター」とのことで、要は焼却処理場のようです。

藤並駅

長い右カーブを抜けて、線路脇に謎の空き地が目立つようになり……
藤並駅のホームが見えてきました。長いホームを持て余している駅が続いていましたが、藤並駅の下り線ホームは比較的近年に延伸されたように見えますね。
現在の藤並駅は 2 面 2 線の相対式ホームというシンプルな構造ですが、かつてはこの駅から金屋口駅まで「有田鉄道」が伸びていました。有田鉄道線があった頃は、上り線ホームの向かい側(東側)にホームがあったようです(この写真は西側を向いているので、完全に逆方向ですね)。
駅前にマイクロバスが停まっていましたが、よく見ると「金屋口←→藤並」と出ているような……。有田鉄道線の転換バスなんでしょうか。

有田鉄道線「一駅間乗り入れ」の経緯

有田鉄道は、かつては紀勢本線の湯浅駅(藤並駅の次の駅)まで乗り入れも行っていましたが、乗り入れは 1992 年に終了し、有田鉄道線自体も 2002 年の大晦日に廃止されてしまいました。
有田鉄道が藤波から湯浅の一駅間だけ紀勢本線に乗り入れることになったのは色々と理由があったようで、元々は有田鉄道が湯浅町内の「海岸駅」までの路線を有していたところに後から紀勢西線が建設され、有田鉄道と紀勢西線の乗換駅として「藤並駅」が設置されます。

その後、紀勢西線も藤並から紀伊湯浅(現在の湯浅駅)まで延伸すると、藤並と湯浅の間は有田鉄道と紀勢西線の 2 ルートが並行することになります。両者は 1927 年から 1944 年まで共存していましたが、有田鉄道の藤並・海岸間は 1944 年に「不要不急線」として休止に追い込まれ、レールも撤去されてしまいます。

戦後になり、休止区間を復活させる代わりに藤並から湯浅までの一駅間を紀勢本線に乗り入れさせることで「埋め合わせ」を図った……と言ったところでしょうか。

どこで横断していた?

一つ謎が残っているのですが、藤並駅では有田鉄道線のホームは東側に位置していました。ところが、「不要不急線」として休止に追い込まれた有田鉄道線の湯浅駅は、現在の「湯浅簡易裁判所」のあたりにあったと思われるのですね。米軍が撮影した航空写真を見ても、藤並駅の南側では有田鉄道線(不要不急区間)は紀勢本線の西側を通っているように見えます。

有田鉄道線は、藤並駅で線路が分断されたので無い限り、どこかで紀勢西線とクロスしていた筈なのですが、戦後に撮影された航空写真ではどこでどのようにクロスしていたのか特定できませんでした。有田鉄道線は国鉄線と軌間が同じだったこともあり、藤並駅を建設した時点で線路としての接続があったようですから、渡り線で紀勢西線を横断していたのかもしれません。

不要不急区間のその後

藤並駅を出発した後は、(不要不急だとして休止に追い込まれた)有田鉄道線が 1.8 km ほど並行していて、Wikipedia によるとその廃線敷の一部は紀勢本線の複線化に利用された……とあります。ただ藤並駅と湯浅駅の間には S 字カーブの区間があるのですが、この区間は廃線敷を利用したのではなく、下り線のみトンネルを新設することで S 字カーブの緩和を行ったようです。
トンネルを抜けて下り線と合流したあたりに「WELCOME to YUASA」と書かれたオブジェが見えます。位置的にはちょうどこのオブジェのあたりを有田鉄道線が通っていたような気がするのですが……(確証はありませんが)。

和歌山県立耐久高校!

ということで、ようやく「有田鉄道線(不要不急区間)」から離れて、紀勢本線の湯浅駅に向かいます。……あっ、これは!
奥に見えるのは「和歌山県立耐久高校」ではありませんか!
24 時間戦えるジャパニーズ・ビジネスマンを養成しているのか、あるいはル・マン 24 時間に出場するのか……と思わせるような校名ですが、なんと 1852 年に創設された稽古場「耐久社」に由来するとのこと。ペリーが浦賀に来航する一年前と言えば、より驚きが増すでしょうか。

湯浅駅

思わぬ形で「耐久高校」を目撃して興奮冷めやらぬ状況ですが……踏切が見えてきましたね。上り線と下り線の間に向かって線路が分岐している……ということは、毎度おなじみ「国鉄型配線」のようです。
駅名標が見えてきました。湯浅駅に到着です。
湯浅の町は「醤油発祥の地」とのこと。実は「耐久高校」もヤマサ醤油の当主によって創設されたそうで、まさしく「醤油」が基幹産業だったんですね。

屋根はあるのに駅舎は見当たらず

下り線ホームには立派な上屋が見えます。ただ、上屋があっても駅舎が見当たらないというのはどういうことでしょう……?
上り線(御坊方面)のホームは跨線橋とも一体化した上屋があるのですが、下り線のホームには屋根が見当たりません。

この駅舎は「旧駅舎」に

湯浅駅の駅舎?はホームの南側にありました。かなりシンプルでレトロな感じに見えますが、その割には今風の出発案内がぶら下がっているのが面白いですね。
ちなみに外観はこんな感じだったのですが……


現在はこんな風になってしまいました。


改札と、下り線のホーム上屋の間に屋根が無いという点が気になっていたのですが、町立図書館を併設した新駅舎が竣工して様変わりした……ということだったようです。僅か 5~6 年で随分変わりましたね。


旧駅舎の去就も気になる所ですが……。

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1 件のコメント:

ねこあたま さんのコメント...

20年以上前に湯浅に行った時に、港近くの醤油工場付近まで有田鉄道の路線があったと聞きました。

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