2022年4月29日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (131) 久保田(秋田市) (1878/7/23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

防腐剤の取扱い

イザベラは、院内(秋田県湯沢市)で「久保田から来た医者の一人」と言葉を交わして面識ができていたのですが、数日後に六郷(秋田県仙北郡美郷町)から神宮寺(秋田県大仙市)に移動する途中で再びその医師と遭遇します。この医師こそ Dr. Kayobashi こと「小林医師」で、実は東京から久保田(秋田)に赴任する途中だったことが判明しています。

「小林医師」はイザベラに(自分の赴任先である)病院に来てください……と声を掛けたそうですが、これが本当にイザベラの訪問を期待していたのか、それとも実は単なる社交辞令だったのかは……ちょっと謎ですね。実は「まぁどっちでもいいや」程度で考えていたんじゃないかと思ったりもしますが……。

イザベラは小林医師の招待を真に受けた……というか、本国に持ち帰る情報として有益だという判断があったのか、正式な作法で訪問許可を得て、ガッツリと病院見学に乗り込んだ……というのがここまでの流れです。

イザベラは、久保田(秋田)の病院に慈善事業的な性格が見当たらないことを訝しむとともに、医療と看護のシステムについての詳細(問題点を含む)に記していました。ただ、決してダメ出しに終止したわけでも無かったようで……。

 私は、入院病棟に比べて診療棟のほうがより気に入りました。その配置は素晴らしいもので、非常に天井が高く、明るくて、風通しの良い部屋には問題が少しもありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
イザベラは、どうやら診察棟の作りには随分と感心していたようです。

いろはアルファベット順に患者の名前が呼ばれると、見習い医者の一人の決定に従い、それぞれの患者はそれぞれの症状に合わせ三つの明るくて設備のよい診察室の一つに入っていきます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
今でも総合病院だと初診は若い医師が担当することが多い印象がありますが、既に同様のシステムができていた、と言えそうでしょうか。

診察室はそれぞれ内科、外科、眼科に当てられています。患者一人一人がファイルに記入された処方箋をもらいます。それには患者の受け取る薬ビンに対応して、同じ番号がふられています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
なんか予想以上に近代的なシステムが構築されていたのですね。こういったシステムも見様見真似で持ち込んだのでしょうが、そう言えば優れたやり方をうまく模倣して取り込むというのは日本人の得意技だったような気もします。

整頓された薬局

イザベラが記録していた「薬局」のシステムは驚くべきもので……

病人に処方箋が渡されると薬局に向け開いているカウンターのある大きな待合室に移動し、そこで患者は自分の薬を受け取るまで待ちます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
この仕組みは、つい少し前までごく当たり前に見られていたものですよね(今は「院外処方」が多くなったので、むしろ手間が増えた印象もあります)。診療と調剤をそれぞれ分業体制にすることで無駄を減らして効率的に業務を行おう……というスタイルが、既に明治初頭に完成していたというのは驚きです。

薬局はすばらしい部屋で、最も定評のある様式に周到に合致して設備されており、薬品はラテン語と日本語のラベルがきちんと付けられ棚に並べられています。主任薬剤師と 4 人の実習生がそこで働いていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.92 より引用)
看護については「おいおいおい」と感じていたであろうイザベラも、外来診療と薬局のシステムについては「お主やるな」という感想を持ったかもしれませんね。

医師資格

ちなみにここまでの「悪い看護」「防腐剤の取扱い」「整頓された薬局」は、いずれも「日本奥地紀行」の「普及版」ではばっさりカットされています。さすがに「日本奥地紀行」の内容としてはマニアック過ぎるという判断だと思われますが、面白いことにこの先の一節はカットされずに残されていました。

 石炭酸の臭いが病院中にたちこめていた。消毒液の噴霧器がたくさん置いてあった──リスター氏(英国の消毒外科医学の完成者)が満足するほどに!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
この時点では、地元住民には西洋医学の有用性が必ずしも理解されていない状態でしたが、病院の施設はいち早く衛生面での配慮を取り入れていた、と言えそうでしょうか。

K 医師が語るには、今世紀最大の発見の一つである消毒治療を学生に教えているが、消毒の際に必要なごく些細な点にまで注意深くするようにさせるのは難しい、とのことであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
「K 医師」は「小林医師」のことですが、これを読む限りではなかなか先取的な考え方の持ち主だったようですね。もちろんその医学的な知見は現代人には遠く及ばないところもあります。百年(以上)のタイムラグは大きい、ということですね。

不幸にも眼病患者が非常に多い。眼病が広く蔓延しているのは、一軒の家の中に住む人間の数が多すぎること、家の中の換気が悪いこと、貧乏な暮らし、そして採光が悪いためだ、と K 医師は考えている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.255 より引用)
この時点では「菌」の概念がどの程度知られていたかも不明ですし、おそらく「ウイルス」については「???」だったと思われるんですよね。各種の病気への対処についてはある程度ノウハウが溜まっていたと思われますが、病原に対する理解は(全世界的に)まだまだだったと言えそうでしょうか。

ここで再び「普及版」でカットされた内容に戻ります。

 病院はまた 100 人の医学生を擁する医学校でもあって、卒業証書は秋田県で医療の営業をする資格を与えられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
どうやらこの病院は現在の「大学病院」に相当する施設だったようですね。医学校の卒業証書は「医師免許」に相当する価値のあるものだったようです。

大教室はドイツ製やイギリス製の図解類がよく設備されているが、博物資料館はかろうじて解剖標本があるだけであり、人骨標本はミクロネシアから来た背の低いタイプの原住民のものが置かれている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
うーん、ちょっとセンシティブな内容に踏み込んできましたね。「ミクロネシアの原住民」の人骨のみならず、アイヌの遺骨も大学等の研究機関が保管していたことが明らかになっていて、その入手方法も決して適切なものでは無かったことが明らかになりつつあります。その理由の一端をイザベラは次のように書き記していました。

日本人の人骨標本を置くことは不可能で、解剖用献体を手に入れることが出来た唯一のケースは患者の近親者が例外的に寛大な場合と死因が生前解明できなかった場合だけである。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.93 より引用)
アイヌの遺骨は必ずしも「日本人の標本の代替品」という見地で集められたものでも無かったと思われますが、結果的にそのような位置づけで活用されたケースもあったのかもしれません。いずれにせよ「遺骨を奪う」という行為はとても褒められたものでは無いので、速やかに謝罪と返還が求められます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


0 件のコメント:

コメントを投稿