(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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トーウンナイ川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
遠軽町の市街地の東部に陸上自衛隊の駐屯地と演習場がありますが、トーウンナイ川は演習場の南から駐屯地の北を抜けて生田原川に注いでいます。明治時代の地形図には「トーウンナイ」という名前の川が描かれていました(今のまんまですね)。ただ永田地名解や戊午日誌「西部由宇辺都誌」にはそれらしい名前の川が見当たりません。
「トーウンナイ」は、音からは to-un-nay で「沼・入る・川」と読めそうです。ただ陸上自衛隊遠軽駐屯地のあたりに沼があったということでも無さそうで、さてこの「トー」をどう解釈したものか、という問題が出てきます。
戊午日誌「西部由宇辺都誌」には、生田原川の支流として「シユフヌンナイ」「ルベツチヤヲンナイ」「ニタツヲマフ」などの記録がありますが、この中では「ニタツヲマフ」が「仁田布川」のことだと考えられます。また「シユフヌンナイ」は「川口より七八丁上りて右の方」とあり、「ルベツチヤヲンナイ」が「左りの方小川」とあるため、現在の「トーウンナイ川」は「ルベツチヤヲンナイ」と認識されていた可能性もありそうです。
「ルベツチヤヲンナイ」は ru-{pet-cha}-un-nay あたりでしょうか。これだと「道・{川岸}・ある・川」となりますが、この {pet-cha} は湧別町
実際に、陸上自衛隊の駐屯地と演習場の南を道道 244 号「遠軽芭露線」が通っていて、芭露峠を越えて湧別町に向かうことが可能です。そう考えると「トーウンナイ」の「トー」も「サロマ湖」のことを指していたのではないか、と考えて良さそうな気もしてきました。to-un-nay は「沼・入る・川」ですが、「サロマ湖に向かう川」と認識されていたのではないでしょうか。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
オンネ沢川
(典拠あり、類型多数)
生田原の市街地の北で生田原川に合流する西支流です。戊午日誌「西部由宇辺都誌」や永田地名解にはそれらしい川の記録が見当たりませんが、明治時代の地形図には「オン子ナイ」と描かれていました。生田原川の西支流の中では「仁田布川」や「浦島内川」よりは短いものの、生田原駅近辺の支流の中ではそこそこ大きな川です。これは素直に onne-nay で「老いた・川」、転じて「親である・川」(大きな・川)と考えるしかないでしょうか。
浦島内川(うらしまない──)
(典拠あり、類型あり)
生田原の市街地で生田原川に合流する西支流です。明治時代の地形図には「ウラシュチマイ」という名前の川が描かれていました。永田地名解には次のように記されていました。
Urash chimai ウラシュ チマイ 笹ノ枯レタル處uras は「笹」ですし chi には「枯れる」という意味がありますが、「チマイ」を「枯れたところ」と解釈できるかどうかは……ちょいと疑わしい、でしょうか。
戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。
また右の方並びて
ウラシヲマイ
本名ウラシウシヲマイのよし。此川すし小笹多きによって号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.260 より引用)
これは uras-oma-i で「笹・そこにある・もの(川)」と読めそうですね。uras-us-oma-i であれば「笹・多くある・そこにある・もの(川)」でしょうか。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウラシヲシマ」という名前の川が描かれていますが、これは uras-us-oma だった可能性もありそうです。永田地名解が「ウラシュ チマイ」としたのは謎ですが、「ヲマイ」を「チマイ」に誤ったと考えると筋が通りそうな気もします。
「永田地名解」とは言ったものの、永田方正ひとりで道内全てを回るのは容易ではなかったようで、一部は「協力作業者」の取材結果を取り入れていたとのこと。「取材メモ」を書き起こした際にうっかりミスがあった……みたいな可能性も考えたくなりますね(このあたりで他者の成果を取り入れていたかどうかは不明ですが)。
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