2022年5月3日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (132) 久保田(秋田市) (1878/7/23-24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

医師資格

久保田(秋田)の病院を一通り見て回ったイザベラが事務室に戻ると、そこには英国風の食事が準備されていました。

 一巡り見てから私たちが事務室に戻ってみると、英国風に食事が並べられていた──お皿の上にコーヒーの入った柄のついた茶碗、それからスプーンをつけた小皿。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
一見、何の変哲もない文章にも見えますが、この先を読み進めるとこれがちょっとした伏線?だったようにも思えてきます。

東京から来たばかりで、まだ三十歳にもならぬ萱橋カヤバシ医師や、職員や学生が、すべて和服で、りっぱな絹織のハカマを着用しているのを見て嬉しかった。

何度も繰り返しになりますが、この「萱橋医師」は、原文に Dr. Kayobashi として登場していた人物のことで、当時の新聞記事に「医員小林さん」と紹介されていた人物のことです。イザベラが気を遣って仮名にしたというよりは、単に聞き間違えた可能性がありそうな……。

イザベラは病院関係者が和服姿だったことを好ましく感じていたようで、これは現在でも欧米からの観光客が和装を好むのと通底するように思えます。イザベラは「和服は美しい」と前置きした上で「和服をつけると威厳が増す」とし、そして「洋服をつけると逆に(威厳が)損なわれる」と記していました。

日本人が西洋人のように洋服を着てしまうと、やはり体格差などがそのまま現れてしまって見るに堪えない……と感じていたのかもしれません。もちろんイザベラのことですから、「借り物の洋服よりも自前の『民族衣装』が良い」と考えた……というのもあったことでしょう。

師範学校

久保田(秋田)で「大学病院」を視察したイザベラは、翌日(異説あり)に「師範学校」も視察していました。イザベラはその前置きとして、街の印象を次のように記しています。

 公共の建物にはりっぱな庭があり、傍を走る幅広い道路があり、石で上張りをした土手があって、このように都から遠く離れた県にしては珍しい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
身も蓋もない言い方をすれば「地方なのにスゲーなオイ」ということになるでしょうか。イザベラはその中でも「最もりっぱな建物」として「師範学校」を挙げていて、旅券持参で旅行目的を説明することでようやく見学を許されました。

このような手続きが終わると、校長の青木保アオキタモツ氏と教頭の根岸秀兼ニギシシユヂカネ氏が私を案内してくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
原文では、「アオキタモツ」氏は Mr. Tomatsu Aoki となっていて、謎の「ニギシシユヂカネ」氏は Mr. Shude Kane Nigishi となっていました。実は「ニギシ・シュード=ケーン」氏だった可能性も……(無い)。洋装の二人の紳士について、イザベラは次のように記しています。

彼ら二人は洋服を着ているので、人間というよりも猿に似て見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
うわー、やっちゃいましたね。今ではとても許される表現ではありませんが、19 世紀の西洋ではこのような差別的な認識もまかり通っていた、ということが良くわかります。

 校長はなんとか英語で話そうとするので、とても辛そうであった。彼の英語たるや、私の日本語と変わりがなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256 より引用)
校長の青木氏が湯気を出しながら全力でルー語をしゃべっていたと考えると微笑ましいですが、更に微笑ましいのが、イザベラの訪問を報じた「遐邇かじ新聞」の記事では「青木君も元来英語に通じたる方なれば、答弁いささかも差し支え無く」とあることでしょうか。これは青木氏に「忖度した」のか、それとも日本人の夜郎自大ぶりが丸出しだったのか……?

なお、教頭の「ニギシシユヂカネ」こと根岸氏もルー語英語での「異文化コミュニケーション」にトライしたものの敢え無く玉砕し、通訳(伊藤氏)経由でのやり取りになったとのこと。

素晴らしき「師範学校」

イザベラによると、この師範学校は「ゆったりとして広いヨーロッパ風の建物」だったとのこと。三階建ての建物にはバルコニーもあったようで……

階上のバルコニーから町を眺めると、灰色の屋根や緑豊かな町、周囲の山々や谷間が見えて非常に景色がよい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.256-257 より引用)
随分と「お褒めの言葉」が並んでいるように見えます。この建物がどこにあったのか気になったので少しググってみたのですが、秋田大学の Web サイトに「秋田師範学校」というページが見つかりました。イザベラが師範学校を訪問したのは 1878 年(明治 11 年)のことですから、当時は「東根小屋町」にあったと言うことでしょうか。秋田駅の西側、久保田城の南側のあたりのようですね。

イザベラはバルコニーからの眺めに感銘を受けただけでは無かったようで……

いろいろな教室の設備、特に化学教室の実験器具や、博物教室の説明器具が実にすばらしいので驚いた。ガノーの『物理学』が、理科の教科書になっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.257 より引用)
うーん……。こういった記述を目にするたびに、「昔の日本」は今の日本よりも豊かだったんじゃないかと思えてしまうんですよね。今の日本のほうが昔よりも豊かなのだとすれば、金のかけどころを明らかに間違っているということになりそうな気が……。

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