2022年3月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (921) 「十勝石沢川・支湧別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

十勝石沢川(とかちいしざわ──)

anchi-o-{yu-pet}?
十勝石・そこにある・{湧別川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
JR 石北本線の白滝駅の西、2016 年に廃止された上白滝駅との間を通って湧別川に合流する支流です。明治時代の地形図には現在の「十勝石沢川」の位置に「アンシユオユーペツ」という名前の川が描かれていました。anchi-o-{yu-pet} で「十勝石・そこにある・{湧別川}」と見て良いかと思われます。

「十勝石」は「黒曜石」の別名で、黒曜石はガラスと似た性質を持つためナイフや斧の刃先として古くから利用されてきました。道内では十勝三股が産地として有名なため「十勝石」との呼び方が定着していますが、十勝三股のほかに置戸・白滝・赤井川でも産出することが知られています。

「アンチイ」は何処に

戊午日誌「西部由宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     アンチイ
右の方に小川有。此川口絶壁の下に往昔三囲みかかえ位の黒耀石有りしによって此名有るよし。アンチイは黒耀石の事也。其岩今何れえ行しか見えさるよし也。其絶壁の下に木幣を多く立有りたり。是川の神霊とすといへり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.269 より引用)
これは非の打ち所の無い記録に見えるのですが、「西部由宇辺都誌」には前後に以下のような記録が並んでいました。

西部由宇辺都誌補足情報現在名(推定)
シユウベツ大高山左りの方に有支湧別川
シルトルカ右の方高山有
ルウクシベツ右の方小川有
アンチイ右の方に小川有
ホリカユウベツ是当川の水源也
チトカニウシ此山五様松計にて此辺第一の高山チトカニウシ山

名前の類似性から「アンチイ」が「十勝石沢川」で「ホリカユウベツ」が「幌加湧別川」だと考えたくなりますが、「アンチイ」が「十勝石沢川」だとすると「ルウクシベツ」に相当する川が存在する余地が無くなるという問題が生じます。

また「幌加湧別川」は「支湧別川」よりも東側を流れているため、「ホリカユウベツ」は「幌加湧別川」では無い……と見るしか無さそうです。これらの矛盾点を解消するために、秋葉実さん(丸瀬布出身)は「ルウクシベツ」が「十勝石沢川」で「アンチイ」が「八号沢」ではないかとしていました(註に「今の八号沢(黒曜石沢)」との記載あり)。

「午手控」の検討

一方、「西部由宇辺都誌」のネタ元と考えられる「午手控」には次のように記されていました。

午手控補足情報現在名(推定)
シュウヘツ大高山左りの方ムツカの方より来る支湧別川
シルトルカ大高山、うしろ石狩ニセイケに当るよし也
ルクシヘツ此右の小川より山越石狩ルベシベへ出るよし
アンチイ右の方小川、むかし竈位の黒石有しによって号しとかや
ヲロカユウベツ此源チトカニウシ。此山うら石狩高山の上五葉松計也

注目すべきは「ルクシヘツ」の項で、この川を遡ることで「石狩ルベシベ」に出るとあります。「石狩ルベシベ」は現在の上川町のことですが、「ルクシヘツ」(ルウクシベツ)が「十勝石沢川」と考えた場合、十勝石沢川を遡ったところで上川には出られないため、「ルクシヘツ」は「十勝石沢川」のことでは無い……と言うことになります。

謎の「ルクシヘツ」の正体ですが、「支湧別川」の近くで「石狩ルベシベ」に出る川とすれば、白滝よりも上流側の「湧別川」のことだと考えるしか無いかと思います。「シュウヘツ」は si-{yu-pet} で「主たる・{湧別川}」だと考えられるので、白滝以西の湧別川は「ルクシヘツ」という支流(あるいは別名)だった……とする考え方です。

また「ヲロカユウベツ」の項に「此源チトカニウシ」とあるのも注目に値します。この「ヲロカユウベツ」あるいは「ホリカユウベツ」は現在の「幌加湧別川」とは別物で、現在の「三角点沢川」か「熊ノ沢川」ではないかと思われます。

「アンチイ」=「十勝石沢川」?

この考え方の難点は、「湧別川」を遡っていた筈の松浦武四郎一行が、本流だと目される「シュウヘツ」ではなく「此右の小川」である「ルクシヘツ」を遡って「チトカニウシ」に向かった……というところです。また「支湧別川」と合流する前の「湧別川」を「此右の小川」と呼ぶのはどうなの……という問題も残るのですが……(汗)。

「ルクシヘツ」(ルウクシベツ)を「湧別川上流」とした場合、「アンチイ」は現在の「十勝石沢川」か、あるいは「八号沢川」のどちらかを指すと考えられます。明治時代の地形図では「十勝石沢川」が「アンシユオユーペツ」で「八号沢川」が「シユマフレユーペツ」なので、松浦武四郎が記録した「アンチイ」は「アンシユオユーペツ」、つまり今の「十勝石沢川」のことだと考えて良いのではないでしょうか。

支湧別川(しゆうべつ──)

si-{yu-pet}
主たる・{湧別川}
(典拠あり、類型あり)
JR 石北本線の白滝駅の北東で湧別川と合流する南支流です。戊午日誌「西部由宇辺都誌」の「シユウベツ」に「支湧別」という字を当てたものと考えられますが、この「支」という字は「支流」を連想してしまうのが罪深いところです。

山田秀三さんの「北海道の地名」にも、次のように記されていました。

支湧別川 しゆうべつがわ
 白滝市街のそばで南から合流している支湧別川の「支」は支流の意味ではない。アイヌ時代にはシ・ユーペッ「shi-yupet ほんとうの(あるいは大きい)・湧別川」であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.188 より引用)
そういうことですね。si-{yu-pet} で「主たる・{湧別川}」と解釈すべきと思われます。

 今は北の川の方が本流とされているが,当時は南川の方が主流と思われていたので,この名で呼ばれたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.188 より引用)
この考え方には全く異論は無いのですが、では松浦武四郎一行が「支湧別川」ではなく「湧別川」を遡ったのは何故……という疑問点に戻ってしまいます。ただ良く考えてみると「石狩川」も似たような構造で、「本流」が層雲峡のほうから流れているのに対して、オホーツク海側に向かう交通路に沿った川は「留辺志部川」と呼ばれていました。

「湧別川」の「本流」(=支湧別川)とは別に「ルクシヘツ」(=湧別川上流部)があり、本流よりも「ルクシヘツ」のほうが交通路として重要視されていた……と考えられるのかもしれません。

「シノマンユウヘツ」→「シユウヘツ」?

そう言えば「東西蝦夷山川地理取調図」では湧別川の源流部に「シノマンユウヘツ」という名前の川が描かれていました。sinoman-{yu-pet} で「本当に奥に行っている・{湧別川}」ということになるのですが、これが si-{yu-pet} に略された……と見ることもできるかもしれません。

{yu-pet} は海から白滝までの「総称」で、白滝から先は sinoman-{yu-pet}ru-kus-pet(「道路・通行する・川」)に分かれていた……と考えることもできるかもしれません。更に言えば ru-kus-petru-kus-{yu-pet} で「道路・通行する・{湧別川}」だった可能性もあるかも……?

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