2022年3月30日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (257) 「名寄市街の区画の謎」

「名寄美深道路」の「名寄北 IC」で流出します。よく考えてみれば終点(起点)の「名寄 IC」は 2008 年に一度使った以来、全く近づいていないような気も……。
ランプウェイの下り坂を進むとこのようになっているのですが、これ、うっかりそのまま直進する人はいないのでしょうか。
もちろん「止まれ」の標識もありますし、右折以外進行禁止の標識も出ているのですけどね。直進方向にゼブラゾーンもあるのですが、随分と消えてしまっているようで……。
ここはしっかりと一時停止した後に右折です。

基線は何処へ

「名寄美深道路」は全線無料なので料金所はありません。そのため IC はいわゆる「ダイヤモンド型」(西名阪自動車道の「法隆寺 IC」のような形)でも良いのですが、道内の高規格道路の IC では北陸自動車道の「片山津 IC」のようにランプウェイを一旦集約する構造が多いようです。「豊富バイパス」と「幌富バイパス」の「豊富サロベツ IC」も同様の構造でしたね。
ということで、ランプウェイを南に進んだ先を左折して、市道(だと思う)を経由して名寄市内に向かいます。この道路は「十二線」らしいのですが、どこから数えて 12 番目なのかは良くわかりません(汗)。
このあたりは「名寄市砺波」という地名です(今の砺波市周辺からの移民が多かったのでしょうね)。左方向の案内しかありませんが、右折すると市営墓地とテレビ・ラジオの中継局があるとのこと。

カーブをやめて十字路に

「十二線」を 100 m ほど進むと「名寄美深道路」の高架下で、その先は国道 40 号です。
東からやってきた国道 40 号はここで北に向きを変えるため、以前は十字路ではなく大きなカーブになっていました。ただ「名寄北 IC」と接続する際に十字路に戻したようで、カーブ跡は駐車場?になっているようです。

三代目?

天塩川を渡る「名寄大橋」が見えてきました。おや、これは……
この傾き加減は久しぶりに見た感じが……。手前の柵はしっかり直立しているのに、橋名表示板だけ傾いているのは見事な感じすらありますね。
「名寄大橋」を渡ると国道 40 号は少し左にカーブしていますが、これは現在の「名寄大橋」の北側(左側)に旧橋があったから……なのでしょうね。1970 年代の航空写真でも既にこのカーブが確認できるので、旧橋があったのはそれ以前ということになりそうです。
大正時代の「陸軍図」を見ると、当時の「名寄大橋」は現在よりも 200 m ほど北側で西北西から東南東に向かう橋として存在していました。1948 年と 1968 年に撮影された航空写真では現在の「名寄大橋」のすぐ北側に橋が見えるので、現在の「名寄大橋」(三代目?)ができたのは 1968 年以降(~1974 年?)ということになりそうです。

永谷園設立 63 周年

シェルのガソリンスタンドには「自衛隊のまち なよろ」の看板が。色合いがシェルのコーポレートカラーと同じなのは偶然……ですよね?
「祝創立63周年」とありますが、これは毎年更新しているのでしょうか? 自衛隊の創設日は 1954 年 7 月 1 日とされますが、2014 年で 60 周年を迎えたということは……あれ? 2016 年時点では「創立 62 周年」だったのでは……?

名寄市街の区画の謎

国道 40 号を東に進むと……あれ、T 字路にぶつかりましたね。道内(特に内陸部)の道路は「殖民区画」に相当する碁盤の目状になっていることが多く、名寄の市街地も同様なので、理屈の上では T 字路は存在しない筈なのですが……。
ちなみに国道の真正面に壁のように聳えるこちらの建物は「小平ビル」という名前で、「PFU IT サービス(株)」の「名寄サービスステーション」が 1 階に入っているとのこと。
「碁盤の目」にズレが生じた理由は不明ですが、名寄の市街地は国道 40 号よりも東側(小平ビルのある側)のほうが古くから存在するようです。東側の「碁盤の目」を地理院地図で計測すると、約 130 m ごとに街路が存在するように見えます。

「殖民区画」は 300 間(≒ 545.455 m)を 1 単位として区切られるもので、300 間を更に 5 分割するケースを良く見かけますが、名寄では 4 分割して街路を形成したように見えます。となると街路と街路の間は 136.36 m(545.455 ÷ 4)無いといけないのですが、国道 40 号よりも東側の市街地は何故か約 130 m ごとに区切られてしまっています。

面積ベースだった?

ここからは純然たる仮説なのですが、古くからの市街地の区画は道路を除いた面積ベースで均等になるように区切られてしまったのではないか……と考えてみました。名寄市役所の北を「中央通」という広い通りが東西に伸びていて、市役所の東には「大通」というこれまた広い通りが南北に伸びています。これらの通りの中央を基準に約 545 m(本来の「殖民区画」の長さ)に合わせて区切ると赤破線のようになり、街区とはズレがあることがわかります。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
そして、約 545 m の区画を南北それぞれ半分にした場合、次のようになります。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この枠の中には「西一条北一丁目」「西二条北一丁目」「西一条北二丁目」「西二条北二丁目」の 4 つの区画が存在しますが、いずれも同面積に見えます。国道 40 号よりも東側の市街地は、この 4 区画を 1 単位として区切られたようにも見えます。

ただ、同じ *面積* の区画を、「中央通」や「大通」よりも狭い道路を挟んで配置したため、結果的に「殖民区画」とのズレが生じた……ということではないかと。最初に区画を定めた際に、道路の幅を過大に見積もったのが原因……だったのかもしれません。

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