2022年5月7日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (932) 「手師学山・太茶苗・姉問」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

手師学山(てしがくやま)

tes-oma-nay
梁・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
北見市(旧・常呂町)と佐呂間町を結ぶ「仁倉峠」という峠(道道 655 号「仁倉端野線」)があるのですが、峠から 1.6 km ほど東に「手師学山」という名前の二等三角点があります(標高 216.3 m)。

山の南側を「隈川」が流れていて、常呂川と合流するあたりにかつて「手師學村」がありました。「手師學」で「テショマナイ」と読ませようとしたものの、流石に無理があったのか、後に「てしがく」と改められたとのこと。既に失われた地名だと思っていたのですが、三角点名に残っていたというのは驚きです。

ちなみに「手師学山」三角点が設定されたのは 1916 年とのこと。手師學村は直前の 1915 年に「常呂村」「少牛村」「太茶苗村」と合併しています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トコロ」(=常呂川)の西支流として「テシヲマナイ」という川が描かれています。一方で戊午日誌「西部登古呂誌」には次のように記されていました。

其を行に凡七八丁過て
     テシヲマナイ
左りの方小川有。此川往昔より此辺の土人等の漁場にして、毎年テツシを懸て取る故に此名有るよしなし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.177 より引用)
おっと、こちらは「左りの方」とありますね。松浦武四郎は常呂川の河口付近から川を遡っているので、「左」は「東側」を意味します。

さてどちらが正しいのだろう……という話ですが、明治時代の地形図には、現在「39号沢川」と呼ばれる川の位置に「テシオマナイ」と描かれていました。「39号沢川」は常呂川の東支流なので、「東西蝦夷──」が「西支流」として描いたのが間違いだった可能性が高まりました。

「テシヲマナイ」は tes-oma-nay で「梁・そこにある・川」と見て良いかと思います。tes は遡上する魚を捕らえるための「やな」であったり、あるいは「梁のような岩」を意味する場合もあるのですが、ここは「梁」そのものがあった、という認識のようですね。

それにしても、本来は川の名前だった「テシヲマナイ」が、村の名前を経由して村はずれの無名峰の三角点の名前として生き延びている……というのは、なんとも面白い話ですね。

太茶苗(ふとちゃなえ)

putu-ichan-nay
口(河口)・鮭鱒の産卵場・川
(典拠あり、類型あり)
かつての「手師學村」の北隣にあった集落の名前で、ここもかつては「太茶苗村」でした。もっとも当時の「村」は十数戸程度の規模のものも少なくなく、ここもそういった「ミニ村」の一つだったのでは……と思われます。

この「太茶苗」も「失われた地名」だと思っていたのですが、常呂川とポン幌内川の間にある三等三角点の名前として健在でした(標高 415.4 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トコロ」(=常呂川)の東支流として「クトイチヤンナイ」という川が描かれていました。この川については、戊午日誌「西部登古呂誌」にも次のように記されていました。

上りて
     クトイチヤンナイ
右のかた平地、左りの方平山の下に小川有。其下浅瀬に成此処に鮭魚卵をなすが故に号るとかや。本名はプトイヂヤンナイと云義のよし。其訳フトとは川口、イチヤンは鮭魚卵を置処を云り。川口に鮭魚卵を置と云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.163-164 より引用)
「クト」と言えば kut で「帯状に岩のあらわれている崖」なので、「鮭鱒の産卵場」を意味する ichan との繋がりが少々謎だったのですが、どうやら「クト」は put(u) が訛ったものではないか、とのことですね。

「太茶苗」は putu-ichan-nay で「口(河口)・鮭鱒の産卵場・川」ではないか……ということでしょうか。「河口に鮭鱒の産卵場がある川」であれば o-ichan-un-pe と呼ぶケースが比較的多い印象がありますが、ここでは o- ではなく putu- なのが特徴的ですね。何故そうなのかは良くわかりませんが……(汗)。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

姉問(あねとい)

ane-toy?
細い・畑
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
常呂町……あ、今は北見市常呂町でしたね……と能取湖(網走市)の間には山地が広がっていて、山地の西側(常呂町側)には「農協牧場」が広がっています。「農協牧場」の麓には「川東道路」という道路と用水路が通っていて、用水路の末端には「姉問排水機場」があります。

ついに三角点名だけでは飽き足らず、排水機場のネーミングにまで手を広げたか……と思われるかもしれませんが、偶然見つけてしまっただけですので……。

明治時代の地形図を見てみると、「姉問排水機場」のあるあたりに「ア子トイ」という川が描かれていました。「ア子」は ane で「細い」だと思われますが、「トイ」は toy で「食用土」だとすれば、意味が良くわからないことになってしまいます。

この「食用土」はアク抜きのための「調味料」として出汁のように用いたもので、土をパクパク食べていた訳では無いとのこと。

首を傾げながら「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみたところ、そこには「ア子トウ」と描かれていました。なぁんだ、ane-to で「細い・沼」だったんですね。

意外なところから新説が

……これで一件落着と思ったのですが、戊午日誌「西部登古呂誌」には全く異なる内容が記されていました(!)。

また酉に向また戌に向て
     ア子トイ
此処にもむかし人家有りし由、今はなし。此辺また川端は樹木有れども其左りの方小川有。上には樹木なし。右のかた惣て平地也。地名ア子トイとは、むかしより土人等此処にて畑をこしらへて粟を作るに、他より少しヅヽ遅かりし由。よって号しとかや。ア子とは遅しと云儀、トイとはトイタの略語にして畑の義なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.155 より引用)
「トイとはトイタの略語にして畑の義なり」とありますが、{toy-ta} で「畑を耕す」を意味するようですね。ただ「ア子とは遅しと云儀」については、手元の辞書類でそれらしき用例を確認できませんでした。

「ア子トイ」を「遅い畑」とするのは何かの間違いのような気がしますが、現在「アネトウ」ではなく「姉問」という名前で残っていることを考えると、ane-toy で「細い・畑」だった可能性があるかもしれません。

「ア子トウ」は常呂川の東側の、山との間の僅かな平地のあたりに存在したと考えられることから、川と「アネトウ」の間の土地も細長かったと考えられます。このことを指して「細長い畑」と呼んだのでは……と思えてきました。

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