2022年5月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (938) 「戸内牛山・昌運山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

戸内牛山(とないうしやま)

tu-nay-e-us-i??
二つの・川・頭(水源)・ついている・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
津別町と美幌町の境界に聳える山の頂上付近にある一等三角点の名前です。標高 449.3 m とのことですが、近くに 450 m の等高線が描かれているため、三角点が位置するのは山の頂上では無さそうです。地理院地図で見た限りでは、三角点の位置は津別町側に見えるのですが、「一等三角点の記」によると所在地は美幌町とのこと。

明治時代の地形図には「トナイウシ山」と描かれていました。これだけ明瞭に描かれている割にはこの山についての情報は乏しく、「北海道地名誌」にも伝家の宝刀「意味不明」を出されてしまう始末だったのですが、知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」に次のような記述がありました(!)。

(326) ツ゚ナイェウシ(Tunayeushi) ツ゚ナイ(鯨),エ(そこに),ウㇱ(引つかかつた),イ(所)。小沼沢とコタンコアンオンネナイとの間にある山で,昔大津浪があつた際鯨がここに引つかかつたという伝説がある。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.305 より引用)※ 原文ママ
久々に豪快な伝説が出てきましたね。標高 450 m の山上まで津波が押し寄せた上にクジラが流されて引っかかったというのは、他の津波伝説と比べても格段に大規模な感じがします。

津別町と美幌町の境界(=津別川流域と美幌川流域の境界)は、屈斜路湖のカルデラと思しき「サマッカリヌプリ」の北から北西に伸びていて、戸内牛山のあたりではほぼ南北に伸びています。標高 400 m 台の山がいくつも連なっていて、その山容が鯨を想起させた、と言ったところでしょうか。

「クジラ」を意味する tunay

ただ不思議なのが、「鯨」を意味するのに tunáy という語を用いたところです。「鯨」は húmpe を用いるのが一般的で、tunáy については知里さんの「動物編」にも「補注」として次のようにあるのみです。

b) ‘ツ゚ナイ’。[tunáy は褶のことだ。‘腹にうねり’と注してあるのを見ると,ナガスクジラ族らしく思われる。ビホロでクジラの古語に tunáy という語があり地名などにも出てくる。]
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 動物編』」平凡社 p.178 より引用)
「褶」は「ひだ」と読むとのこと。手元の辞書類には tunay あるいは「トゥナイ」についての情報は見当たらなかったのですが、唯一「アイヌ語古語辞典」の「『藻汐草』アイヌ語単語集」に下記の内容が記されていました。

トゥナイ
 ① 鯨(腹にうねあり) ②〈動物〉クジラ(tunay は褶のことだ。)
(平山裕人「アイヌ語古語辞典」明石書店 p.314 より引用)※ 原文ママ
「『藻汐草』アイヌ語単語集」の「②」は知里さんの「動物編」を含む各種資料からの引用なので、注目すべきは「①」のほう、ということになります。

あくまで仮説の域を出ていませんが「女満別」の例もあるので、美幌・津別の山中に古語由来の地名があっても不思議ではありませんが、やはり唐突な感は否めません。

tu-nay-e では?

「トゥナイウㇱ」という音を素直に読み解くと tu-nay-e-us-i で「二つの・川・頭(水源)・ついている・もの(山)」のように思われます。戸内牛山の西と南西には谷川があり、それぞれ北と西に向かって流れているのですが、元々はこの特徴を示した山名だったのでは無いでしょうか(間違った谷に下りると全く異なる場所に出てしまうので、その注意喚起では無いかと)。

「トゥナイウㇱ」が「二つの水源のある山」だったとすると、正確な位置は三角点のある山ではなく、その南隣の山だったかもしれません。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

昌運山(しょううんやま)

so-un(-{piporo})?
滝・のある(・{美幌川})
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
美幌川は源流部で膨大な数の支流に枝分かれしているのですが(雨が降った後はめちゃくちゃ増水しそうですね……)、「昌運山」は美幌川の西支流である「山女沢川」(の西支流)と、同じく美幌川の西支流である「蛍雪沢川」の東支流である「奥の沢川」の間に位置する山にある三等三角点の名前です(標高 357.0 m)。

「奥の沢川」沿いの林道は「昌運林道」と呼ばれているようです。

明治時代の地形図には「シヨーウㇱュピポロ」という川が描かれていました。また「東西蝦夷山川地理取調図」にも「シヨウシヒホロ」という川が描かれていました。

戊午日誌「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

 此辺河流屈曲、またしばしにて
     シヤウシボコロ
 右の方相応の川のよし。此処よりシユルトウシの土人等はクスリ辺え出るに、アカンえ越るとかや。至てアカン(屈斜路)の沼降に近きよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.345 より引用)
「シヨウシ」と「シヤウシ」の違いはさておき、「ヒホロ」と「ボコロ」の違いはどうしたものか……と気になってしまいますが、このあたりには「ルウボコマフ」や「シヨバラボクシナイ」などの川名が記録されていたので、ついうっかり筆が滑ったとかでしょうか……?

「シユルトウシ」は現在の美幌町豊富のあたりで、「シウシロ」はクスリ釧路?に向かう交通路だったとのこと。美幌川流域から釧路に向かうには屈斜路湖畔に出るのが常識……ということから「(屈斜路)」という註がつけられたと思われますが、屈斜路湖に向かうのであれば何も「右の方(西)」の支流を経由する必要も無さそうなので、これは本当に阿寒湖に向かうルートだったことを示唆しているのかもしれません。

「シヨーウㇱュピポロ」の現在名ですが、諸々の情報(ヒント)を総合すると、やはり「昌運林道」沿いの「奥の沢川」のことと見て良さそうかな、と思えます。so-us-{piporo} は「滝・のついた・{美幌川}」だと考えられるため、「昌運山」も so-un(-{piporo}) で「滝・のある(・{美幌川})」と考えて良いかと思います。

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